第32話 黒い影
修介達四班はロルフからの指示で出発の準備をしていた。
あの戦いの後、すぐにストルアン達とも合流できた。ロイもニールも無事であった。
ロイは修介がオークに絞殺されそうになったことを聞いて、喜々としてからかってきたが、後からニールに聞いた話だとロイも似たようなもので、オークに剣を弾き飛ばされあわやというところまで追い詰められたらしい。すぐさま駆け付けたストルアンがオークを切り倒したことで大事には至らなかったそうだ。
いずれにせよこうしてからかい合うことができるのも命あっての話である。
修介は荷馬車に負傷した二班の訓練兵を寝かせる為のスペースを作るべく荷物を整理していた。
そして、出来上がったスペースに毛布を敷こうとして、毛布を掴む自分の手が震えていることに気付いた。震えを抑えようと両手を抱え込むようにしたが、全身が震えていたので意味がなかった。
今になって自分が殺されかけたという現実に心が追い付いてきたのだ。
戦っている最中は興奮状態だったおかげで平気だったが、落ち着いた途端に死の恐怖が津波のように押し寄せてきていた。
のしかかってきたオークの狂気に彩られた目を思い出す。
あの時、アレサが声を発してくれなかったら、フィンが間に合わなかったら、間違いなく自分は死んでいただろう。
この世界に来て妖魔に殺されそうになったのはこれで二度目だが、だからと言って慣れるはずもなかった。たった数か月の間に二度も殺されかけたという事実が修介の心に重くのしかかる。
あんな恐ろしい思いをするのは二度と御免だと思う。
だが、そう思う反面、心の中には命懸けの戦いに生き残ったという達成感や、自分の実力で妖魔を倒したという充足感、そしてもっと強くなりたいという願望もたしかに存在していた。それは前の世界の人生では抱いたことのない類の感情だった。
修介は戦いに愉悦を覚える人間の気持ちが少しだけわかったような気がした。
ようやく震えが収まり一息ついたところで、修介は自分が同じ失敗を繰り返そうとしていることに気付いた。
一七歳の皮を被った四三歳の自分がこれだけ恐怖に
修介は顔を上げるとフィンの姿を探す。
フィンはもう一台の荷馬車で荷物を整理していた。
その姿は一見普段と変わらないように見えたが、よく見ると表情は強張り、動作はぎこちなかった。
「フィン! ちょっとこっち手伝ってくれ!」
修介の声にフィンは体をびくっと震わせる。そのせいで手に持っていた荷物を地面に落としてしまった。慌ててそれを拾って荷台の上に置くと、硬い表情のまま修介の元へと小走りでやってきた。
「なんですか?」
「悪いんだけど、この毛布を敷くの手伝ってくれないか? さっきから手が震えちゃって上手く敷けないんだ」
「手が震えて?」
「ああ、恥ずかしい話なんだけど、今頃になってオークに殺されそうになったことを思い出して怖くなってきちゃってさ。手の震えが止まらないんだよ。情けないよな……」
修介の言葉に意外そうな表情を浮かべるフィン。
「い、いえ、情けなくなんてないです。その……僕も同じですから……」
「だよな、普通に怖いよな!?」
「は、はいっ」
「よかったぁ、びびってるの俺だけかと思ったよ……」
修介は大袈裟に息を吐きだした。
「で、でも、シュウスケさんはひとりでオークを倒してたし、ぜんぜん余裕なのかと思ってました」
「んなわけないって。俺も実戦は初めてみたいなもんだったから、ずっと心臓がバクバクいってたよ」
「そうだったんですね……」
フィンの表情に安堵の色が浮かぶ。
その表情を見て修介は小さく頷いた。
自分と似たような感情を抱き、共感してくれる人間が傍にいるというのは大きな安心感を生む。事実、修介の心もフィンと感情を共有したことで救われていた。
「そっちの端、持ってくれ」
「わかりました」
フィンは頷くと、毛布の端を持って丁寧に荷台の上に敷いていく。
「……でもまぁなんだ。こうしてお互い生き残れたんだから良かったよな」
「そうですね」
お互い手を動かしながら、視線は合わせずに会話を続ける。
「俺がこうして生きていられるのはフィンのおかげだし、フィンが生きているのは俺のおかげだよな?」
「……はい」
「つまり、俺達は同じオークに殺されかけた、言わば同志ってわけだ」
「はい?」
フィンの手が止まる。
「だからってわけじゃないが、この遠征中にまた妖魔と戦うことがあったら、俺はお前が危なくなったら絶対に助ける。だからお前も俺が危ない時は助けてくれよな? そうすればお互いに生きて帰れるって寸法だ」
修介の言葉にきょとんとするフィンだったが、言葉の意味を理解すると嬉しそうに大きく頷いた。
「わかりました!」
フィンの笑顔を見て、修介はこの世界に来てようやく自分が大人らしいことができたなと、ひとり満足げに頷くのだった。
その後も手分けして作業を続けていた修介達だったが、修介にはひとつ気に掛かっていることがあった。
「そう言えば、妖魔の死体を放置したままだけどいいのか?」
周囲に視線を巡らせながら修介は疑問を口にする。
戦場だった平原には、オークの死体があちこちに転がったままだった。
「そういえば……なんでですかね?」
フィンも首を傾げる。
座学では妖魔の死体は別の妖魔を引き寄せる可能性があるので、可能な限り死体を焼くよう習っていた。
この世界では人が死んだ場合は土葬が基本で、火葬を行う習慣はない。だが、妖魔は異世界起源の生命体なので、土に還すことはせず炎で燃やして浄化するのだ。
それだけに死体を放置するのはかなり異例の処置といえた。
妖魔の死体を処理せずに出発を急がせるような事情が何かあるのだろうか。
「ストルアン殿に確認してみるか……」
修介はそう呟くと、視線をストルアンの方に向けた。
そして、一目でストルアンの様子がおかしいことに気付いた。
ストルアンは修介達の作業を監督するどころか、心ここにあらずといった感じで地面の一点を見つめたまま微動だにしていなかった。
そもそも、ストルアンなら修介が気付くよりも早くフィンの精神面へのフォローが必要だと察して行動していただろうに、それがなかった時点ですでにおかしいのだ。
修介はストルアンの様子が気になって近づこうとした。
(……あれ?)
ふと、視界の端に何かが映ったような気がした。
修介は空を見上げた。
街を出た時にあった分厚い雲はすでになく、そこにはいくつかの白い雲と抜けるような青空が広がっていた。地上での凄惨な殺し合いが嘘のようなさわやかな空だった。
あらためて視線を巡らす。
遥か遠くの南西の空に浮かぶ白い雲。
その雲に影が重なっているように見えた。
一見鳥のようにも見えるが、そもそもあんな遠くにある物体を鳥と認識できる方がおかしい。遠近感が狂ってしまったかのようだった。
目を凝らして影を見る。
巨大な蝙蝠のような翼を広げたそれは、あきらかに鳥ではなかった。もっと恐ろしい別の何かだと直感した。
背筋にぞくりと寒気が走り、修介は傍にいたストルアンに声を掛ける。
「ストルアン殿! 向こうの空に巨大な黒い影が!」
その声にただならぬ気配を察したのか、ストルアンははっとして空を見上げる。
ストルアンはしばらくじっと影を見つめていたが、何かに気付いたのかおもむろに駆け出した。わけがわからないまま修介も後に続く。
修介は走りながらも空にある黒い影を見続ける。この距離からでは影が近づいているのか遠のいているのかすらわからない。
ストルアンはマシューと共に作業を見守っていたロルフの元に駆け寄ると、空を指しながら大声で叫んだ。
「ロルフ! あれはなんだッ!」
唐突に呼ばれたロルフはいぶかしげな顔をしたが、ストルアンの様子にただごとではないと察すると目を凝らして空を見る。
「なんだあれは……鳥、ではないな……まさか……」
ロルフは独り言のように何かを呟いていたが、その表情が徐々に強張っていく。
そうしている間にも黒い影は雲の合間に消えてしまった。どうやら影はゆっくりと遠ざかっていたようだった。
「ロルフ、どうだった?」
傍で見ていたマシューが空を見上げたまま呆然としているロルフに声を掛ける。
「……遠すぎたので確証はありませんが、あれは鳥ではありません。もっと巨大なものです……。私も実物を見たことがないのではっきりとしたことは言えないんですが、あれはまさしく……」
そこまで言ったところでロルフは言い淀んだ。唇がわずかに震えていた。
「なんだ、回りくどいな。何がいたんだ。ドラゴンでもいたか?」
マシューは冗談めかしてそう言った。
ドラゴン――修介はその名に思わず反応した。
ファンタジー好きなら知らない者はいない有名なモンスターである。
この世界にもドラゴンが存在しているということは修介も座学で学んで知っていた。安全が確保できた状態なら、一度はこの目でドラゴンを見てみたいと思っていた。
だが、ドラゴンはかつての魔神との戦いの折に絶滅させられており、この大陸には存在していないということも知っていた。
故にマシューのその発言には冗談以外の意図はないはずだった。
「……わ、私の目にはそう……見えました」
ロルフの一言で場が静まり返る。
マシューの表情は笑顔のまま固まっていた。
ドラゴンがこの地にいるなど、マシューの常識ではありえないことだった。
「冗談だろう?」
そう言ったマシューだったが、ロルフが生真面目でそういった類の冗談を決して言わないことをよく知っていた。そして彼の視力の良さも。
突然、ストルアンが駆け出した。
「ストルアン殿!」
修介は大声で呼び止めたが、ストルアンはそのまま近くの馬に飛び乗った。その表情には鬼気迫るものがあった。
「ストルアン!」
マシューが慌てて駆け寄り手綱を掴んで無理やり止めようとする。
だが、ストルアンは止まらない。馬が混乱して暴れる。
「馬から降りろストルアン! これは命令だ!」
「行かせてください隊長! あの黒い影が飛んでいた付近には村が……俺の故郷があるんです!」
ストルアンの声は悲鳴に近かった。
「わかっている! だからこそ貴様を行かせるわけにはいかない! 今の貴様は冷静さを欠いている。貴様の独断で部隊を危険に晒すわけにはいかん!」
「どいてください!」
「どかん! どうしても行くなら、俺はこの場で貴様を斬らねばならん!」
マシューはそう叫ぶと、ストルアンの前に回り込んで剣を抜いた。
「――ッ!」
マシューが剣を構えるのを見てストルアンの動きが止まった。
「……ストルアン、もう一度言う。馬から降りろ。これは命令だ」
諭すようにゆっくりとマシューが言う。
ストルアンの顔から表情が消えた。
ストルアンは力なく
手綱を握ったままのその手は小刻みに震えていた。
マシューはふぅと息を吐きだすと、事態に付いて行けずに固まったままのロルフに向かって声を掛ける。
「出立準備を急がせろ! それとナヴィーンとヘイグのふたりを偵察に出せ! その間の訓練兵の指揮は俺がとる」
ロルフは雷に打たれたかのように駆け出していった。
修介はその様子を呆然と眺めていたが、マシューから「お前も行くんだよ」と言われ慌てて班のところに戻ろうとしたが、班を率いる肝心のストルアンが動かずにいることに気付いて足を止める。
ストルアンは力なく立ち尽くしたまま動こうとはしなかった。
「やつのことはしばらくそっとしておいてやれ」
マシューはそう言うと、さっさと行けとばかりに手を振った。
修介は後ろ髪引かれる思いでその場を立ち去ったが、ストルアンの姿が頭から離れなかった。颯爽と自信に満ち溢れていたストルアンの変わりようは修介の心に少なからず動揺を与えていた。
修介は動揺する心を抑えつけて班の皆がいる場所へ向かう。
ストルアンが戻るまで、修介とロイで班をまとめなければならない。
今は自分にできることをやるしかなかった。
ハース村に到着した演習部隊を待ち受けていたのは地獄のような光景だった。
ここが一〇〇人からの村人が住んでいた村だと言われても、修介はにわかに信じることができなかった。
村のあちこちから黒煙が上がり、元は木造の家だったと思しき建物はほとんどが燃え尽きており、わずかに残った家も強風で煽られたかのように屋根が吹き飛び、壁が崩れ去っていてとても人が住めるような状態ではなかった。まるで火災と台風が同時に起こったかのようだった。
村の周辺に広がる緑の絨毯のような畑にはあちこちに黒いまだら模様ができあがっており、今も黒煙が立ち昇っている。
そして村のいたるところに炭の塊のような物が転がっていた。それが焼け焦げた人間の死体だと気付いた訓練兵達は最初に絶句し、次いで悲鳴をあげた。道端で吐いている者すらいた。
さしもの歴戦の騎士達もこの凄惨な光景に絶句していた。マシューですらしばらく呆然と立ち尽くしていたくらいであった。
「ああああああああっ!!」
焼け落ちた家の前で絶叫が響き渡る。
ストルアンが人目もはばからず泣き叫び、地面に拳を叩きつけていた。
おそらくその家が彼の生まれ育った家だったのだろう。騎士になるという夢を叶え、ようやく故郷に胸を張って帰ることができるはずだったのに、その願いは無残にも潰えてしまったのだ。
あまりにもつらい現実を突きつけられ慟哭するストルアンに、声を掛けられる者は誰一人いなかった。
修介も離れたところからその姿を見ていることしかできなかった。
村をひとつ丸ごと焼き尽くすなど、とても人間の手によって行われたものとは思えない凶行だった。
先に偵察に出ていた騎士達の報告では周辺に妖魔の影はなかったそうだが、だとすればやはりあの西の空へ飛び去っていった巨大な黒い影がやったのだろうか。修介は黒い影が飛び去った方角の空を見上げたが、当然そこにはもう何もいなかった。
修介と同じことはマシューも考えていた。
だが、今は考えることよりも先にやるべきことがある。
マシューはショックから立ち直るとすぐに騎士達に指示を出す。
「全員で生存者を探せ! がれきの下、建物の中、井戸の下、あらゆるところをくまなく探すんだ!」
マシューの声に固まっていた騎士達が動き出す。そしてそれを見た訓練兵達も次々と散らばっていった。
捜索と並行して村人の死体を広場に集める作業も行われた。
運び込まれた死体のほとんどは焼死体だったが、なかには体の一部が欠損している死体があった。まるで巨大な顎で喰いちぎられたかのように体の半分を失っている死体まである。
村を丸ごと焼き払い、身体の半分を喰いちぎる。
人間どころか、並の妖魔にできる所業ではなかった。もっと巨大なモノ……例えばドラゴンのような生き物なら可能だろう。
だが、それはありえない。
ドラゴンは六〇〇年前のはるか昔に滅び去った伝説の生き物だ。この数百年、ストラシア大陸でドラゴンの存在が確認されたことは一度もない。
しかし、目の前の凄惨な光景がそれは真実だと激しく主張しているような気がしてならなかった。
もしこの凶行があの飛び去った巨大な影によるものだとしたら、これだけで終わりではないということだ。第二第三の襲撃が行われるのは火を見るより明らかだった。それだけは防がなければならない。
マシューは次々と運ばれてくる村人達の死体を沈痛な面持ちで眺めながらも、心は煮えたぎるように熱くなっていた。この犯行を行った者には相応の報いをくれてやることを固く剣に誓った。
「隊長、これを見てください」
死体を検分していたロルフに声を掛けられ、マシューは顔を上げる。
「何かあったのか?」
「焼死体のうち、いくつかの死体は人間の物ではありません」
「なんだと? では何の死体だというのだ?」
「丸焦げなのでわかりづらいですが、おそらくオークです」
「オークだと? なぜオークの死体が村にあるんだ?」
「それはなんとも……ただ、村人の死体には明らかに刃物で切り付けられたような痕もありました。これは私の推測ですが、この村は最初オークに襲われていたのではないでしょうか?」
「だがオークにこれだけのことができるとは思えん」
マシューは村を見渡しながらそう言った。
「ですから、オークに襲われた後、もしくは最中に、例の巨大な影に襲われたのではないでしょうか。それならば我々を襲ったオークが逃げていたように見えたのも合点がいきませんか?」
「ふむ……」
ロルフの説は理にかなっていた。先ほど遭遇したオークの一団は巨大な影から逃げている最中に演習部隊と遭遇した――そう考えれば、あのオークどもの動きにも納得がいく。
そしてそれは別の可能性も示唆していた。
もしオークの襲撃と巨大な影の襲撃に時間差があったのだとすれば、巨大な影に襲われる前に村人がどこかに避難している可能性もゼロではないということだった。
いくら村人とはいえ一〇〇人近くの人がいたのであれば、それなりに抵抗する力はあったはずだ。女子供を逃がす時間くらいは稼げた可能性がある。
「少し危険だが、捜索の範囲を広げる必要があるな……。たしかこの村の近くに小さな森があったはずだ。村が最初にオークに襲われたのだとしたら、もしかしたらその森に避難した村人がいるかもしれん」
「しかしそろそろ日が暮れます。森に入るのは危険では?」
「まだしばらく時間がある。可能性がある以上は確認しないわけにはいかん」
そう言うとマシューは這いつくばったまま動かないストルアンに視線を向けた。
「あいつの班に行かせろ」
「そ、それはあまりにも酷なのでは……」
ロルフは困惑した顔で言ったが、マシューは首を横に振る。
「他の班は先の戦闘での消耗が激しい。今の我々に五体満足の騎士を遊ばせておく余裕はない。限りなく低いとはいえ生存者がいる可能性があるならばあいつも動くだろう。時間がない急げ」
「……わかりました」
ロルフはまだ何か言いたそうだったが、マシューはそれを無視すると他の騎士達に指示を出すためこの場を後にした。
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