第177話 ラハンの街

 南の大森林を監視する三つの砦から北に少し行った所にラハンという名の街がある。

 ラハンは元々街として作られたわけではなく、砦に駐留している兵士たちに酒や女をあてがう為に、ある商人が店を出したことがきっかけにできた盛り場だった。

 グラスターの街から遠く離れた最前線にいる兵士達が強いられる緊張は並大抵のものではない。盛り場はあっという間に砦の兵士達の心のオアシスになり、彼らの要望に応える形で様々な施設が増え、どんどん発展していったのである。

 だが、盛り場の存在は軍規の乱れを生み、犯罪の温床にもなった。

 そこで時の領主はその盛り場を正式な街として統治することにした。

 以来、ラハンの街は危険な大森林の近くにありながら着実に発展を続け、今では人口三千人を超え、一〇〇名の騎士とその数倍の歩兵が駐屯する南方防衛の重要拠点となっていた。


 王国暦三一六年の春、ラハンの街には領主グントラムの長子フェリアンが防衛指揮官として赴任したばかりだった。

 今年二四歳になるフェリアンは、若いながらも父親の屈強さと母親の聡明さという双方の良いところを併せ持った優秀な人物だった。

 騎士団を率いて遠征に出れば多くの妖魔を討伐し、街に出れば領民に気さくに話しかけ、民の声に耳を傾ける。彼がいる限りグラスター領の未来は安泰だと、領民の誰もがそう信じていた。

 ところが、当のフェリアンはそんな周囲の期待とは裏腹に、自身の現状を憂い、思い悩んでいた。

 ここ数年、弟のセオドニーの存在感が大きくなりつつあるからだった。

 内政や外交での弟の功績は圧倒的であり、特に先日のクルガリの街への輸送部隊派遣の際に彼が見せた手腕は方々で評判となっていた。

 そして弟の名声が大きくなってくると、否応なしに兄弟を比べる周囲の声が耳に入ってくる。


 ――フェリアン様は優秀だが物足りない。


 フェリアンには次期領主として、その地位に恥じぬ努力と実績を積んできたという自負があった。

 だがその一方で、自分が父グントラムほどの武勇とカリスマ性を有していないことも、弟のセオドニーのような智謀と人脈を持っていないことも自覚していた。

 さらに、先の魔獣ヴァルラダン討伐戦に参加できなかったことも尾を引いていた。弟が見事な手腕を発揮していた一方で、自分はただ留守番をしていただけなのだ。

 故にフェリアンは焦っていた。

 焦らなくても次期領主の地位が揺るぎないことはわかっていたが、父と弟に対する劣等感が焦燥を抱かせるのだ。


 次期領主に相応しい手柄が欲しいと考えたフェリアンは、最前線であるラハンの街へ赴きたいと父グントラムに願い出た。

 グントラムはその願いを聞き入れ、フェリアンを防衛指揮官としてラハンの街へ派遣することを決めた。

 大事な後継ぎを最も危険な前線へ送ることに周囲からは当然反対の声が上がったが、グントラムはそれを一蹴した。自身が今のフェリアンの年齢の時にはすでに領主としての地位にあり、最前線で戦っていたのだから当然だった。




 そうしてフェリアンがラハンの街に赴任してきてわずか一カ月。

 グラスター領は未曽有の危機に直面していた。


「やつらの目的はなんだ? なぜこのラハンではなく北へ向かうのだ!?」


 騎士団の詰め所であり、自身の住居でもある屋敷の執務室で、フェリアンは苛立たし気に机を叩いた。

 これまでも妖魔の大侵攻は十数年に一度の頻度で発生していた。長いグラスター領の歴史の中で領内に妖魔の侵入を許した回数も一度や二度ではない。

 ラハンの街が出来て以来、領内に侵入した妖魔は真っ先にラハンを狙うというのがお決まりの行動パターンとなっていた。

 なので、砦陥落の報を受けたフェリアンは駐屯している兵士を総動員して街の防備を固め妖魔の襲来に備えた。

 ところが、それを嘲笑うかのように妖魔の軍勢はラハンの街を無視して北へ向かっているというのだ。

 妖魔の目的は人を喰らうことである。

 それをせずに、まるで人間の軍隊のように統率の取れた行動を取っているという事態がフェリアンを混乱させていた。


 室内にいる騎士達もいまだかつてない事態を前に動揺を隠せないようだった。

 彼らの落ち着かない様子を見て、フェリアンはようやく己の立場を思い出す。指揮官が動揺していては兵の士気に関わる。大きく息を吐きだして苛立ちを鎮めると、傍に控えている男に声を掛けた。


「オズウェン、お前はどう思う?」


「さて、妖魔の考えることなど私めには到底わかりかねますが、目の前の餌に食いつかないというのはあきらかに変ですな」


 オズウェンと呼ばれた男はフェリアンの苛立ちなど意に介した様子もなく、落ち着いた口調で応じた。

 齢六十を超える老練な騎士で、フェリアンの幼少の頃からの教育係であり、現在もお目付け役として副官の地位にあることから、フェリアンが最も頼りにしている人物である。年齢を感じさせない伸びた背筋と力強い眼光が、いまだ彼が現役の騎士であることを物語っていた。


「オズウェンの言う通りだ。ゴブリンやオーガに食う以外のことを考えられる頭はない。つまり、やつらを統率している妖魔の中にそれ以外のことを考えられるだけの頭を持った奴がいるということだ。――奴らを率いている妖魔の正体は掴めたのか?」


「い、未だに判明しておりません!」


 問われた騎士は直立不動で答える。

 その答えにフェリアンは舌打ちしそうになるのを、すんでのところで堪えた。

 報告では侵入を許した妖魔の数は数千とも言われていた。その中からどの個体が軍勢を率いているのかを判別するのは難しいだろう。報告をした騎士を責めるのは酷というものだった。


「若、その点についてですが少々気になる情報がございます」


 場を取り成すように口を開いたオズウェンに、フェリアンは目で続けるよう促す。


「実は砦から生還した者の中に、襲撃してきた妖魔の軍勢に人間が混じっているのを見た、という者がおりまして……。その者が申すには、妖魔がその人間の指示に従っていたように見えたとか」


「なんだと? 人間が妖魔の群れを率いているとでもいうのか?」


「さぁ、そこまではなんとも……。夜の、それも激しい戦闘のさなかの出来事ですからその者の見間違いの可能性が高いでしょう。とはいえ少々気になる情報だったので念のためお伝えしたまでです」


 オズウェンの言葉にフェリアンは顎に手を当てて考える。

 人間と妖魔が手を組む――過去にそういう事例がなかったわけではない。

 だが、大規模な軍勢を率いるとなると話は違ってくる。

 人と妖魔は根本的に相容れない存在である。ゴブリン程度の下位妖魔を力で一時的に屈服させることはできても、人間が妖魔を支配し、統率することなど到底不可能だというのが多くの識者たちの見解だった。

 本来であれば考慮に入れる必要すらない情報だろう。

 だが、もし一連の妖魔の不可解な行動がその人間によるものだとしたら、到底無視できるものではない。そして、フェリアンの直感がそれを無視してはならないと警告を発していた。


「――その者から直接話を聞くことはできるか?」


「それはもちろん可能ですが……」


 そう答えるオズウェンの目は「そこまでしますか?」と言っていたが、フェリアンはそれを無視してその者を呼ぶよう近くの騎士に指示を出した。




 呼ばれて来た若い騎士の姿を見てフェリアンは一瞬言葉を失った。

 全身が妖魔の返り血で汚れ、腕や足にいくつもの細かい傷を負ったその姿は、砦での戦いが如何に激しいものであったかを雄弁に物語っていた。

 そして、その若い騎士が自分のよく知っている人物であったことに気付き、あらためて衝撃を受けた。


「レナード……よく生きて戻った」


 跪き、頭を垂れる若い騎士にフェリアンは気遣うように声を掛ける。

 魔獣ヴァルラダン討伐戦で初陣とは思えぬ活躍をしたレナードの冷静さと胆力を、フェリアンは高く評価していた。

 内務を担当するフォークナー男爵家は、フェリアンではなく、セオドニーの派閥に属している。派閥の違うレナードを無理を言って自分の配下に加えたのも、彼の類まれなる才能に惹かれたからだった。

 報告によると、砦を脱出した兵士達をラハンまで率いてきたのは、騎士になって一年にも満たないこの若者だという。


「傷の手当ても満足に受けていないところを呼び出してすまない。だが、事は一刻を争う。卿の持つ情報をもう一度確認させてもらいたい。……妖魔の軍勢の中に人間がいたというのは本当か?」


 フェリアンの問い掛けにレナードは頷いた。その拍子に血の混じった汗が滴り落ち、分厚い絨毯に染みを作る。


「はい……少なくとも見た目に関しては間違いなく人間でした。こちらの兵士と会話らしきやり取りをしていたのも見ております」


「妖魔がその人間の指示に従っていたというのは?」


「その者が現れた途端、妖魔の追撃が止まりました……。それに理由はわかりませんが、妖魔どもは砦を完全に包囲せず、あえて裏門付近を手薄にしているようでした。そのおかげで我々は砦を脱することができたのです」


 レナードの言葉に周囲の騎士達に動揺が走る。

 妖魔には軍略という概念はない。獲物を逃がさないように包囲する習性があるだけで、わざと包囲網に手薄な箇所を作ること自体ありえないことなのだ。


「おかしいのはそれだけではありません。襲撃の直前、砦の周辺は不自然に静かでした。あれだけの数の妖魔が接近する音に誰も気付けなかったというのは、あきらかに異常です。

 ――フェリアン様、奴らはただの妖魔の群れではありません。おそらく何者かが明確な意図を持って妖魔を動かしています。このまま奴らを放置すれば、領内にどのような被害をもたらすかわかりません。どうか早急な対処を……っ!」


 傷の痛みのせいか、端正な顔を歪ませて訴えるレナードに、フェリアンは力強く頷き返した。


「わかった。もうよい、十分だ。

 ――誰か、彼をすぐに医務室に連れていって手当てしてやれ」


 ふたりの騎士がレナードの元へ近づき肩を貸そうとしたが、レナードはそれを固辞してこの場に残ることを望んだ。

 フェリアンは黙って頷き、それを許可した。

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