第54話 葛藤

 ジュードは目の前の小僧からうすら寒いものを感じていた。

 目の前の小僧は戦士としては並だった。

 反応速度だけは大したものだったが、実戦経験が圧倒的に不足していた。おそらく人を斬った経験もないだろう。ようするに負けるはずのない戦いだった。


 ジュードは今でこそ野盗に身をやつしているが、かつては隣国のダラム王国の騎士であった。

 ダラム王国とルセリア王国との国境沿いでは常に小競り合いが起こっており、彼はそこで幾度となく実戦を経験してきた歴戦の戦士であり、彼の仲間も魔術師を除いて当時の部下であった。

 ある時、ジュードの隊は国境沿いの小さな村に対して略奪行為を行った。その事実を知った騎士隊長は彼らを処断しようとしたが、ジュードは逆に騎士隊長を殺害し、そのまま部下を引き連れてルセリア王国へと逃亡したのだ。

 以来、ダラム王国からは執拗に追っ手を差し向けられ、懸賞金狙いの冒険者が幾度となく襲ってきた。だが、そのすべてをジュードは返り討ちにしてきた。

 誰も俺を咎めることはできない――ジュードはこのルセリア王国で思うがままに略奪を行い、戦闘と殺戮を存分に楽しむつもりだった。


 だから彼は自分の嗜虐心を満足させる為、この戦いでもあえて相手に致命傷を負わせず、恐怖をその体に刻み込むかのように小さな傷を次々と与えていった。

 だが、戦いが長引くにつれ、部下どもの戦況が芳しくなくなってきていた。

 特に相手の二刀流の戦士が予想以上の手練れのようで、数の上で有利なはずのこちらの仲間が押されていた。

 そして、こちらの魔術師が相手の女魔術師に倒されたのを見て、ジュードはもはや遊んでいる余裕はないと考え、目の前の小僧を早々に殺すことにした。

 元々圧倒的な実力差があるのだ。殺そうと思えばいつでも殺せる。


 ――そのはずだった。


 すでに三度はとどめを刺すつもりで剣を振るったが、そのどれもが紙一重で躱されていた。単純なフェイントにすら簡単に引っ掛かる素人同然の相手になぜか止めを刺すことができないのだ。

 ジュードは苛立ちを相手にぶつけるようにさらに剣を振るった。

 振るった剣が傷を負わせる度に目の前の小僧は苦痛に呻き、苦悶の表情を浮かべる。もはやまともに反撃する力さえ残っていないはずなのに、小僧は一向に倒れなかった。こちらを睨むその目はいまだ闘争心を失っていない。

 その目を見てジュードはさらに狂ったように剣を振るった。

 ジュードの表情からは当初の余裕は完全になくなっていた。




「いい加減に死ねッ!」


 そう叫び剣を押し込んでくるジュードの余裕を失った表情を見て、修介は小気味良さを覚えていた。

 だが、同時にそれが自分の限界であることも悟った。

 修介は持てる力の全てを動員してジュードの剣を防いでいたが、反撃する術は残っておらず、もはや自分がどうやって剣を振っているのかさえわからなくなっていた。

 なぜこんな思いをしてまで目の前の男と殺し合いをしなければならないのか。朦朧とする意識の中で、修介は自分が戦う理由を探していた。

 後ろにいるサラを守るという思いや、シンシアを悲しませたくないという思いは頭の中から完全に消えていた。


 修介の頭の中を占めていたのは、目の前の糞野郎にだけは殺されてやるものか、という意地だった。

 この世界に来て、剣を握るようになって三カ月。

 たった三カ月程度の自分に戦士としての誇りなんてあるわけがない。

 修介は自分がこれほど意地っ張りな性格だとは思っていなかった。負けず嫌いではあるが、負けるくらいならそもそも戦わないことを選ぶ性格だった。

 この意地は、この世界で過ごした三カ月分の努力の結晶なのかもしれない。

 そんなわずかな時間で醸造された程度の意地ではそんなに長くは持たないだろう。

 それでも今はその意地にしがみつくしかなかった。


 全身の傷という傷が痛みと共にもう限界だと訴えてくるが、それも余分な情報として脳内からシャットアウトし、霞む視界に飛び込んでくる相手の剣を捌くことにだけに集中する。

 だが、いくら意識を集中していても肉体の限界は否応なく訪れる。

 ふいに足の力が抜け、修介はバランスを崩した。

 その隙を逃すジュードではなかった。

 ジュードは全力の一撃を修介に向かって放つ。

 修介は咄嗟にアレサを前に出してその一撃を受け止めるが、完全に受けきれずに肩口にまで刃が食い込んだ。


「があッ!」


 痛みで一瞬だけ意識が覚醒するが、そこに状況を好転させるような要素は見当たらなかった。


「シュウッ!」


 サラの悲鳴が耳に届く。

 逃げろ、と叫びたかったが、叫ぶ余裕はもう修介にはなかった。

 ジュードはそのままアレサごと修介を斬ろうと力を込める。

 修介は片膝をつきながらもアレサを握る手に力を込め必死に抵抗する。

 両手に掛かるこの重さは自身の命の重さだった。少しでも力を抜けばそのまま剣は心臓まで一気に到達するだろう。

 さすがにもうダメか――修介が諦めそうになったその時だった。


『マスター、今から私が言うことを実行してください』


 アレサの声がした。

 そしてアレサは目の前にジュードがいることも気にせず、一方的に日本語で修介に指示を伝える。

 突然、目の前の剣が言葉を発したことにジュードは驚愕した。その結果、ほんの一瞬だったが剣に込めた力をわずかに緩めてしまった。この緊迫した状況下において、その一瞬には永遠にも等しい価値があった。

 そのわずかな機を逃さず修介は動いた。この世界で最も信頼するアレサの言葉は修介にとって絶対で、迷う余地などあるはずがなかった。


「ああああああッ!」


 修介はなりふり構わず全力で剣を押し返した。




 サラはエーベルトが間に合わないことを悟った。

 そして先ほどの雷撃の術でマナのほとんどを失った自分に、修介の苦境を打開する術がないこともわかっていた。初歩の強化魔法くらいなら唱えられるだろうが、修介に使っても効果はない。

 もはや自分が杖でジュードを殴り倒すくらいしか手は残っていなかった。とても自分が倒せるような相手とは思えなかったが、うまくすれば時間くらいは稼げるだろう。

 サラは覚悟を決め杖を握りしめる。


「ああああああッ!」


 完全に死に体だったはずの修介が雄叫びをあげた。信じられないことに修介が相手を押し返し始めたのだ。肩に食い込んでいた剣は抜け、鍔迫り合いの状態へと持ち直していた。

 その状況に一瞬喜びかけたサラだったが、全身傷だらけの修介のその姿は、まるで消えかけたロウソクの最後の灯火のようだった。

 直後に修介が叫んだ。


「サラッ! 俺の剣に魔法をッ――!」


 修介の言葉にサラは混乱した。今さら剣に魔力を付与したところで状況が好転するとは思えなかった。


「は、早く! なんでもいいから――頼むッ!」


 修介の必死の訴えにサラは考えることをやめ、言われるがままに最速で唱えられる魔法を詠唱する。

 残り少ないマナで唱えられる魔法なぞたかがしれていた。詠唱しているのはただの魔力付与の術であり、とても修介を救うことなんてできるはずがなかった。

 だが、きっと何か考えがあるに違いない。

 サラは一縷の望みに掛けて魔力を練り上げる。

 祈るように詠唱を紡ぐと、魔法は正常に発動し、その魔力は修介の持つ剣へと吸い込まれていった。


 ――次の瞬間、修介とジュードの間で光の爆発が起こった。


 サラの魔力付与を受けたアレサの刀身が突然強烈な光を放ったのだ。

 事前にわかっていた修介は咄嗟に目を閉じることができたが、それでも瞼の裏が真っ白に染まるほどの強烈な光だった。離れていたサラでさえまともに目を開けていられないほどであった。

 だが、一番の被害者はジュードだった。


「ぐあッ!」


 閃光は見えない刃となって至近にいたジュードの目を抉った。悲鳴をあげながら剣を取り落とし両手で目を覆う。


『マスター!』


 アレサの声で修介はこれが最初で最後の勝機だと気付く。あれだけの光を至近距離でまともに受けたのだ。すぐに視力は戻らないはずだ。

 修介は両手でアレサを握りしめ、最後の力を振り絞ってアレサを振り上げた。




 このままアレサを振り下ろせば相手は死に、自分は生き残ることができる。

 それがわかっていながら、修介はアレサを振り下ろすことを躊躇った。

 突然、体が金縛りにあったように動かなくなる。同時に頭の中でもう一人の自分が問いかけてくる。


 ――どうした? なぜ躊躇う?


(本当に剣を振り下ろしてしまっていいのか?)


 ――当たり前だ。今を逃したらもう二度とこの男を倒すチャンスはこない。


(だけど、こいつを殺したら俺は殺人者だ)


 ――正当防衛だ。気にすることはない。それに今殺さなければ、お前もサラも殺されるだけだ。


(なにも殺さなくても、気絶させればそれで事足りるのではないか?)


 ――今のお前にそんな器用な真似はできない。それに生かしておいても、こいつは捕えられればどうせそのまま死刑になる。


(どうせ死刑になるからといって、俺がこいつを殺していい理由にはならない。そんなことは許されないはずだ)


 ――こいつは生死を問わずの賞金首だ。殺したって問題ない。逆にこの男を生かしておけばこれからも多くの人を殺すにきまっている。


(生かしておけば改心するかもしれないじゃないか!)


 ――とてもそうは思えんね。


(それはお前が決めることじゃない!)


 ――よく言う……本当はこの男を殺したいんだろう? こんな屑野郎は死ぬべきだと思っているだろう? どんなに綺麗事を言っても、それが本心だ。


(違うッ!)


 ――違わない。お前がこの男を殺すことを躊躇ったのは単に自分の手を汚したくないからだ。仲間が来るまで耐えようと思ったのも、自分の代わりに仲間に殺してもらおうと考えたからだ。


(そ、そんなこと……)


 ――目の前で罪のない村人が殺され、自分の体も散々切りつけられたんだ。殺したいくらい憎いんじゃないのか? 胸糞の悪いこの男を感情の赴くままに殺したいんだろう? それをもっともらしい理由をつけて自分を誤魔化しているだけだ。


(違う……そうじゃない……ッ!)


 ――お前は人を殺すことを最大の禁忌とする平和な世界で長年生きてきたんだ。そう考えるのはむしろ当然だろう。だが、そんな倫理観は今この瞬間には無用の長物だ。なぜだかわかるか?


(そんなのわかるわけがない!)


 ――こいつを殺してもこの世界ではお前は罪に問われないからだ。むしろ英雄として扱われるだろう。村人も仲間も皆、お前を責めるどころか感謝するだろう。


(俺は……俺は……ッ!)


 ――大丈夫。お前は許される。




 その一言で修介の体は動くようになった。

 時間にすればほんの一瞬のことだったろう。

 修介は目の前の男を見る。

 真っ先に感じたのは恐怖だった。殺さなければ殺されるという恐怖。

 次に、胸糞の悪いこの男をこの手で殺したいという殺意。

 結局のところ修介は自分のことしか考えていなかったのだ。声の言っていることは全て真実で、単に自分が罪悪感を抱きたくないだけなのだ。どんな極悪人を見ても『死ねばいいのに』と思うだけで自分の手を汚したくないのだ。

 人殺しとして周囲から白い目で見られることが嫌なだけで、本心では目の前の男を殺したいと思っているのだ。


 ――自分は所詮その程度の人間だと認めろ。


 許されるのならば……罪悪感を抱く必要がないのなら……目の前にある高い壁を越えることは容易であった。正義という化粧で殺人を美化する必要すらない。

 恐怖と殺意が混じり合い狂気へと変貌する。その狂気は大きな渦となって修介の心から理性を奪い去り、代わりに際限なく溢れてくるどす黒い感情が心を支配する。


(俺は……こいつを殺すッッ!)


 狂気に支配されながらも、この決断から逃げることだけは絶対にしない、と修介は心に誓った。


「うああああああぁッッ!」


 修介は悲鳴をあげながら剣を振り下ろした。



 サラが視力を取り戻した時にはすべてが終わっていた。

 修介は満身創痍ながらも立っており、その前にはジュードの死体が横たわっていた。

 サラは混乱していた。自分が使った魔法はただの魔力付与である。あれほど強烈な光を放つ魔法を唱えた覚えはなかった。

 ――もしかすると修介の持っている剣に秘密があるのかもしれない。

 状況もわきまえずに好奇心が首をもたげる。だが、全身がボロ雑巾のような状態で立ち尽くす修介の姿を見て、それどころではないと思い至った。


「シュウッ!」


 名を呼びながらサラは修介の元へと駆け寄る。

 サラの呼びかけに修介はゆっくりと振り向いた。感情がすべて抜け落ちてしまったかのようなその顔を見て、サラは思わず足を止める。


「ちょ、ちょっと大丈夫なの?」


「……ああ、だい、じょう……ぶ」


 言いながら修介は糸が切れた人形のようにその場で力なく崩れ落ちる。


「シュウッ!」


 サラは慌てて修介を支えようとしたが、脱力した修介の体を支えることができず、抱きかかえるようにして地面へと座り込んだ。そのままローブが血で汚れることも厭わずに修介の頭を膝の上にのせた。

 修介の顔は死人のように青白かった。

 サラは悲鳴混じりにノルガドの名を叫んだ。


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