第56話 サラ

「な、なんだ、サラか……脅かすなよ……」


 安堵のため息を吐きながら修介は緊張を解いた。

 サラも一瞬だけほっとしたような表情を浮かべたが、すぐにまなじりをあげると大股で修介に近づき、その鼻先に指を突きつけた。


「脅かすな、じゃないわよっ! 驚いたのはこっちよ! 目が覚めたらベッドがもぬけの殻になってるからびっくりしたじゃない!」


「いや、気持ちよさそうに寝てたから起こすのも悪いかと思って……」


「そういうこと言ってるんじゃないわよ! なんで外にいるのよっ!」


「そ、外の空気が吸いたくなって……」


「そんな身体で外をほっつき歩くとか馬鹿なの!?」


「返す言葉もございません」


「……まったくもう、心配させるんじゃないわよ」


 呆れたようにため息を吐くサラに、修介は頭を下げた。


「本当にごめん……」


「まぁ無事だったからいいけど……」


 修介が素直に謝ったからか、サラは自分が興奮していたことを恥じるかのように顔を背けると「隣、いい?」と尋ねてきた。

 修介は「どうぞ」と言いながら、サラが真新しい白いローブを着ていることに気付き、あわてて外套のポケットをまさぐるとハンカチを取り出して地面に敷いた。無論ご機嫌取りのつもりである。

 サラはまんざらでもない様子でその上に座ろうとしたが、そのハンカチに見慣れた刺繍が施されていることに気付くと「――ってこれ私のハンカチじゃないっ!」と声を荒らげてハンカチを拾い上げた。

「あっ」と間の抜けた声を上げる修介。そのハンカチは元々はサラの物で、いつか返そうとずっと懐に忍ばせておいた物だった。


「……まさかこんな形で戻ってくることになるなんてね」


 サラはハンカチを折りたたみながら修介をジト目で睨む。


「重ね重ね面目ない……」


 いい歳して恰好付けようとした結果がこの様である。


「……別に怒ってないわよ。元々返してもらうつもりで渡したわけじゃないし。こうして大切に持っていてくれたんだからそれでいいわよ」


 サラはそう言うと、あらためて修介の隣に腰を下ろし、持っていた杖を手前の地面に突き刺した。

 杖の先端には電球の灯りとは違った、白い綿毛のような淡い光が周囲を優しく照らしていた。


「便利なもんだな……」


 修介は興味本位でその光に手を伸ばしかけたが、下手に触って光を消そうものなら、今度こそ何を言われるかわかったものではないので辛うじて自重した。


「魔術師が一番最初に覚える初歩の魔法よ。それでもまともに扱えるようになるのに三カ月はかかるわ……ちなみに私は一カ月で使えるようになったけどね」


 サラの得意気な表情に修介は苦笑した。


「……なんかだいぶ世話になったみたいだな。エーベルトから聞いた」


「別に、仲間を助けるのは当然のことでしょ?」


「……そうだな」


 仲間、という言葉にくすぐったさを覚えると同時に、あらためてそう言われると自分はそれに相応しい存在になれているのか、そんな疑問を修介は抱く。

 だが、口にしたのはまったく別のことだった。


「それにしても、サラも癒しの術が使えたんだな。俺の体質だと癒しの術の効きが悪いだろうから、ふたりがかりでも大変だったろ?」


「私は癒しの術は使えないわよ。使えるのは鍛冶の神の信者であるノルガドだけ」


「えっ……でもエーベルトはふたりで魔法を使ってたって……」


 修介の言葉に、ああ、と納得したような表情を浮かべるサラ。


「ノルガドの癒しの術だけだと、どう考えても間に合わなさそうだったから、私の魔法で補助したの」


「補助?」


 首を傾げる修介に、サラは修介でも理解できるよう言葉を選んでから口を開いた。


「ええと、基本的に魔法は魔力を使って対象物のマナに干渉してその性質を変化させる力なの。ただ、あなたの身体には変化させる為のマナがないから、魔法そのものが効かないわけ」


 ここまではわかる?――と目で問いかけるサラに、修介は黙って頷いた。


「つまり、あなたに魔法を掛ける為には、あなたの身体にマナがなければならないわけだけど、そんな都合よくマナは自然発生しないから、私は魔法を使ってあなたの身体にマナを譲渡することにしたの」


「マナを譲渡って……そんなことできるの?」


「対象に触れてさえいれば自分のマナを他人に譲渡することは可能よ。ただ、この方法にも問題があってね……どうもあなたの身体はマナを保持することができないらしくてね、まるで穴の開いた水袋のように譲渡したそばからマナが体から零れ落ちていってしまうのよ」


「穴の開いた水袋……」


 それはすなわちゴミじゃないか……そう思って修介は軽く落ち込んだ。

 サラはそんな修介の内心に気付きもせず話を続ける。


「でも、マナは保持できないけど、体にマナを譲渡すること自体はできたわけだから、癒しの術とタイミングさえ合わせられれば、譲渡したマナを利用して傷が癒せるかもって考えたわけ。最初はノルガドの詠唱とタイミングを合わせるのに苦労したけど、何度か試したらうまくいったわ。そうしたら癒しの術がちゃんと効果を発揮したのよ!」


 サラは実験が上手くいった研究者のように喜色満面といった笑みを浮かべていた。


「よくそんな方法思いついたなぁ」


 感心したように呟く修介に、サラは急にげんなりとした顔をする。


「……もっともマナの効率は最悪だったけどね……おかげで睡眠と治療を二日間延々と繰り返す羽目になるし、手持ちのマナ回復薬も全部使い切ったわ……」


「な、なんか想像以上に苦労をかけたようで申し訳ない……」


 話を聞いただけでその苦労が偲ばれる分、修介の心は沈んでいた。 


「そこは謝罪じゃなくて感謝してほしいところなんだけど?」


 修介の顔を覗き込むようにしてサラは言った。


「そ、そうだな。俺がこうして生きているのはサラ達のおかげだ。ありがとう」


 謝罪よりも礼、この世界でも人間関係の基本は変わらないんだな、と修介は思った。


「どういたしまして。さっきも言ったでしょ、仲間を助けるのは当たり前の事だって。それに、神聖魔法と古代語魔法を同時に使うなんて貴重な経験が出来たのはあなたのおかげでもあるんだから。魔術師冥利に尽きるとはまさにこのことね」


 嫌味なくそう言うあたり、本気でそう思っているのだろう。もし実験云々の話が今後も続くのだとしたら、今度こそ攻撃魔法の実験台にさせられそうだと、修介は内心戦慄せざるを得なかった。

 それと同時に頭の中にふとした疑問が湧いた。


「……でもさ、サラの魔法は全然効果がなかったのに、癒しの術はちょっとだけ効果があるのはなんでだろう? それに前にも話したけど、エルフに眠りの魔法を使われた時も、ほんの一瞬だけど眠くなったし……」


「その辺は詳しく検証してないから私の推測になっちゃうんだけど……」そう前置きしてから、サラは自説を語り始めた。


 この世界の魔法は全てマナを媒介としている。ただ、古代語魔法が術者の魔力のみで発動させる魔法なのに対し、精霊魔法や神聖魔法はそれぞれが精霊や神という別種の力を借りて発動させる魔法である。精霊や神の力を術者の魔力で増幅させる、という点が古代語魔法との大きな違いということになる。

 つまり、修介の体にマナがなくても、精霊の能力や神の奇跡といった元々の力の分だけは効果が発揮されるのではないか、というのがサラの見解だった。


「ノルガドの癒しの術も最初はほとんど効果がなかったけど、途中からもっと強力な術を使ったら効果はあったみたい。でも、それだと間に合わないと思ったから、マナ譲渡を試してみようということになったわけ」


「なるほどね……」


 修介の体質にことさら強い興味を抱いていたサラだからこそ、その状況下で咄嗟に対応策を思いつくことができたのだろう。この好奇心旺盛な魔術師とパーティが組めたことは修介にとって僥倖と言わざるを得なかった。




 一通り話し終わって満足したのか、サラは黙って前を向いて川を眺めている。

 修介は足元の地面をじっと見つめる。サラとの会話で気がまぎれたのは確かだったが、心の奥底に沈殿している鬱屈とした思いはいまだにその存在を主張し続けていた。

 川を流れるせせらぎの音だけが耳に届く。

 修介は地面に生えている草を千切って憂さを晴らしていたが、ふと視線を感じて顔を上げた。


「……それで? あなたはなんでこんなところにひとりでいたの?」


 お姉さんに話してごらんなさい、と言わんばかりの顔でサラが言った。

 実年齢が二〇歳以上も年下の女に自分の心の弱さを吐露することに抵抗がないわけではなかったが、強がったところで誰かに聞いてほしいという本心は欺けなかった。

 修介はサラの目を見ながら話せる気がしなかったので、彼女の視線から逃げるように前を向いてから静かに口を開いた。


「……初めてだったんだ……人を殺したの」


「そう」


 サラはたった一言そう返しただけだったが、その声には相手を気遣う優しさが含まれていたように修介は感じた。

 今の言葉だけでは自分の心の内は相手に伝わらないとわかっていたが、頭が混乱していて言いたいことがまとまらず、修介には次に続く言葉が思い浮かばなかった。


「……落ち着いて、ゆっくりでいいわ」


 焦る修介にサラは静かにそう言った。


「俺は――」サラの言葉に勇気づけられ、修介は自分の心の内にある醜い本性を、あの時自分が抱いたどす黒い感情をありのままに口にした。おそらく軽蔑されるだろうと覚悟していた。

 だが、話を聞いたサラは事も無げに言った。


「別にいいんじゃない? そこに殺意があろうと欲望があろうと、そのことに葛藤したんだから。少なくとも正義やら平和の為だと言って思考停止で人を殺すよりも、よっぽど健全だと思うわ。それに、あなたの戦った理由に仲間の為っていう気持ちが全くなかったわけじゃないんでしょ?」


 修介は戸惑いながらも黙って頷いた。


「ならいいじゃない。それに大事なのは自分の取った行動に責任を持つことよ。その点、あなたは誰のせいにするでもなく、逃げずにちゃんと向き合ってるじゃない」


「……でも、本当は殺さずに済んだかもしれないのに、自分の心の弱さや醜さのせいで殺してしまったと思うと、自分のしたことが正しかったのか、わからないんだ」


「起こってしまったことを今更どうこう言ったところで意味はないわ」


 ぴしゃりと言い切って、サラは修介の目を見つめる。


「確かに、あなたは人を殺したわ」


 突然そう告げられ、修介はびくっと体を震わせた。


「でもね、同時にあなたに命を助けられた人もいるの。あの時、あなたがあいつを殺さなかったら、私はきっと殺されていたと思うし、この村の人たちだって無事では済まなかったでしょう。もしかしたらノルガドやエーベルトも殺されていたかもしれない。あなたがどう思おうともその可能性は否定できないわ」


 たらればの話に意味はないと修介は思ったが、そんなことはサラだって百も承知だろう。今のはサラなりの気遣いなのだと思い、修介は黙って受け入れた。


「……大丈夫。時が経てば、心の傷は勝手に癒えていくわ。でも、あなたの気持ちを整理できるのはあなただけよ。だから納得がいくまで時間をかけてゆっくりと考えればいいわ」


 再び沈黙が訪れる。

 どんな悲しみも、辛い記憶も、時が癒してくれる。四三年の人生で、そのことは修介もよく知っていた。結局、長い時間を掛けて自分の心と折り合いを付けていくしかないのかも知れない。


「……私も一七歳の時だったわ」


 突然、サラが沈黙を破った。


「えっ……?」


「その時にはもう私は魔法学院で古代語魔法を学んでいたわ……一七歳という若さで魔法を扱える人は稀でね、結構学院でも持て囃されたものよ」


 ふふん、とサラは自慢げに鼻を鳴らした。


「あの時は確か……休暇を終えて実家から王都に戻っている途中だったわ。同行していた隊商が野盗に襲われたの。護衛よりも野盗の数が多くて、護衛の人たちはあきらかに苦戦していたから、自分も何かしなくちゃって必死に考えてね……覚えたばかりの破壊の魔法をマナが続く限り撃ち続けたわ……その甲斐あって野盗は全滅。隊商にも大した被害は出なかった。隊商の人たちからはものすごい感謝されたわ。私も自分の魔法が人の役に立ったと思って、そりゃもう浮かれたわ……って、もしかしてこんな話、興味ない?」


 唐突にサラは修介の目を見て尋ねてきた。修介は慌てて首を横に振ると「そんなことはない」と否定した。サラは「そう?」と寂し気に微笑む。


「……自分がやったことに気付いたのは、運ばれていく野盗の死体を目にした時よ。その時になってようやく自分が人を殺したということを自覚したの……でもね、離れたところから破壊の魔法を使っただけだったから、正直あまり実感はなかった。それに相手は悪人だったから罪悪感もなかったわ」


 たしかに剣で直接斬るのと魔法を使って遠くから攻撃するのとでは実感は異なるかもしれない、と修介は思った。


「……本当の意味で人を殺したことを実感したのは、その日の夜、自分の部屋に戻ってベッドで毛布にくるまってからだった……気持ちが落ち着いたら、自分が魔法で人を殺めたことや、破壊の魔法がいとも簡単に人の命を奪う力を持っていたことが、急に怖くなったの」


 地面を見つめながらサラはそう言った。


「……それからしばらくは学院にも行かずに部屋に閉じこもっていたわ。そしたらね、事情を知ったおばあさまが私の部屋を訪ねてきたのよ」


「おばあさま?」


「あれ、言ってなかったっけ? 私の祖母も魔術師で、同時に私の師匠でもあるの。魔法学院では数少ない賢者と呼ばれる高名な魔術師なのよ」


 そう語るサラの顔はまるで自分のことのように誇らしげだった。それだけでサラが祖母を尊敬しているのだということが修介に伝わった。


「それでね、おばあさまは私にこう言ったわ。力そのものに善悪はない。大切なのはその力を自分が正しいと思えることに使えるかどうかだって。そして、何が正しいことなのかを判断できるようになる為に、多くの知識を学び、色々な場所へ赴き、たくさんの経験を積みなさいって……普段はすっごく厳しいのに、その時だけはやけに優しかったっけ……」


 サラは空を見上げ、星を掴もうとするかのように手を伸ばす。


「……それからまた学院に通うようになったわ。魔法の怖さを知ったからこそ、魔法についてより多くのことを学ばなければならないと思うようになって、それまで以上に学院での勉強に没頭したし、冒険者ギルドに登録までして色んなところに行くようになったわ」


「……」


「でも本末転倒よね。そんな理由で冒険者になったのに、実戦を重ねていくうちに魔法の力を使うことに疑問を抱かなくなってた。あの時の気持ちなんてすっかり忘れて、また考えなしに魔法を使ってた……。そういう意味では、あなたのおかげでこうして思い出すことができたのだから感謝してるわ」


 サラは修介の方を向いてバツが悪そうに肩をすくめてみせた。

 あっけらかんとしたこの娘にそういった過去があったことは修介にとって驚きだった。同時にサラがそういった葛藤を抱いていたことを知って、修介は自分が大きな勘違いをしていたことに気付いた。

 この世界の人間は、人を殺したり、殺されたりといった事を当たり前のように受け入れているのだと思っていた。

 だが、この世界の人間だって死ぬことを恐れ、人を殺すことに罪悪感を抱く。誰もが様々な事情や問題を抱えながら、それでもそれぞれの目的の為に命懸けで戦っているのだ。

 そんなことはちょっと考えればわかることだ。修介は転移してきた自分だけが特殊なんだとばかり思っていたが、そんなことはなかったのだ。

 これからこの世界で生きていけば、命を懸けた戦いに赴き、この手で命を奪うこともあるだろう。それは自分の身を守る為かもしれないし、仲間の為かもしれない。はずみでってこともあるだろう。場合によっては自身の野望の為や、憎しみに駆られて人を殺すことがあるかもしれない。自分の心がそういった物に染まらないという保証はどこにもない。

 そして、長く戦い続けていれば、いずれ人を斬ることにも慣れ、人を殺しても何も感じなくなるかもしれない。修介はそうなることが怖かった。


 自分は何の為に剣を振るうのか、その理由を考える必要があると修介は思った。

 当初はこの世界で生きていく為にその力が必要だと思ったからだし、冒険者になったのだって生きる手段を得る為だった。そんな修介に確固たる信念や強い目的意識などあるわけがなかった。

 ならばせめて――せめて、自分は弱き者には決して剣を向けないようにしよう。それを自分の心の一本の軸にしようと、修介は思った。将来、自分がどのような道を進むにしても、それだけは決して違えまいと心に誓った。

 そう誓ったことで、修介は自分の心が少し軽くなったような気がした。


 そんな修介の横顔を見ていたサラは、おもむろに両手を伸ばし、その顔を挟んだ。

 突然のことに修介は驚いて身を引きそうになったが、思いのほか強い力で強引にサラの方を向かされる。

 互いの視線がぶつかる。

 一瞬、キスでもされるのか、と修介は考えて年甲斐もなく心臓が跳ねた。


「……そういえば言ってなかったわね」


 サラは挟んだ両手で修介の頬をぺちんと叩くと、


「守ってくれてありがとう。戦っている時のあなたは割と恰好よかったわよ」


 そう言っていたずらっぽく笑い、その手を離した。

 修介は叩かれた頬をさすりながら苦笑いする。


「お礼なら頬を叩く必要なくね?」


「気合を入れてあげたのよ。……さて、風も冷たいし、そろそろ戻るわよ。怪我人がこんなところに長居していいはずがないんだからね」


 サラはローブについた草を払いながら立ち上がると、修介に手を差し伸べた。

 修介はその手を掴んで立ち上がった。

 サラの手のひらは思った以上にひんやりとしていた。

 手のひらが冷たい人は心が温かい人――そんな話を修介は思い出していた。


 その後、部屋に戻ってベッドに潜った修介は、自分でも驚くほどあっさりと眠りに落ちることができたのだった。


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