第175話 夜襲

 静かな夜だった。

 辺りは全ての生命が深い眠りに落ちたかのような静寂に包まれ、空を覆う雲のせいで月明かりも届かない。

 何も聞こえず、何も見えない。

 時間の感覚が失われ、気を抜くと眠気に負けそうになる。


「――っと、いかんいかん」


 兵士オドリーは眠気を吹き飛ばそうと頭を振った。隊長に見つかったら間違いなく「弛んでいる!」と殴り飛ばされるだろう。なんといっても、ここは南の大森林を監視する砦で、しかも見張り櫓の上なのだ。


 グラスター領の最南端にある『南の大森林』。

 グラスターの街から徒歩で七日ほどの距離にあるこの巨大な森には、魔神の王が開けたという異界に繋がる七つの穴のひとつがあると言われており、数多の妖魔や魔獣が生息しているストラシア大陸でもっとも危険な場所として知られていた。

 グラスター領では大森林の出口に蓋をするように三つの砦を建設し、大規模な妖魔の侵攻に備えている。

 つまり、この砦はグラスター領の平和を守る最重要拠点であり、ここに立つ兵士は侵入してくる妖魔の存在に真っ先に気付かねばならないのだ。


 オドリーは両手で頬を叩いて気合を入れ直した。

 だが、せっかく注入した気合いも、まるで体の底に穴でも開いてしまったかのようにだらだらと零れ落ちていく。

 その原因はよくわかっていた。

 オドリーは先日行われた騎士採用試験を受け、落ちた身であった。

 大規模な騎士への取り立ては滅多に行われることではない。もう決して若くはないオドリーにとって、その数少ない機会を逃したのだから、落胆は相当なものだった。


「いくら剣の腕が立っても馬に乗れないんじゃ、そりゃ騎士にはなれないよな……」


 オドリーは深いため息と共にそう呟く。

 彼は昔から馬術が大の苦手だった。

 毎回、剣術ではトップの成績を収められるのだが、馬術が足を引っ張るせいで、騎士への採用を見送られていた。

 人間には向き不向きがある。しかし、よりにもよって騎士を目指している自分の不向きが馬術というのは、あんまりな仕打ちではないか。

 おまけに、最近では得意の剣術でも自信を失いつつあった。

 最近砦に赴任してきた十代の若い騎士に剣術の試合で一方的に負かされたのだ。

 試験に落ちて、試合にも負けた。

 オドリーのプライドは砕け過ぎてもはや粉末状になっていた。そんな状態でモチベーションを維持しろというのはいくらなんでも酷というものだろう。


(どうせ今夜は妖魔なんて来やしないさ)


 オーガの足音とオークの鼻息は三軒離れた家に居ても聞こえてくる――そんな冗談が飛び交う程度には前線の兵士達にとって妖魔の接近を音で察知することは容易なのだ。

 これだけ静かならば、聞き逃すことなどありえない。

 オドリーは誰も見ていないのをいいことに大きく欠伸をした。


 そこへちょうど誰かが梯子を登る音が聞こえてきた。

 もしかして気を緩めていたのがばれたのか。オドリーは緊張の面持ちで梯子を登ってくる者の到着を待った。


「こんばんは。静かな夜ですね」


 そう言って現れたのは、つい先日、剣術の試合でオドリーのプライドを粉々に打ち砕いた張本人だった。

 貴族出身の騎士で、名をレナードという。


「こ、これはレナード殿。このような時間にどうされましたか?」


 内心の焦りを悟られぬようオドリーは直立不動で話しかける。


「いえ、特に用というわけではないのですが、ちょっと森の様子が気になったもので」


「ご心配なさらずとも今夜は静かなものですよ」


「そうみたいですね」


 レナードはそう言いつつも引き返す気はないようで、さりげなくオドリーの横に並んで立ち、森の方へと視線を向けた。

 その姿をオドリーは横目で追う。

 さすがは貴族というべきか、その立ち姿はどこか気品を感じさせた。まだ若干の幼さが残る端正な顔立ちも、社交界のご婦人方にさぞかし人気があることだろう。それに加えて剣の腕前も一級品というのだから、世の中なんとも不公平なものである。


(……もしかしてこのまま見張りに立つつもりか?)


 見張りは歩兵の仕事である。貴族出身で、しかも騎士であるレナードが見張りをする義務はない。オドリーがこの砦に赴任してそろそろ二年が経つが、そんな酔狂な真似をする騎士に出会ったことなど一度もなかった。

 そもそも、貴族出身の騎士は前線送りを免除されることの方が多い。仮に免除されなかったとしても、後方のラハンの街が任地になることがほとんどで、本人が志願でもしない限り最前線の砦に来ることはまずないのだ。

 それだけでもこのレナードという騎士が変り者である証拠だった。

 おまけに平民のオドリーに対しても丁寧な口調で話しかけてくる。年長者に対して礼を失せず、受け答えにも淀みがない。その落ち着いた物腰はとても十代の若者とは思えず、高い剣の技量と相まって砦内での評判はすこぶる良かった。

 だが、オドリーは正直この若い騎士が苦手だった。

 特に何かがあったわけではない。ただ、彼の澄んだ碧い瞳で見つめられると、こちらの考えをすべて見透かされているようで落ち着かないのだ。


「もしかしてご迷惑でしたか?」


 オドリーの視線に気づいたのか、レナードが柔和な笑みを浮かべて問いかけてくる。


「い、いえっ、そのようなことは!」オドリーは慌てて手を振った。「ただ、レナード殿は見張りのローテーションには入っておりませんので、わざわざ見張りに立たれなくても……」


「見張りの人数は多いに越したことないじゃないですか」


「それはもちろんその通りですが――」


「それに自分の目と耳が一番信用できますから」


 その言葉にオドリーは思わずレナードの顔をまじまじと見てしまった。まるで「あなたが見張りでは不安だから」と言われたようなものである。もっとも、ちょっと前まで欠伸をしていたのも事実なので、オドリーは怒りを飲み込んだ。

 当のレナードはすました顔で前を向いたままである。

 やはりこいつは苦手だ、とオドリーは思うのだった。




 その後、若干の気まずさを覚えつつも、オドリーはレナードと並んでそのまま見張りを続けていた。

 何事もなく、ただ時間だけが過ぎていく。

 本当に静かな夜だった。


「……静かすぎると思いませんか?」


 唐突にレナードが口を開いた。

 そう言われて、オドリーも違和感に気付いた。

 風に揺れる木々の騒めき、虫やフクロウの鳴く声……本来聞こえるべきはずの音が何も聞こえてこないのだ。

 たしかに何かがおかしい――そう答えようとした、そのときだった。


 大きな爆発音と共に見張り櫓が激しく揺れた。


「な、なんだ?!」


 オドリーはすぐさま下を確認する。

 砦の防壁の一部が崩れ去っていた。もうもうと上がる土煙の向こう側から、複数の影が砦内に侵入してくる。

 何が起きたのか瞬時に察知したオドリーは、己の役目を全うすべく大声で「敵襲ーッ!」と叫びながら警鐘を叩いた。他の見張り櫓からも次々に警鐘を打ち鳴らす音が聞こえてくる。


 最初の爆発音で目覚めていたのか、すでに砦内のあちこちから剣を片手に兵士達が飛び出してきていた。眠っていたところを叩き起こされたのだから当然だが、ほとんどの者が鎧を身に付けていない。


「我々もすぐに行きましょう!」


 言うと同時にレナードは梯子を滑るようにして下りていった。

 オドリーもすぐさま後に続く。そこへ再び破砕音が轟いた。

 壁に大きな穴が開き、そこから次々と妖魔どもがなだれ込んできた。


「敵襲ーッ! 敵襲ーッ!」


 オドリーは叫びながら侵入してきた先頭のゴブリンを斬り倒した。


「オーガだーっ!」


 近くで悲鳴が上がる。視線を向けると、最初に破壊された防壁の穴からちょうどオーガが姿を現したところだった。

 そのオーガに向かってレナードが単身斬りかかっていく。


「レナード殿ッ!」


 オドリーは慌てて制止しようとしたが、レナードは止まらない。オーガの拳を躱して跳躍すると、剣を一閃させてその首を刎ねた。そしてそのまま侵入してくる妖魔の群れの中に飛び込み、次々と斬り倒していく。

 その圧倒的な技量にオドリーは思わず見惚れた。だが、すぐに己の役目を思い出し兵舎に向かって走り出した。


「敵襲ーッ!」声を張り上げながら兵舎の周りを走りまわる。


 突然、暗がりからゴブリンが「グルァ!」と声を上げて飛び掛かってきた。

 オドリーは素早く反応し、一刀の元に斬り伏せる。

 すでに砦内は人と妖魔が入り乱れる混戦となっていた。


(くそっ、いったいどうなってるんだ!?)


 これまでもこの砦は幾度となく妖魔の襲撃を受けてきたが、強固な防壁はオーガに殴られた程度ではびくともせず、ここ十年は内部に侵入を許したことすらなかったのだ。

 それがいとも簡単に壁を壊され、妖魔の侵入を許している。

 それだけではない。いくら闇夜とはいえ、ここまで妖魔の接近に気付けなかったというのはあきらかに変だった。

 だが、オドリーはその疑問を頭の隅に追いやった。どの道、生き残らなければ責任を問われることすらないのだ。

 こうしている間にも新手の妖魔が次々と侵入してきている。


 オドリーは少し離れた場所で剣を振るうレナードの姿を見つけ、すぐさま彼の元へと駆け寄り声を掛ける。


「レナード殿、ご無事で!」


「オドリー殿もお元気そうで何よりです」


 レナードが普段と変わらない笑みを浮かべて答えた。まったく状況に合っていない言葉と表情にオドリーは面食らう。

 レナードの全身は妖魔の返り血で染まっており、この短時間でどれだけの妖魔を斬ったのか想像もつかなかった。


「隊長は?!」


 オドリーの問いかけに、レナードは首を横に振る。


「わかりません。すでに指揮系統は機能していません。各人の判断で行動するしかないでしょう」


「レナード殿はどうされるおつもりですか?」


 この場にいる者の中では騎士であるレナードがもっとも階級が高い。

 新入りの、しかもまだ十代の少年であるレナードに従うことに普通ならば抵抗感を抱きそうなものだが、オドリーは不思議と彼の指示に従うことを受け入れていた。


 レナードはすでに答えを決めていたのか、すぐに言葉を続ける。


「撤退しましょう」


「撤退……? この砦を放棄するのですか?」


「はい。完全に不意を突かれました。妖魔の数も多い。いくら堅牢な砦でも、内部に侵入を許してしまえばあっけないものです」


「しかし――」


「ここで死にたいと言うのでしたら止めません。ですが、我々の役目はこの砦で死ぬことではなく、生きて領地と民の為に戦い続けることだと僕は思っています」


 淡々と言ってのけるレナードにオドリーは怒りを覚えたが、彼の言っていることの正しさは認めざるを得なかった。

 レナードの言う通り、この砦が落ちるのは時間の問題だろう。もはや個人の武勇でどうにかできるような状況ではなかった。最強の騎士と呼ばれるランドルフならばあるいはそれも可能なのかもしれないが、残念ながら彼はこの砦にはいない。

 この砦が落とされれば、次はラハンの街が間違いなく狙われる。ならば、ひとりでも多くの兵士を逃がし、ラハンの街に危機を伝え、防備を固めるべきだ。


「……承知しました」


 オドリーは歯を食いしばりながら頷いた。


「裏手の門にはまだそこまで多くの妖魔はいないはずです。そこを突破します」


「わかりました」


 迷っている時間はない。オドリーはレナードと共に生き残った兵士達に声を掛けながら裏門を目指すのだった。

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