第86話 号泣

 もう何度目かわからないくらいにアレサの名を呼んだが、アレサは一度たりともその声に応えることはなかった。絶望感に打ちひしがれ、修介はアレサを握りしめたまま抱え込むようにして突っ伏した。


「アレサぁ……アレサぁ……」


 嗚咽と共にそう繰り返すことしか、もう修介に出来ることはなかった。心に大きな穴が開いて、そこから悲しみ以外の全ての感情が零れてしまったかのように、他には何も感じられなくなっていた。神であれ悪魔であれ、アレサを元に戻してくれるのなら魂を売り渡してもいいとすら思っていた。


 だからそれは、ただアレサに目覚めてほしいという一心で無意識に漏れた言葉だった。


「目を覚ませよアレサ……毎日ちゃんと手入れするからさぁ……もう二度と娼館にも行かないからさぁ……」


『――それは本当ですか?』


 最初は幻聴かと思った。

 だが、手にしたアレサからかすかな振動が伝わってきていた。


「……アレサ……?」


『はい、なんでしょうか?』


「……生きて……る?」


『マスター、私は生命体ではありませんから、その表現は適切ではありません』


「アレサぁぁぁぁぁッ!」


 修介はアレサを抱きしめながら叫んだ。

 アレサが生きていたことで感情の針がマイナスからプラスへと一気に振り切ったせいか、心の中が滅茶苦茶になって、涙が止めどなく溢れてくる。


「アレサぁ、よがっだ、よがっだよぉぉ!」


 修介は天井を見上げながら大声で泣いた。まさに号泣だった。人目もはばからずこれほど泣いたことなど今まで一度もなかった。

 修介の人生で、それが人であれ物であれ、失ったと思っていた物が戻ってきたことなんて一度もなかったのだ。その喜びは想像を絶していた。


『……マスター、感激しているところ申し訳ないのですが、非常にまずい事態になっていることにお気づきですか?』


 その一言で修介ははっとする。

 すぐ近くにエーベルトがいることを思い出したのだ。

 横目でちらりと様子を窺うと、エーベルトはまさに驚愕しているという表情でこちらを見ていた。よりにもよってエーベルトの前で、修介とアレサは堂々と、しかも日本語で会話していたのだ。

 人がいる前では会話しない、という取り決めをしたのは修介本人である。にもかかわらず人前で堂々とアレサの名を呼び、泣き叫んでいたのだ。

 修介は今さらながら己の迂闊さを呪った。


(ど、どうする? どうする?)


 修介は必死に頭を回転させる。

 だが、どう考えてもこの状態を取り繕うことは不可能だった。

 剣に泣きながら縋りつくという常識では考えられない行動を取ったのだ。エーベルトはおそらく自分のことを狂人だと思ったはずだ。

 ……ならば、取り繕うのではなく、このまま押し通すしかない。


 修介は腹を括ると、傷の痛みを無視して思いっきりエーベルトに飛び掛かった。


「うおっ!?」


 エーベルトは咄嗟のことで避けることができず、そのまま修介を抱きかかえるような体勢になった。


「うおおおぉぉぉ、エーベルドぉぉ! アレサが、アレサが生ぎでだよぉぉ! 良がっだよおぉぉ!」


 修介は自棄ヤケになってエーベルトに縋りついて泣き叫んだ。

 四三歳のいい大人がする行為ではなかったが、すでにあそこまでの醜態を晒した修介には、もはや失うものなど何もなかった。


「ちょっ、何をするっ!」


「アレサが生ぎでだんだよぉぉ」


「わかったっ、わかったから離れろっ!」


「うおおおおぉぉん」


「鼻水をつけるなっ!」


 エーベルトは縋りついてくる修介を引きはがそうとするが、相手が怪我人ということもあって強引に突き放すこともできず、中途半端な状態で固まっていた。


「とっ、とにかく落ち着け! そのアレサとやらが生きてたのは結構だが、これ以上動くとあんたが死ぬぞ!」


 実際、修介は洒落にならないくらいの大怪我を負っていた。左腕やあばら骨も折れていたし、魔獣の尾の棘によって身体のあちこちに刺創しそうができていた。ノルガドの癒しの術で応急処置は済んでいるとはいえ、本来であれば絶対安静が必要な状態であった。

 アレサが無事だったことで瞬間的にテンションが上がっていた修介だったが、エーベルトに指摘されるまでもなく、体はすでに限界であった。そもそも癒しの術は治療を受ける側の体力の負担も大きいのである。


「……ア、アレサが、無事で……よかっ……た……」


 修介の体力はそこで尽き、エーベルトにもたれ掛かったまま動けなくなった。

 エーベルトは動けなくなった修介を引きずるようにして毛布の上へと寝かせると、「死にたくなければそこで大人しく寝ていろ!」と吐き捨てるように言って天幕の外へと出て行った。




 取り残された修介は天井を見上げながら、大きく息を吐いた。

 傷口が開いたせいか全身が焼けるように熱く、頭もくらくらした。


「こ、これでなんとか誤魔化せたかな?」


 息を整えながらアレサに問いかける。


『いくらなんでも無理があるでしょう』


「だよな……」


 怪我のせいで気が動転していたと受け取ってくれれば御の字だが、剣に異常なまでの愛情を注ぐ変態と認識された可能性のほうが高い。それで済めばまだいいが、アレサと会話しているところを見られたのは致命的だった。会話自体は日本語で行っていた為、内容までは伝わってはいないだろうが、エーベルトにアレサの存在を強く意識させてしまったのは間違いないだろう。


『あの小童こわっぱを消しますか?』


「いや消さねーよ? なにしれっと殺人を教唆してんだよ……」


『危険の芽は早めに摘み取っておくべきかと……』


「アレサさん、ちょっと怖いですよー?」


 色々とまずいところを見られたのは確かだったが、実のところ修介はそれほど悲観はしていなかった。エーベルトの性格からいって、むやみやたらに吹聴して回ることはないだろうと思っていた。


「まぁ、あいつなら大丈夫だろ。時期が来たら直接話をしてみるよ」


『なら、それまであの小童の前ではせいぜい私を愛でてください』


 修介はアレサに頬ずりしながら甘い言葉を囁く自分を想像して「うげぇ」と顔をしかめるのだった。




「ところで、なんでさっさと返事してくれなかったんだよ。本気で死んじゃったのかと思ったじゃないか」


『申し訳ありません。魔獣の一撃を受けた衝撃で機能の一部が停止してしまいまして、つい先ほど復旧したのです』


「刃の部分が思いっきり折れてるけど、大丈夫なのか?」


『そこは私の本体ではありませんので、まったく問題ありません』


「は?」


『私の本体は剣ではなく、柄の部分にある宝石です』


 言われて修介は柄を見る。普段ほとんど気にしていなかったが、たしかにエメラルドのような強い緑色を帯びた宝石があしらわれていた。


「……これがアレサの本体なの?」


『そうです。言ってませんでしたか?』


「聞いてねーよ……」


 修介は脱力した。知っていればあそこまで取り乱すこともなかっただろう。先ほどまでの醜態を思い返すと、穴があったら地の底まで潜りたい気分だった。


「本体が宝石ってことは、別に剣にくっついてる必要はないのか?」


『そうですね。ただ、何かに付いていないと私の機能は大きく制限されます。あと、宝石のままだとマスターがなくす可能性が高いのと、盗難被害に遭う確率も上がるので、できれば何かしらかに付けてもらったほうがいいでしょう』


「さすがになくさねーよ……。で、付けるとしたら何がいい?」


『私から希望を言っていいのであれば、以前と同じく剣でお願いします。その方が収まりが良いので……』


「わかった」


 そう言うと修介は目を閉じた。さすがに疲労の限界だった。

 本当はアレサがどうやって自分を魔獣の一撃から庇ったのか気になっていた。だが、修介はそのことについては触れないことにした。なんとなくそこはあやふやにしたままの方がいいような気がしたのだ。

 仮にアレサが自分に嘘を吐いたり、隠し事をしていたとしても、それによってアレサが自分に害をなそうとすることだけは絶対にないと確信していた。修介にとってアレサは家族と同等の信頼を寄せられる存在となっていた。

 だから、修介はいつもと変わらない調子で言った。


「なんにせよ、これからもよろしく頼むよ」


『了解しました、マスター』


 アレサの返答に満足した修介は、そのまま意識を手放した。


 その後、マナ切れから目覚めたサラが修介の状態を見て「あんなに必死になって治療したのに、なんで目が覚めたら傷口が開いてるのよ、この馬鹿っ!」と罵倒したのは言うまでもない。

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