第75話 抱擁

「ちょっと塩の量が多いんじゃない?」


 鍋をかき回す修介の横で一口味見をしたサラがそう感想を口にした。


「そんなことない。これでちょうどいいんだよ」


「そうかしら」


「……だいたいなんでサラがここにいるんだよ。おばあさんところにいればもっとマシな飯が食えるだろうが。わざわざこんなところに来てまで人の飯にケチを付けるな」


 修介は手に持った匙をサラに向けて言った。

 実際、サラはここに来るまでの道中は祖母の乗る馬車に同乗してきたのだ。サラの祖母は魔法学院の重鎮で、さらに上級貴族ということもあって討伐軍でもかなり特別な待遇で迎えられており、サラはしっかりとそれに便乗したのである。

 一方の修介はというと、ひとりだと心細いという情けない理由から出発の日の朝一にノルガドの店に押しかけてここまで一緒に来てもらったのである。ノルガドは嫌な顔ひとつせずに同行してくれたので、そのお礼の意味も込めてこうして特製スープを振舞っているところであった。


「なによその言い草。あなたが戦いを前に緊張しているだろうから心配して様子を見に来てあげたっていうのに」


「余計なお世話だっての!」


「どうでもいいがまだできんのか」


 対面に座ったノルガドが業を煮やしてふたりの会話に割って入った。


「もうちょっとだから待っててくれ、おやっさん」


 修介はそう言うと再び鍋をかき回す。特製といいながら適当な具材に塩で味付けをしただけの簡素なスープである。


(これが最後の飯になるかもしれない……)


 匙を握る手がわずかに震える。スープを見つめながら、修介はもはや何度目になるか覚えていないほどのお決まりの思考に陥っていた。

 二日前にソルズリー平原に到着してから、飯時になると毎回同じようなことを考えていた。実のところスープの味付けに関しても、自分がどのくらい塩を入れたのかまったく把握していなかった。


 サラに向かって軽口を叩いてはいたが、修介の精神はかなり参っていた。

 戦う相手がいつ来るかわからないというのは相当なストレスであった。眠っている時もちょっとした物音で飛び起きてしまうし、空にいる鳥を見ただけで腰のアレサに手が伸びる。過度な緊張状態が続いたせいで、自分でも信じられないくらい余裕を失っていた。

 とはいえ、さっさと魔獣に来てほしいかと言えばそんなことはなかった。魔獣が来るということは、死ぬかもしれない戦いが始まるということである。待ち続けるのも苦痛だったが、その時が永遠に来てほしくないという心理的な袋小路に入り込んでしまっていたのである。

 討伐軍に参加したことを後悔こそしていなかったが、自分の意志で討伐軍に参加するという決断ができたことで、ある程度の満足感を抱いてしまい、時間の経過と共に体から戦意が抜け落ちていくことを自覚せざるを得なかった。

 今の修介の望みは出番がないままあっさりと魔獣が討伐されることであった。


「……おやっさん、魔獣はいつ来るのかな?」


 修介がこの質問をしたのも一度や二度ではない。だが、彼の心理状態がわかっているからか、ノルガドはその質問に毎回律儀に答えていた。


「さあの。わしは魔獣じゃないからのう。だが、近いうちに間違いなく来るだろうて」


「そっか……」


 ノルガドの変わらない態度に修介はわずかながら安堵を覚える。彼がいなかったら緊張に耐えかねてとっくの昔にここから逃げ出していたに違いなかった。

 以前、どうして戦いを前にして落ち着いていられるのか尋ねたことがあったが、その時のノルガドの答えは「慣れじゃ」という簡潔なものであった。

 修介は自分が魔獣と戦うことに慣れる日が来るとは到底思えなかったが、よくよく考えてみれば、以前はゴブリンと戦うことにすら怯えていたのだ。それがジュードとの死闘を経た今では、ゴブリンと戦うことにはあまり恐怖を感じなくなっていた。それが『慣れた』ということなのだろうか。


「もうそろそろいいんじゃない?」


 いつの間にか修介の隣に座り込んだサラが自分の食器を取り出しながらそう言った。


「本当にここで食うつもりなのな?」


「いいじゃない。それにほら、おばあさまの所から良いもの持ってきたわよ」


 サラはそう言って自分の鞄をごそごそと漁ると、中から真っ赤な林檎を取り出した。


「おおっ、気が利くじゃないか」


 修介は嬉しそうにその林檎を受け取った。

 簡素で大味な食事が多いこの世界で、果物は前の世界と変わらない味が保証されている数少ない食べ物であった。


「林檎を貰ったとあっては、この俺の塩気のきいた特製スープを分けてやるにやぶさかではないな」


 修介は勿体ぶった言い回しをしながらサラの食器にスープをよそおうとした。


 ――その時だった。


「来たぞーーっ!」


 誰かの大声と派手に打ち鳴らされる警鐘けいしょうの音が重なった。

 その音を聞いて修介の心臓が跳ねる。

 修介は慌てて立ち上がると空を見上げた。青い空には雲以外何もない。

 見張りの見間違いなんじゃないかと思ったが、すでに本陣近くの騎士達や周囲の冒険者達は慌ただしく動き始めていた。


(ど、どうする? 俺はどうすればいい?)


 修介は動揺していた。心臓の音が頭の中に痛いくらいに響く。戦う覚悟はしていたはずなのに、いざその時になったら完全に浮足立っていた。


「落ち着いて。魔術師が遠見の術を使って見張りをしていたんだから、まだ肉眼じゃ見えない距離にいるはずよ。ここに来るまでまだ時間に余裕はあるわ」


 サラは座ったままで修介を見上げていた。


「まったく飯時を狙うとはけしからん奴じゃの」


 ノルガドはゆっくりと立ち上がると、慎重に鍋を脇にどかしてから地面の土を蹴って火を消した。

 そんなふたりの様子を見て、修介は少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。

 自分がこれからすべきことを必死に記憶から引っ張り出す。

 まずは事前に決められた通り、自分の所属する左翼の部隊に合流する。

 それから、魔獣の炎のブレス対策として用意された水で外套を濡らす。

 後は部隊長の指示に従って動く。それだけだ。


「大丈夫だ、俺はやれる……」


 修介は自分に言い聞かせるように呟いた。

 だが、いざ歩き出そうとして足が思ったように動かないことに気付く。


「あ、あれ……?」


 膝が戦場へ赴くことを拒否するかのごとく震えていた。

 この世界に来てからゴブリンやオークといった妖魔どもと戦い、自分よりも強い賞金首との殺し合いも経験した。そんな恐ろしい経験をいくつも経て、精神は鍛えられたはずだった。

 だが、今度の相手は軍隊を壊滅させるほどの恐ろしい魔獣である。ひとつ乗り越えたかと思ったら次々と新しい恐怖が立ちはだかってくる。自分で選択したこととはいえ、ほんの少し前までただのサラリーマンだった人間の心の許容量を遥かに超えていた。

 修介は呆然と立ち竦んだまま、その場を動くことができなかった。


 サラはそんな修介を見ておもむろに立ち上がると、目の前に立って頬を両手で挟むようにして思いっきり叩いた。

 ぱちんという乾いた音が響き渡る。

 驚いた修介が「なにすんだ!」と文句を言うよりも早く、サラは自分の胸元に修介の頭を抱え込むようにして抱きしめた。


「ちょっ――」


 女性特有のかすかな甘い匂いが修介の鼻腔をくすぐる。

 それは男女の抱擁というよりは親が子を安心させる為の、そんな慈愛に満ちた抱擁だった。


「大丈夫……あなたは悪運が強いから、絶対に死なないわ」


 サラは修介の耳元で優しくそう囁いた。

 不覚にも修介はサラのぬくもりと言葉に安心感を覚えていた。そして同時に、自分よりもずっと年下の女性にここまでさせてしまった情けなさに腹が立った。

 心に巣食う恐怖が怒りと羞恥心によって上書きされていく。

 修介は大きく深呼吸をしてからゆっくりと顔を上げた。そしてサラの目を見て「わりぃ……もう大丈夫だ。今のはなしで頼む」と大真面目な顔で言った。

 サラはくすりと笑うと「しっかりやんなさいよ」と言って体を離した。

 近くでその様子を眺めていたノルガドはひとつ咳ばらいをすると、修介の傍に寄ってきてその背中を強く叩いた。


「安心せい、坊主が怪我をしてもわしが癒してやるからの」


 力強くそう言うとニカッと歯を見せて笑った。


「おやっさん……」


 修介の心に温かいものが沁み込んでくる。

 ふたりとも立場は自分と変わらないのに、こうして常に気遣ってくれているのだ。サラは言わずもがなだが、ベテラン冒険者として人望のあるノルガドも、きっと他の冒険者からも誘われていただろうに、こうしてわざわざ一緒に行動してくれていることからもその優しさが伝わってくる。

 これから多くの経験を積んでいくことで、いつか自分もそうやって他人を気遣える人間になれるのだろうか。性格的に難しいかもしれないが、それでもそうなりたいと修介は強く思った。

 その為にもまずは目の前の戦いに生き残る必要がある。


「……おやっさん、魔獣を相手に俺は具体的にどう動けばいいのかな?」


 恥も外聞もなく修介はノルガドにアドバイスを求めた。


「そうじゃな……まず、巨大な魔獣と戦う時は、絶対に正面には立つな。奴は体が大きい分、小回りはきかないはずじゃ。だから体が動く限り走り回って常に魔獣の視界の外へと逃げ続けるんじゃ。あと、万が一狙われた時は下手に遠ざかるよりも、思い切って懐に飛び込んだ方が安全な場合がある。その巨体故に足元は死角じゃろうからな」


「なるほど……」


「よいか、間違っても魔獣を攻撃しようなどとは考えるな。おぬしの役割は槍を持った者を隠す為の目くらましじゃ。生き残っているだけでその役割は果たせる」


「わかった」


 ノルガドは豊富な経験から得た知識を惜しげもなく与えてくれる。修介はそれをひとことも聞き逃さないようしっかりと頭に刻み込んだ。修介にとってノルガドは間違いなく師匠であった。

 具体的にやるべきことがわかったことで、心に闘志が戻ってきていた。

 修介は「よしっ!」と気合を入れる。

 気が付けば足の震えは止まっていた。

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