第162話 時間稼ぎ

 老人が暗闇の中から姿を現した。

 その姿を見てノルガドは目を見開いた。

 老人は顔以外が人間の形を成していなかった。

 首から後ろは全身が黄褐色の体毛に覆われた四足歩行の獣だった。さらに背中には蝙蝠のような翼が生え、黒光りする異様に長い尻尾は、まるでサソリの尾のように節くれだっていて先端が尖っている。


 ノルガドはこの化け物の正体を知っていた。


 ――マンティコア。


 昔、ベラと共に地下遺跡に潜った時に一度だけ遭遇したことがあった。古代魔法帝国の魔術師が魔法で生み出した凶悪な合成獣キメラ。古代語魔法を操るだけでなく、上位妖魔に匹敵する戦闘力を持った化け物だった。

 その時は二十人いた探索隊のメンバーの半数がマンティコアに殺された。


「さすがはドワーフ族。術に耐えおったか……」


 マンティコアの口からしわがれた声が漏れる。その醜悪な見た目に相応しい不快な声だった。


「それにしても、妖魔だけでは事足らんと思っておったところに、まさか人間がやって来てくれるとはな……重畳、重畳」


 マンティコアは倒れたパーティの方へ視線を向けながら満足そうに頷いた。


(麻痺の術か……それも一度にパーティ全員に掛けるとは……)


 ノルガドは荒い息を吐きながら戦斧を構える。

 不意を突かれたとはいえ、高い魔力を持つサラやエーベルトまで戦闘不能に追いやられたのは完全に想定外だった。

 ノルガド自身、辛うじて魔法の抵抗には成功したものの、体力をごっそりと持っていかれ、まともに戦える状態ではなかった。


「……さて、せっかくこんなところにまで来てくれたんじゃ。せいぜい役に立ってもらうとするかのう。さしものドワーフとて、次は耐えられまい」


 マンティコアはゆっくりとノルガドに近づきながら、再び魔法の詠唱を開始した。

 その強大な魔力にノルガドは戦慄する。マンティコアの言う通り、次は間違いなく抵抗できないだろう。

 先手を取られた時点で勝負は決まっていたのだ。


「やむを得んの……」


 ノルガドが相打ち覚悟で突撃しようと腰を落とした、その時だった。




(――今だッ!)


 マンティコアが無防備に近づいてきたのを見て、修介は勢いよく跳ね起きる。そして一足飛びにマンティコアに近づき、アレサを繰り出した。

 その一撃はマンティコアの片翼を切り裂き、胴体部分にも傷を負わせた。


「グオオオオォォッ!」


 マンティコアは獣のような咆哮をあげてよろよろと後ろへ下がった。


「くそっ浅かった!」


 修介は舌打ちする。一度しかない不意打ちのチャンスだったのだ。さすがに一撃で倒せるとは思っていなかったが、もう少し深手を負わせたかったというのが本音だった。


「おやっさん、大丈夫か!?」


「ああ……なんとかの」


「おやっさん、あれって――」


「マンティコアという古代魔法帝国時代の化け物じゃ」


 その名を聞いて修介は生唾を飲み込む。

 昔遊んだゲームにそういう名前のモンスターがいた。

 ゲームではそれほど強敵という扱いではなかったが、実際に目の当たりにするとその恐ろしさは相当なものだった。


「……おやっさん、魔法は使える?」


 修介は前を向いたまま問いかける。


「大丈夫じゃ……」


「なら俺があいつを抑えてるあいだにみんなの回復を頼む」


 修介のその言葉にノルガドは声を荒らげる。


「何を馬鹿なことを! あれをおぬしひとりで相手するのは無茶じゃ!」


「わかってる。けどやらなきゃ全滅だろ? 多少の無茶はするさ」


 修介は自分に言い聞かせるように言った。

 普通の人間がライオンのような猛獣とまともに戦って勝てるわけがない。それが人間並みの知能と魔法を扱うとあってはなおさらである。

 それでも、今この場で戦えるのは自分だけなのだ。


「みんなを頼む!」


「――よせっ、坊主!」


 修介はノルガドの制止を無視してマンティコアに斬りかかった。

 先ほどの一撃がよほど効いたのか、マンティコアは大袈裟に飛び退った。

 修介は間髪容れずに追撃する。何をしてくるかわからない相手には、とにかく攻め続けて隙を与えないようにするしかない。


 肉薄する修介を見て、マンティコアは頭を下げて体勢を低くした。

 修介はその下がった頭部に向けてアレサを振り下ろす。

 だが直後に視界の端に飛来する何かを捉え、咄嗟に体を捻ってそれを躱した。


 マンティコアが「ほう」と感心したように声を上げた。その頭上で長い尻尾が揺れていた。先端からは濃い緑色の液体が滴り落ちている。


(あ、危なかった……)


 修介は大きく息を吐きだす。

 もう半歩踏み込んでいたら躱せなかっただろう。

 あの厄介な尻尾がある限り、迂闊に飛び込むのは自殺行為だった。


「……なぜ効かんかった?」


「あ?」


 唐突に声を掛けられて修介は思わず返事をしてしまった。


「なぜわしの魔法をまともに受けて無事じゃったのかと聞いておる」


「さあな。もう一回やってみればわかるんじゃないか?」


 修介は油断なくアレサを構えながら挑発する。

 マンティコアの強力な魔法でさえ自分には効かなかった。

 魔法に対する絶対的な防御力……このアドバンテージを最大限に生かすことができれば、この恐ろしい化け物に対抗することは不可能ではない。

 体質だろうがなんだろうが己の全てを使って時間を稼ぐ。それが今の自分にできる最善手だった。


「……いいじゃろう。見え透いた挑発じゃが付き合うてやろう」


 言うと同時にマンティコアは魔法の詠唱を開始する。

 いくつもの魔法文字が宙に描かれては一瞬で消えていく。その数は修介が視認できただけでも軽く二〇を超えていた。

 修介はサラの魔法の詠唱を何度も見てきたが、マンティコアのそれは比較にならないほどの速さだった。

 周囲に白い霧が発生する。

 修介はあえて動かず、全身でそれを受け入れた。

 全身に何かが駆け巡るような違和感を覚えるが、すぐに消えてなくなった。


「……今、何かしたか?」


 修介はわざとらしく首筋に手を当てて肩を回してみせる。


「魔法に失敗したって言うなら、もう一度チャンスをくれてやってもいいぜ?」


「……そいつはありがたいの。ではもう一度試させてもらうとしよう」


 マンティコアは薄い笑みを浮かべて再度詠唱を始める。

 その余裕ぶった態度に修介は嫌な予感を抱いた。

 詠唱している隙を突いて攻勢に出るべきか迷うが、それでは時間稼ぎにならないと思いとどまる。

 とにかく魔法を使わせて時間を稼ぐ。

 修介は無駄と知りつつも精神を集中して魔法に備えた。

 マンティコアの詠唱が完了する。

 今度は周囲の空気に何も変化は起こらない。

 代わりにマンティコアの頭上に魔力の矢が出現し、修介に向かって放たれた。


 凄まじい速度で飛来する魔力の矢を修介は横に跳んで躱した。

 魔力の矢が背後の壁に深々と突き刺さる。当たれば鎧を着ていても無事では済まなさそうな威力だった。


「……なんじゃ、さっきのように喰らってはくれんのか? がっかりじゃのう」


 マンティコアがさも残念そうに首を横に振った。


「避けないなんて一言も言ってないだろうが。それともなんだ? 動かない相手にしか魔法を当てることが出来ないのか? だとしたら随分と間抜けな話だな」


 修介は素早く起き上がりながらそう言い返す。


「……小賢しい口を利く小僧じゃの」


 マンティコアは苛立たしげに言うと、再び魔法の詠唱を開始した。

 修介は何が飛んできても躱せるよう体勢を低くする。

 だが、今度は白い霧も魔法の矢も現れない。

 魔法の詠唱に失敗したのか――そう修介が思った次の瞬間だった。


『マスター!』


 アレサの鋭い声が耳に届く。

 その声に反応して修介は咄嗟にその場から飛び退こうとした。

 だが、それよりも速く足に何かが絡みつく。見ると、それまで何もなかったはずの床から蔦のようなものが生えていた。


「なっ!?」


 直後に魔力の矢が放たれる。

 修介は懸命に身を捩ったが、躱しきれずに魔力の矢が太もも掠めた。


「ぐうっ!」


 激痛に顔を歪める。

 太ももを見ると掠った箇所が火傷を負ったように赤く爛れていた。


「どうやら攻撃魔法は効くようじゃな」


 マンティコアは満足そうに笑みを浮かべる。


「今明かされる驚愕の真実ってやつだな」


 修介は痛みで顔を引きつらせながらも軽口で応じる。

 だが、口で言うほど余裕はなかった。


 マナのない体質に攻撃魔法は効くのか……その疑問に対する回答がこれだった。

 修介に状態異常系の魔法が効かないのは、身体にマナがないことで魔力によるマナの変質が起こらないからである。一方で、攻撃魔法は魔力を使って物理的に攻撃する手段である。つまり、対象となる人間のマナの有無など関係ないのだ。

 実際、サラからはその可能性を事前に指摘されていた。確証がなかったのは、最近サラがあまり実験実験と騒がなくなっていた為、検証を行っていなかったからである。


 攻撃魔法が効くと知ったマンティコアがそれを使わない理由はなかった。

 マンティコアは修介に向けて魔力の矢を次々と放つ。

 魔法はそう簡単に連発できるものではないと思っていた修介からしてみれば、その攻撃はあまりにも理不尽だった。

 修介に出来ることは全力で躱し続けることだけだった。


「ひひっ、その足でいつまで躱し続けられるかな?」


 マンティコアは詠唱の合間に、愉悦に満ちた声で修介を煽る。

 今度は同時に三本の魔力の矢が放たれた。

 修介は一本目を体を捻って躱し、二本目はかろうじてアレサで受けた。

 だが、三本目は対処できず、肩口に深々と突き刺さった。


「ぐあぁッ!」


 そのままの勢いで壁に叩きつけられ、修介はうつ伏せに床に崩れ落ちた。

 マンティコアは油断のない足取りで倒れた修介に近づくと、毒液の滴る尻尾をゆっくりと首筋にあてがった。


「殺しはせん。殺してしまっては意味がないからの。じゃが、少しの間じっとしていてもらうぞ。後で貴様に相応しい惨たらしい死を贈ってやるからのう」


 嗜虐欲に満ちた顔で言うマンティコアに向かって、修介はにやりと笑ってみせた。


「……なんじゃその顔は。気でも触れたか?」


「へっ、せいぜいケツに気を付けな」


 修介がそう言い放った直後だった。

 マンティコアは悲鳴をあげて大きくのけぞった。

 その臀部には短剣が深々と突き刺さっていた。


「このクソ人面獣が! 随分とあたしの相棒をいたぶってくれたじゃねぇか。覚悟はできてんだろうなッ!」


 修介の窮地を救ったのは、麻痺から回復したヴァレイラだった。



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