第118話 深刻な事態
修介とアイナリンドは手をつないだまま森の奥を目指す。
若い女の子と手をつなぐなど何年ぶりだろうか――修介はふとそんな感慨を抱いたが、中身はいい歳した中年なので、今更女の子と手をつないだ程度で胸が高鳴るようなこともなく、むしろ悪い事をしているような気分になって落ち着かなかった。
むしろ彼女がこの状況をどう思っているのかが気になったが、姿が見えないので確認のしようがなかった。
手袋越しの手の感触と息遣い、そして落ち葉を踏む音だけが、彼女の存在を感じることができるすべてだった。
手を離すと自分だけが姿を現してしまうという不安から、必要以上に繋いだ手に力が入ってしまう。
「そんな不安そうにしなくても、大丈夫ですよ」
アイナリンドが囁くように言った。
「あ、え? 俺の顔、見えてるの!?」
「いえ、見えてはいませんが、あなたの周りの精霊があなたの感情に引きずられて怯えているようだったので……。それと、ちょっとだけ手が痛いです」
「わ、悪いっ!」
修介は反射的に手を離しそうになるが、そうなる前にアイナリンドが強く手を握ってくれたおかげで離さずにすんだ。
見えないだろうからと完全に油断していたが、どうやら精霊使いは精霊を通して人の感情がわかるようだった。
「先ほども言いましたが、精霊は強い感情に引き寄せられます。いくらシュウスケさんが精霊に人として認識されていないと言っても、強い感情には反応しますから……」
精霊は人の傍に寄ることで、その人物が抱く感情の影響を受ける。その人物が喜んでいれば喜びの感情を司る精霊となり、怒っていれば怒りの精霊となる。
精霊使いは、そういった精霊の変化を視ることができるのだという。
その話を聞いた修介は、この世界で人間とエルフが反目し合う理由がなんとなく理解できた。
エルフは長寿ゆえに感情の起伏が少ない。そして、精霊を通じて互いの感情が伝わるという前提で相手と向き合う。だから嘘は吐かないし、自然と言葉も少なくなる。
一方で人間は相手の感情がわからないから、言葉を駆使して互いの心を読もうとするし、必要に応じて嘘も吐く。
エルフからすれば感情と言葉が一致しない人間は信用できないだろうし、人間からしても心を見透かしてくるエルフとはさぞ付き合い辛いに違いない。
とりあえず、彼女の手を握ったときに邪な感情を抱かなかった自分を修介は褒めてやりたい気分だった。
「今くらいならまだ大丈夫ですが、それ以上感情の起伏が大きくなると、魔法が解けてしまうかもしれません。姿隠しの魔法の効果があるうちは、そう簡単に妖魔に見つかるようなことはないはずですから、心を落ち着けてください」
「わ、わかってるって……」
そう答えたものの、妖魔がいる薄暗い森の中で恐怖や不安を感じるなと言う方が無理というものだった。
修介はアイナリンドがいるであろう場所に視線を向ける。
彼女がジュンの娘だというなら、おそらく年齢は今の修介とそう変わらないだろう。その割には随分と落ち着いているなと感心させられる。今のやり取りからもこちらを安心させようとする気遣いが感じられ、なかなかに出来た娘さんだと思った。
そんなことを考えた矢先の出来事だった。
「きゃっ!」
突然、つないだ手が前方に引っ張られた。
「うおっとぉ!」
修介は転ばないように慌てて手を引っ張り上げる。
どうやらアイナリンドが何かに躓いて転びそうになったようだった。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。ごめんなさい、気を付けます」
そう言ったアイナリンドだったが、その後も何もないところで何度か躓いては修介に引っ張り上げられていた。
そんなことがあって、修介は途中から見えないながらも注意深くアイナリンドの様子を窺っていたが、野鳥の鳴き声に驚いたり、修介が少し変わった動きをする度にびくっと体を震わせたりと、思っていたよりも落ち着きがないことに気付いた。
それでようやく、修介は彼女が気丈に振舞っているだけで、実際はかなり無理をしているのだということを理解した。
よくよく考えてみれば、こんな人気のない森で、出会ったばかりの素性の知れない男と行動を共にしているのだ。精霊を通じて修介に悪意がないことがわかっている、ということを差し引いたとしても、不安にならないわけがない。
それでも、弟や捕らわれた人を助けようと懸命に我慢しているに違いないのだ。
男として、その気概に応えないわけにはいかなかった。
修介は彼女の負担にならないよう、余計なことを考えずに自分の足元に意識を集中しながら慎重に足を運ぶのだった。
しばらく無言で歩いていた修介だったが、突然、強い力で横に引っ張られた。
そのまま引きずられるようにして、近くの大きな木の陰に移動する。
「アイナ?」
「しっ! 喋らないで」
アイナリンドのその一言で修介は黙り込む。
しばらくすると、修介たちが向かおうとしている方角から、ホブゴブリンが姿を現した。さらにその後ろから次々とゴブリンも現れる。その数は三〇匹を超えていた。
修介は木の陰からそっと顔だけを出してその様子を窺う。見えていないのだから、木の陰に隠れる必要はないのだが、わかっていても物陰に隠れてしまうのは人としての本能だった。
すべてのゴブリンが剣や棒切れで武装していた。
修介はゴブリンが相手なら五匹までならやり合える自信はあったが、さすがにこの数相手に戦うのは自殺行為だった。
気付かれないよう息を潜めて、ゴブリン達が通り過ぎるのを待つ。
ゴブリン達は修介たちに気付くことなくそのまま素通りしていった。
その足音が十分に遠ざかってから、修介は大きく息を吐き出した。緊張のあまり呼吸をすることすら忘れていた。
「かなりの数がいたけど、あいつらどこに向かうつもりなんだろう?」
「わかりません……。ただ、この森にいるゴブリンはあれだけではないはずです。ここから先はもう少し慎重に進みましょう」
修介は神妙な顔で頷いた。
その後、本格的にゴブリンの巣窟に踏み込む前に、ふたりは休憩を取ることにした。姿隠しの魔法を掛け直す必要もあった。
アイナリンドは木の上に登って周囲の様子を窺っていた。激しく動くと魔法が解けてしまうから、魔法を掛け直す前に偵察しておこうということだった。
修介の身長よりもはるかに高いところにある木の枝に、アイナリンドは苦もなく跳び乗る。その身軽さは人間の域をはるかに超えていた。
「エルフってみんなそんな風に身軽なの?」
木の上にいるアイナリンドに修介は声を掛ける。
「人間に比べたら身軽な方だとは思いますけど……私たちが身軽というよりは、風の精霊に力を借りて跳んでいるからそう見えるだけですよ」
アイナリンドは周囲に視線を向けながら答える。
「精霊の力……」
アイナリンド曰く、エルフは植物や風の精霊との親和性が高く、魔力を使わなくても、ある程度ならその力を常に借りることができるらしい。だから、エルフは高いところへ跳ぶこともできるし、彼らの放つ矢は人間の放つ矢よりも速く遠くに飛ばすことができるのである。
「アイナにお願いすれば、俺も高く跳べたりできるのかな?」
「シュウスケさんの周囲に風の精霊を纏わせて上へ持ち上げるだけですので、風の精霊にお願いすればたぶんできると思いますけど……試しにやってみますか?」
できると聞いて好奇心がむくむくと頭をもたげてきたが、修介は首を横に振った。
「いや、遠慮しておくよ。マナがもったいないでしょ」
この世界に来てから誰にも言ってないが、修介は割と高いところが苦手だった。
それにしても、姿隠しの魔法といい、風の精霊の力といい、精霊魔法の有用さに修介は感心しっぱなしだった。惜しむらくは、自分がその力を扱うことが未来永劫なさそうなことだった。
休憩を終えた修介たちは再び森の奥へと進む。
そして、一時間ほど進んだところで、ようやく目的地であるデヴォン鉱山の切り立った岩肌が視界に入ってきた。
アイナリンドはすぐに坑道には向かわず、少し離れた場所から様子を窺うことを提案した。修介もそれに同意し、ふたりは山道を登って近くにある小高い岩山へと移動した。
険しい山道を手を繋ぎながら歩くのは大変だったが、手を繋いでいたおかげで不安が紛れていたこともたしかだった。
互いを励まし合いながらなんとか山道を登りきると、ひと際大きな岩の上からそっと顔を出して、崖下を覗き込んだ。
そこに広がる光景を見て、修介は絶句した。
鉱山から少し離れた広場のような場所に、おびただしい数の妖魔が集結していたのだ。その数は千をくだらないだろう。
「な、なんだよこの数は……」修介は呆然と呟く。
これだけの数の妖魔を見るのは初めてだった。
妖魔のほとんどはゴブリンだったが、それぞれが手に武器を持ち、まるでこれから戦に赴く軍隊のような物々しさだった。しかも、集団の中にはゴブリンやホブゴブリンだけではなく、オーガの姿まで混じっていた。
「……これは、思っていた以上に深刻な事態かもしれません」
アイナリンドが緊張した声でそう言った。
「たしかに、この数はやばいな……」
「いえ、あそこを見てください」
アイナリンドはそう言ったが、姿隠しの魔法を使っているので彼女がどこを指しているのか修介には当然わからない。
「たぶん指をさしてるんだと思うけど、見えないから」
「そ、そうでした。えっと、中央の集団の後ろの方です」
言われて視線を彷徨わせると、見覚えのある灰色の巨人の姿があった。
「グイ・レンダー!」修介は驚きの声を上げる。「なんでグイ・レンダーがゴブリンどもと一緒にいるんだ?」
上位妖魔であるグイ・レンダーにとってゴブリンなどの下位妖魔は捕食の対象ではあっても、決して仲間ではない。行動を共にすることなどありえないことだった。
「その答えは、すぐ隣にあります」
アイナリンドのその言葉に、修介は視線をグイ・レンダーの隣に移した。
そこには、見たことのない生き物がいた。
それを一言で表すのなら『肉塊』だった。
異常なまでに太ったその妖魔は、よく見ればゴブリンだった。
だが、その大きさはゴブリンとしては規格外だった。
グイ・レンダーに匹敵する巨体を持ったそのゴブリンは、重そうに身体を揺すりながら、周囲のゴブリンに向かって何かを喚き散らしている。
「な、なんだあれは……あれがもしかしてバルゴブリンか?」
あの太ったゴブリンが見るからにこの群れを統率しているボス格だろう。バルゴブリンの実物を見たことがない修介がそう考えるのは当然だった。
だが、返ってきた答えは違った。
「……あれは、レギルゴブリンです」
「レギル、ゴブリン?」
聞いたことのない名前だった。
「レギルゴブリン……ゴブリンの女王です。そして、人の分類で言うなら、あれは上位妖魔ということになります」
「なっ……!」
修介は絶句する。
上位妖魔のゴブリン種が存在するというのは訓練場の座学でも習っていない。
「おそらく、あのレギルゴブリンとグイ・レンダーは協力関係にあるのでしょう。凶暴なグイ・レンダーがああやって大人しく傍に控えていることから間違いありません」
「ゴブリンが上位妖魔と協力……そんなことありえるのか?」
ゴブリンはこの世界では最弱の妖魔である。そのゴブリンが上位妖魔と協力関係を築くなんてにわかには信じがたい話だった。
「レギルゴブリンはそれだけ特別な存在なんです……」
ゴブリンにはホブゴブリン、バルゴブリンといった種類が存在しているが、ホブゴブリンの親からホブゴブリンの子が生まれるわけではなく、ゴブリンの子の中から、稀に突然変異でそれらの上位種が誕生すると言われている。
ゴブリンは一度の出産で五匹ほどの子を産み、生まれた子は一~二年ほどで成体となり、寿命は一〇年程度であるとされる。
非常に繁殖力が強い反面、他の妖魔からも捕食対象として見られるほどに力が弱く、生き残る為に群れで生活する。
そして、一族の中からホブゴブリンやバルゴブリンといった力の強い上位種が生まれると、群れの長として大切に育てられる。
レギルゴブリンはゴブリン種のなかでも滅多に生まれることのない希少種だった。ひと際巨大な体格を持つメスのゴブリンで、他の上位妖魔に匹敵する力を持ち、高い知性を兼ね備えていることから、群れの女王として頂点に君臨するのだ。
レギルゴブリンは森や山などに拠点を構えると、そこを中心に活動範囲を少しずつ広げ、時には他の種の妖魔を群れに加え、周囲の村や街などを襲っては畑を荒らし、人や家畜を攫い、家屋などを破壊する。
千を超える群れは、ゴブリンとは思えぬほどに統率され、小さな村や街など一瞬で滅ぼされるほどの脅威となるのである。
「レギルゴブリンなんて、座学でも習ってないな……」
「私もこの目で見るのは初めてです」
「にしては随分と詳しいね?」
「レギルゴブリンのことは小さい頃に里の長老から聞きました。故郷の森が三〇〇年ほど前にレギルゴブリン率いる妖魔の軍勢に襲われて壊滅しかけたことがあるとかで……」
「三〇〇年前かよ……」
エルフの寿命ならば、三〇〇年前の出来事を知っている者がいるのはおかしくない。逆に言うと、そんな昔に遡らなければならないほど、レギルゴブリンという妖魔は希少種だということだった。
「その世にも珍しいレギルゴブリンが、こんな森の奥でひそかにゴブリン王国を築いていたってわけかよ……」
あれが上位妖魔だというなら、この地には同時に二体の上位妖魔が存在するということになる。それがどれだけ危険な状況なのかは、実際にグイ・レンダーと戦った修介には痛いほどわかった。
修介はあらためて崖下に目を向ける。
ゴブリン達は異様に殺気立っているようで、集団のあちこちから威嚇するような汚い叫び声が上がっていた。
「あいつら何をするつもりなんだ?」
「……妖魔の本能は人を殺し、喰らうことです」
そう告げたアイナリンドの声はわずかに震えていた。
「つまり、これからどこかへ襲撃をかけるつもりってことか?」
「先ほど私たちがすれ違ったあのゴブリンの一団は、その為の先遣隊だったのかもしれません」
「どこへ向かうつもりだと思う?」
そんなことをアイナリンドが知ってるわけないとわかっていても、修介は聞かずにはいられなかった。
「普通に考えれば、ここから一番近い街……クルガリの街だと思うのですが、それにしては、先ほどすれ違ったゴブリン達が向かっていた方角は少し違っていたような……」
それを聞いて修介は頭の中で地図を広げる。
デヴォン鉱山はクルガリの街の南東に位置している。
ゴブリンがクルガリの街に向かうのなら北西に向かうはずだが、先ほど通り過ぎた一団は修介たちとすれ違ったのだ。つまり、北の方角へ向かっているということになる。
そこで修介はようやく気付いた。
レギルゴブリンは廃坑となったこの鉱山跡で、目立たぬように群れを育ててきた。ところが、群れが大きくなるにつれ、群れを維持するのにこの森にいる獣だけでは餌が足りなくなった。だからリスクを承知で街道に出て人を襲うようになり、人の目につくようになったのだ。つまりそれだけ餌が不足しているということだった。
ゴブリンが向かっている方角には、予定通りならシンシアのいる輸送部隊が街道を通っているはずだ。そしてそこには奴らが欲してやまない食糧が大量にあるのだ。
「……間違いない。どうやって知ったのかはわからないが、あいつらは輸送部隊が運んでいる食糧を狙ってるんだ」
修介は事情をアイナリンドに説明した。
「……たしかにその可能性は高そうですね。おそらく、かなりの広範囲に斥候を放って情報を集めていたのでしょう。レギルゴブリンは高い知能を持つと言われています。それくらいのことはしていたとしてもおかしくはありません」
先発隊が積極的に妖魔を狩っていたとはいえ、すべての妖魔を駆逐できたわけではない。妖魔狩りの網を逃れて輸送部隊の存在を知ったゴブリンが、その情報を群れに持ち帰った可能性は十分にありえた。
修介は輸送部隊がゴブリンの大群に襲われる光景を想像し戦慄する。
なんといっても輸送部隊にはシンシアがいるのだ。
どうにかして先発隊か輸送部隊にこの状況を知らせなければならない。
だが、こんな森の奥にいてはどうすることもできなかった。かといって今更アイナリンドを残して引き返すこともできない。
念のため、アイナリンドに精霊魔法でなんとかならないか聞いてみたが、彼女は申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。
修介は何もできない自分に苛立つが、大きく深呼吸をして心の内にある焦燥を無理やり追い出す。
焦る必要はない。なんといっても、シンシアのいる輸送部隊には最強の騎士ランドルフがいるのだ。たとえ相手が上位妖魔だろうがゴブリンの軍勢だろうが、あの魔獣ヴァルラダンと渡り合ったあの男が、そう簡単に後れをとるとは思えなかった。
ならば、今はこの場にいる自分にしかできないことをやるべきだろう。
「急いで捕らわれている人たちを探し出しましょう」
アイナリンドの言葉に修介は大きく頷くのだった。
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