第48話 宿屋

 グラスターとキルクアム、ふたつの街を繋ぐ街道のちょうど中間くらいに位置する場所に、一軒の宿屋がある。

 ふたつの街を行き来する行商人達がよく利用する宿屋であり、その宿屋を中心に利用客の要望に応えるような形で徐々に他の店が出来ていって、今ではちょっとした宿場町となっていた。

 コの字型をした建物は三階建てで、中庭には馬車を止められるスペースがあり、馬を休ませる為のうまやもあった。

 一階には食堂があり、酒と簡単な食事も提供できるようになっている。普段であれば多くの行商人が休息や情報交換目的で訪れ、それなりの賑わいを見せるのだが、最近は妖魔騒動のせいで客足はぱったりと途絶えていた。

 宿の主人は在りし日の賑わいに思いを馳せながら、すっかり寂しくなってしまった店内を見渡した。

 この宿屋は主人とその妻と娘の他に、何人かの従業員を雇って運営していたが、ここ最近の不況のせいで従業員には暇を出していた。今の騒動が収まれば戻ってきてもらうつもりだったが、はたして何人が戻ってきてくれるだろうか。


 客は冒険者と思しきパーティが一組だけだった。

 この街道の周辺でも妖魔の出没が増えているようで、そういった妖魔を討伐する為の冒険者を最近はよく目にするようになった。この冒険者達もそういった類の者たちだろうと主人は思っていた。

 パーティの人数は五人。そのうちのひとりは室内にも拘わらずフードを目深にかぶって顔を隠している。他にもローブを着込んだ怪しげな男や薄汚れた鎧に身を包んだ者など、あまり上等な客とは言えなかった。普段であれば入店をお断りしたいところだが、今は客を選んでいるような余裕はなかった。

 冒険者達は店の中央にあるテーブル席を陣取り酒を飲んでいる。なかにはテーブルに足を乗せている者もいて正直やめてほしかったが、その程度であればまだ我慢できた。

 店内では主人と娘が接客をし、妻が厨房に入っていたが、酔った男が酒のお代わりを運んだ娘にちょっかいを出し始めているのを見て、さっさと娘を厨房にひっこめればよかったと主人は後悔していた。

 さすがにそろそろ注意しないわけにはいかないな、と主人は考え、うんざりした気分で腰をあげようとしたところで、外から馬のいななきが聞こえてきた。

 窓から様子を窺うと、ちょうど一台の馬車が中庭に入ってきたところだった。

 しばらくすると、店の入り口に複数の人影が現れた。


 同時に複数の客が訪れたのは何日ぶりだろう、そんなことを思いながら主人は「いらっしゃい」と新しい客に声を掛けた。

 先頭で入ってきた背の低い男が「水と、あとは簡単な食事を」とだけ言って、カウンター近くのテーブル席へと向かう。

 背の低さから一瞬子供かと思ったが、その声はしわがれており、子供とは思えない寸胴な体型に、顔には立派な髭まで蓄えられていた。

 男の正体はドワーフだった。

 ドワーフはエルフと違い人間社会に溶け込んでいる種族ではあったが、その絶対数は少なく、鉱山などの洞窟に住居を作って住むか、街の郊外に工房を構えてそこに籠っていることが多く、あまり人目に付くことはない。長年この商売をしている主人でさえこの目で見るのは三度目くらいであった。

 ちなみに主人が妻に結婚を申し込む際に贈った指輪はドワーフ製の物で、その緻密で精工な装飾が施された指輪は人間の職人には到底作れる代物ではなかった。


 主人は厨房にいる妻に食事の用意を頼むと、人数分の水を用意しながら視線を新しく来た客に向けた。

 装備を見る限りでは冒険者だろう。ガラは悪くなさそうだが、一見して風変わりな一行であった。なかにひとりだけ軽装の男がいるが、それ以外の者はどう見ても一般人には見えなかった。

 少し長めのくすんだ金髪を持った少年は整った顔立ちをしていたが、その鋭い目つきはまるで獲物を狙う猛禽類を連想させた。小柄だが俊敏そうな体つきは、背中に背負った二本の小剣の存在と相まって危険な雰囲気を放っていた。

 そして先ほどのドワーフの隣に、白いローブと妙な形をした杖を持った魔術師風の恰好をした女性が座る。

 女性がうっとおしそうにフードを外すと、現れたその顔に主人は思わず目を見張った。すれ違う男が全員振り返るであろう美貌の持ち主であった。艶やかに赤みがかった髪がその美貌を一層引き立てている。

 中央のテーブルにいる冒険者達が口笛を吹いて気を引こうとしていたが、女性は露骨にそれを無視していた。

 主人は客同士のトラブルにならないか不安になったが、その直後に店に入ってきた男の姿に意識を奪われた。


 その男は見た目からして変わっていた。

 やや彫りの深い顔立ちは、男前と評して差し支えないものだったが、そのなかでも黒い髪と黒い瞳の存在が抜きん出て異彩を放っていた。身に付けている黒い外套と合わさって全身が黒ずくめに見える。唯一、腰に下げた銀色の鞘に収まった長剣だけが闇夜を走る流れ星のごとく輝いていた。

 黒い髪と黒い瞳……そのどちらも主人は見たことがなかった。

 主人は物珍しさから思わず男の顔を凝視してしまい、視線に気づいた男と視線がぶつかった。男は戸惑ったような表情を浮かべたが、その黒い瞳にはすべてを吸い込む力でもあるのか、主人は咄嗟に目を離すことができなかった。

 ほんのわずかだが息が詰まるようなその時間は、女性の「遅いわよ!」という言葉で打ち破られた。


「馬を繋げるのにどんだけ時間掛かってるのよ!」


 男は主人から視線を外すと「うっさい! なんでも雑用を俺に押し付けんな!」と乱暴に言い返し、そのままテーブル席へと向かった。

 気まずい時間から解放された主人は、先ほどのふたりのやり取りから、見た目以外は案外普通の人なのかもしれない、と安堵する。

 ちなみにその男が黒い外套を使っているのは単に黒だと汚れが目立たないからというつまらない理由なのだが、そんなことを主人が知る由もなかった。




 少し遅れて店に入った修介は、すでにカウンター近くのテーブル席に座っている皆の姿を発見してそちらへと向かうが、宿の主人がやたらと見てくるのが気になった。ここは無難に挨拶でもしたほうがいいのかと修介は口を開きかけたが、サラから横やりが入ったことで、結局は何も言わずに視線を外した。

 店内を見回すと、修介達の他にも客が一組いるようだった。

 先に厩に繋がれていた馬はおそらく彼らのだろう。

 ぱっと見であまり関わり合いになりたくない連中であった。人を見かけで判断してはいけないとよく言われるが、男達は無遠慮な視線をサラに送っており、それだけも良い気分はしなかった。修介は男達の視線からサラを遮るような位置に椅子をずらして座った。

 椅子に座ると自分が疲れているのだということが実感できた。朝から昼過ぎまでずっと歩き詰めで少し足が痛かった。

 だが、その甲斐あってこのままいけば夕方前にはリーズ村に到着できるところまで来ていた。この宿場町から南にあと三、四時間と言ったところだろう。

 修介達は最後のひと踏ん張りの前に英気を養う為にこの店に立ち寄ったのであった。


「……ど、どうぞ」と店の女の子が修介達の前に少し怯えた様子で水の入った杯を置いていく。

 修介は安心させるように笑顔で礼を言ってから杯に口を付ける。井戸水であろうか、ひんやりとした水が瞬く間に身体に染みわたっていくようで気持ちが良かった。


「それにしても疲れたわねぇ」


 サラがやれやれといった感じでぼやいた。


「サラはほとんど歩いてなかっただろうが」


 修介のその言葉にサラは「なんのことかしら」と空惚けた。

 例によってサラはほとんど荷台に乗っていたので、ほとんど歩いていなかった。

 道中では交代でひとりずつ荷台の上で休むことになっていたのだが、修介は自分の番をほとんどサラに譲っていた。


 修介は基本的に女性に甘い。サラが疲れたと言えば荷台を譲り、荷台への乗り降りの際は手を貸し、荷物の上げ下ろしも言われなくても修介が行った。これは女性へのポイント稼ぎ、というよりは男ならそうして当然という価値観の元で行っているだけで、修介は友人からは「女で身を持ち崩すタイプだな」とよく言われていた。

 ちなみにエーベルトも荷台で休むことはせず、自分の番はサラに譲っていた。つまりサラは行程の四分の三は荷台の上だったということになる。


「私だって荷台の上からあなたに強化魔法を掛けたりとかして頑張ったんだからね」


 サラが胸を張りながらそう主張する。


「それ俺には効果ないだろ!」


 荷台の上で暇を持て余したサラが実験の続きと称して勝手に修介に向かって魔法を行使していたのだ。ちなみに、途中でノルガドから「無駄にマナを消耗するな!」と怒られて止めさせられていた。


「まったくおぬしらは口を開けば喧嘩ばかりだのう。仲良くせいとまで言わんが、少しは大人しくしとれんのか」


 ノルガドは呆れたように言うと、運ばれてきた堅パンを強引にちぎって水に浸してから口に運ぶ。

 エーベルトは興味ないと言わんばかりに腕を組んだまま目を閉じていた。

 修介は堅パンを手に取ると水に浸さずそのまま口に運んだ。その予想以上の硬さに思わず閉口する。パンは圧倒的に前の世界のほうがおいしかった。

 パンに限らず食に関して言えば、前の世界のほうがおいしさへの拘りは圧倒的に上であった。修介は食については大した拘りがなかったのでそれほど問題なかったが、それでもたまに前の世界の甘いお菓子などは恋しく感じることもあった。



「ちょ、ちょっとやめてください!」


 突然、中央のテーブル席から女の子の声とカランという乾いた音がした。

 振り返ってみると、どうやら中央のテーブル席の客が店員の女の子にちょっかいを出したらしく、驚いた女の子がトレイを取り落としたようだった。

 酔った男達が下卑た笑い声をあげている。


「嫌ねぇ、ああいうのってどこにでもいるのね」


 サラが心底軽蔑したような顔で言った。サラ自身も過去に嫌な思いをしたのだろうか。性格はともかく見た目は良いので、その分苦労もしているのかもしれない。

 修介はサラの言葉に頷きつつ「久々のテンプレイベントだなぁ……」とため息とともに呟くと、勢いよく手を上げて大声で店員の女の子を呼んだ。


「おねーさーん! ちょっといいっすかー!」


 店員の女の子は修介のその声に「は、はいっ、ただいま!」と慌ててお盆を拾い上げると修介達のテーブルへと駆け寄ってきた。その表情は露骨にほっとした様子だった。

 修介は女の子に「水のお代わりください」と言って杯を差し出す。

 女の子はそれを受け取るとカウンターの奥へと早歩きで向かおうとする。その背中に向かって修介は「ゆっくりでいいからね」と声を掛けた。女の子は振り返るとそっと頭を下げた。


 修介は女好きである。だが、女好きである以上、自分に対して常にそれに相応しい振る舞いをするよう課していた。

 美醜や損得は関係なく女性が困っていたら助ける。

 女性は守るべきもの、という考えが根っこにあり、男の体が女性よりも頑強なのは体を張って守る為だと本気で思っていた。結果的に好かれたらいいな、くらいの欲はもちろんあったが。

 そういう価値観の持ち主であったが為に、シンシアの時もサラの時も、考える前に行動に移してかなり酷い目に遭っていた。その点については反省していたが、行動を改めるつもりはなかった。そんな修介は友人から「キャバクラ行ったら全財産つぎ込むタイプだな」とよく言われていた。


 この時の修介も後先考えずに行動に移していた。

 その結果、気が付くと中央のテーブルにいた男のひとりが修介達のテーブルにやってきて、ものすごい形相で修介を睨んでいた。

 修介は「やっちまったぁ」と内心びくびくしながらも、仕方なく立ち上がって男の前に立つ。


(まぁ傍にみんなもいるし、なんとかなるだろう)


 修介はそんなことを思いながらそっと皆の様子を窺った。

 だが、イアンは怯えた表情で固まっており、ノルガドは夢中になってパンを頬張っている。そしてエーベルトは我関せずとばかりに目を閉じたまま微動だにせず、サラに至っては拳を作って小さく前に繰り出しながら『やっちゃえ』と口を動かしていた。


(ダメだこりゃ……)


 修介は嘆息した。

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