第7話 お約束

 歩き始めて二時間くらい経っただろうか。

 何年もの間、毎週欠かさずウォーキングを続けてきた修介には、自分がどのくらいの距離をどの程度の時間で歩いたかがなんとなくわかる、というささやかな特技があった。

 そこそこ重量のある背負い袋を背負っている為、普段より距離は稼げていないかもしれないが、それでも一〇キロメートルは歩いただろう。

 ちなみにアレサに聞いたところ、この世界では距離を測る共通の単位が存在していないらしい。街の外を歩くときは「徒歩で二時間」とか「馬車で三日」というざっくりとした時間の単位で表し、日常生活では「手のひらの大きさ」や「大人の一歩分」などを基準に使うことが多いそうだ。なんとも面倒な話だが、この世界ではそれが普通なのだろう。咄嗟の時に思わず「三メートル先」とか言いそうなので、しばらくは注意が必要だな、と修介は思った。


 距離の単位以外にも、道中の暇つぶしに修介はアレサに様々なことを聞いた。

 例えば『暦』についてである。元が同じ星ということもあるのだろうが、暦は前の世界とほとんど違いはなかった。こちらの世界は月の満ち欠けをベースにしているらしく、一年が三五四日となっており、三年に一度、閏月うるうづきを設けることで季節とのズレを調整しているらしい。つまり三年に一回は一三月があるのだ。

 アレサによると、前の世界でも同じような暦があったそうで、太陰太陽暦と呼ばれているらしい。もちろん修介は知らなかった。


 ちなみに今は日本で言うところの六月。初夏らしい。

 日本の六月といえば梅雨で蒸し暑い時期だったが、この地ではそれほど暑さを感じず、むしろさわやかな気候であった。暑がりの修介には願ってもない気候である。その分、冬の寒さが厳しいのかもしれないが。

 その他にも社会制度や一般常識についてなども確認したが、それほど違和感を覚えるようなことはなかった。倫理観も概ね前の世界と大きく変わらないらしい。


 ルセリア王国はその名の通り王制を敷いており、王が国を治め、その下に公爵、侯爵、辺境伯、伯爵、子爵、男爵といった貴族が存在している。公爵から伯爵までが上級貴族。それより下が下級貴族となっていて基本的に世襲制である。ちなみに騎士爵は存在せず、騎士は王や特定の領主に仕える兵士という職業的な扱いらしい。

 三〇〇年に渡る治世で社会は高度に安定しており、教育も行き届いているらしく、田舎の農村部は別として都市部の識字率は高いそうだ。

 また、大きな都市になると上下水道もあるとのことで、中世のヨーロッパだと道端には排せつ物がまき散らされていた、なんて話を聞いたことがある修介としては、思ったより不便な生活を強いられることもなさそうでほっとした。



 そんな話を道中ずっとアレサとしていた為、あまり退屈は感じずに済んだ。

 いつもなら二時間も歩けば多少の疲労を感じるはずだが、今日はあまり疲れていなかった。これは修介が若返ったということもあるだろうが、おそらく初めて見る異世界の景色にテンションが上がっていることも関係しているだろう。

 元々は健康の為に始めたウォーキングだったが、修介は歩きながら様々な景色や街並みを眺めるのが好きだった。

 どこまでも続く広大な草原、遠くに見える雄々しく育った森の木々、排気ガスのない青く透き通った空。どれもが新鮮だった。


 とはいえ二時間も似たような景色を見続けていればさすがに飽きもくる。

 気が付くと街道の右側数十メートル先に森が広がっていた。修介がこの地に訪れて最初に見たあの巨大な森ほどではないが、見た感じ結構広そうな森であった。

 森の高い木々を眺めながら、修介はこの世界には妖魔と呼ばれるモンスターが存在しているという老人の話を思い出していた。


 妖魔……ゴブリンとかオーガといったファンタジー世界ではお馴染みのモンスター。ゲームなんかでは雑魚敵として扱われることが多いが、この世界のモンスターがどの程度の実力を持っているのかは未知数である。戦闘はおろか喧嘩すらほとんど経験のない修介に対処できるかどうか怪しいところだった。

 そんなことを考えていると今にもあの森の中から妖魔が現れそうな感じがして、修介は急に怖くなってきた。

 腰にあるアレサの柄を握り、話しかける。


「なぁアレサ、このあたりに妖魔って存在するの?」


『質問が曖昧です。その質問には回答できかねます』


「……」


 アレサのテンプレ回答に修介は思わず黙りこくってしまった。

 それを哀れに感じたのか、珍しくアレサは言葉を続ける。


『街道周辺に妖魔が出現することは稀です。ですが、森の中は多数の妖魔が生息していると言われています』


「森の中……」


 修介はあらためて森を見る。さっきまでは何の変哲もない森に見えたが、そう言われると異様な雰囲気を発しているような気がしてきた。


「なぁ、アレサってさ。すごい剣なんだよね?」


『質問が曖昧です。その質問には回答できかねます』


「もうそういうのはいいから! こっちの質問の意図くらいわかってるだろ。頼むから普通に会話してくれ」


『……マスターが私に何を期待しているのか、おおよその見当はつきますので、結論から申し上げますと、こと戦闘に関しては私はお役に立てません』


「うそ、マジで!?」


『マスター、私は嘘を吐きません。私はマスターの知識面をサポートするガイドです。虚偽の情報を提供したりはしません』


「あ、いやそういうつもりじゃなかったんだが……ごめん」


 人工知能相手に素直に頭を下げてしまう修介。


『ちなみに、剣としては、美しくちょっと品質が良い、程度の性能です』


「美しくはいらなくね?」


 たしかにアレサの鍔の部分には小さな宝石があしらわれていたり、柄頭の模様も意匠が凝らしてあったりと芸術品としての価値もそれなりにありそうだった。


「ちなみに一太刀で岩を切り裂いたりは?」


『逆に私が折れます』


「いざ戦闘になったら、俺の体を操って無双してくれたりは?」


『もちろんできません』


「……何かできることはないの?」


『応援くらいはします』


 気持ちは嬉しかったが役に立ちそうにはなかった。



 そんなやり取りをしながら、しばらく森を右手に歩き続ける。

 すると突然、遠くから悲鳴のような甲高い声が聞こえてきた。

 女性の声だったように思える。


「ちょ、今の悲鳴!?」


 まるで修介たちの会話がトリガーとなったかのようなタイミングでの悲鳴である。


『森の方角からです』


 森と聞いて修介は一瞬躊躇したが、すぐに森に向かって駆け出した。

 特に深い考えがあったわけではない。いうなれば条件反射であった。女性が危ない目にあっているのなら助けに行くべき、という男としてのモラルが森に対する恐怖を上回ったのである。ついさっきまで平和な日本にいた修介が危険に対する危機意識が低いのは仕方のないことであった。


 遠くから見た森は木々が密集しているように見えたが、入ってみると木々の間はそこそこ間隔が空いていた。


「どっちだ……」


 修介は周囲を見渡してみたが人影は見当たらない。わりと本気で木に登って探すことを考えたが、木はどれも背が高く枝も低い位置にはない為、そう簡単に登れそうにはなかった。そもそも修介は高いところが苦手で、木登りの経験はほとんどなかった。

 再び女性の悲鳴が聞こえた。今度はさっきよりずっと近い。

 修介は声のした方へ走った。

 すると木々の合間からちょっとした広場が見えてきた。

 勢いに任せて広場に出ると、そこには森の中を歩くには不相応なドレスっぽい服を着た少女が、得体のしれない三体の生き物に迫られていた。その三体の生き物はそれぞれが手に刃物を持って今にも女性に襲い掛かりそうな体勢である。


「マジかよ!」


 修介は咄嗟にアレサを鞘から引き抜くと背負い袋を放り出して、少女と謎の生き物の間に割って入る。

 目の前にいる三体の生き物は身長一メートルくらいの体躯で、体の色は緑色、涎を垂らした口からは鋭い牙が見えており、腰に些末さまつな布を巻いていた。一見すると子供のようだが、獰猛な唸り声をあげるその姿は、さながら人の形をした獣であった。


「なぁ、アレサ。こいつらってもしかして……」


 修介は小声でアレサに訊いた。


『ゴブリンという低級妖魔です』


「これがゴブリン……」


 知識は持っていたが、見るのはもちろん初めてだった。

 この世界でのゴブリンの立ち位置がどんなものかは知らないが、願わくば最も低い地位にいてほしいと修介は願った。


「ゴ、ゴブリンがこの世界で最強の種族とかだったら俺の人生終わったな……」


『低級妖魔と言ったでしょう。妖魔の中では最下級です』


 それは結構なことだったが、それで目の前の危機が去ったわけではない。なにより修介はこの世界の戦士としては間違いなく最下級である。

 喧嘩なんて子供の頃の兄弟喧嘩くらいしか経験がない。

 親父狩りにあったことも、ヤクザに絡まれたこともない。

 大人になってからは誰かと殴ったり殴られたりの経験もない。

 だから、そんな自分が突然むき出しの殺意を向けられているという状況に心が追いついていなかった。


 ゴブリンが持つ小剣は錆びていて、ところどころ刃こぼれしている。だが、それがゴブリンの獰猛さを表す演出のように見えて逆に恐怖心が煽られた。

 おまけに目の前のゴブリン達からは酷くえた臭いがした。ゴブリンに風呂に入る習慣なんてないだろうから臭くて当然だが、それは今まで絵や音だけの二次元世界の存在であったゴブリンが目の前に三次元となって現れたことの証左でもあった。


 修介は考えなしにこの場に飛び込んだことを今更ながらに後悔していた。

 ここで少女に向かって「ここは俺に任せて君は逃げろ」とか言えたら格好良いのだろうが、あいにくそんな余裕はなかった。むしろ少女がいなくなると背後からゴブリンに襲われるかもしれないから逃げないでほしいとすら思っていた。


 ゴブリンたちは唸り声を上げながら、徐々に包囲を狭めようとにじり寄ってくる。

 修介は恐怖のあまり、助けにきたはずの少女に助けを求めようとして思わず振り返ってしまった。

 少女は震え、目に涙を浮かべながらも、逃げずに前を向いていた。

 少女と目が合う。

 その瞳は最初こそ颯爽と助けに入った修介への尊敬の念が浮かんでいたように見えたのだが、今や修介の恐怖に歪んだ表情を見て戸惑いの色に変わっていた。

 ゴブリンが動く気配がして、修介は慌てて前を向く。

 正面のゴブリンが修介を襲うべく片足を前に踏み出していた。


「わ、わたくしのことはいいですから、逃げてください!」


 背後から少女の声が聞こえた。年相応の可愛らしい声だったが、その声は人に逃げろと言うにはあまりにも震えていた。見た目は一四、五歳くらいだろうか。どう見ても今の修介より年下だった。しかも中身の年齢でいえば娘くらいの年齢である。

 そんな少女が「助けて」ではなく「逃げて」と言ったのだ。怖いだろうに、自分の身よりも修介の身を案じたのだ。

 なんて気丈な子なのだろう。

 そして自分はなんて情けないのだろう。


「さ、さすがに逃げられないよな」


 修介は大きく息を吸うと、目の前のゴブリンを睨んだ。

 手は相変わらず小刻みに震えている。だが、心の震えは止まっていた。

 どうせ一度死んだ身であった。あの時も小さな子供を庇ったのだ。恐怖よりも先に体が動いていたのだ。一度できたことが二度できないわけがない。

 自分が死んでまで手にした誇りを、異世界転移初日に手放すわけにはいかない。

 トラックのほうがゴブリンよりも何倍もでかいし強い。


「ゴブリンがなんぼのもんじゃあああああぁっ!」


 修介は自分に気合を入れるためにありったけの大声を出した。慣れない大声で最後の方はちょっと裏返った。

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