第九章

第九章 プロローグ

 ひときわ冷たい風が頬を叩いた。

 二月ももう終わろうとしているのに、風の精霊は未だに春を感じさせない冷たい風を容赦なく吹き付けてくる。


「うう、さぶっ」


 男は外套の中で身を縮こませた。十分な衣服と大量の皮下脂肪を身に纏っていても寒いものは寒い。

 なだらかな丘の斜面に突き出た岩も昨夜降ったばかりの雪を身にまとっており、寒々しさをより際立たせていた。


「また降らなきゃいいけど……」


 分厚い雲に覆われた空を見上げながらぼそっと呟く。周囲に誰もいないのにわざわざ口にしたのは、この一週間宿にも帰らずにずっとひとりで活動していた為、すっかり独り言を言う癖がついてしまったからだった。


「ん?」


 丘を登り切ったところで、男は違和感を覚えて足を止めた。

 足元のぬかるんだ土に足跡があった。


「これは……」


 獣……それもかなり大型の獣の足跡だった。

 村人の話ではこの辺りには熊が生息しているとのことだったが、この足跡はあきらかに熊ではなかった。どちらかと言えば猫の足跡に近い。だが、男はこんな巨大な足跡を残す猫にお目にかかったことはなかった。

 好奇心を刺激され、男は足跡を追うことにした。

 男の目的は珍しい獣を探すことではない。それでも、この足跡を無視してはいけないと長年の経験から来る勘がそう告げていた。


 足跡は丘を下ったところにあるひと際巨大な岩山へと向かっているようだった。

 男は足跡を見失わないよう慎重に丘を下りる。

 ところが、足跡は岩山の前で忽然と消えていた。


「ばかな……」


 目の前の岩山は絶壁といってよく、とてもよじ登ることなど不可能だろう。周辺の地面を見回しても左右のどちらかに迂回したような形跡はない。翼を生やして空へ飛んでいったとしか考えられなかった。


「いや、もしかしたら……」


 男は足跡の消えた目の前の岩山におそるおそる手を伸ばす。

 岩肌に触れたはずの手が岩の中へ吸い込まれるように消えた。


「げ、幻覚の術!」


 興奮を抑えきれずに声が震える。

 幻覚の術は相手に幻を見せるという高度な古代語魔法である。

 見た目は本物の岩にしか見えない。実際に触れなければこれが幻覚だと気付く者はまずいないだろう。

 このレベルで幻覚の術を使える術者は現代の魔術師にはいない。つまり、この術を掛けたのは古代魔法帝国時代の魔術師ということになる。

 その事実に男の胸は期待に膨らむ。

 探し求めていた場所を見つけたかもしれないのだ。


 男は逸る心を抑えて、あらためて幻覚の術が掛けられた岩山を慎重に調べる。

 幻覚の術は岩山全体にではなく一部分にだけ掛けられているようだった。

 思い切って顔を突っ込むと、幻覚の向こう側には岩山を繰り抜いたように洞窟が続いていた。

 男は荷物の中からカンテラを取り出す。

 このカンテラは底辺に付けられた金属の板に触れることで、しばらくのあいだ明かりを灯すことができる『マナとう』と呼ばれる魔道具である。

 先に入っていったであろう獣の存在を考えるとひとりで入るのは危険だが、ここが考えている通りの場所ならば、この洞窟はただの洞窟ではない。この先に何があるのかどうしても確認しておきたかった。

 男は「よし!」と気合を入れると、マナ灯を前にかざしてゆっくりと進み始める。

 洞窟はなだらかな下り坂になっていた。岩肌はごつごつしておらず、あきらかに人の手によって掘り進められた人工の洞窟だった。


 かれこれ一時間は歩き続けただろう。

 永遠に続くかと思われた洞窟にようやく終わりが訪れた。

 洞窟の道幅が一気に広がったかと思ったら、目の前に巨大な空洞が現れたのである。

 マナ灯の小さな明かりでは、天井や壁がどこまで続いているのか確認できない。

 古代語魔法が使えたならば光を飛ばして調べることもできただろうが、あいにく男には魔術師としての素養はなかった。

 男は自分がやってきた道に目印代わりにマナ灯を置くと、予備のマナ灯を取り出して空洞の中に足を踏み入れる。

 やがて城門のような巨大な両開きの扉が姿を現した。

 身長のゆうに三倍はありそうなその扉は、まるで男を中へ誘うかのように片側が大きく開かれていた。


「間違いない……ようやく見つけたんだ……」


 男は確信と共に呟く。

 目の前にあるのは、まごうことなき古代魔法帝国の地下遺跡だった。

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