第91話 冬の訪れ

 アレサに夢を語った、その二時間後。

 明るい未来に思いを馳せて浮かれていた修介は、なぜかかつてないほどの窮地に立たされていた。

 シンシアの屋敷に赴いた修介は、屋敷の二階にある談話室へと案内された。

 以前にお茶会に招待された時は二階のバルコニーにあるテーブル席だったが、さすがに一二月の寒空の下でお茶会というわけにもいかないだろう。

 外は先ほどまでの晴天が嘘のように雲が出ていたが、暖炉の火によって暖められた室内は快適で、時おり爆ぜる薪の音には風情があった。

 しかし、修介には風情を感じている余裕などなかった。

 暖かい部屋とは対照的に、修介の周囲の空気は極寒の地もかくやというほどに冷え切っていた。まるで氷でできた牢獄に囚われているような気分だった。


 修介の目の前ではシンシアが澄ました顔でお茶を飲んでいる。

 だが、シンシアの背景に漫画のような効果音を入れるとしたら、間違いなく『ゴゴゴゴゴ』という文字が描かれていることだろう。その澄まし顔とは裏腹に、シンシアが機嫌を損ねていることは疑いようもなかった。

 そんなシンシアの後ろではメリッサが困ったような笑顔を浮かべている。

 今にして思えば、出迎えてくれた時のメリッサの様子もおかしかった。修介の顔を見るなり深いため息を吐き、修介が「どうかしましたか?」と聞くと、メリッサはこちらを憐れむような表情で「ご武運を……」と訳の分からないことを言ったのだ。

 どうやらそれがシンシアの不機嫌を指していることは理解できたのだが、修介にはなぜシンシアの機嫌が悪いのか皆目見当がつかなかった。

 修介が世間話を繰り出しても、シンシアは目を閉じたまま一向に反応しない。メリッサが相槌をうってくれているおかげでなんとか会話の体を成してはいるが、それがなければかなりお寒い状況である。

 間が持たずについお茶ばかり飲んでしまい、カップが空になる度に律儀にメリッサがお代わりを入れてくれるので、すでに四杯目に突入していた。


 切羽詰まった修介は、切り札として持ってきた手土産を差し出したところ、シンシアは一瞬だけ嬉しそうな表情を浮かべ、さらに中身を知った瞬間は明らかに頬が緩んだが、すぐにはっとすると元の澄まし顔に戻ってしまった。

 その後は何を言っても暖簾に腕押し状態で、修介が用意した話題は尽き、会話は一向に盛り上がらないまま、時間だけが過ぎていった。


「あの、お嬢様……なにやらご機嫌が麗しくないようですが、いかがなさいましたか?」


 沈黙にたまりかねた修介は思い切って正面突破を試みるも、シンシアはじとっとした目で修介を睨み返しただけだった。その頑なな態度は、さながら難攻不落の要塞のようだった。


(こりゃ正面突破は無理だな……)


 さりとて他に策もなく、困り果てた修介はメリッサに視線を送って助けを求めた。

 メリッサはやれやれ、といった様子で一歩前に進み出た。


「シュウスケ様……最近、討伐軍に参加していた騎士達のあいだで、ちょっとした噂が出回っているのをご存知ですか?」


「はぁ、噂ですか?」


「それもシュウスケ様についての噂です」


「えっ、俺についての噂ですか?」


 修介は驚いてオウム返しに問い返してしまった。

 自分についての噂とはなんだろうか。それもシンシアがここまで不機嫌になるような噂だ。修介は必死に思い当たる節を考える。


 真っ先に思い浮かんだのは、訓練兵時代にロイたちと娼館に行ったことだった。

 たしかにバレれば相当な不興を買うのは間違いない。修介が魔獣との戦いで名を上げたことを面白く思ってない輩が、当時の修介の愚行を喜々として報告した可能性は大いに考えられる。

 とはいえ、まさかシンシアに面と向かって答え合わせをするわけにもいかないだろう。万が一違っていたら盛大な自爆である。とてもではないが恐ろしくて確認などできるはずがなかった。

 だが、あらためて冷静に考えると、その可能性が低いことに修介は気付いた。

 そもそも大半の人間はシンシアと修介の関係を知らないのだ。訓練兵時代の修介はシンシアの庇護下にあったから職務熱心な衛兵がチクる可能性があったが、今の修介は一介の冒険者にすぎない。そんな人間が過去に娼館に行ったからといって、今更わざわざ報告するような暇人はいないはずだ。


 次に思い浮かんだのはエーベルトの顔だった。

 エーベルトが修介が剣に異常なまでの愛情を注ぐ歪んだ性癖を持った変態野郎だと方々に言いふらした可能性もなくはない。


(あの野郎……やはりあの時に消しておくべきだったか!)


 修介の心に自分勝手な怒りが燃え上がった。

 だが待て、と思いとどまる。

 冷静に考えなくても、非社交界のプリンスであるエーベルトがそんなことをするとは思えなかった。それに、天幕の外で聞き耳を立てていた人間がいた可能性だってあるのだから犯人がエーベルトとは限らない。

 そもそも、仮に修介が剣を愛してやまない変態だという話をシンシアが聞いたとして、どう思うだろうか。引くか呆れるかのどちらかであって、怒ったりはしないはずだ。

 つまり歪んだ性癖がバレたわけではないということだ。いや、元からそんな性癖は持っていないのだが。

 他には魔獣との戦いの前にサラに抱きしめられたことが頭に浮かんだが、宴の席であそこまでやったサラに今更その程度のことでシンシアがここまで怒るとも思えなかった。

 ではなんだというのか……。

 修介の思考は完全に混乱の渦に巻きとられていた。


 考えに夢中になっていた修介は、メリッサの咳払いで思考を現実へと引き戻された。

 顔を上げると、シンシアがツンドラ気候もかくやという冷たい表情で睨んでいた。


「シ、シンシアお嬢様……?」


「……シュウスケ様」


「は、はいっ!」


 シンシアの底冷えするような声に修介は思わず姿勢を正す。その際に体がテーブルにぶつかり、その衝撃でテーブルの上のカップが激しい音を立てて揺れ、中身が零れそうになる。


「……シュウスケ様にひとつお伺いしたいことがございます」


「な、なんでしょうか?」


 修介はおずおずと返事をする。

 いったい何を聞かれるのか……修介の心臓の鼓動は早鐘のごとく鳴り響いていた。


「アレサ様、という女性の方とはどういったご関係なのですか?」


「……は?」


 質問の意味が理解できず修介は固まった。

 なぜシンシアがアレサの名を知っているのか。しかも、今の訊き方だと、シンシアはアレサを人間だと認識しているということだった。何がどう転がったらアレサという人間の女性が爆誕するのか。

 一体どういう事態になっているのか、修介にはさっぱりわからなかったが、自分が非常にまずい状況に追い込まれているということだけは理解できた。


 固まったままの修介を見かねたのか、メリッサが口を開いた。


「実は、先の魔獣との戦いで活躍されたシュウスケ様は、屋敷内の若い女中たちのあいだでもちょっとした話題になっておりまして……」


 メリッサの言葉に修介は「モテ期キター」と頬が緩みかけたが、シンシアの棘のある視線に気づきすぐさま顔を引き締める。


「その女中たちのあいだで、シュウスケ様にはすでに心に決めた想い人がいらっしゃるのではないか、という話が出ているのです」


「はぁ?」


 そんな女性がいないことは修介が一番よく知っているので、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。


「帰還した騎士達が女中たちにこう言ったそうなのです。……シュウスケ様が魔獣を討ち倒した時に、アレサという女性の名を高らかに叫んでいた、と」


 その言葉に、修介は電撃に打たれたかのように固まった。

 魔獣に槍を突き刺したあの時、たしかに修介はアレサの名を叫んだ。

 しかもご丁寧に二度も。

 自分史上最大のミスを犯した瞬間のことだったので克明に覚えていた。素で声が大きい修介の雄叫びは間違いなく戦場に響き渡っていただろう。

 あの時点ですでに意識を取り戻していた騎士が、それを聞いていたとしてもなんら不思議ではなかった。


 戦場のど真ん中で女性の名を叫んだ場合、その女性の立場は何でしょう?

 そんな質問をされれば、誰だって『家族』か『恋人』のどちらかだと答えるだろう。

 つまりはそういうことだった。

 修介の素性を知る人間ならば、消去法でたどり着く答えはひとつだけだった。


(やっちまったぁぁぁ!)


 修介は心の中で頭を抱えた。

 自分史上最大のミスはあの場で終わってはいなかったのだ。巡り巡ってこのような形で災厄をもたらすとは予想すらしていなかった。

 修介は『薬草ハンター』という不名誉な二つ名に続いて、『魔獣の目の前で愛する女の名を叫んだ男』という意味不明な称号を得てしまったのである。


「アレサ様とはどのようなご関係なのですか!?」


 シンシアは椅子から立ち上がって身を乗り出すと涙目で詰め寄ってくる。

 修介の額には暑くもないのに大粒の汗が浮かんでいた。

 出発前にあれだけ格好つけて約束しておきながら、戦場で叫んだのが自分の名前ではなく他の女の名前だったと知れば、それはシンシアじゃなくても激怒するだろう。


「う、えっと……」


 咄嗟に良い言い訳が思いつかず言葉に詰まる修介。


(ここはあれだ、「怒った顔も可愛いね」とか言ってごまかせないかな?)


「シュウスケ様っ!」


 どんっ、とテーブルに手をついてさらに前のめりになるシンシア。

 心の声を聞かれたのかと思って修介はびくっとした。

 まさに妻に浮気を咎められた亭主の気分だった。

 いくら想いに応えるつもりがなくても、こういう形でシンシアを傷つけるのは修介の本意ではなかった。恋愛云々は抜きにしてもシンシアはこの世界での恩人であり、大切な人であることに変わりはない。

 とはいえ弁明したくても、この状況で「アレサはこれです」と言って見せたところで火に油を注ぐだけなのは間違いない。かといってすべての真実を話したとしても到底信じてはもらえないだろう。

 結局、ここは嘘を吐いてでもごまかすしかないという結論に至るわけだが、すでに記憶喪失だと嘘を吐いているという事実が罪悪感を伴って修介の心を責め立てており、そこからさらに嘘を重ねられるほど厚顔無恥にはなれそうになかった。

 ようするに手詰まりだった。


「シュウスケ様っ! どうして黙っていらっしゃるのですかっ!? やはりアレサ様がシュウスケ様の恋人なんですねっ!?」


 シンシアの詰問するような視線を受けて思わず目を逸らすと、修介は「あっ」と小さく声を上げた。

 窓の外では、いつの間にかちらちらと雪が舞い始めていた。

 この世界で初めて見る雪だった。


「お嬢様、ほらっ、雪ですよ!」


「ごまかさないでください!」


 修介は窓を指しながら興奮気味に伝えたが、シンシアはそれを容赦なく斬り捨てた。

 どうやら雪ごときでごまかされるお嬢様ではないようだった。

 修介は覚悟を決めると、シンシアの方を向いた。


 こうして修介は、期せずして発生した、真実を隠したまま身の潔白を証明する、という高難易度ミッションに挑む羽目になったのである。


 必死に言い訳をする修介の腰で、アレサが愉しそうにカタカタと揺れていた。

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