第144話 トロル討伐

 鼓膜を引き裂かんばかりの咆哮が化け物の喉からほとばしった。

 ひょろっとした長い胴体からは人間と同じように顔と手足が生えているが、暗い黄緑色に覆われた表皮と人間の倍近くある身の丈が、この生き物が人間ではないことを主張していた。

 トロル、と呼ばれるこの生き物は六〇〇年前にこの世界に現れた妖魔の一種である。

 底なしの胃袋を持つと言われ、この世界に存在するあらゆる生命――人間から動物、地虫に至るまで――を喰らう恐ろしい化け物である。

 この妖魔を放置すれば、いずれ間違いなく近隣の村を襲うだろう。

 だが、化け物の関心は離れた村ではなく、目の前に立つ人間に向けられていた。


「はぁはぁ……俺ひとりで中位妖魔の相手をするとか無茶が過ぎるって!」


 宇田修介は見上げんばかりの化け物を前に荒い息を吐きだした。

 手には長剣が握られ、鎖帷子チェインメイルの上から革鎧を身に付けた、見るからに戦士という出で立ちである。

 修介はこのトロルの討伐依頼を受けて森にやってきた冒険者だった。

 剣を構える姿に隙はなく、化け物を見据える目に怯えはない。そのことが彼が多くの実戦を経験してきた戦士であることを物語っていた。

 だが、残念ながら修介は一対一でトロルと戦って勝ったことは一度もない。

 つまり、わかりやすくピンチだった。


 妖魔討伐の依頼はひとりでは受けられないというギルドの決まりがあることから、修介はパーティの仲間と一緒に来ていた。

 ところが、トロルを探して森を移動していたところ、逆にトロルの集団から奇襲を受け、必死に攻撃を躱しているうちに仲間とはぐれてしまったのである。


(みんな無事だと良いけど……)


 修介は仲間の身を案じたが、今一番危ないのは自分自身の命だった。

 そのことを思い知らせてやると言わんばかりに目の前のトロルが手にした棍棒を大きく振り下ろした。


 ほっそりとした外見からは考えられないほどの鋭い攻撃だったが、十分に予測出来ていたその一撃を修介は身をかがめて躱し、すれ違いざまに長剣でトロルの脇腹を斬りつけた。


「ヌヴオオオォォ」


 名状し難い不快な悲鳴をあげてトロルはのけぞり、傷口から血と思しき緑色の体液がどぼどぼと溢れ出る。


「ちっ!」


 修介は思わず舌を鳴らした。

 ゴブリンなどの下位妖魔なら今の一撃で倒せていただろう。

 だが、修介が相手にしているのは並の妖魔ではなかった。

 戦闘が始まってから修介の剣がトロルの肉体を傷つけた回数は実に七回を数えており、どれもたしかな手応えがあった。にもかかわらず目の前のトロルは一向に倒れる気配がないのだ。


 トロルは傷のことなどおかまいなしに、口からだらだらと涎を垂らしながら再び突撃してくる。


(妖魔ってのはどうしてこうもタフなんだよっ!)


 修介は心の中で悪態をつきながらも、横に跳んで攻撃を躱そうとした――が、「うおっ?!」ぬかるんだ地面に足を取られて体勢を崩してしまった。

 そこへトロルの棍棒が容赦なく襲い掛かる。

 修介は咄嗟に剣を前に出して棍棒を受けた。両腕が折れたのではないかと錯覚するほどの衝撃と共に吹き飛ばされ派手に地面を転がる。ぬかるんだ土が革鎧や服を汚すが、そんなことを気にしている余裕はない。トロルの追撃に備えてすぐさま立ち上がる。


「ぜぇぜぇ……」


 柔らかい泥の上だったのでダメージは思ったほどではなかったが、攻撃を剣でまともに受けたせいで手に痺れが残っていた。

 これでは全力で剣を振り回すことはできないだろう。

 痺れが治まるまで時間を稼ぐしかない。それに時間を稼いでいれば仲間が助けに来てくれるかもしれない――そこまで考えたところで、修介は頭を大きく横に振った。


(そうじゃないだろう、宇田修介! こいつは俺の獲物だ! 俺がやるんだ!)


 自分自身の為にも、仲間の為にも、強くなると決意したばかりだった。いきなり人に頼っているようではお話にならない。


 修介は地面の泥を片手で掴んで立ち上がる。そしてもう片方の手で剣を掲げながら、トロルに向かって「かかってこいやぁ!」と叫んだ。

 挑発されるまでもなくトロルは雄叫びを上げて突っ込んでくる。


「くらえッ!」


 その醜い顔面に向かって修介は掴んでいた泥を投げつけた。

 泥は見事にトロルの顔面を捉えた。

 思わぬ反撃にトロルは顔を手で覆いながら暴れ出す。

 修介はその足元を滑り込むようにしてトロルの背後へと回り込むと、膝の裏に思い切り剣を叩きつけた。


「ヌボァ!」


 トロルはたまらずに膝をつく。

 修介は両手で剣を握りしめ、ちょうど目線の位置まで下がったトロルの背中へ剣を突き立てた。切っ先は確実にトロルの心臓を貫いていた。


「――こんくらいじゃてめぇは死なねぇだろう!」


 腰から予備の短剣を引き抜き首筋を切り裂く。

 緑色の血しぶきが飛び散り、修介の顔にまだら模様を作る。その不快感に修介は思わず顔をしかめた。

 トロルは膝立ちのまま全身を痙攣させていた。


「倒れろやぁッ!」


 修介は止めとばかりにトロルの背に突き刺さったままの剣の柄を蹴りつけた。

 トロルは口から大量の血を吐きながら、どうっ、とうつ伏せに倒れた。




「はぁはぁ……どうだこの野郎、二度と逆らうんじゃねぇぞ……」


 修介は息も絶え絶えに吐き捨てた。死体に向かって言っても無意味な台詞だったと口にしてから気付く。それだけ精神が昂っている証拠だった。

 大きく深呼吸をする。冷たい空気が肺一杯に広がり、熱くなっていた心と体をクールダウンさせてくれた。

 気分が落ち着いたところで、修介はトロルの死体から剣を回収した。そして剣に向かって勝ち誇るように言った。


「見たかアレサ、ついにひとりで中位妖魔を倒したぞ!」


 傍から見れば修介が独り言を言っているようにしか見えないだろう。

 だが、修介の持つ剣は普通の剣ではなかった。


『まったく、見ているこっちは冷や冷やものでしたよ。あと、最後に私を足蹴にしたことについて申し開きがあれば聞きますが』


 抑揚のない声が剣から発せられる。


「いや、あれは興奮してたもんでつい勢いで……」


『今日の手入れはいつもの倍以上念入りに行うことを要求します』


「承知しました……」


 修介はため息を吐くと、ぽんと剣の柄に手を置いた。

 アレサという名のその剣は、この世界に転移する際に自称神の老人から与えられた高い知能を持った剣だった。修介にとってはこの世界でもっとも信頼できる相棒でもある。


『とりあえず浮かれるのは後にして、すぐに仲間と合流すべきです。襲ってきた妖魔は少なくともあと四匹はいたはずです』


「おっと、そうだった」


 襲撃してきたトロルは全部で五匹いたのだ。自分の分を倒して終わりというわけにはいかない。

 修介は耳を澄ませて周辺の気配を探る。誰かが戦っているのならば、その音が聞こえるはずだ。

 だが、聞こえてきたのは背後の茂みが大きく揺れる音だった。

 振り返った瞬間、茂みからものすごい勢いでトロルが飛び出してきた。


「うわあぁ!」


 修介は声を上げながらも咄嗟にアレサを構える。

 ところが、現れたトロルは修介のことを無視して奇声をあげながら猛烈な速度で横を通り抜けていった。


「……あれ?」


 修介は呆気に取られてトロルを見送る。よく見ると、去っていくトロルの片腕がなくなっていた。

 直後に茂みから別の人影が飛び出してくる。


「げっ!」


 修介とその人影は正面から激突し、もつれるようにして倒れた。


「いってぇ……」


 修介は頭を振って身体を起こす。


「てめぇそんなところにぼさっと突っ立ってんじゃねぇ! 邪魔だろうが!」


 ぶつかってきた相手が声を荒らげる。

 その人物を修介はよく知っていた。


「ヴァル、無事だったか!」


 ぶつかってきたのは修介とコンビを組んでいるヴァレイラという名の女戦士だった。今回の依頼を受けたパーティの一員でもある。

 よく日に焼けた浅黒い肌に、鋭い目つきとがっちりとした体形は一見すると男と間違えそうになるが、まぎれもなく女性である。後ろにまとめられた長い髪が唯一それを主張しているが、せっかくの美しい金髪もあまり手入れされているようには見えず、相変わらずぼさぼさだった。


「やろう、逃がすかよ!」


 ヴァレイラはすぐさま立ち上がると、逃げていったトロルを追って駆け出した。

 修介も慌ててそれを追う。


「おいヴァル、無茶するな! 先におやっさん達と合流しよう!」


「ばかやろう、トロルの再生能力をなめんな! 今ここで確実に殺しておかないと、すぐに再生して村を襲うぞ!」


 トロルはたとえ腕を切り落としても、しばらくすると生えてくるほどの高い再生能力を持つと言われており、完全に息の根を止めない限りその脅威はなくならないのだ。


 逃げるトロルを修介とヴァレイラは見失わないように必死に追いかける。


「くそっ! あんな不格好な走り方なのに尋常じゃねぇ速さだ!」


 修介の目にはトロルが奇妙なダンスを踊りながら走っているようにしか見えない。しかし、追いつくどころかその差は徐々に広がっていた。


「ぜってぇ逃がさねぇ!」


 ヴァレイラはそう言うと走る速度を一気に上げた。

 その速さに修介は舌を巻く。

 前を走るヴァレイラの背中からは、この場で絶対にトロルを仕留めるという気迫が伝わってきた。

 妖魔討伐は最初の戦闘で仕留めるのが重要とされている。一度逃がしてしまうと、本気で森の中に身を隠した妖魔を見つけ出すのが困難だからだ。


「負けるかっ!」


 修介はトロルとの戦闘で疲弊しきった体に鞭を打って全力で後を追った。




 宇田修介――今年一八歳になるこの青年は、実は中身が四三歳の中年で、異世界からこのグラスターの地に若返って転移してきた異世界人である。

 その事実を知る者は、この世界にはまだいない。

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