第十章
第十章 プロローグ
吹き抜ける風がむせるような山緑の匂いを運んでくる。
グラスター領の南西に長く連なるヴィクロー山脈。その麓にあるクルガリの街から南西に二日ほど行った深い山奥に、その若者はいた。
若草色の染められた衣服の上から革鎧を身に付け、腰には意匠のこらされた細身の剣を下げている。険しい山道を苦もなく進む身のこなしは、この若者の身体能力の高さを窺わせた。
だが、なにより目を引くのは若者の容姿だろう。調和のとれた目鼻立ちに、透き通るような白い肌と艶やかな銀色の髪。そして、髪の間から覗く長い耳――
若者はエルフと呼ばれる種族だった。
「おーい、ちょっと待ってくれよ、イシルくーん」
情けない声が背後から若者の耳に届く。
イシルと呼ばれたエルフの若者は忌々しそうに振り返り、声の主を睨みつけた。
「気安く声を掛けるな。あと俺の名前はイシルウェだ。勝手に略すんじゃない」
「わかったわかった……まったく、ずっと一緒に行動してるのに一向に心を開いてくれないんだよなぁ。おまけに僕を置いてずんずん進んでいくし」
声の主はため息を吐きながらぶつぶつと愚痴を零している。独り言のつもりだろうが、エルフの聴覚は人間よりも遥かに優れているので丸聞こえだった。
イシルウェは「ふん」と鼻を鳴らしながら、あらためて同行者の男を見る。
丸々と太った人間の男だった。中身がぱんぱんに詰まった大きな背負い袋を背負っている為、どっちが本体なのか一瞬わからなくなる。名前はたしかマッキオといったか。
一緒に歩いているとのべつまくなしに話しかけてくるので、イシルウェは正直この人間の男にうんざりしていた。
「それにしても、本当にこっちの方角で合ってるのかい? この辺りは何年か前に来たことあるけど、その時は特に目を引くような物はなかったんだけどなぁ……」
「そう思うのならついてくるな。その方が清々する」
「はは、相変わらず手厳しいなぁ、イシルくんは」
「イシルと呼ぶな」
懲りずに話しかけてくるマッキオにイシルウェは冷たく返す。反応すると調子にのって余計に話しかけられるとわかってはいるのだが、無視したら無視したで延々と独り言を言うので質が悪い。
イシルウェがエルフであると知ってからも態度が変わらなかったことは意外だったが、単にそういったことに関心がないだけだろう。
とりあえず、ここからは何を言われても無視しよう、そう心に決めてイシルウェは再び前を向いて歩き出す。
イシルウェとマッキオがこんな辺境の山奥にまで赴いている理由は、とある人物から依頼を受けたからだった。
数か月前、グイ・レンダーとレギルゴブリンという二体の上位妖魔が出現するという事件が起きて以降、クルガリの街では奇妙な噂話が囁かれるようになっていた。
当初は夜中に山の向こうから不気味な叫び声が聞こえてきた程度のものだったが、しばらくすると、怪しげな一団が山の中へ入って行くのを見たとか、山羊のような動物が二本足で立って歩いているのを見た、といった不可解な目撃情報が増えていき、住人達は不安がるようになった。
おりしも、街に駐屯している守備兵の多くがデヴォン鉱山跡の調査に駆り出されていたこともあり、それらの情報のほとんどが放置されたままとなっていた。
そんななか、近隣の村に住む一家が忽然と姿を消すという事件が発生したことで状況が一変する。
現場には妖魔の襲撃を受けたような形跡はなく、家財道具もすべてそのままで、ただ人だけが消えていたという。
事態を重く見たクルガリの街の守備隊長はすぐに調査を行うことを決めたものの、人手不足は深刻だった。そこで、駄目で元々とグラスターの騎士団本部に調査員の派遣を依頼したのである。
そうしてやってきたのが、イシルウェとマッキオのふたりだった。
騎士団本部からどういう経路を辿って自分に依頼が回ってきたのか、イシルウェは詳しい事情を聞いていなかったし、さしたる興味もなかった。依頼人があの男であるという時点で、考えるだけ無駄だと諦めていた。
人間に利用されているようで癪だったが、それ相応の対価はもらっていたし、エルフが人間社会で生きていく為には、それなりのコネと我慢が必要であるということは、彼が森を出て真っ先に学んだことだった。
唯一、マッキオの同行を断れなかったことが今更ながらに悔やまれる点だった。
(……どうせこの依頼の間だけだ)
そう割り切ることにし、イシルウェは軽快な足取りで急な斜面を登る。
森の妖精と言われるエルフ族にとっては庭を散歩するようなものだったが、普通の人間にとってはかなり過酷な環境だろう。
念のため振り返ると、マッキオは苦も無く後をついてきていた。
このマッキオという男は恐ろしく旅慣れていた。特に運動能力はその体型からは信じられないくらいに高かった。
当初、イシルウェは本気で彼を置き去りにしようとしたが、どういうわけか引き離すことができなかった。もっとも、それくらいでなければこんな山奥にまでやってこようなどという気にもならないだろうが。
しばらく行くと、鬱蒼と茂った木々の間から視界が開けた。
そこには小さな白い塔が建っていた。一見すると城にある物見の塔のようだが、周囲を囲う木々とさほど高さが変わらず、本来の役割を果たしているとは言い難い。逆に森の外からこの塔を見つけることも不可能だろう。
「こんな場所になぜあんなものが……?」
イシルウェは周囲を警戒しながら呟く。
あまりにも場違いな塔の存在は不信感を募らせるに十分だった。
真っ当な人間ならばこんな辺境の山奥に塔なんて建てない。この地域で起きている奇怪な現象との関連性は不明だが、あの塔を見て「特に何もありませんでした」と報告するわけにはいかないだろう。
「あれは……あの白い塔は前に王都の図書館で読んだ古文書で見たことがあるぞ……おそらく、あれは古代魔法帝国時代に建てられた塔だよ」
いつのまにか追い付いていたマッキオが震える声で言った。
「前に来た時は何もなかったんじゃないのか?」
「だからこそだよ。古代魔法帝国の遺跡は強力な幻覚の術で隠されているんだ。最近になって何かの拍子で術が解けたのかもしれない」
マッキオの言葉を受けてイシルウェはもう一度塔へ視線を向けた。
塔は人が滅多に立ち入ることのない険しい山奥にありながら風化している様子は一切なく、まるで新築の城のように陽光を受けて白く輝いている。数百年前に建てられたというのはにわかには信じられない話だった。
「とにかく、もっと近くで見てみよう」
そう言ってマッキオは塔に向かって歩き出そうとする。イシルウェはその腕を掴み近くの藪へと引っ張りこんだ。
「な、なにするんだよ?」
「馬鹿か貴様は。いきなりなんの警戒もなしに近づこうとするな」
「ならどうするって言うんだい?」
「決まっている。ここでしばらく様子を見る」
「ええ……」
露骨に不満そうな表情を浮かべるマッキオ。彼が古代魔法帝国の地下遺跡に対して異常とも言える執着を持っていることは、短い旅の間で嫌というほど思い知らされていた。
イシルウェはぶつぶつと文句を言っているマッキオを無視して藪の中からじっと塔の様子を観察する。
すると、まるでタイミングを見計らっていたかのように塔の入口から何者かが姿を現した。
その容姿を簡潔に言い表すならば「山羊の脚を持った、額に角の生えた男」となるだろうか。甲冑に包まれた上半身は人間のそれだったが、額の両側に曲がりくねった大きな二本の角が生えている。下半身に至ってはあきらかに人間ではなく、山羊のような二本の獣の脚を持ち、その先端には黒々とした蹄があった。
「サテュロスだ……」
マッキオが感動を滲ませた声で呟いた。
「古代魔法帝国時代に絶滅したとされる種族だよ。まさかこんなところに生き残りがいたなんて……」
「俺達の仕事は珍しい生き物を発見することじゃない」
「わかってるって。彼らには言葉が通じるはずだから、ここで何をしているのか直接聞けばいいんだよ」
そういって立ち上がろうとするマッキオの肩をイシルウェは慌てて掴んで止める。
サテュロスの手には長槍が握られており、狡猾そうな光が宿った目は、あきらかに周囲を警戒しているように見えた。
サテュロスは妖魔ではない。エルフと同じく、人間と距離を取って森の中で暮らす種族であり、話し合いができる相手でもあるが、とうの昔に絶滅したはずの種族なのだ。それが怪しげな塔から出てきたことに何の疑問も持たずに話しかけるなど論外だった。
イシルウェの考えが正しかったことを証明するかのように、すぐに入口から数十体のゴブリンがぞろぞろと姿を現した。
そのゴブリンの様子が少しおかしいことに、イシルウェはすぐに気付いた。両手に瓦礫のような物を抱えて外へと運び出しているようだが、歩く足取りはふらふらでおぼつかなく、ギャーギャー騒がしいはずの声も一切あげていない。まるで生気が感じられず、意思のない人形のようだった。おまけに距離があるというのに腐臭が漂ってくる。
(まさか、死体を操っているのか……?)
イシルウェは嫌悪感に顔を歪める。
それがどのような存在であれ、死者を冒涜するような行為が許されるはずがない。ましてや死体を操るなど最大の禁忌である。その点に関しては人間だろうがエルフだろうが何も変わらない。
だが、同時に彼の脳内では警笛が激しく鳴り響いていた。
古代語魔法には無機物に仮初の命を与える術が存在していると言われている。それらは
問題は、現代の魔術師にあれだけの数の魔道人形を操れる者などまず存在しないということだった。
イシルウェはマッキオに目で、退くぞ、と伝える。さすがのマッキオも文句を言わずにこくりと頷き返した。
ふたりがゆっくりと藪から出ようとした、その時だった。
なんの前触れもなくサテュロスが手にした長槍をふたりが潜んでいる藪に向かって投擲した。
イシルウェは無言でマッキオを蹴り飛ばし、自身はその反動を利用して転がるように飛来する長槍を躱した。そしてすぐさま起き上がると、マッキオに向かって「逃げるぞッ!」と叫んで走り出した。
問答無用で攻撃を仕掛けられた以上、話し合いが通じる相手ではないだろう。塔の中に他に仲間がいる可能性を考えれば、ここで戦うという選択肢はなかった。
イシルウェとマッキオは振り返ることなく来た道を全力疾走で引き返す。
だが、サテュロスの脚力は尋常ではなく、ぐんぐんと距離を詰めてくる。
「おい、もっと速く走れないのか!?」
イシルウェは隣でひいひい言いながら走るマッキオに声を掛ける。
「む、無茶を言わないでくれよ! これで精一杯だ!」
「その重そうな荷物を捨てろ!」
「じょ、冗談じゃない! これには貴重な資料や魔道具が入ってるんだぞ!」
「ならそのまま殺されるんだな」
イシルウェは冷たく言い放つと、風の精霊を纏って木の枝へと飛び乗った。そしてそのまま速度を上げて枝を伝うように移動する。
「ず、ずるいぞッ!」
マッキオが文句を言ってくるが、当然のごとく無視する。彼も人間にしてはかなりの健脚の持ち主だったが、サテュロスが相手ではあまりにも分が悪い。このままでは追い付かれて殺されるだろう。
(知ったことか――)
イシルウェは元々人間が嫌いだった。森を出てからますます嫌いになった。だから、つい数日前に出会ったばかりの人間がどうなろうが気に留める必要はない、そう思っていた。
マッキオが何かに躓いたのか「へぶっ!」と地面に突っ伏した。
その背に長槍を突き刺そうとサテュロスが殺到する。
人間など放ってひとりで逃げるべきだ、そう頭では結論を出していたはずなのに、イシルウェの脚は主の意志に反して動きを止めていた。
「――ちっ!」
精神を集中して精霊に語り掛ける。
(闇を司る精霊よ……あの者の視界を塞げ)
イシルウェの呼びかけに応じた精霊がサテュロスの顔に纏わりつく。
突然視界が闇に包まれたサテュロスは、「うおっ!?」と声を上げながら見えない何かを振り払おうと顔の前で必死に手をばたつかせ始めた。
「今のうちに逃げろッ、長くはもたない!」
イシルウェはマッキオに向かって叫ぶ。
マッキオはすぐさま立ち上がると、脱兎のごとくその場から逃げ出した。
「くっ――ッ!」
イシルウェは集中を解いて精霊を解放する。元々、闇を司る精霊を扱うのはそれほど得意ではないのだ。
あと一歩という所で獲物を逃したサテュロスは、走り去るマッキオの背を見て「ちっ」と舌打ちした。
「ま、あれは後で始末するか。それよりも――」
サテュロスは木の上にいるイシルウェを見て好色そうな笑みを浮かべた。
「やってくれたな、精霊魔法か……なるほど、珍しい匂いがすると思ったら、お前エルフか?」
イシルウェはそれに応じず、すぐさま背を向けて隣の枝へと飛び移った。
「おいおい、お前も逃げるのかよ、連れねぇなぁ」
サテュロスはのんびりとした口調でそう言うと、後を追い始めた。
森の中でならそう簡単には捕まらない自信がイシルウェにはあった。このままマッキオの方に向かわないよう適当に引きつけてから捲けばいい――そう考えていた。
だが、サテュロスの脚力はイシルウェの予想の遥か上を行っていた。木々を飛び移るイシルウェに苦も無くついてくる。風の精霊の力を借りて逃げているというのに、まったく引き離すことができなかった。
気が付けば、イシルウェは森を抜けて切り立った崖の上へと追い込まれていた。
崖下には川が流れているが、この高さから落ちればいくら身軽なエルフといえど無事では済まないだろう。
「もう逃げ場はねぇぞ? このデヴァーロ様から逃げ切ろうなんざ六百年早いぜ」
「……ちっ」
イシルウェは仕方なく細身の剣を抜いて構えた。
「安心しな、すぐに殺したりはしねぇからよ。エルフは貴重だからな、捕まえれば主もさぞお喜びになるってもんだ」
(主……?)
つまり、このサテュロスには少なくともあと一人仲間がいるということだった。
イシルウェはもう少し情報を引き出したいと思ったが、それよりも先にサテュロスが動いた。「ひゃっほう!」と奇声を発しながら一気に岩山を駆け上り、長槍を繰り出してくる。
その穂先を辛うじて剣で弾いた。激しく動く度に足場が崩れ、ぱらぱらと破片が崖下へと落ちていく。
サテュロスはかなりの手練れだった。足場の悪さも、強靭な脚力を持つサテュロスにとっては有利に働く材料でしかない。加えて言えば、イシルウェは接近戦が得意なわけではなかった。
「へっへ、大人しく捕まってくれよ。滑落死なんざ望んでねぇだろ?」
余裕の表情を浮かべながらサテュロスがじりじりと間合いを詰めてくる。
勝てない――イシルウェはそう判断し、覚悟を決めた。
「さっきの精霊魔法を使おうってんなら無駄だぜ。そんな隙はもう与えねぇからな」
「……よく喋る獣野郎だ」
イシルウェはそう吐き捨てると、躊躇なく崖下へと身を躍らせた。
「――なっ!?」
サテュロスの顔が驚きで硬直する。
落下するイシルウェの周囲には不自然な風が巻き起こっていた。まるで見えない手で身体を支えられているかのように、ゆっくりと下へ降りていく。
「風の精霊か!? ちくしょう逃がすかよッ!」
サテュロスは手にした長槍を思い切り投げつけた。その威力はすさまじく、強風をものともせずイシルウェの脇腹を切り裂いた。
「ぐっ!?」
激痛で集中が乱れた。
風の精霊を制御できなくなり、イシルウェは錐もみ状態で落下する。
朦朧とする意識の中で、なぜか姉の顔が思い浮かんだ。
(ア、アイナ――)
懸命に手を伸ばすも、掴む寸前に彼の意識は途絶えたのだった。
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