第90話 未来

 修介はローレアに礼を言うと、そっと工房を離れた。

 そして、歩きながら小さくガッツポーズをした。

 魔獣の目の前でガッツポーズをするという前代未聞の大失敗を経験した修介は、感情が昂ってもガッツポーズはしない、という自分ルールをつい先日定めたばかりだったが、さっそく破っていた。

 全身から溢れ出てくる喜びを抑えることができなかったのだ。


『よかったですね』


 アレサが小声でささやいた。


「おう! まさに最高の気分ってやつだ」


 修介は上機嫌で応じた。

 実に晴れ晴れとした気分だった。

 足取りも軽く、鼻歌を歌いながら修介はシンシアの屋敷へと向かう。

 魔獣の脅威が去り、すっかり元の活気を取り戻した北のメインストリートは多くの人々で賑わっていた。

 少し強い風が通り過ぎた。その刺すような冷たさに修介は思わず身を縮こませる。吐く息も白い。初雪はまだだったが、この感じだともうすぐだろう。そういえば、今朝宿の主人もそんなことを言っていたなと思い出した。

 季節はもうすっかり冬だった。

 そしてそれは、修介がこの世界に来て半年が経ったということを意味していた。


「もう半年か……」


 修介はこの半年で起こった出来事を振り返る。

 平和で安全に暮らしていた前の世界での四三年間と違い、この世界での半年間は恐怖と戦いの連続だった。妖魔や魔獣相手に剣を振り回すなんて、前の世界では考えられないことだった。実際、何度も死にかけた。

 電気のないこの世界は不便なことだらけだし、ゲームや漫画、インターネットなどの娯楽もない。食事や衛生面を取っても前の世界の方が格段に快適だった。今でも前の世界を恋しく思うことがある。

 それでも、修介は今の生活がそこそこ気に入っていた。何より、生きる為に前だけを見て全力で突っ走って来たからか、そこには確かな充実感があった。

 修介の頭の中にある『この世界はボーナスステージである』という考えは未だに変わっていない。

 だが、その言葉の持つ意味は以前とは少し異なっていた。

 それまでの「無理をしてでも後悔のない選択肢を選びたい」という悲壮な思いから「せっかくのボーナスステージだから楽しもう」という前向きな思いへと変わっていた。そのおかげで、この世界でのこれからの生き方について、以前よりも建設的に考えられるようになっていた。


「アレサはさ、この世界で何かしたいことってないのか?」


『なんですか唐突に』


「いや、いつも俺の面倒を見てばかりだからさ、何かそれ以外にやりたいこととかないのかなーって思ったんだが……」


 肉体的にも精神的にもたいして強くない修介が、右も左もわからない異世界の地で生きてこられたのは、間違いなくチート級に優秀で、お節介なアレサのおかげだった。アレサがいなければ早い段階で心が壊れるか、妖魔との戦いで死んでいただろう。

 それが与えられた役目だとはいえ、アレサはずっと支えとなってくれていたのだ。そんなアレサに何か報いたいと考えるのは当然だった。


『考えたこともないですね。私はマスターをサポートする為にここに存在しているのですから』


「それはそれで俺にとってはありがたい話だけどさ、これからもずっとこの世界で生きていくわけだから、何かあったほうが張り合いがあっていいんじゃない?」


『……強いて言うなら、マスターがすくすくと成長していく姿を傍で見守っていたい、でしょうか』


「お前は俺の母親かっ!」


 修介は思わず突っ込みを入れたが、アレサからしたら似たようなものなのかもしれないな、と納得もしていた。


『参考までに、マスターのやりたいことを教えていただけますか?』


「俺の? ……そうだなぁ」


 人に訊いておきながら、修介は自分のやりたいことを具体的に考えてはいなかったことに気付き、わざとらしく顎に手を当てて考える。

 やりたいこと、目標、夢……。

 魔獣の尾に撥ね飛ばされた時、死を目前にして自分は何を思っただろうか。

 記憶の糸をたどる。

 あの時に感じた未練、それは――。


「俺は……旅がしたいかなぁ」


『旅、ですか?』


「ああ、俺にとってこの世界は知らないものや見たことのない景色で溢れているからな。あちこち旅して、それを見て回りたいかな」


 今思えば、修介は前の世界でも写真や映像を見て世界を知った気になっていただけで、実際に訪れ、この目で見た景色の数なんてたかが知れていた。この世界に転移して、もう前の世界には戻れないのだと知って初めて、もっと前の世界でも色んな所に行っておけば良かったと後悔していた。

 ならばこの世界でこそ、その思いを叶えるべきだろう。

 冒険者という職についた今の自分なら、それが可能だと思った。

 サラやノルガドのような気の置けない仲間を見つけて一緒に旅をするのもいいし、アレサとふたりでのんびりっていうのも悪くない。とにかく色々な所へ行って、様々な景色をこの目で見てみたい。

 もちろん妖魔のいる危険な世界だ。決して楽な旅にはならないだろう。

 だから今すぐに旅に出るというわけではない。冒険者として経験を積み、剣の腕を磨いて、その日に向けて備えるのだ。

 気が付けば、修介は見たこともない壮大な景色を前に佇む自分の姿を想像して、年甲斐もなくわくわくしていた。


「どうよ?」


 修介はドヤ顔でアレサに尋ねた。


『……実にマスターらしい、地味で面白みのない発想ですね』


「ひどっ!」


『ですが、マスターの身の丈にあった素晴らしい目標だと思います』


「……それは褒めているのか?」


『もちろんです』


 修介にはとてもそうは思えなかったが、仮に馬鹿にされたからといって自分のやりたいことが変わるわけではない。最強の冒険者や英雄になるなんてガラではないし、そんな才能もないだろう。そういう意味ではたしかに身の丈にあった夢なのかもしれない。


「まぁいいや。アレサもやりたいことが出来たら遠慮なく言えよ?」


『すぐには思い浮かびませんが、差し当たってはマスターがおっしゃった旅とやらが実現できるようサポートすることにします』


「そっか」


 修介は嬉しそうに笑うと、いつものようにアレサの鞘を軽くぽんっと叩いた。

 前を向くと、目の前の景色が一気に色付いたような気がした。

 そして、これから進む道が明るい未来に繋がっていることを示すかのように、広場の噴水が陽光を受けてきらきらと輝いていた。


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