第129話 背中

 妖魔の軍勢が迫るなか、輸送部隊はクルガリの街へ向けて街道を西へと進んでいた。

 その隊列の真ん中あたりを走るひときわ豪奢な馬車の中で、シンシアは不安げな面持ちで窓の外を眺めていた。

 ここから目と鼻の先のところまで妖魔の軍勢が迫っているのかと思うと、恐怖で身が竦む。窓辺に映る街道の景色は先ほどまでと何も変わらないというのに、不安のせいか世界が闇に覆われてしまったかのように薄暗く見えた。

 思えば、自分が領地の視察に赴くようになってからは、ずっとランドルフが傍で守ってくれていた。だからこそ安心して街の外に出ることができたのだ。今までそれを当然のことのように受け入れてきたが、ランドルフが傍にいないというだけでここまで心細く感じてしまうことに、いかに自分が彼に甘えていたのかを思い知らされていた。


 シンシアは無意識のうちに隣に座るメリッサに体を寄せる。メリッサは「大丈夫ですよ」と肩をそっと抱き寄せてくれた。

 その様子を真向いの座席にいるフクロウが無表情に見つめていた。

 いつもならば役目が終わればすぐに主の元へと戻るはずなのに、なぜか傍から離れようとしないのだ。

 そのことを不思議に思いつつも、妖魔や戦いとは無縁そうなフクロウの存在は、シンシアの心にいくばくかの落ち着きを取り戻させてくれた。

 シンシアがフクロウを撫でようとそっと手を伸ばした、その時だった。

 突然、「妖魔だーっ!」という叫び声が響き渡る。

 その声に馬のいななきや人の悲鳴が重なった。

 フクロウがばさばさと翼をはためかせて暴れ始める。

 シンシアは慌てて馬車の窓から様子を窺う。その視界に映ったのは、街道の北側から輸送部隊目掛けて殺到する妖魔の群れだった。




「落ち着け! 数は多いが、ほとんどはゴブリンだ! 歩兵隊は班ごとに迎え撃て! 戦えない者は街道の南側へ逃げろ!」


 ブルームは大声で指示を飛ばす。

 そして自らも剣を抜いて、近寄って来たゴブリンを一刀の元に斬り捨てた。

 数刻前まで平穏だった街道はあっという間に戦場へと様変わりしていた。


「こいつはまいったな……」


 ブルームの背筋を冷たい汗が流れる。

 高い知能を持つレギルゴブリンがいることから、別動隊が足止めに来るかもとは予想していたが、来るとしても街道の南側からだろうと考えていたのだ。

 ところが、別動隊は街道の北側から現れた。おそらく前もって街道の北側の森に潜ませていたのだ。ゴブリンごときがそんな手の込んだことをするわけがない、という侮りがあったことを認めざるを得なかった。

 さらに、襲撃してきた妖魔の数は少なくとも二〇〇は下らず、おまけに指揮しているのはバルゴブリンだった。一方で、こちらの戦力は騎士五名と歩兵四〇名だけと、数の上では明らかに劣勢だった。

 せめてもの救いは、今のところ荷馬車に火を放たれてはいないことだった。周囲の人間どもを殺してから、ゆっくりと荷を奪うつもりなのだろう。つまり、荷馬車を守りながら戦う必要はなく、この場にいる妖魔を全滅させれば事は済むということだった。

 もっとも、それが言うほど簡単ではないことはブルームも承知している。特に、想定外の事態を前に歩兵隊は完全に浮足立っていた。


 ブルームは一呼吸置くと、目を閉じて魔力を集中させる。そして、彼の信仰する戦いの神に短い祈りの言葉を捧げた。

 宙に向かって突き出した手の平から、魔力の塊が放たれる。

 その塊は宙で動きを止めると、まるで小さな太陽が出現したかのように眩い光を放って周囲を照らした。

 ブルームはあらん限りの声で叫んだ。


「勇敢なるグラスターの戦士たちよ! 我らには戦いの神の加護がある! のこのこやってきた間抜けな妖魔どもに、どっちが狩られる側なのか思い知らせてやれ!」


 周囲にいる兵士たちから「オオッ!」という雄叫びが上がる。

 彼が使ったのは『聖なる光の術』という神聖魔法である。光自体には特別な効果は何もなく、ただ周囲を照らすだけの初歩の魔法だった。

 だが、戦いの神を信仰する者が多いグラスターの兵達にとって、その光はただの光ではなかった。煌々と輝く聖なる光は、神聖騎士であるブルームの檄と相まって味方の士気を高揚させるのだ。

 陳腐だが効果が高いことから、ブルームが戦場でよく使う手だった。


「ブルーム殿! お嬢様の馬車がっ!」


 兵士の声にブルームはシンシアの乗る馬車の方へと視線を向ける。妖魔の一団が馬車に向かって殺到していた。

 ライセット家の紋章が施された豪奢な馬車は、他の荷馬車とは違って目立つ。視察の際にこの馬車を使うことは、領主の威光を民に示し、領内が安全であることを証明するという意味で欠かせない。そして、その馬車を襲うという事はグラスター騎士団を敵に回すのと同義である。相手が人間であれば、よほどの自信家か恐れ知らずでもないかぎり、手を出すようなことはしないだろう。

 だが、妖魔にとっては関係のない話である。見た目が豪奢な馬車は、光物を好むゴブリンにとって最大級の獲物なのだ。

 馬車の周囲には手練れの兵士を配置していたが、向かっているゴブリンはその数倍にも及んでおり、とても守り切れそうにはなかった。


「何人かついてこい! お嬢様をお守りするぞ!」


 ブルームは数人の兵を伴ってシンシアの乗る馬車へと走る。

 その行く手を別のゴブリンの一団が遮った。


「おのれ……」


 ブルームの目の前に立ちはだかったのは、残忍な笑みを浮かべたバルゴブリンだった。



 怒号や金属が激しくぶつかり合う音が、馬車の中にいてもはっきりと聞こえてくる。

 凄惨な戦いが馬車のすぐ外で行われているという証だった。

 シンシアは音が聞こえてくる度に身を竦ませ、手にした短剣を強く握りしめる。


「お母様……」


 それは亡き母の形見の短剣だった。妖魔と戦う為の武器ではなく、万が一妖魔に捕まった場合に辱めを受ける前に自害する為の物である。

 領主の娘として領内の視察に赴くと決めたときから、こういった事態に陥る可能性があることは覚悟しているつもりだった。だが、いくら事前に覚悟していようとも、いざその時になれば恐怖で何もできずにいる自分がいた。

 突然、馬車の扉が、ドンッ、という音を立てて激しく揺れた。

 シンシアは思わず悲鳴をあげる。


「お嬢様っ!」


 メリッサがシンシアに覆いかぶさる。その肩越しから見える窓には、血走った目で馬車の中を覗き込むゴブリンの姿があった。

 ゴブリンは手にした小剣で窓ガラスを叩き割ると、窓に手を掛けて無理やり中に入ろうとする。

 シンシアの口から「ひっ」という引きつった声が漏れる。


「……お嬢様は絶対にここから出ないでください」


 メリッサは言うと同時に身を翻して思いっきりゴブリンの顔を蹴りつけた。

 悲鳴をあげてゴブリンが外に吹き飛ぶ。

 間髪容れずにメリッサは外へと飛び出していった。


「メリッサ!」


 手を伸ばすシンシアに、メリッサは「そこにいてください!」と叫び、手にしていた短剣を構えて馬車の出入口に立ちふさがった。

 複数のゴブリンが唸り声を上げてメリッサを取り囲む。


「メリッサ、逃げてっ!」


 シンシアはそう叫んだが、メリッサは動こうとしない。

 助けを求めようにも、護衛の兵士達は大量の妖魔に行く手を遮られ、近寄ることすらできずにいた。

 このままでは間違いなくメリッサは殺される――シンシアの心に絶望の帳が下りる。


 シンシアにとってメリッサは母親同然の存在だった。

 メリッサは、元々はシンシアの母親に仕えるメイドだった。

 シンシアの母親がライセット家に嫁いできた日から、彼女の身の回りの世話をし、相談相手になった。ふたりは年齢が近かったこともあって、主従の関係にありながら本物の姉妹のように親しかったという。

 シンシアの幼少の頃の記憶には、ふたりの母親がいたようなものだった。

 シンシアが九歳のときに母親を亡くしてからも、メリッサはずっと傍にいて、ときには優しく、ときには厳しく、ずっと見守り続けてくれたのだ。

 そのメリッサがまさに目の前で殺されようとしているのだ。彼女を失うことなど、シンシアにはとても耐えられなかった。

 今、彼女を救うことができる人間は自分しかいない――そう思った瞬間、シンシアの身体は勝手に動いていた。


 気が付けば、シンシアはメリッサと並んで立っていた。


「お嬢様、どうして!?」メリッサが驚きの声を上げる。


「わ、わたくしも戦います!」


 シンシアはメリッサの横に並んで短剣を構える。その声は恐怖で震えていた。

 以前に妖魔に襲われた時の記憶が蘇る。

 いつも守ってくれたランドルフはこの場にいない。


(でも――)


 シンシアは短剣の柄を強く握りしめる。

 彼女にとって、この短剣は自害する為の物ではなかった。誰かを守ることができる力そのものだった。

 修介と初めて出会ったあの時――泣きながら必死に戦い、命懸けで守ろうとしてくれた、あの黒髪の青年を救うことができたのは、この短剣があったからだった。

 正面から妖魔と戦った経験なんてない。ましてやこれだけの数の妖魔を相手に勝つことなど不可能だろう。


(それでも絶対にあきらめない! アルフレッドの分まで生きるって、そう誓ったんだから!)


 シンシアは勇気を振り絞りゴブリンを睨みつけた。

 だが、ゴブリンはその目を意にも介さず、涎を垂らしながら飛び掛かってきた。


「お嬢様っ!」


 メリッサはシンシアを庇うように前に出る。

 ゴブリンの持つ小剣の刃が、その身体を捉えようとしたその時――


 目の前のゴブリンの頭が大きく跳ねた。

 メリッサの目には、ゴブリンの側頭部にいきなり角が生えたように映った。

 否、角のように見えたそれは、短剣の柄だった。

 頭に短剣が突き刺さったゴブリンは、何が起こったのか理解できないまま地面に突っ伏した。


「グギャ!」


 ゴブリンが一斉に短剣が飛んできた方向に目を向ける。

 すると、今度は端にいたゴブリンが頭をのけぞらせて吹き飛んだ。その額には銀色に輝く長剣が突き刺さっていた。

 突然の出来事にその場にいる誰もが固まって動けなくなる。

 呆然とするシンシアの視界に、黒い影が暴風となって飛び込んできた。

 そして倒れているゴブリンの頭から剣を引き抜くと、あっという間に周囲のゴブリンを斬り倒し、シンシアたちを庇うように前に立った。

 黒い影は黒髪の青年だった。

 大きく肩で息をする青年の背中は、以前に妖魔に襲われたときに守ってくれた、あの背中と同じだった。


「ああっ……」


 シンシアの目に涙が浮かぶ。

 あの日出会った心優しき青年が、自分の危機に再び駆け付けてくれたのだ。


「シュウスケ様!」


 シンシアは感極まってその名を叫んだ。

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