第八章
第114話 姉弟
薄暗い森の中を、修介は無我夢中で走っていた。
背後を振り返りたいという衝動と戦いながら懸命に足を動かし、行く手を遮るように伸びてくる枝を必死に手で払いのける。
(あれ? 俺は何から逃げてるんだ?)
ふとそんな疑問を抱いた途端、急に目の前の視界が開けた。
そこで目にした光景に背筋が凍りつく。
グイ・レンダーがサラを殺そうと拳を振り上げていた。
やめろッ――そう叫ぼうとしたが声が出ない。
そこで修介は唐突にこれが夢であることに気付く。
すると、目の前にいたサラとグイ・レンダーの姿が消えてなくなった。
ほっとしたのもつかの間、今度は何の前触れもなく背後から魔獣ヴァルラダンが現れ、修介のことを追いかけ始めた。
これが夢だとわかっていても、修介は恐怖に駆られて反射的に逃げた。
修介にとって魔獣ヴァルラダンは恐怖の象徴だった。
(夢ならさっさと覚めてくれ!)
そう叫ぶも、夢は覚めるどころかさらなる展開を見せる。
突然、何かに足を取られて修介は派手に転んだ。足に植物の蔦のような物が絡みついていた。
(――やばい!)
巨大な何かが圧し掛かってくる。
修介は懸命に身を捩って仰向けになると、そこにはなぜか巨大化した領主グントラムがものすごい形相で睨んでいた。
グントラムは馬乗りになって修介の胸を激しく殴打する。
なぜ殴るのが顔ではなく胸なのかはわからないが、夢だというのに殴られる衝撃で呼吸ができず、修介はもがき苦しむ。
必死に手を伸ばして抵抗しようとしたところで、ようやく意識が覚醒した。
(な、なんつー恐ろしい夢だ……)
目を閉じたまま、修介は荒い呼吸を整える。
とりあえず夢で良かったと安堵するが、まともに会ったことのない領主が夢に登場したあたりに不吉な予感がしてならなかった。
ちなみに修介の寝起きは非常に良い。高熱でうなされでもしない限り、寝ぼけることはまずない。一度でいいから漫画の主人公のようにがばっと起きて「夢か……」と言ってみたかったが、その願いは異世界に来てもいまだ叶えられてはいなかった。
ふと、修介は自分の胸に違和感があることに気付いた。
動悸は収まったはずなのに、胸が圧迫されるような息苦しさが続いているのだ。
ゆっくりと瞼を開くと、ふたつの大きな目が修介を凝視していた。
「うおわっ!」修介は驚いて身を起こした。
胸の上にいた何かは翼をはためかせ、すぐ真上にある木の枝へと飛び移った。
よく見ると、それは魔術師から預かっていた使い魔のフクロウだった。
「脅かすなよ……」
てっきり主の元へ戻っていると思っていたが、どうやら彼(彼女?)の任務は未だに継続しているようだった。
修介はとりあえずフクロウに向かって、「俺は生きてるぞー」と手を振ってみた。この世界の使い魔がどのような仕様なのかを知らないので、使い魔の主に伝わっているかは怪しいところである。フクロウは特に反応も見せず、ただじっとこちらを見返すだけだった。
修介はゆっくりと立ち上がる。
軽く体を動かしてみたが、幸いなことに背中や肩に鈍い痛みが残っている程度で骨に異常はなさそうだった。
周囲を見回すと、ここが巨大な木の根元であることがわかった。
どうやらタコの足のように盛り上がった根と根の間に寝かされていたようだった。あきらかに気を失う前に倒れた場所ではない。近くでは焚き火の炎が辺りを揺らめかせているが、これも記憶になかった。
つまり、自分以外の誰かがいて、その人物がここまで運んできてくれたということになる。あのまま森で倒れていたら、今ごろは他の妖魔の餌になっていた可能性があることを考えると、ここに運んでくれた人物は命の恩人と言えた。
命の恩人、という言葉でアレサの存在を思い出す。
修介は慌てて自分の腰に手をやった。
だが、そこにはあるべきはずのアレサがなかった。
足元を見回すと、寝ていた場所のすぐ横にアレサは横たえられていた。
ほっとしてアレサを手に取る。話しかけようかと思ったが、火を起こした誰かに聞かれる可能性を考慮して我慢した。
周辺をざっと見まわしてみたが、それ以外の荷物はなかった。
背負い袋はグイ・レンダーとの戦闘の際に放り出したままで回収していない。おそらく今もあの場に放置されたままだろう。あの背負い袋には食糧や使い慣れた旅の道具一式に、それなりの額が入った財布も入っていたので失ったことはショックだったが、あの状況で背負い袋を回収しようとしたら間違いなく死んでいただろう。
空を見上げると、木々の隙間から見える空は暗く、どうやら時刻は夜のようだった。
(さてどうしたものか……)
こうして無事でいることが、火を起こした何者かに害意がないことの証に思えるが、だからといって油断はできない。
修介はあらためて周囲に視線を巡らせる。
なんの変哲もない夜の森に見えるが、妙な違和感を抱いた。
ところどころの景色が、まるで水の中にいるかのように揺らいで見えるのだ。
その揺らぎに近づき、そっと手を伸ばす。
指先が揺らぎに触れようとする寸前、「触らないでください」という背後からの声に驚いて手を引っ込めた。
振り返ると、先ほどまで誰もいなかった場所に人が立っていた。
あまりに突然の出来事に、修介はアレサを構えることすら忘れて立ち尽くす。
「境界に触れてしまうと、精霊が驚いて結界が解けてしまいますから」
「は、はい?」
精霊、結界という耳慣れない言葉に修介は戸惑う。
謎の人物――声からして女性だろう――は目深にフードをかぶっている為、顔は見えない。外套の隙間から若草色の革鎧と細身の剣が見えることから、ただの迷い人ではなさそうだった。両手に抱えた大量の木の枝が、焚き火を起こしたのがこの女性だということを教えてくれていた。
「森の精霊にお願いして、周囲に結界を張っています。ここにいれば妖魔に見つかることはありませんから、夜が明けるまでは結界に触らないでください」
女性の声はまるで一流の楽士が奏でる笛の音のように心地よく、静かな口調にも拘らず、その言葉に従わなくてはいけないような、そんな気にさせられた。
「りょ、了解です。その森の精霊さんとやらによろしくお伝えください」
修介はよくわからないままとりあえず丁寧に頭を下げた。
その様子がおかしかったのか、女性の肩がわずかに揺れる。そして、「そんなところに立ってないで、こちらで暖まってはいかがですか?」と言いながら、焚き火の傍に腰を下ろした。
それじゃ遠慮なく、と言えるはずもなく、修介はその場で「えっと……」と戸惑いの声を上げた。
「安心してください。私は妖魔ではありませんから」
女性はそう言うと、ゆっくりとフードを外した。
現れた女性の顔を見て、修介は「あっ」と驚きの声を上げた。
真っ先に目に入ったのは耳だった。艶やかな銀色の髪の隙間から覗くその耳は、人間よりもあきらかに長く、先が尖っていた。
だが、修介が驚いたのは女性がエルフだからという理由ではなかった。
女性、というよりは少女と言ったほうがよさそうな年頃のエルフの顔は、訓練兵時代にハース村の近くの森で遭遇した、あのエルフにそっくりだったのだ。
「お、お前、あのときの――」
そう言いかけたところで、修介はすぐに自分が勘違いしていることに気付く。
あの時のエルフは間違いなく男だった。たしかに女性のように美しい顔立ちをしていたが、女好きを自認しているだけに、そこを間違えることはありえない。対して、目の前のエルフは革鎧のせいでわかりづらいが、わずかながら胸の膨らみもあるようだし、肩幅や腰回りのラインは、あきらかに女性のそれだった。
「あ、あの、どうかしましたか?」
じろじろと見られ、少女は居心地悪そうに体を竦ませた。
自分の行動が変質者のそれと変わらないことに気付いて、修介は慌てて少女に問いかける。
「えっと、エルフって日によって性別が変わったりします?」
何を聞いてるんだ、と修介は自身に突っ込みをいれたが、それほどまでに目の前の少女とあの時のエルフはそっくりだった。
「えっ? そ、そういった能力はないと思いますけど……」
少女は戸惑いながらも生真面目に答える。
こんな意味不明な質問に律儀に答えてくれる少女に好感を抱きつつ、修介は少女に理由を説明した。
「あ、いや、変なことを聞いてすいません。前にあなたにそっくりなエルフに会ったことがあったんですが、そいつは男だったものだから、つい……」
その言葉に少女は「えっ!」と声を上げる。
「もしかして、イシル――弟に会ったのですかっ!?」
「お、弟……?」
なるほどそういう線もあったか、と修介はひとり納得する。むしろそこに思い至らなかったことで自分が如何に混乱しているのかを自覚した。
「いつ、どこで弟を見たんですか!?」
少女が掴みかからんばかりの勢いで詰め寄ってくる。
「あ、会ったのはハース村っていう村の近くにある森の中だけど、もう何カ月も前の話だから……」
それまで大人しかった少女の豹変ぶりに、修介は思わずのけぞりながら答えた。
「……そう、ですか」
少女はあからさまにがっかりしたようだった。
修介は小さく咳ばらいをすると、目の前で俯く少女に声を掛ける。
「とりあえず、お互いに少し落ち着きましょうか。なんせ俺は自分がどういう状況に置かれているのかすらわかってないんで、できれば説明してほしいなーとか思ってるんですが……」
「ご、ごめんなさいっ」
少女ははっとして慌てて修介から離れる。取り乱してしまったことを恥じているのか、その頬は少しだけ赤くなっていた。
(とりあえず悪い子じゃなさそうだ)
これまでのやり取りから修介はそう判断した。サラがいたら、「相手が可愛い女の子だからでしょ」と言われそうだが。
修介が焚火の傍に移動すると、少女はおずおずといった様子で付いてきた。そしてお互いに焚火を挟むようにして座る。
焚き火を間に挟むことでほど良い距離感ができたからか、修介はほっと一息つくことができた。おそらく少女もそう思ったのだろう、ふたりの間にあった緊張感がわずかに和らいだ。
それでようやく、ふたりは互いに自己紹介することができたのだった。
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