第160話 在り方

 数日後、エーベルトの父ロティは村に帰ってきた。

 ジュンの顔を見たロティは、滅多に見せない笑顔を浮かべて再会を喜んだ。

 エーベルトもなんとなく嬉しくなって、ふたりの後をくっついて回った。

 しばらくは談笑していたふたりだったが、来訪の目的を聞かれた途端、ジュンの顔がみるみる強張っていった。

 それで何かを察したのだろう。ロティは「部屋で話そう」とジュンを自室に誘った。

 エーベルトも付いていこうとしたが、ロティに厳しい口調で付いてくるなと言われ、渋々引き下がった。


 だが、エーベルトはジュンの深刻そうな表情が気になって父の部屋の前でこっそり聞き耳を立てることにした。

 扉越しでは詳しい会話の内容までは聞き取ることができなかったが、断片的に聞こえてきた単語のひとつがエーベルトの背筋を凍り付かせた。

 おそらくジュンの声だろう。

 彼は『魔神』という単語を口にしたのだ。


 ――魔神。


 六百年前に魔法帝国を滅ぼし、人類を滅亡の一歩手前まで追い詰め、人々を恐怖のどん底に陥れた恐るべき魔神の王と、その眷属。

 人の姿をしている個体もあれば、獣のような姿をしている個体もいるという。その存在は謎に包まれ、詳しい正体を知る者はいない。

 わかっていることは、上位魔神と呼ばれる十三体の魔神がそれ以外の魔神を従えていたということ。そして、人間を遥かに上回る強靭な肉体と強大な魔力を持っていたということだけだった。


 魔神の王は地上に降臨した生命の神によって異世界に送還され、多くの魔神は裁きの光によって消滅した、というのが現代に語り継がれている伝説である。

 だが、裁きの光を海中に逃れたことで生き残った魔神もいたのである。

 そのわずかに生き残った魔神によって、人々は航海に出られなくなった。それ以外にも、魔神に滅ぼされたと噂される国はいくつもあった。

 魔神は人々にとって恐怖と絶望の象徴だった。

 とはいえ、妖魔という目の前のわかりやすい脅威と、長いルセリア王国の歴史において、国内に魔神が出現したことが一度もないという事実によって、いつしか人々にとって魔神は遠い存在となっていた。

 それは幼いエーベルトも同様で、魔神はおとぎ話に出てくる化け物であって、決して身近にいる存在ではないと思っていたのだ。

 だが、扉越しに聞こえてくる父とジュンの深刻な声が、魔神の出現を告げているように思えてならなかった。

 エーベルトは急に怖くなって部屋の前から立ち去ると、そのまま自室のベッドに飛び込んで頭から毛布をかぶった。毛布を掴む手が震える。 一刻も早く眠りの世界に逃げ込みたいと思った。

 目覚めたらいつも通りの朝がくると信じて、エーベルトはきつく目を閉じた。




 翌朝の目覚めは快適とは程遠かった。

 居間に行くと、母が朝食をテーブルに並べていた。

 エーベルトはすぐに家の空気がおかしいことに気付いた。


「おはよう、母さん」


「……おはよう、エーベルト」


 母の声がいつもと違って明らかに沈んでいた。「朝の挨拶は元気よく」が口癖の母の声とは思えなかった。

 おかしな点はそれだけではなかった。

 珍しく父が妹のマリーを抱っこしていたのだ。マリーは気持ちよさそうに父の腕の中で眠っている。

 父はすでに朝食を終えたらしく、鎧を身に付けていた。あきらかに冒険者として旅に出る時の恰好だった。


「……父さん、出掛けるの?」


 エーベルトの問いにロティは黙って頷いた。


「昨日帰ってきたばかりじゃないか」


「……ジュンの仕事を手伝うことになったんだ」


「仕事って、どんな仕事?」


 今までエーベルトは父の仕事の内容について聞いたことは一度もなかったが、昨晩の父とジュンの会話を聞いてしまった今となっては聞かずにはいられなかった。

 しかし、返ってきたのは沈黙だった。


「……いつ戻ってくるの?」


 震える声でエーベルトは問い掛ける。


「わからない」


 その答えもいつもと違っていた。いつもなら何日くらいで帰ってくるのか必ず予定を教えてくれる。

 昨晩ジュンの口から出た『魔神』という言葉がエーベルトの脳裏に浮ぶ。

 嫌な予感がしてならなかった。


「――それじゃあ行ってくる」


 ロティは席を立つとマリーをエリノーラへ預け、ふたりにそっと口づけをした。

 それも普段の父なら絶対にしないことだった。

 エーベルトが望んでいた日常とはかけ離れたことばかりが起こっていた。

 父さんをこのまま行かせては駄目だ。行けば父さんは帰ってこない。そんな思いに駆られてエーベルトは無意識に父の腕を掴んでいた。


 ロティは振り返ると、涙を滲ませたエーベルトの顔を見て、目線を合わせるように膝をついた。


「……ジュンの奴に剣術を習ったらしいな。筋が良いと褒めていたぞ」


「えっ?」


 場にそぐわない父の言葉にエーベルトは困惑する。


「……父さんの部屋にお前の新しい剣がある。父さんが帰ってくるまでは、それを使って鍛錬に励め。戻ったらちゃんとした稽古を付けてやる」


「と、父さん?」


「留守の間、母さんとマリーを頼んだぞ」


 ロティはエーベルトの腕をそっと離すと、そのまま家を出て行った。


「父さん!」


 伸ばした手がむなしく宙を掴む。

 家の外にはジュンが立っていた。

 その表情にはいつもの快活さはなく、苦渋に満ちた顔をしていた。

 そして、決してエーベルトと目を合わせようとはしなかった。




 幼いエーベルトには父を止めることも、探しに行くこともできなかった。

 父とジュンがその後どうなったのか、それを教えてくれる者は誰もいなかった。

 ただ、ジュンが父の元を訪ねて来た理由については、後に母から聞いて知ることができた。

 ジュンは攫われた妻を取り戻す為に犯人を追って旅をしていた。そして、その過程で相手が想像以上の手練れであることが判明し、かつての冒険者仲間である父に助力を頼みに来たのだという。

 ジュンほどの戦士が誰かに助力を頼まなければならないほどの相手というのは、おそらく魔神で間違いないだろう。

 父とジュンが帰ってこないのは、魔神に挑み、返り討ちに遭ったからだと、エーベルトはそう結論付けた。


 母の話では、ジュンはエーベルトやマリーの存在を知って、助力ではなく、万が一のことがあった場合に残された自分の子供達のことを頼んだのだという。

 だが、父は仲間であるジュンの苦境を放っておくことができず、半ば強引に彼の旅に同行することを決めた。


「なぜだ!?」


 エーベルトはそう叫ばずにはいられなかった。

 父の決断を許すことができなかった。

 ジュンの境遇には同情するし、父が仲間の為に戦うことを選択したことも、傍から見れば立派な行いなのだろう。

 だが、残された家族からしてみれば、父の行いは他人の家族を救う為に自分の家族を犠牲にしたようなものだった。

 父は家族を捨てて、仲間を選んだのだ。


「あの人はそういう人なの……」


 そう言った時の母の寂しそうな顔を生涯忘れることはないだろう。

 あの日から母は以前のように笑わなくなった。

 笑っていてもどこか無理をしているように見えた。

 それでも、母は未だに父が帰ってくると信じていた。幼い妹にも父は死んだと告げず、「お父さんはいつか必ず帰ってくるから」と言い続け、帰りをずっと待っているのだ。


 この理不尽な状況に対するエーベルトの怒りは、すぐに憎しみへと変わった。

 父への尊敬の念。

 ジュンへの友情。

 それらの強い想いが、そのまま裏返ったのである。

 父が仲間ではなく家族を選んでいれば、そしてジュンが父を頼らなければ、エーベルトの家族はずっと一緒にいられたはずなのだ。

 諸悪の根源が魔神であるとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。




 エーベルトは成人すると、すぐに村を出て冒険者になった。

 父に代わって家族を養う為でもあったが、一番の理由は父を待ち続ける母を見ていられなかったからだった。

 妹から送られてくる手紙には何度も「家に帰ってきてほしい」と書かれていたが、エーベルトは帰ろうとはしなかった。その代わり、冒険者として得た報酬のほとんどを、まるでそれが免罪符であるかのように実家に送っていた。

 そして、冒険者として活動する傍ら、それとなく父とジュンの行方や魔神に関する情報を集めた。

 父を探し出して連れ帰ろうとか、魔神を見つけ出して仇を討とうとか、そんな気はさらさらなかった。

 ただ、父の最期がどのようなものであったのか、それを知ることが息子である自分の義務であると、そう思っていた。


 父とジュンに対する憎しみは十年経った今でもエーベルトの心の奥底にくすぶり続けている。

 そして『仲間』という存在に対しても同様に憎しみに近い感情を抱いていた。

 仲間がいると、人はそれに頼ろうとする。

 だが、誰かに頼ろうとする心は人を弱くする。

 そしてその弱さが、仲間という言葉を免罪符にして人の善意に付け込み、罪の意識もなくその者とその者の周囲を不幸にするのだ。

 エーベルトは他人に頼ることを悪だと断じた。


(俺はジュンとは違う。俺は誰にも頼らない。他人に頼らなくて済むよう誰よりも強くなる)


 それがエーベルトの剣士としての在り方となった。

 そして、その在り方が正しいことだと証明する為に剣の腕を磨き、パーティを組むことなく単独で多くの妖魔を討伐し続け、気が付けばエーベルトはグラスター領内では誰もが一目置く剣士となっていた。

 エーベルトにとってパーティメンバーはただ同じ依頼を受けただけの他人だった。

 慣れあうつもりも、頼りにするつもりもなかった。


 だが――エーベルトはパーティの仲間に囲まれ笑顔を浮かべる修介を見る。

 この男と出会ってから何かが狂い始めていた。


 エーベルトは修介という男が気に入らなかった。

 顔や性格はまったく異なっているにもかかわらず、修介の姿がなぜかジュンと重なって見えるのだ。マナがないという体質や黒い髪に黒い瞳という共通点があるからかもしれないが、その顔を見る度にジュンの顔が脳裏にちらつき、エーベルトを苛立たせた。


 エーベルトにとって修介はなんら取るに足らない存在のはずだった。

 初めて出会ったときの修介は冒険者になりたての素人丸出しで、剣の腕前についても特筆すべき点はなかった。

 しかし、そんな男が自分を差し置いてジュードという一級賞金首を倒し、魔獣ヴァルラダン討伐戦ではハジュマ、ランドルフといった一流の戦士に並ぶ活躍をしてみせたのだ。その活躍のほとんどが特異な体質によるものだとわかっていても、心穏やかでいられるはずがなかった。

 そして修介が活躍すればするほど、お前の在り方は間違っていると、そう神に否定されたように感じるのだ。


 だが、なによりエーベルトを苛立たせたのは、修介という男の在り方だった。

 当たり前のように仲間を頼りにし、それを恥とも感じていない。己の力で状況を打破しようという気概もなく、ただ仲間の立ち回りばかりを気にしている。

 こういう男が無自覚にパーティを危険に晒し、仲間の命を――誰かにとっての大切な人の命を奪うのだ。


(俺はこいつを認めない……)


 エーベルトは修介を睨む。

 この男の在り方を認めるわけにはいかなかった。

 それを認めてしまえば、ジュンを認めることになってしまう。

 たとえ神がこの男を認めようが、それだけは絶対にできなかった。


「……もう二度と後れは取らない」


 エーベルトはそう呟き、拳を強く握りしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る