第25話 日課

 ふたりと別れた修介は、一度自室に戻るとアレサを手にして再び宿舎の外に出た。

 修介は訓練以外でも宿舎の裏庭でアレサの素振りを行うことを日課としていた。

 訓練用の剣は普通の片手剣だが、アレサは片手剣より全長が少し長く、柄も両手で持つことができるように少し長い。その分重量もあるのでアレサの扱いにも慣れておく必要があった。

 実戦が想定される今度の郊外演習には当然アレサを持っていくつもりだった。

 教えられた型を頭に思い描き、それを再現するようにアレサを振る。

 修介は素振りをしている時間が割と気に入っていた。訓練後で身体はきついのだが、無心で剣を振っていると余計なことを考えて不安を感じずに済むので心が楽だった。元々何かに没頭すると時間を忘れる質だったので素振りは性に合っていた。


 この二ケ月でだいぶ身体も鍛えられ、それなりに強くなっているという実感はたしかにあった。

 とはいえ、たかが二ケ月である。たったの二ケ月で剣の道が極められるわけもなく、模擬戦でもレナードやハーヴァルにはまったく勝てていない。

 しかし、わずか二ケ月で長年訓練を積んできたであろう他の訓練兵相手に勝ち負けができるようになっていた。

 修介はそのことに違和感を覚えていた。

 自分に特別な剣の才能があるとは思っていない。

 違和感は自分にではなく、この世界の人間に対して抱いていた。


 この世界の人間はのだ。

 それは心のことではなく身体的な、つまり反射神経や運動神経といった類のものが修介に比べて鈍いように感じられるのである。

 口幅ったい言い方をすれば『鈍臭い』のだ。

 号令を掛けられてからの動き出しから、模擬戦の時の回避行動など、あらゆる場面で訓練兵達の反応が鈍く感じられるのだ。個人差こそあれ、あのレナードにすら反応が鈍いと感じる場面があるくらいだった。

 もちろんランドルフのようにそれを感じさせない者もいるのだが、多くの訓練兵が修介より圧倒的に鈍臭かった。


 前の世界での一七歳の頃の修介は、平均より多少は反射神経や運動神経が優れていたが、それはトップアスリートになれるほどの物ではなく、せいぜい中の上か上の下といった程度であった。

 だが、修介はこの世界に来てから、ことあるごとにレナードやハーヴァルから「反応が良い」と言われていた。どうやら彼らからすると修介の反応速度は異常に優れているらしい。

 以前、不思議に思った修介はそのことをアレサに質問してみたのだが、返ってきた回答はいつものテンプレ回答であった。むしろ『自意識過剰なのでは?』などと言われたくらいである。

 もちろん勘違いという可能性もあるし、今のところそのことで困っているわけではなく、むしろ助かっているので、修介はあまり深く考えないようにしていたが、なんとなく気味の悪さは拭えなかった。



 素振りを終えた修介は、宿舎の外にある井戸の水で身体を拭いてから部屋に戻った。


『おつかれさまでした、マスター』


 アレサの声に修介は「おう」と軽く応じる。

 アレサには部屋以外では声を出さないように厳命していた。ただでさえ見た目が上質な剣で目立つのに、さらに言葉を発するなんて周囲に知られた日にはどうなるか考えたくもなかった。

 その分、修介は部屋にいる間はアレサと積極的に会話していた。この世界でもレナードやロイのような気の置けない友人は出来たが、なんだかんだで事情をすべて把握しているアレサとの会話は気が楽だった。


 最近の修介は就寝までの時間はアレサからこの世界の文字の読み書きについて教わっていた。

 教材についてはメリッサに文字が読み書きできない旨を話したところ、子供向けの絵本を貸してくれた。ちなみに、この世界ではまだ本は高価な物らしく、本来であれば軽々しく借りられるようなものではないらしい。

 後でメリッサから聞いたのだが、借りた絵本はアルフレッドが生前に読んでいた絵本らしく、事情を聞いたシンシアが修介に渡すようにとメリッサに言ったらしい。

 ますますシンシアに頭が上がらなくなったような気がしたが、今は素直にその厚意に甘えさせてもらうことにした。

 そんなわけで修介は借りた絵本を教材にして文字の勉強に勤しんだわけだが、読み書きの習得は思わぬところで難航していたのである。


 修介は日常会話を老人によって脳内にインストールされた言語ツールに頼っていたが、実はこの言語ツールが文字の読み書きを習得するうえで弊害となっていた。

 この世界の文字は漢字のような表意文字ではなく、ひらがなやアルファベットのような表音文字となっており、全部で三二文字で構成されている。その三二個の文字を並べて単語を形成するわけだが、アルファベットのように単語になると発音が変わるのだ。

 ここで言語ツールが邪魔をした。

 文字を一文字ずつ発音する場合は問題ないのだが、単語を正しく発音すると言語ツールが自動的に脳内で日本語に変換してしまうのだ。そのせいで読み書きのうち『読み』の部分で大混乱が生じた。

 三二個の文字を覚え、次に単語を見て意味を覚える。ここまではいい。

 だが、単語の正しい発音をアレサに聞くと日本語が聞こえてくるのだ。また、自分が正しいと思える発音をしても勝手に日本語に変換される為、どう頑張っても正しい発音を聞くことができないというジレンマに陥ったのだ。

 読み書きだけなら発音は必要ないのかもしれないが、単語を覚える時に発音を一緒に覚えられないのは効率が悪かったし、何より気味が悪かった。

 言語ツールはパッシブスキルとなっているせいで、こちらの意志で効果をオフにできないのがもどかしかった。

 それでも修介はアレサとああだこうだと言い合いをしながら少しずつ文字と単語を覚えていき、最近になってようやく自分の名前や日常でよく使いそうな単語は書けるようになった。



 この日の夜も修介はベッドにもたれかかりながら、先日新しく借りてきた本を開いてアレサにわからない単語の意味や文法を聞きながら、翻訳作業に悪戦苦闘していた。

 この世界に来てからの勤勉ぶりには修介自身も驚いていた。

 当初は若返りによる効果なのだろうと思っていたが、最近ではそれだけではなく、この宿舎にいる訓練兵達の訓練に挑む真剣な姿勢に影響されているのではないかと思うようになっていた。

 ふと、先ほどのレナード達との会話を思い出す。


「……そういえばさ、明後日からの郊外演習なんだけど、最近妖魔の目撃情報が増えているらしくて、結構やばそうだってレナードやロイが言ってたよ。なんか上位妖魔の目撃情報や超巨大な鳥が飛んでいるなんて噂まであるらしいよ」


 本に目を落としながらアレサに話し掛ける。

 修介はその日あったことはなるべく包み隠さずアレサに話すようにしていた。まるで学校であった出来事を喜々として母親に話している小学生のようで微妙な気分になるが、多くの情報をアレサと共有して客観的な意見を求めるようにしていた。この世界の知識が豊富なアレサの意見は重要な判断材料であった。


『危険だとわかっているのなら参加を見合わせることを推奨します』


「いや、そういうわけにもいかないだろ」


 アレサは過保護なまでに修介が危険に近づくことを避けようとする傾向があった。ガイド役としてマスターの安全を最優先に考えなければならないという使命感からそうしているのだろうが、なにせ声に抑揚がないので言葉からその真意を読み取ることができないのだ。

 以前アレサに確認した仕様では、この世界でアレサと意志疎通ができるのはマスター登録を行った修介だけとなっているらしい。つまり修介が死んだらアレサはただの剣になってしまうことから、単にそれを避けようとする生存本能という可能性もあった。


『郊外演習に参加して得られるメリットに、命の危険を冒すだけの価値があるとは思えません』


「そんなことはないよ。郊外演習は最大限安全に配慮されたうえで実戦経験が積める貴重な場なんだ。参加人数が多いから、ひとりでその辺の森に行って妖魔と戦うよりもよほど安全だし、それに騎士も随伴してくれるしな」


『上位妖魔の存在を考慮すると、騎士がいても安全とは言い難いです』


「上位妖魔云々はあくまで噂レベルの話だからな」


『可能性が少しでもあるなら避けるべきです。安全性を考慮するならここで訓練することが最も良い選択です』


「そうかもしれないけど、それだと実戦経験が積めないだろう? 模擬戦は何度もやってるけど、やっぱり訓練と実戦は全然違うからな。郊外演習は妖魔との実戦経験が積める貴重なチャンスなんだよ」


 訓練で技術は向上するだろうが、その技術が実戦で使えなくては意味がない。命の危険に晒される実戦で普段通りの力を発揮する為には場慣れしておく必要がある。実戦の為に実戦で経験を積むというのもおかしな話だが、元々郊外演習は実戦経験がほとんどない素人集団に可能な限り安全に実戦経験を積んでもらう為の場なのだ。いくらゴブリンが弱いからといっても、実戦経験がない人間がいきなりゴブリンと対面して冷静でいられないことは修介が一番よくわかっていた。


『マスターは死にたくないから強くなるんですよね?』


「まぁそうだな」


『それなのにあえて危険に近づこうとするマスターの行動が理解できません』


「言いたいことはなんとなく理解できるんだけどな……強くなるのはもちろん死にたくないからだが、それだけというわけじゃないんだ」


 修介は頭の中でこの世界に来てから漠然としていた自身の考えを整理する。

 まず前提として『死にたくない』という強い思いがある。

 だが、この世界に来てからの修介にはそれとは別に『男として強くありたい』という願望も強くなっていた。

 なぜ前の世界で強くなることに執着がなかったのかと問われたら、それは強さが生きていく上で必須ではなかったからだ。安全な日本では強さに頼らなくても普通に生きていける。強ければその分選択肢は増えただろうが、それ以外の能力を伸ばした方が圧倒的に多くの選択肢が得られる世界だったのは間違いなかった。


 しかし、この世界では強さの価値が前の世界とは比較にならないくらい高い。

 日本では国内を旅行しただけで殺されるようなことはまずないだろうが、この世界では街道を旅する間に妖魔や野盗に襲われる可能性が十分にある。つまり理不尽な暴力に晒される可能性が極めて高く、弱いことはそのまま死に直結するのだ。

 もちろん自分が強くならなくても、頑張って商売して金持ちになって強い護衛を雇えば安全に旅ができるだろう。もしかしたらアレサは修介にそうなってほしいと思っているのかもしれない。

 だが、ここで最初の『男として強くありたい』という思いが前に出てくる。まず自分の身は自分で守りたいのだ。そしてあわよくば美しい女性を守って懇ろになるところまでが男の野望というものである。シンシアやローブ女の時は失敗したが、次にそういった機会があれば颯爽と助けたいと思うのは当然であろう。この世界では単純に強い男の需要が高いのである。


 そんなことをつらつらとアレサに言って聞かせる修介。


『つまりマスターはモテたいから強くなるのですか?』


「いやそうじゃないから。なんで最後の部分だけ拾うんだよ」


 心なしかアレサの声が冷ややかに感じられたが、アレサの声は機械音声で感情がこもっているはずがないので単に修介の被害妄想である。


『では、マスターは生きることよりも強くなることを優先しているのですか?』


「うーん、そういうわけでもないんだよなぁ……死ぬのはもちろん嫌だし、強くなりたいという気持ちも強いけど、どっちが上とかじゃないんだよな。ただ、死を怖がるあまり、それを恐れて何もできなくなるのが嫌だって言うか……うまく言えないんだけど、一度死んで生き返ったからか、リスクを恐れて縮こまって生きるより、せっかくだから思うように生きてみたいという気持ちが強くなっているのかもしれん」


 修介は思いをうまく言葉にできないもどかしさを頭をかくことでごまかした。


『マスターのおっしゃっていることは要領を得ませんが、多少のリスクを冒してでも強くなることを望んでいるということは理解できました』


「うん、まぁそんなところだ」


『私としてはここに留まってほしいところですが、マスターがそう決めたのでしたら私からはこれ以上何か言うつもりはありません』


「悪いな。でも心配してくれてありがとうな」


 そう言って修介はアレサの鞘に軽く触れた。


『気安く触らないでください』


「なんでやねん」


 どうやら意見が受け入れられなかったことで、少しご機嫌ナナメになってしまったようだった。

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