第110話 声

「はぁっ、はぁっ……」


 修介は木の陰に隠れながら荒い息を吐く。

 パーティの皆と別れてから、どれくらいの時間が経っただろうか。

 体力がまだもっていることからそれほど経ってはいないのだろうが、ずっと命の危険に晒され続けているせいか、何時間も経ったように感じられた。

 当初はグイ・レンダーの意識が逃げる皆の方に向かないよう、わざと派手に音を立てながら逃げていたのだが、すぐにその必要がないことを修介は思い知らされていた。

 グイ・レンダーは修介が立てるわずかな物音にも反応して執拗に追いかけてきた。

 修介の姿が見えていないことから、狙って攻撃しているというよりは、音のした場所で適当に暴れているだけといった感じだったが、そのしつこさは予想の遥か上を行っていた。

 木々が生い茂る森の中ならすぐに捲けるだろうという当初の目論見はあっさりと崩れさり、今ではいつ殺されてもおかしくない状況にまで追い込まれていた。

 そもそも木の枝や葉が無数に落ちている森の中で、音を発さずに移動することなど不可能だった。

 修介は自分の見込みの甘さに思わず舌打ちをしそうになるが、それすら自らの死を招く行為だと気付いて慌てて止める。あの化け物はその音でもこちらの位置を特定するだろう。むしろ呼吸音だけでも居場所がバレそうだった。

 今は遠くの茂みに石を投げて、そっちにグイ・レンダーの意識を向けさせたことで、わずかな時間を稼いでいるにすぎなかった。


(くそっ、このままじゃこっちの体力がもたねぇ!)


 修介は必死に打開策を考えるが、焦りと疲労のせいで思考がまとまらない。

 このままじゃ埒が明かない、と木の影から様子を窺おうと顔を出したのと、グイ・レンダーが跳躍したのは、ほぼ同時だった。


「やべぇッ!」


 慌てて隠れていた木から離れる。

 ずぅん、という地響きと共に着地したグイ・レンダーは、雄叫びを上げて目の前の木に殴りかかった。みしみしという音を立てて木が大きく揺れる。


「くそがっ!」


 修介は全力で逃げる。もはや音を気にしてる場合ではなかった。


『マスター、走って逃げても追いつかれます』


 じゃあどうすればいいんだよ、と口に出す余裕さえ修介は失っていた。とにかくあの化け物から距離を取りたいという一心で走り続ける。すでに自分がどの方角に向かっているのかもわからなくなっていた。

 恐怖に駆られて一度だけ振り返る。

 追いかけてくるグイ・レンダーの姿はない。

 逃げ切れたか、という希望が一瞬だけ頭をもたげるが、そもそもこの程度で逃げ切れるくらいならここまで苦労していない。

 まるでわざと姿を消すことで、獲物を精神的に追い詰めているかのようだった。


(あの野郎、狩りを楽しんでるつもりか……)


 修介は足を止めると、すぐさま近くの木に身を寄せる。

 そろそろ体力も限界だった。

 息を整えながら周囲の気配を探る。あの巨体が動き回っているとは思えないほど静かだったが、かえってそれが不気味だった。

 はらり、と木の葉が舞い落ちた直後だった。


『マスター、上です!』


 アレサの声に修介は反射的に身を躍らせた。

 ほんの一瞬前に自分が立っていた場所に、ものすごい勢いでグイ・レンダーの巨体が降ってきた。

 間一髪で下敷きになるのは回避できたが、着地と同時に振り回されたグイ・レンダーの拳が眼前に迫る。咄嗟にアレサを前に出そうとして、両腕をへし折られたデーヴァンの姿を思い出し、修介は迷わず後ろに跳んだ。

 その判断のおかげで腕の骨は守られたが、完全には躱しきれず、拳が体を掠めた。


「がはっ!」 


 凄まじい衝撃が全身を襲い、修介は地面を転がった。

 肺の空気が一気に口から吐きだされる。全身の骨がばらばらになったような痛みで意識が飛びそうになるが、歯を食いしばってそれに抗う。

 今の一撃は修介を狙って攻撃したわけではなく、単に腕を振り回したのが偶然当たっただけだった。だが、それでさえ戦闘能力を奪うには十分な威力だった。

 顔を上げると、まさにグイ・レンダーが止めを刺そうと近づいてきていた。


「ぐううぅ……」


 修介はなんとか身体を起こしたが、もはや走って逃げ回るだけの体力は残されていなかった。


(くそっ、ここまでか……)


 全身の痛みに耐えながら修介はアレサを構えようとした。


『――マスター、私を向こうの木に思いきり投げてください。その後は何があっても絶対に声をあげないでください』


 唐突にアレサから指示が飛んできた。


「な、何を……」


 言ってるんだ、そう続けようとしたが痛みでうまく口が回らない。

 今までアレサの指示を迷うことなく実行してきた修介だったが、このとき初めてその指示に躊躇いを覚えた。アレサを手放すという行為は、修介にとってそれほどまでにありえないことだった。


『マスター!』


 再度のアレサの声で修介は迷いを振り払う。


(くそがぁーーッ!)


 修介は心の中で叫びながら痛む全身を無理やり動かし、死に物狂いでアレサを投げた。そして頭を抱えて蹲る。

 投げられたアレサはそのまま弧を描き、少し離れた木に突き刺さった。

 こんなことをして一体なんの意味があるのか、修介はそんな疑問を抱くが、その答えはすぐに出た。


『おい、亀頭野郎! てめぇの相手はこの俺だぁッッ!』


 アレサから修介の声が発せられたのだ。

 木に突き刺さったままのアレサの挑発に、グイ・レンダーは釣られた。目の前の修介を無視して声のした方に振り向くと、一気に跳躍してアレサの突き刺さっている木に殴りかかった。

 振り回される両腕の拳が容赦なく木を打ち続ける。


『どうした! 俺はこっちだッ!』


 それでもアレサは挑発するのを止めない。

 やがて、ばきばき、という乾いた音と共に木が倒れた。

 それと同時に、『ぎゃぁあああッ!』という断末魔の悲鳴が響き渡った。

 修介の脳裏に真っ二つに折れたアレサの姿がフラッシュバックする。あの光景は修介にとってトラウマそのものだった。

 どんっ、どんっ、と地面を殴打する音が修介の鼓膜を揺らす。

 その下にアレサがいるのかと思うと、今すぐにでも起き上がってその場に向かいたいという衝動に駆られる。しかし、いま動いてしまえば、アレサの行為がすべて無駄になるのだ。

 修介は意志の力を総動員してその衝動を必死に抑え込む。

 頭を抱えて蹲りながら、修介はアレサの無事を祈り続けた……。




 しばらくすると、グイ・レンダーは殴るのを止めたのか、あたりが静寂に包まれた。

 だが、奴がその場から去っていないことは気配でわかった。

 いくらアレサが断末魔の悲鳴を上げたところで、実際に修介の肉体を破壊したという手応えがないのだから、奴が不審に思うのは当然だった。

 おそらく獲物はまだ死んでいないと考え、周囲の気配を探っているのだ。

 ぴくりとでも動けば死ぬ――修介は息を止めてじっと待つ。

 その時間は恐ろしく長く感じた。

 剥き出しの腕や首筋に虫が這うような感触があり、嫌悪感で体が反応しそうになるが、修介は「俺は岩だ」と必死に言い聞かせて、ただひたすらに耐え続けた。


 やがて、どすん、どすん、と足音が遠ざかっていった。

 再び静寂が訪れる。

 頭を抱えて蹲ったままの修介には何が起こったのかわからなかったが、妖魔の気配が去ったことだけはわかった。

 だが、それでも修介は動かなかった。

 そのままの姿勢でゆっくりと千を数えてから、ようやく顔を上げた。

 周囲にグイ・レンダーの姿はない。

 木の上から様子を窺っている可能性もあるが、さっきまでの観察されているような嫌な気配は感じなかった。

 修介は大きく息を吐きだすと、よろよろと立ち上がった。そして体を引きずるようにしてアレサの元へと向かう。

 倒れた木の近くで、粉々に砕け散った木の破片に埋もれるようにして、アレサは転がっていた。

 どうやら折れてはいないようだった。

 ほっと息を吐くと、修介は膝をついておそるおそるアレサを拾い上げた。


「アレサ、大丈夫か?」


『……問題ありません。ただ、だいぶ汚れてしまったので、いつもより念入りな手入れを要求します』


 修介はその要求に苦笑しつつ、了解する旨を伝えようと口を開きかけたところで、唐突に意識が遠のき、そのままアレサを抱えるようにして前のめりに倒れた。

 全身の痛みと疲労は当に限界を超えており、助かったという安堵によって、それが一気に解放されたのだ。


『マスター?』


 アレサの声を聞きながら、修介の意識は闇の中へと落ちていった。


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