第9話 シンシア

 仰向けに倒れたホブゴブリンの死体を、修介は膝をついたまま呆然と見つめていた。

 まさか異世界に来てわずか数時間で命のやり取りをするとは思ってもいなかったのだ。まともな精神状態でいられるほうがおかしいだろう。

 しかも目の前のホブゴブリンは今しがた自分の手で殺したのだ。自衛の為とはいえ、これほど明確な殺意を抱いたことも初めてのことだった。


 だが、ショックはあったが不思議と罪悪感はなかった。

 殺さなければ殺されていた。だから殺した。それだけのことだった。

 相手が人ではなく妖魔だったということはもちろんあるだろう。

 修介は元の世界で人を殺したことはなかったし、動物を殺したこともなかった。殺したことがあるのは虫くらいだった。人も動物も虫も等しく命であり、虫は殺しても良くて、人や動物はダメというのはおかしな理屈だと修介にも自覚はあったが、やはり虫と人とでは命の価値は同じではないとも思っていた。ゴブリンの見た目は人に似ていたが、修介にとっては害虫と同じ扱いだったというだけのことだった。


 それでも目の前にある人間と似たような死体を見て、何も感じないほど修介の心は強くもなかった。単にゴブリンを害虫扱いして自分の心を守ろうとしているだけなのかもしれない。もしゴブリンの雌が子育てをしているところを目撃してしまったら、同じことを言える自信は修介にはなかった。



「あの……もし……大丈夫ですか?」


 遠慮がちな声で修介ははっとする。死の恐怖から解放されて思わず惚けていたが、自分が何の為に戦ったのかを思い出した。

 声のした方を見ると、少女が女の子座りのままこちらを気遣うように見ていた。

 さっきまで必死だったのでまったく気づかなかったが、その少女は修介のそれまでの人生でお目にかかったことのないほどの美少女であった。

 柔らかそうな亜麻色のウェーブがかった髪は肩の辺りで綺麗に揃えられており、整った顔立ちは、美しさよりも愛らしさが目立つ年頃であったが、将来は通り過ぎる男が全員振り返るであろう美人になることは疑いようもなかった。なによりも愛嬌のあるくるくるした瞳が印象的であり、品のある佇まいは彼女の育ちの良さを窺わせた。

 少女は修介が着ている服とはあきらかに素材が違う仕立ての良い白いドレスを着ていたが、ゴブリンから逃げる途中で引っかけてしまったのか、裾がやぶけてしまっていた。やぶけた裾からは少女の細く健康的な白い足が見えていたが、そこは紳士として見ないようにした。


「あの……」


 少女はおずおずといった感じで再び修介に声を掛ける。

 思わず少女に見惚れてしまっていた修介だったが、すぐに気を取り直すと、立ち上がって剣を鞘に納める。立ち上がる際に足の傷に痛みが走ったが、声を上げなかったのは上出来だった。左腕の傷も早いところ手当しないと破傷風になるかもしれない。もっとも傷の手当なんてまともにしたことがないので、やり方をアレサに聞かないといけなかった。


「お怪我はありませんか……えーと、お、お嬢さん?」


 そう言って修介はそっと右手を差し伸べようとしたが、手に血が付いていることに気付き、慌ててズボンの裾で拭いてからあらためて差し出した。なるべく恐怖を与えないようにと、可能な限り優し気な微笑みも添えてみたが、上手くいったかどうかは自信がなかった。傷の痛みで多少引きつっていたかもしれない。

 この世界に来て初めて出会った人間で、それも年若い少女である。いろんな意味で緊張する修介であった。


「シ、シンシアと申します」


 シンシアと名乗った少女は遠慮がちに修介の手を取り立ち上がると、服に付いた汚れを払う。動作のひとつひとつに気品があった。

「あ、あのっ、助けてくださってありがとうございます。あなたが助けに来てくださらなかったら、わたくしは今ごろ妖魔に殺されていました……」

 少女はスカートをぎゅっと握りしめながら頭を下げる。その手は少し震えていた。

 そりゃあんな目にあったらそうなるよな、と修介は思った。


「あ、いや、どっちかというと最後は俺……いや私が助けられてたし、その……お互い様ということでよろしいんじゃないでしょうか」


 しどろもどろに言う修介。

 少女は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、修介の態度がおかしかったのか、それはすぐに柔らかいものへと変わった。


「わたくしも無我夢中でした」


 そう言ってシンシアは笑顔を浮かべた。顔は土で少し汚れ、目には涙の痕が残っていたが、そんなもので少女の笑顔の魅力が損なわれることはなかった。


「あっ、腕にお怪我を……」


 シンシアは修介の左腕を見てそう言うと、ハンカチを取り出し躊躇うことなく修介の左腕に巻いた。巻かれた際に傷が痛んだが、顔に出さないよう我慢した。ハンカチはあっという間に修介の血で赤く染まっていく。


「と、とりあえずこれで……後でちゃんと治療しないといけませんね。わたくしのせいで怪我をさせてしまってごめんなさい……」


「い、いや可愛い女の子を守った名誉の負傷ってやつだから、気にしないでください」


「か、可愛い!?」


 少女の頬が赤く染まる。

 それを見た修介は自分の不用意な発言を後悔したが、言ってしまったものを取り消すことはできない。修介はとりあえず「ははは」と笑ってごまかすことにした。

 中身が中年の修介にしてみれば、口説くというよりはセクハラに近い条件反射的なおっさん発言だったわけだが、若返ったおかげか、どうやらそうとは受け取られなかったらしい。


「と、ところで、お名前を伺ってもよろしいですか?」


 やや緊張がほぐれたのか、さきほどよりも明るい声色で少女は問う。


「俺、いや私は宇田修介といいます」


 修介は本名を名乗った。一瞬この世界に合った偽名を使うことも考えないではなかったが、転生ならともかく転移である。どこへ行こうが修介は修介であり、自分の名前を変えようとは思わなかった。


 そういえば、どうやら神様の言っていた自動翻訳はちゃんと機能しているようだった。

 修介の口から出ている言葉は明らかに日本語ではないのが口の動きでわかる。それと同時に自分の耳に入ってくる言葉も日本語に変換されている。まるで吹き替え版の映画を見ているようだった。若干の違和感はあるが慣れれば気にならなくなるだろう。


「ウダシュウスケ……失礼ですが変わったお名前ですね。ウダシュウスケ様とお呼びすればよろしいですか?」


「あ、宇田は苗字……えーと家名みたいなものなので、名前は修介です。修介と呼んでください。あと様はいりません」


「シュウスケ様ですね。家名があるということは、シュウスケ様はどこかの貴族でいらっしゃいますの?」


「あーいや、貴族というわけでは……えーと……」


 前の世界ではただのサラリーマンである。貴族制度に疎い修介であったが、平民が貴族を詐称することの危険性は知っていた。そういった意味では苗字を言ってしまったのは失敗だったが、今更取り消すこともできない。

 一応、人と出会った時の自己紹介については事前に考えていたものがあったのだが、まさかこんな展開で人と出会うとは予想していなかったのだ。


 修介がしどろもどろに言い訳をしようとすると、突然アレサが『マスター』と小声で呼びかけてきた。

 はっとして耳を澄ますと、草をかき分けながら近づいてくる複数の足音とガチャガチャという金属音が聞こえる。

 修介は音の方角から少女を庇うように前に出る。


「シュウスケ様?」


 突然の修介の動きにシンシアは不安そうな表情を浮かべる。


「シッ! 静かに」


 修介はアレサを鞘から抜いて右手だけで構える。体力は残ってないし左腕は動かない。正直、もう戦いたくなかった。


 足音はいよいよすぐそばまで来ていた。

 緊張で喉がひりつく。

 目の前の茂みが大きな音を立てて揺れると、茂みから甲冑を着込んだ三人の人間が飛び出してきた。全員が手に剣を持っている。

 そのうちのひとりが修介たちの姿を発見すると「お嬢様!」と叫んで向かってきた。

 出てきたのが妖魔ではなく人間だったことから、修介は一瞬緊張を解きかけたが、先頭の男がものすごい形相で走ってくる為、慌てて剣を構えて立ちはだかる。

 それを見た先頭の男は鋭い目つきで修介を睨みつけると、剣を構えたまま速度を上げて突っ込んできた。

 次の瞬間、修介の右手から剣が弾き飛ばされていた。


「へ?」


 あまりの速さに何が起こったのか理解できず固まる修介。

 気が付くと喉元に男の剣が突き付けられていた。


「動くな。貴様何者だ?」


 男の声は小さいが逆らい難い凄みがあった。言われずとも修介は身動きひとつとれなかった。


「おやめなさい、ランドルフ!」


 口の開いたのは修介ではなくシンシアであった。

 先ほどまで妖魔に怯えていた少女とは思えない凛とした声色であった。修介も思わずシンシアのほうを振り返ってしまった。


「ですがお嬢様!」


「二度は言いません。剣を引きなさい」


 ランドルフと呼ばれた男は一瞬躊躇したが、結局言われた通りに剣を引いた。むろん修介に対する警戒は解いていなかった。


 突き付けられていた剣がなくなったことで、修介は大きく息を吐いた。

 本気で殺されるかと思った。それほどの殺気を目の前の男は放っていた。

 あらためて男を見る。年齢は二〇代半ばくらいだろうか。明るい色の髪に端正な顔立ちをしていたが、優男というよりは精悍さが前面に出ていた。身長は修介より拳ひとつ分くらい高かった。修介は一七八センチメートルなので一九〇近いだろう。

 剣を弾き飛ばされた時にまったく反応できなかったことからも、目の前の男がホブゴブリンよりも強いことがわかった。ましてや人と斬り合う覚悟のない修介では勝負にすらならないだろう。


「この方はわたくしが妖魔に襲われそうになっていたところを、命がけで助けてくださったのです。その恩人に対して剣を向けるなど無礼でしょう!」


 シンシアは修介に向けていた笑顔の面影を感じさせないほどの厳しい表情でランドルフと呼んだ男を睨んでいた。

 シンシアに言われ、ランドルフはあらためて周囲を見渡す。確かに周囲には数匹のゴブリンの死体が転がっていた。

 ランドルフは慌てて剣を鞘に戻すと、修介に頭を下げた。


「これは失礼した。お嬢様を救っていただいたこと、感謝する」


 ランドルフの突然の変わり身に戸惑う修介は「あ、いえ」としか言えなかった。

 ランドルフを含めた甲冑姿の三人の男たちは、一斉にシンシアのほうに向き直ると、跪いて深々と頭を下げた。土下座せんばかりの勢いであった。


「お嬢様、よくぞご無事で……我らが不甲斐ないばかりにお嬢様を危険な目に合わせることになってしまい申し訳ございません!」


「よいのです。元々あなたたちの反対を押し切ってこの森を通るよう指示したのはわたくしです」


「ですが、我らがお嬢様に馬車から離れ身を潜めるよう申し上げなければ、このような事態には……」


「馬車が倒されたのです、仕方がないでしょう。それに、身を潜めよと言われておきながら茂みから顔を出して妖魔に見つかったのはわたくしの落ち度です。あなたたちにはなんの責もありません。それよりもあなたたちが無事で何よりでした」


「もったいなきお言葉……」


 さらに深々と頭を下げる三人の甲冑男達。

 修介は完全に蚊帳の外であったが、今のやり取りを聞いた感じ、どうやらシンシアはかなり身分が高いらしく、さしづめこの甲冑男達は護衛役で、馬車で森を移動中に妖魔の襲撃にあい、シンシアが逃げていたところにちょうど修介がやってきた、といったところだろう。


「御者と騎士二名が傷を負いましたが、ブルームが癒しの術で治療を行っております。死者は出ておりません。馬も馬車も無事です。まだこのあたりに妖魔が潜んでいるやもしれません。急ぎ離れたほうがよろしいでしょう。さ、お嬢様こちらへ」


 ランドルフの言葉にシンシアは頷いたが、ちらりと修介のほうを見ると、先導しようとするランドルフを引き留めた。


「シュウスケ様がわたくしを庇った際に怪我をされました。この方にも治療を」


「……承知しました。それではシュウスケ殿、我々の後についてまいられよ。必要なら肩を貸すが?」


「あ、いえ自分で歩けます」


 修介は思わずそう答えていたが、安易についていっていいのか一瞬判断に迷った。結果として少女を助けたが、それ以前に転移者である自分はどう考えても怪しい。

 だが、安心した途端に傷の痛みが酷くなってきていた。足の傷よりも左腕の傷の方が酷いようだ。治療してくれるというなら受けるべきだろう。自分では満足に包帯すら巻けそうにない。


「シュウスケ様、本当に大丈夫ですか?」


 修介の様子を窺いながらシンシアは心配そうに声を掛ける。


「大丈夫ですよ。それよりお嬢様にお怪我がなくて何よりですよ」


「お嬢様ではなく、どうかシンシアとお呼び捨てください」


 それは無理だろ、と修介は言いかけたが、なんとかにっこりと微笑むだけに留めた。

 修介ははじき飛ばされたアレサを拾い上げると、鞘に納めながら日本語で「アレサ、ありがとう」と囁いた。

 先の戦いで生き残れたのは間違いなくアレサのおかげだった。

 アレサは何も言わず、代わりに鞘が小さく震えた。

 放り出した荷物も回収すると、修介はランドルフの後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る