第26話 口癖
その後、アレサを宥めながらなんとかその日の勉強を終えた修介は、ベッドに背を預けて床の上に座ったまま考え事をする。
この二ケ月でだいぶこの世界での生活に馴染んだように思うが、それでいてどこかこの世界で暮らす自分を他人事のように見ているような感覚があった。異世界転移などというふざけた状況をまだ心が完全に受け入れ切れていないのかもしれない。
実はこの世界での生活は全部夢で、ふと目を覚ましたら以前の生活に戻っているほうがよほど現実的に思える。
だが、そんなことを思いながらも考え方は着実にこの世界に染まってきていた。
まず転移する前の自分だったら間違いなく危険な郊外演習に参加しようなどとは考えすらしなかっただろう。妖魔に殺されそうになったあの時の恐怖は今でもはっきりと覚えているが、それ以上に訓練で強くなった自分の力を試してみたいという欲求が強くなっていることも自覚していた。
良くも悪くも周囲からの影響を受けやすい性格の修介は、この訓練場での座学で妖魔がいかに悪辣な存在なのかを学んだ為、妖魔を殺すことへの忌避感もなくなっていた。
妖魔には見た目も生態も異なる様々な種が存在しているが、すべての妖魔に共通していることは人間を襲い、殺し、そして喰らうことである。なかでもゴブリンやオークの雄は人間の女性を喰らう前に犯すこともあるという。それは子孫を残す為の行為ではなく、快楽の為と、それが人間の尊厳を踏みにじる行為だと知っているからそうするのである。
修介が座学で初めてその話を聞いた時は、あまりの胸糞の悪さに吐き気すら催した。
もしシンシアと初めて出会ったあの時に、助けることができなかったらどうなっていたのか、考えたくもなかった。
もちろんこういった妖魔への風評は、人間の側から見た一方的なものだということは承知していたが、それでも修介のなかでの妖魔への心証はゴキブリ以下となっていた。害虫と同じで見つけたら殺すことを躊躇しないだろう。
こういった自身の変化は歓迎すべきことなのかどうか、今の修介にはその判断がつかなかった。
修介はしばらくのあいだ惚けた顔で天井を眺めていたが、今日あった出来事でひとつアレサに報告していないことを思い出した。
「そういえばさ、今日レナード達と話してた時に『マジで』って言葉が翻訳されなかったんだけど、なんで?」
修介は一連の出来事を流れに沿ってできる限り詳しくアレサに説明した。
『……おそらくですが、それが意識的にした発言ではなく本能で咄嗟に出た言葉だったからだと推察します』
しばらくの沈黙の後、アレサはそう言った。
「どういうこと?」
『例えば、マスターが沸騰したヤカンの蓋を間違えて触ったらなんて言いますか?』
「……そうだな、『あっちー』とか『あつっ』とか言いそうだな」
『それは「熱い」という言葉の意味を意識して言ったわけではなく、反射的に出た言葉ですよね?』
アレサのその言葉で修介の顔に理解の色が浮かぶ。
「なるほど……つまり俺の言った『マジで』は意識せずに反射的に言ったから言語ツールが翻訳しなかったってこと?」
『そうです。言語ツールは言葉を発する人間の意識や意図を察知して適切な翻訳を行うツールです。本能で発せられる悲鳴や口癖などの『音』は翻訳しません』
「今更だがすごいな、言語ツール……」
それだけのことをリアルタイムで行っているとは……さすが人類の常識を超越した技術で作られただけのことはある。同時にそんな大層なものが自分の脳内にインストールされているのだと考えると、そら恐ろしくもあった。
「それにしても、俺の『マジで』は本能で出るレベルの口癖なんだな……」
言語ツールが拾わないレベルで口癖になっているということは、たまたま今回はロイが突っ込みを入れたから発覚しただけで、おそらく今までも無意識に言ってしまっていたのだろう。
よくよく考えてみたらこの世界に来て以来、身分の高い人や目上の人と会話する機会が多かったせいで丁寧語ばかり使っていた印象がある。ここにきてようやく対等の立場で会話できる人間に出会ったことから、一気に癖が出てしまったのかもしれなかった。
『あと、今後のことを考えてあらかじめ言っておきますと、歌も翻訳されません』
「え、そうなの?」
『言語ツールは歌のことを会話ではなく音楽として認識します。なのでマスターがこの世界の歌を聞いても聞きなれない言葉に聞こえるはずです。逆もしかりで、マスターが日本語の歌を歌ってもこの世界の人間には理解できないでしょう』
「なるほどな。この世界に来てから歌を聞く機会なんてなかったから気付かな――」
言っている最中に修介の脳裏に閃光がほとばしった。
「それだよ、アレサ! この世界の単語を発音する時、歌えばいいんじゃね?」
それは今までの単語発音問題を解決する画期的なアイデアだった。歌は翻訳しないのであれば、その単語が使われている歌をアレサが歌えば、その単語の正しい発音を耳にすることができるという寸法だった。
『嫌です』
アレサの回答は実にシンプルな拒絶だった。
「なんでだよ!」
良いと思ったアイデアを秒で断られ、さすがに修介も憤慨した。
『……私には歌を歌う機能は搭載されていません』
「嘘つけ! それなら『嫌です』じゃなくて最初からそう言うだろお前は。それに俺は覚えているからな。一番最初にこの世界に来た時に、俺が音楽を流してくれって言ったら普通に音楽を流しただろうが。つまりこの世界の歌も流せるはずだ!」
『よくもまぁそんな細かいことを覚えていますね……モテませんよ?』
最後の一言は小声だったが、修介にはばっちり聞こえていた。
「俺がこの世界の言葉を読み書きできるようになる為なんだから協力してくれたっていいだろう?」
『発音がわからなくても読み書きを覚えることはできているではありませんか』
実際その通りだし、今更正しい発音がわかったところでどうなるわけでもないのだが、修介としてはずっと発音がわからなくて悶々としていたのも事実なので、できることなら聞いてみたいと思っていた。
「なんでそこまで拒否するんだよ?」
『……』
「アレサ?」
『――しいからです』
「ん? なんだって?」
急にアレサの声が小さくなったので、修介はアレサを耳元に近づける。
『恥ずかしいからです』
「はあ?」
自分でも驚くほどの間の抜けた声が出た。
『音楽を流すのは平気ですが、歌を流すのは恥ずかしいから嫌です』
「お、おう……」
機械音声ゆえに抑揚がまったくないので、とても恥ずかしがっているように聞こえないところが厄介だった。本気で言っているのかどうか正直わからない。そもそも人工知能が恥ずかしいと思うこと自体が意味不明だった。
だが、なんせ相手は人類の常識を超越した技術で作られた人工知能である。人間以上に人間味に溢れていたとしても不思議ではなかった。それでもまさか『歌うのが恥ずかしい』という右斜め上の反応が返ってくるとは夢にも思わなかったわけだが。
とはいえ、以前からアレサには感情があるという前提で接すると決めていた以上、アレサが嫌がることを強要するつもりは修介にはなかった。アレサとは今後も良好な関係を維持促進していく必要がある。
「……わかった。歌うのはなしだ。無理を言ってすまなかったな」
修介は素直に頭を下げた。
『ご理解いただけてなによりです。マスター』
言葉に抑揚がないのは相変わらずだが、なんとなくその声にほっとしたような印象を受けたのは考えすぎだろうか。修介はアレサを眺めながらそんなことを思った。
「ちなみに、音楽を流すのはオッケーなんだよな?」
『はい』
「じゃあ、久々に前の世界の音楽が聴きたいな。適当に流してくれないか?」
そう言って修介はアレサをベッドの枕元に立て掛けた。
『了解しました、マスター』
アレサから修介好みの静かなクラシック曲が流れ始める。周囲に配慮したのか、音量はかなり控えめであった。
もう物理的に前の世界の物に触れることができない修介にとって、アレサが流してくれる音楽は、前の世界との繋がりを感じることができる唯一の手段だった。
修介はそのままベッドに横になり、目を閉じる。
瞼の裏に様々な景色が浮かんでくる。
電車の窓から見える海。
商店街の薄汚れたシャッター。
近所にある神社の色の剥げた鳥居。
庭に植えられたプチトマトの苗。
台所で料理する母の後ろ姿。
仰向けに寝ている愛猫の腹。
流れる音楽は懐かしさと共に前の世界の思い出や景色を蘇らせてくれる。
『今夜はこのまま音楽を流したままにしますか?』
「ああ、頼む……」
そんな気遣いができるアレサを実のところ修介はかなり気に入っていた。
この二ケ月、毎日たくさんの話をした。
ああだこうだと言い合うのも楽しかった。
自分ひとりだったらとっくに心が壊れてしまっていたかもしれない。
いつの間にか修介にとって、アレサはなくてはならない存在となっていた。
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