第10話 魔法

 森の奥まった方に少し歩くと、わずかに轍の跡が残る道が姿を現した。馬車が一台なんとか通れる程度の道だ。

 そこに横倒しになった二頭引きの馬車があった。馬車は行商人が使うような荷馬車ではなく、身分の高い人が使うような豪奢な馬車である。外から強い力で殴られたかのような破損箇所があったが、車輪の部分は壊れていないようなので、走行には問題がなさそうだった。

 馬車の周りには複数の妖魔と思われる死体が転がっていた。そのなかにとりわけ大きな死体が五体ほどあった。大きさは三メートル近い。


『オーガです。体長三メートルの凶暴な妖魔です。喰人鬼しょくじんきとも呼ばれ、文字通り人の肉を喰らいます』


 アレサが修介にだけ聞こえるようにそっと教えてくれた。

 修介はあらためてオーガを見る。盛り上がった筋肉、赤黒い肌、下顎から生えた牙、確かに人を食べてもおかしくない見た目をしていた。よく見ると神様のところで見たプロモーションムービーに登場していた化け物と同じであることに気付いた。

 襲ってきたのがオーガだったら、間違いなく殺されていただろう。

 あのムービーでは一体に対して複数の戦士が囲うように戦っていた。ここにいる兵士たちは馬車の御者を抜いて六人。たった六人で五体のオーガとそれ以外の多数の妖魔を全滅させたことになる。それだけでこの兵士たちが凄腕であることがわかる。


 ランドルフは他の兵士達に馬車を起こすよう指示を出していた。そして指示を終えると今度は御者の手当をしていた兵士に向かって声を掛ける。


「ブルーム、この方の傷を見てやってくれ。お嬢様を救った恩人だ」


 ブルームと呼ばれた髭面の兵士は修介を見ると、ニヤッと笑みを浮かべ、大股で近づいてきた。髭のせいでわかりづらいが、見た目三〇歳くらいだろうか。強面だが目が大きく人懐っこい印象を受ける。身長は修介と大差なさそうだが、体の線が太いので随分と大柄に見えた。


「若き勇者殿だな。どれ傷口を見せてみろ」


 修介はおとなしく左腕を前に差し出す。シンシアのハンカチを外す際にあらためて傷口を見てしまいその出血量に文字通り血の気が引いた。これほどの出血は四三年の人生でも経験がなかった。


「これはまた派手にやられたな……。早いところ止血しなくてはいかんな。

 なーに俺に任せておけば心配はいらんぞ」


 ブルームは修介の右肩を気安くばんばん叩きながら言った。

 叩かれた振動が傷口に響いて修介は思わず「うっ」とうめいた。


「おっとすまんすまん。どれさっそく始めようか」


 ブルームは傷口を縫うわけでもなければ、包帯を取り出すわけでもなく、修介の傷口に手をかざして小さな声で何かを呟き始める。

 ブルームは傷口に触れていないのに、左腕が暖かい何かに包まれているような感じがした。見るとブルームの手が淡く光っていた。


「これは……魔法?」


「なんだ、癒しの術は初めてか?

 戦いの神の加護は、おぬしのような勇気ある者にこそ与えられるのだ」


 戦いの神……この世界にも神が存在していることはアレサから聞いていた。神に仕える神官は祈りを捧げることで、マナを通じて神の奇跡をこの世界で実現できるのだという。癒しの術とは文字通り傷を癒す奇跡である。

 修介は初めて見る魔法の奇跡に目が釘付けになった。


「ぬぅ」


 ブルームが唸る。

 修介はあらためて傷口を見たが、特に塞がったようには見えなかった。

 ブルームは一度祈りを中断すると、深呼吸をし、あらためて祈りを捧げ始めた。

 今度は先ほどよりも手の輝きが増していた。より強力な魔法を使用しているのかもしれない。


「ぬううぅ」


 再び唸るブルーム。

 傷口に変化はなかった。若干もぞもぞしたくらいである。

 この世界の魔法はロストテクノロジーだとあの老人は言っていたが、ここまで効果がないものなのだろうか。それとも自分が転移者だから神の奇跡を受ける資格がない、という可能性もありそうで、修介はだんだん不安になってきた。


「おかしいな。癒しの術は確かに発動しているのだが……」


 そう言うブルームの額には汗がにじんでいた。魔法の行使にはかなりの消耗が伴うようだった。


「あの、そんなに無理しなくても……」


 修介は申し訳ない気持ちになってそう申し出たが、ブルームは首を横に振る。


「なんの、勇者の傷を癒せないとあっては戦いの神の信徒としての名折れ。必ずや癒してみせようぞ」


 ブルームはさらに強力な癒しの術を唱え始める。傍目にもかなり集中しているのが見て取れる。

 手から放たれる光は修介の上半身を包み込むまでになっていた。ここまできてようやく魔法の効果が表れ始める。修介の左腕の傷口が徐々に塞がっていき、やがて出血が止まった。薄く傷跡は残っていたが痛みは引いていた。


「おお、傷口が塞がった!」


 時間を巻き戻したかのように傷口が塞がっていく様をリアルタイムで見たのだ。修介は素直に感動していた。

 だが、傷が完治する前にブルームに限界が訪れた。


「くっ」


 ブルームは祈りを捧げている途中で修介にもたれ掛かるようにして意識を失った。


「ちょ、ブルームさん!?」


 修介は慌ててブルームの身体を支える。

 騒ぎを聞きつけたランドルフが怪訝な顔をしてやってきた。


「どうした?」


「あ、ブルームさんが癒しの術を使っている最中に気を失ってしまって……」


 ランドルフはブルームの容態を確認する。


「おそらくマナが尽きたのだろう。そこまで強力な癒しの術を使うほどの怪我ではなかったと思うのだが……」


「なんかすいません……」


「いや君が気にする必要はない。しばらく休めば目を覚ますはずだ。すまないが気を失ったブルームを馬車のそばまで運ぶのを手伝ってくれないか」


「あ、はい、わかりました」


 ランドルフと挟むようにしてブルームの肩を担いで馬車のそばまで運ぶ。

 馬車は兵士たちによって引き起こされていた。六人掛けの馬車の中にはシンシアがひとり手持無沙汰な様子で座っていた。


「どうかしましたか?」


 近づいてきた修介達を見てシンシアは馬車から身を乗り出してランドルフに尋ねる。


「はっ、ブルームがシュウスケ殿の治療中にマナが尽きたらしく……」


 シンシアはブルームの様子を見ると、馬車の中に寝かせるように指示する。ランドルフは一介の兵士を馬車の中に入れることに難色を示したが、シンシアにあらためて強く言われると大人しく従った。修介も手伝いブルームをシンシアの対面の座席に寝かせた。


「それで、シュウスケ様の治療はお済みになったのですか?」


 様子を見ていたシンシアは修介に尋ねる。


「あ、傷口はほとんど塞がりました。大丈夫です」


 修介は塞がっている傷口を見せた。

 だが、シンシアは修介に咎めるような視線を向ける。


「嘘はいけません。足の怪我の治療がまだなのではないですか?」


 そう言われて修介は押し黙った。ほんわかした雰囲気を纏った少女だったが、見るべきところはしっかりと見ているようだった。


「あ、いや足はかすり傷なので、適当に包帯でも巻いておけば……」


 言いながら修介は荷物から包帯と水袋を取り出した。

 そもそもが自分で誤ってつけた傷である。名誉の負傷として扱われることには少なからず抵抗があった。


「いけません」


 そう言うが早いか、シンシアは馬車から降りると修介から包帯と水袋をひったくり、ズボンの裾を捲って傷口を確認する。


「……縫うほどではありませんね」


 手早く水で傷口を洗い流すと、慣れた手つき包帯を巻いた。その手際の良さに修介は舌を巻いた。


「あ、ありがとうございます」


「昔、修道院で一通りの傷の手当の仕方は学びましたから、これくらいはなんでもありません」


 修介の視線にシンシアははにかんだような笑顔を浮かべた。


「んんっ!」


 その様子を黙って見ていたランドルフが咳ばらいをした。修介を見るその目には若干の棘があるような気がした。


「お嬢様、急ぎこの森から離れませんと……」


「わかりました」


 シンシアは頷くと修介を見る。


「ところで、シュウスケ様はどちらに向かわれる予定だったのですか?」


 しまった、と修介は思った。向かう先の集落の名称はおろか、街なのか村なのか、どんな場所なのかすらアレサに確認していなかった。


「えっと、そこの街道を北に進んだ先で宿でも取ろうかと思ってました」


 微妙な言い方になったが不自然ではない、と修介は心のなかで自画自賛した。宿がない集落とかだったら終了だが。


「そうなんですね、ちょうどわたくしたちもグラスターの街に戻るところでした」


 口元で両手を合わせながらシンシアは嬉しそうに言った。

 どうやら修介の向かう先はグラスターという名の街らしかった。


「それでは、これ以上邪魔しては悪いですから、俺……私はこれで失礼します。あ、治療どうもありがとうございました」


 そう言って修介は足早に立ち去ろうとした。向かう先が同じだからといって、こんな怪しい人間を同行させたりはしないだろう。おまけにランドルフが早く森を離れたがっているのは見ていればわかる。こんな危険な森の中を馬車で走っていたのだ。何か急ぎの用事あるのだろうと修介は推察していた。

 それにこれ以上ボロを出す前に立ち去りたいというのが本音だった。


「お、お待ちください!」


 だが、立ち去ろうとする修介をシンシアは慌てて引き留めた。


「な、何か?」


「助けていただいたお礼がまだです!」


「お礼ならさっき言っていただきましたよ?」


「そうではなくて!」


 シンシアは頬を膨らませていた。怒った顔は年相応のものでとても愛らしかった。あるいはこっちが本来の顔なのかもしれないな、と修介は思った。


「助けていただいた恩に報いずに帰したとあってはライセット家の名に傷がつきます。急ぎの旅路とはいえ、きちんとお礼はさせていただきます!」


「はぁ、そんな気を使っていただかなくても……」


「いいから! とにかくシュウスケ様は馬車にお乗りください!」

 そう言ってシンシアは馬車に乗り込むと、自分の隣の席をばんばんと叩く。


「へ?」


 修介は思わず間抜けな声を漏らす。


「お嬢様! いくらなんでもそれは――」


 声を荒らげたのはランドルフだった。


「ランドルフは黙ってて」


「いやしかし」


「ランドルフ!」


 シンシアの有無を言わさぬ口調にランドルフは押し黙る。

 情けないことに修介もその迫力に圧倒されていた。


「足を怪我されたままのシュウスケ様をここに置いていくわけには参りません。幸い向かう先は同じです。そして何より我々は急いでおります。シュウスケ様には街までご同行いただき、お屋敷についてからゆっくりとお礼をさせていただきます。何か問題がありますか?」


「恐れながら、シュウスケ殿を同行させるのは、まぁやむを得ないでしょう。ですが、素性の知れぬ者をお嬢様と同じ馬車に同乗させるというのはいくらなんでも……そう! ブルームの馬が空いておりますから、シュウスケ殿にはそちらに騎乗していただくということでいかがでしょうか?」


 ランドルフは修介を馬車から引き離そうと必死である。

 修介も客観的に見てランドルフの案が最良だと思ったが、その案にはひとつ大きな問題点があった。


「あのーすんません、俺、馬に乗れないんですが……」


 言った瞬間、ものすごい勢いでランドルフに睨まれた。


「馬に乗れないのでは仕方がないですね、さぁシュウスケ様、馬車へどうぞ」


 言葉とは裏腹に満面の笑みを浮かべるシンシア。

 対するランドルフの表情は苦渋に満ちていた。


「時間が惜しいです。すぐに出立の準備をなさい。

 ――さぁ、シュウスケ様はこちらに」


 仕方がなく修介は言われるがまま馬車に乗り込んだ。

 怪我をした足で街まで歩いていくのも正直しんどいと思っていたので、ここは素直にシンシアの厚意に甘えることにした。よく考えたら正面にはブルームが眠っているのだ。ふたりきりというわけではない。

 ランドルフは渋々といった感じで自分の馬にまたがり、周囲の兵士に指示を飛ばす。


 こうして修介はシンシア一行と共にグラスターの街を目指すことになったのである。

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