第21話 転機

 その日は朝から宿舎内がなんとなくざわついていた。その理由を修介が知ったのは訓練が始まってからだった。

 視察という名目でシンシアがランドルフを伴って訓練場を訪れたのだ。

 辺境伯の令嬢と領内随一の実力と目されている騎士の登場に、訓練兵達が騒然としないはずがなかった。

 シンシアはそんな訓練兵達のざわめきなどどこ吹く風で微笑みを浮かべながらハーヴァルから訓練についての説明を受けていたが、ふと訓練兵達の方に視線を向け、修介の姿を見つけると小さく手を振った。

 修介はすぐにそれに気付いたのだが、周囲が「誰に手を振ったんだ?」とざわついたので、さすがに手を振り返すことはしなかった。


 この日の訓練はシンシアの視察に合わせて模擬戦が行われることになった。

 訓練兵達は将来仕えることになるかもしれない辺境伯の令嬢と、憧れの騎士を前にして目の色を変えていた。特に模擬戦でランドルフの目に留まれば、騎士として取り立ててもらえるかもしれないのだから当然だろう。

 目の前で繰り広げられる模擬戦を、ランドルフは真剣な面持ちで見つめていたが、シンシアは野蛮なことが苦手なのかやや退屈そうだった。あくびを堪える瞬間を修介は何度か目撃していた。


 だが、模擬戦が修介の番になるとシンシアの態度は一変する。「シュウスケ様ー!」と大声を出して応援し始めたのである。

 これには訓練兵だけでなく、ハーヴァルも唖然としていた。おまけに貴族でもなんでもない修介を「シュウスケ様」呼ばわりである。

 その露骨なえこひいきぶりに修介は冷や汗をかいたが、それ以上に対戦相手の訓練兵が戸惑っていた。実力では修介に勝ち目のない相手だったが、相手の訓練兵はお嬢様の声援を受ける修介に勝ってしまっていいのか、判断がつかなかったのだ。

 すぐにランドルフに窘められシンシアは大人しくなったが、なんとなく気まずい空気は払拭されないまま、それでも修介は全力で戦い、そして案の定負けた。

 修介の敗北に、シンシアは負けた当人以上にがっかりしていたようだった。



 敗北のペナルティとして木桶を持って湖まで往復した修介は、訓練場に戻ってくるなりハーヴァルに呼び止められ、突如休憩を言い渡された。訓練兵を特別扱いしないハーヴァルにしたら異例のことであった。

 ハーヴァルに言われ宿舎に戻ると、宿舎の傍にある大きな木の下にシンシアがひとりで立っていた。

 シンシアは修介の姿を見つけると柔らかい笑顔を浮かべて手招きした。丈の長い白のドレス姿のシンシアは、深緑に囲まれてひと際輝いて見えた。

 修介は駆け足でシンシアの元まで向かうと、左膝をたて片膝をつけて頭を下げた。訓練場で習ったこの国の騎士の貴人への敬礼であった。

 その様子を見てシンシアはふふっと笑うと、修介に立ち上がるよう促した。


「シュウスケ様はこの領地に仕える騎士ではないのですから、臣下の礼を取る必要はありませんよ」


「そうだとは思ったんですが、せっかく習ったので使ってみたくなりました」


 修介の物言いにシンシアは「まぁ」と言って笑った。


「訓練のほうはいかがですか?」


「ついて行くのがやっと、と言ったところです」


 修介は苦笑しながら答えた。


「まだここに来てからそれほど日も経っていないのですから仕方がないでしょう。シュウスケ様ならきっと大丈夫です」


「ありがとうございます。せっかくお嬢様にいただいた機会ですから、精一杯頑張らせていただきます」


「お嬢様……」


 その呼び方に不服そうな顔をするシンシアだったが、修介はそれに気づかないふりをして話題を変える。


「そ、そういえば、ランドルフさんは?」


「ランドルフでしたら今ごろ訓練場で熱心な訓練兵の方々に囲まれて、騎士団の事を色々と聞かれているはずです。ランドルフは訓練兵の憧れですから」


 いたずらが見つかった子供のような顔でシンシアは答えた。

 その顔は初めて出会ったあの日と変わらず愛らしかったが、二週間ぶりに会ったシンシアは、やはりアルフレッドの事があってか少しやつれているように見えた。


「それにしてもだいぶ暑くなってきましたね」


 シンシアは空を眩しそうに見上げながらそう言うと、顔に掛かる日差しを遮るように手をかざした。

 七月に入って気温もだいぶ高くなってきていた。前の世界の七月に比べたら涼しかったが、それでも日差しは夏のそれになりつつあった。


「そうですね。訓練中は鎧を着ているとゆでダコになりそうですよ」


 修介は言いながら「あれ、この世界にタコいるのか?」と疑問を抱いたが、シンシアが楽しそうに笑っているところを見ると、おそらくタコに類する生物はいるのだろうと推察した。



 初夏の日差しを浴びて目を細めるシンシアを見て、修介は久々に心が安らいでいた。慣れない訓練で身も心も自分で思った以上に消耗していたようだった。

 できればずっとこの穏やかな時間に身をゆだねていたかったが、やはりあの話題に触れないわけにもいかなかった。


「……あの、アルフレッド様のことメリッサさんから聞きました。なんていうか、その、ご心中お察しします。どうかお力落としなさいませんように……」


 この世界の常識に疎い修介は、つい法事の際のお悔やみの言葉みたいなことを口走ってしまったが、気持ちは伝わったようで、シンシアは寂し気に微笑むと「ありがとうございます」とだけ答えた。

 修介は気まずくなって黙ってしまったが、シンシアはそんな修介を見て意を決したように頷くとまっすぐ修介を見つめて言った。


「シュウスケ様のおかげで、アルフレッドと共に過ごすことができ、最期を看取ることもできました。もしあの時、わたくしが妖魔に殺されていたらアルフレッドの心にどれだけ大きな傷を残したまま逝かせることになってしまったか……それを考えただけで震えが止まりませんでした。だからシュウスケ様にはとても感謝しております」


「いや、俺は別にそんな大したことはしてないですよ……」


 シンシアの言葉で修介の心にこびりついていた罪悪感が少し軽くなったが、同時にそのことにほっとしている自分自身に嫌悪感を抱く。シンシアを助けたことで、少しでもアルフレッドの為になったのであれば、それは誇らしいことではあったが、素直に喜ぶことはできなかった。


「アルフレッドにシュウスケ様のことをお話ししたんです」


「えっ?」


 まさか自分の事をアルフレッドに伝えているとは思ってもいなかったので、修介は驚いて声を上げてしまった。


「アルフレッドもシュウスケ様に感謝していました。姉さまを助けてくれてありがとう、そう伝えてほしいとアルフレッドに言われました」


「そうですか……」


 修介は会ったこともない、こちらが一方的に知っているだけの少年の感謝の言葉に、言いようのない感情を抱いた。一度会って話をしてみたかったなと、そう思った。そしてそれが叶わぬ願いであることに喪失感のようなものを覚えていた。

 修介は目を閉じ、アルフレッドの冥福を祈った。


「アルフレッドが亡くなってしばらくはふさぎ込んでしまいましたが、いつまでも落ち込んでいてはアルフレッドに叱られてしまいます……。ですから、アルフレッドの分まで前向きに生きようって、わたくしはそう決めました。今回の視察はその第一歩です!」


 両手の拳を胸の前で握り、力強くシンシアは宣言した。

 その姿を見た修介の心に温かいものが広がっていった。そして思わず右手をシンシアの頭に伸ばすと、柔らかい髪を優しく撫でていた。


「シンシアは偉いな」


 修介は無意識にそう呟いていた。そういえば昔、年の離れた妹の頭をこうして撫でてやったことがあったっけ、と修介は子供の頃の記憶を思い出していた。


「シュ、シュウスケ様!?」


 シンシアは驚いて一瞬びくっとしたが、逃げたりはせずに修介のなすがままにされる。その頬は熟れた果実のように真っ赤になっていた。


「あ、あの……」


 シンシアの遠慮がちな声で修介は我に返った。


「あ、ご、ごめん!」


 修介は慌てて手を引いた。


「い、いえ……」


 シンシアは恥ずかしそうにうつむいていた。


「もし俺に妹がいたらこんな感じなのかなーとか思ってしまって、つい……」


「妹、ですか……」


 修介の言葉にあからさまに失望したような表情を浮かべるシンシア。それを見た修介は己の失敗を悟ったが、フォローするのも何かが違うと思い、とりあえず頭をかいてごまかすことにした。

 シンシアは不満気に頬を膨らませていたが、すぐに大人げないと察したのか、気を取り直して顔を上げると修介に尋ねる。


「そ、そういえば、シュウスケ様、記憶のほうはどうなりましたか?」


「それが、相変わらず何も……」


 修介は力なく首を横に振った。


「そうですか……」


 シンシアは残念そうな表情を浮かべ修介を見つめてくる。

 穢れなき瞳で見つめられ、嘘をついているという罪悪感が修介の心を責め立てるが、ここまできたらもう嘘をつきとおすしかなかった。


「き、記憶はそのうち戻るかもしれませんし、もし戻らなかったとしても、長い間ご迷惑を掛けないように、なるべく早く強くなってここを出て行きますから、もう少しだけ時間をいただければ――」


「いえ、いいんです! シュウスケ様は何も心配なさらず、いつまでもここにいてくださって構わないですから!」


 修介の言葉を遮るようにシンシアは言った。


「いや、さすがにいつまでも訓練するのはちょっと……」


「そうだわ! いっそのこと、わたくしからランドルフにシュウスケ様を騎士に取り立てるように言えば――」


「いやいや、さすがにそれをやっちゃったら俺が他の訓練兵から目の敵にされちゃいますから! そもそも俺は騎士を目指しているわけじゃありませんから!」


「うー、そうですか……」


 シンシアは残念そうに唸った。このお嬢様は時々突拍子もないことを言うから心臓に悪い。修介は胸に手を当てて息を吐いた。


「ま、まぁ、先ほどご覧いただいた通り俺はまだまだ弱いですし、学ぶべきことも多いので、もうしばらくはご厄介になると思います……」


 修介は先ほどの模擬戦で応援してくれたシンシアの目の前で無様な姿を晒したことを思い出して、申し訳ない気持ちになった。


「でも、初めてお会いした時よりずいぶんと逞しくなられたような気がします」


「そ、そうですかね。少しは逞しくなってますかね?」


「はい」


 修介の問いにシンシアは笑顔で答える。

 気遣いのできるいい子だな、と修介は思った。だからシンシアが小声で「そっか、シュウスケ様が弱いままなら、ずっとここにいてくださるかもしれないのですね」と恐ろしいことを呟いていたことは聞かなかったことにした。


「そろそろ俺は訓練に戻ります」


 修介がそう言うと、シンシアも「わたくしもランドルフの元へ参ります」と応じた。

 こういう場合にエスコートが必要なのか修介にはわからなかったので、なんとなく並んで訓練場への道を歩む。


 ふたりの間に会話はなく、互いの息遣いと落ち葉や木の枝を踏む乾いた足音だけが聞こえてくる。

 修介はふと横目でシンシアの顔を見る。

 よくわからないまま放り込まれたこの異世界で、初めて出会ったのがこの少女でよかったと、心から思っていた。

 彼女から寄せられる好意を利用してしまっていることに罪悪感はあったが、それ以上にこの世界で最初に出会った人が心優しい人物であったことに、修介の心はかなり救われていた。しかも、弟の死という辛い出来事の直後だというのに、記憶を失った(と思っている)修介のことを気にかけて、こうしてわざわざ時間を作って様子を見に来てくれているのだ。感謝してもし足りないくらいであった。

 だからこそ、この心優しいお嬢様をアルフレッドの分までとはいかなくても、可能な限り守り、そして力になろう。そう修介は心に誓った。


「シンシアお嬢様」


 修介は足を止めてシンシアに声を掛けた。


「はい?」


 修介の呼びかけにシンシアも足を止め首を傾げる。


「ありがとうございます」


 修介は頭を下げた。


「と、突然どうなさったのですか?」


「今日は俺の事を心配して、わざわざ様子を見に来てくださったんですよね? だからありがとうございます」


 本当はもっと別の意味での感謝の言葉だったのだが、ふいにシンシアの慌てる姿を見たくなってしまい、思わずからかうような言葉が口から出ていた。


「な、なんのことですか? わたくしはただ視察に来ただけで、別にシュウスケ様の様子を見に来たわけではないですからっ」


 シンシアはそっぽを向いてそう言ったが、その表情は完全に言葉を裏切っていた。

 ここでツンデレを発揮するのかよ、と修介は心の中で突っ込んだが、その様子があまりにも愛らしかったので思わず声を出して笑ってしまった。

 怒ったシンシアを宥めながら、修介は思いのほか軽くなった足取りで訓練場へと向かうのであった。


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