第80話 九三%

 ヴァルラダンの魔法に抵抗できたのはハジュマとランドルフのふたりだけではなかった。

 崩壊した左翼部隊の中で、修介だけが平然と立っていた。

 そもそも修介は抵抗すらしていない。彼には魔法そのものが効かないのだ。それはヴァルラダンの魔法とて例外ではなかった。

 だが、修介はただ茫然と立ち尽くすのみで、目の前で繰り広げられる人外の戦いに加わろうとはしなかった。いや、正確にはできなかったのだ。

 魔獣の持つ鋭い鉤爪も、大木の幹のように太い尾も、凶悪な顎も、そのどれもが一撃で人間の体など容易く粉微塵にできるだろう。そして、それに相対しているランドルフ達の戦いぶりも人間離れしていた。

 修介から見たらどちらも化け物であった。とても素人に毛が生えた程度の戦士が立ち入ることのできる領域だとは思えなかった。


 だから、ランドルフから槍を取れと言われた時、修介は「冗談じゃない」と思った。

 先ほど修介が魔獣に突撃できたのはひとりじゃなかったからだ。個の力が弱くても、集団で協力すれば勝てると思ったのだ。そして、突撃する人数が一〇〇人を超えていれば、単純計算で魔獣に狙われる確率は一%以下になるというセコイ計算までしていた。よほど運が悪くなければ死ぬことはないだろうと思えたからこそ、あの恐ろしい魔獣に立ち向かえたのだ。

 それが三人になってしまったら、ほぼ間違いなく魔獣に狙われることになる。確実に死ぬとわかっていて魔獣に向かって突撃することなどできるはずがなかった。


「だいたいなんで俺なんだよ!? 本来なら目の前のこいつがやるべきことだろう!? あれだけ偉そうなこと言っておいてなに真っ先に倒れてんだよ!」


 修介は目の前で倒れているゴルゾを睨みつけながら文句を言った。

 ゴルゾだけではない。これだけ凄腕の冒険者が揃っていながら、どうして誰も動こうとしないのか。


「誰か……誰か動ける奴はいないのかよッ!?」


 修介は周囲を見渡して必死に叫ぶ。

 だが、誰も修介の声に応えない。応えることができないのだ。

 それだけあの魔獣の放った咆哮の威力が凄まじかったということだ。自分が立っていられるのは優秀だからではなく体質のおかげであった。あのエーベルトやノルガドですら動けないのだとしたら、他の誰であっても動けないだろう。今、魔獣と戦っているふたりは単に規格外なだけだ。

 自分も他の者と同じように気絶できればよかった……修介はそんなことを考えてしまうほどに精神的に追い詰められていた。


「頼むッ! シュウスケッ!」


 必死に魔獣の攻撃を躱しながら再び叫ぶランドルフ。

 その様子からふたりがそろそろ限界なのが修介にもわかった。あのまま戦っていれば間違いなく魔獣に殺されてしまうだろう。


「む、無理だって……」


 修介は震える声でそう呟く。

 この場から逃げたいと本気で思っていた。それを実行しないのは単に足が竦んで動けないからだ。

 あんな化け物と戦えるわけがない。向かっていっても無駄死にするだけだ。だいたい他の冒険者達だって気絶して戦うことを放棄しているんだから、たまたま気絶しなかった自分が逃げたって構わないじゃないか。

 修介は必死に自分を正当化するべく言い訳の言葉を並べ立てる。戦場に来てまでそんなことを考えてしまう自分の臆病さに自虐的な笑みさえ浮かんでいた。


(結局、俺は死んでも変われないのか……)


 修介は無力感に苛まれながら自分の足元を見つめることしかできなかった。


『マスター』


 手にしていたアレサの呼びかける声が聞こえた。


「アレサ! 俺は……俺はどうしたらいい!?」


 修介は縋るように声を発した。こんな時まで人工知能に判断を委ねようとしている自分が滑稽で情けなかった。


『マスター、あの槍を手に取って戦うのです』


「……えっ?」


 修介は戸惑った。咄嗟に何を言われたのか理解できなかった。


「戦う……? 誰が……?」


『マスターが、です』


「嘘だろう……?」


 あまりにも意外な言葉すぎてにわかには信じられなかった。修介の生存を第一に考えているアレサなら「逃げましょう」と言ってくれると思っていたのだ。

 だが、帰ってきた答えは「戦え」だった。


「俺には無理だよ……」


 修介は先ほどと同じ言葉を繰り返した。


『マスター、なぜ自分がここに来たのか、その理由を思い出してください。世話になった騎士の死、友人の無念、残された子供達の悲しみ、そういったものを背負ってここに来たのでしょう?』


 その通りだった。それは事実だった。その想いがあったからこそ、分不相応と知りつつも討伐軍に参加する決意ができたのだ。

 だが、その想いだけで魔獣の眼前に飛び込んでいくだけの勇気を持つことは、今の自分にはできそうもなかった。


『それに、もしここで逃げたら、マスターはこの世界で社会的に死ぬことになります。仲間を見捨てて敵前逃亡した卑怯者として、その風評は一生ついて回ります。もう誰もマスターと関わりを持とうとしなくなるでしょう』


 ここで命が得られたとしても、今までに出会った人々の信頼や仲間との絆がすべて失われる、そうアレサは言っているのだ。


 それは嫌だ――修介は咄嗟にそう思った。


 この世界で出会った人達との関係は、修介がこの世界で文字通り命懸けで手に入れた数少ない宝物だった。それを失うと考えただけで身が引き裂かれる思いだった。


『マスターが以前おっしゃっていた『選べなかった選択肢』とやらを、今この時に選ばなくてどうするのですか。私はマスターの生存を願っていますが、それは後悔にまみれた生ではなく、望みを叶える為の生です』


 アレサの言う事はいちいちもっともだった。前の人生のように小さな後悔を積み重ねるような生き方はもうしたくなかった。だからこそ、これまでも命懸けで戦ってくることができたのだ。

 だが、それでも修介は槍を手に取ることができなかった。

 ここに来て修介は究極の臆病風に吹かれていた。

 修介は咄嗟に人助けをすることはできても、自らの意志で危険に飛び込めるような勇敢な人間ではないのだ。未来に存在する危険や恐怖に対して覚悟を決めることはできたとしても、眼前に差し迫った死の恐怖に抗うことはできなかった。目の前で暴れる魔獣に向かって行けと言うのは、修介にとって「死ね」と言われているのと同義だった。


『……マスター、大丈夫です。私の計算によると、マスターがあの魔獣に槍を突き刺そうとした場合の成功率は九三%です。ほぼ間違いなく成功します』


「マジか!?」


 修介は思わず叫んだ。

 あの恐ろしい魔獣を前にして、どこをどう計算したらそんな高い成功率になるのか。修介にはとても信じられない数値だった。


『マスター、以前にも言いましたが、私は嘘をつきません』


 アレサは嘘をつかない――。

 たしかにこの世界で多くの時間を共にしてきて、アレサは冗談を言うことはあっても、嘘を吐いたことは記憶にある限り一度もない。それ以前に修介がこの世界で最も信用しているアレサの言葉を信じないわけがなかった。


「アレサがそう言うなら……本当に九三%なら、やれるかもしれない……」


 修介の瞳にようやく意志の力が宿る。

 九三%という数値には修介の心に巣食っていた臆病風を吹き飛ばすだけのインパクトがあった。失う物の大きさを考えれば、やらない手はなかった。


「やってやる……やってやるよ……」


 修介は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、足を一歩前へと踏み出した。足は予想していたよりもスムーズに動いた。

 アレサを鞘に戻すと、ゴルゾの足元に落ちている戦いの神の槍を手に取る。

 強力な加護の力が働いているからか、槍は見た目に反して軽かった。

 槍を手に取った瞬間、全身から力が湧いてくるような感覚にとらわれた。心の奥底から自分ならやれるという自信が漲ってくる。


「これが戦いの神の加護の力……」


 この際、神の加護だろうが、プラシーボだろうが、ドーピングだろうが、力になるものであればなんでも良かった。

 修介は大きく深呼吸をすると、ぐっと力強く槍を握りしめた。


「やるぞ、アレサ」


『はい、マスター』


 アレサの返事と同時に、修介は大地を蹴った。


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