第二章

第6話 異世界へ

 最初にさざ波のような葉擦はずれの音が聞こえ、次に濃厚な緑の香りを含んだ風が鼻先を撫でた。

 先ほどまでの青と白の世界から一転、今度は青と緑の世界に修介は立っていた。

 見上げると、どこか作り物めいていた先ほどまでの空と違い、青い空には綿のような雲がいくつも浮かび、太陽は生前に見ていたそれと変わらぬ輝きを放っていた。

 足元から続く緑色に覆われた大地は風に揺れる広大な草原であった。

 強烈な香りに誘われ振り返ると、見たこともないほどの巨大な森が広がっており、左右どちらを見渡しても終わりが見えない。

 修介にとって森とは山地にあるもので、平地にはあまりないイメージがある。少なくとも修介の日本での生活圏内にこういった森はなかった。

 降り注ぐ陽光を受け止める木々は生命力にあふれ、居並ぶその姿はまるで人間を威圧する巨人の群れのようで、修介は思わず後ずさった。

 特に鋭敏な感覚器官を持ち合わせていない修介であったが、この森からは人間が安易に踏み込んではいけない神聖な、あるいは邪悪な何かが潜んでいるように感じられた。


「これが異世界……」


 異世界というよりはただ大自然の中に放り込まれただけのような気がしたが、目の前の森の妙な圧迫感は現実離れしている気がした。

 このままここに突っ立っていても始まらないと考えた修介は、早くこの森から離れたいという思いもあって、とりあえず森とは逆の方向へと足を踏み出した。

 太陽の位置は高く、おそらく昼前か昼過ぎではないかと思われる。暗くなる前にはどこかに腰を落ち着けたかったが、はるか地平の先まで続いている景色を見ていると、それも不可能な気がしてくる。野宿どころかキャンプの経験すらない修介にとっては、割と絶望的な状況といえた。


「なんで俺は転移する場所について確認しなかったんだろう……」


 転移に際してあれだけああだこうだと言っておきながら、こんな基本的なことも確認しなかった自分の迂闊さを呪いつつ、仕方なしに足を動かす。



 森を背にあてもなく三〇分ほど歩くと、土を踏み固めてできた道が姿を現した。

 草原を真っ二つに割るかのように続いているその道は、幅は自動車であれば二台は並んで通れる程度で、おそらく人の手によって作られた街道であろうことが推測できた。

 左右に続く街道のどちらかに進んでいけば、おそらく街なり村なりがあるのだろう。問題は左右のどちらが村や街に近いのか、ということだった。

 どちらに進むべきかを決めかねた修介は、とりあえず道端にでも座って一休みしながら考えようとしたところで、自分がずっと背負い袋を背負っていることに今更ながらに気づいた。

 そこそこ重いので、色々と荷物が入っているのがわかる。何がはいっているのかはすぐにでも確認する必要がありそうだ。

 視線を下げ自分の恰好を見てみると、今までに着たことがないような服装をしていた。材質はわからないが、普段着ている服よりもゴワゴワした感じだった。たぶんこの世界での一般的な服装なのだろう。ちなみに鎧の類は身に着けていなかった。


 ふと修介はある衝動に駆られた。

 背負い袋を持っているし、この世界に来るまでの過程を考えると絶望的ではあるが、異世界に転移したからには言わずにはいられなかった。

 すぅー、と息を吸い込むと、その一言を口にした。


「アイテムボックス!」


 ……何の反応もなかった。

 視界のどこかに『!』みたいなメニューアイコンもない。

 そして次の一言も絶望的ではあったが、一縷の望みを込めて修介は言った。


「ステータスオープン!」


 当然だが何も反応はなかった。

 これでは道端で叫ぶただの怪しいおっさんである。

 おっさんといえば……事前の約束通りにちゃんと若返らせてもらえたのだろうか。背負い袋のなかに鏡があれば確認できるかも、そう思い修介は荷物の中身を確認するため背負い袋を地面に下した。

 その時、腰に差してあった剣がわずかに震えた気がした。

 そういえば、老人が言っていたガイド役の剣の存在をすっかり忘れていた。この世界の常識どころかサバイバルの知識すらない修介の為に、わざわざガイド役として与えられた剣だ。今この状況でこそ使うべきであろう。


「えーと、起動する時の手順はたしか……剣の柄を握りながら日本語でコマンドワードを言うんだっけか」


 鏡の事はすっかり頭から離れ、修介は老人に教わった手順を思い出しながら、剣の柄を握って誰もいない街道の端っこでそっと呟いた。


「オッケー、アレサ」


 修介の発したコマンドワードに反応して、剣がわずかに震える。


『コマンドワードを確認しました。マスター、ご命令をどうぞ』


「おおっ」


 女性の声で、しかも日本語で返事があった。

 ただ、音声があからさまに機械音声っぽいのが修介は気になった。人類の科学を超越した技術で作られているだろうに、この音声クオリティの低さには何かしらかの作為を感じる。


「えーと、とりあえず異世界に無事来れたみたいなんだけど、これからどうしたらいいのかな?」


『申し訳ありません。その質問には回答できかねます』


「……」


 のっけから突き放すような冷たい答えが返ってきたことに修介は戸惑った。


「じゃあ、この街道をどっちに進んだらいいのかな?」


『申し訳ありません。その質問には回答できかねます』


「この街道、どっちに行ったほうが安全かな?」


『申し訳ありません。その質問には回答できかねます』


「……オッケー、アレサ、音楽を流してくれ」


 すると手に持った剣からどこかで聴いたことのあるクラシックの曲が流れ始めた。


「あのじじい……」


 修介は心の中でひとしきり老人に対して思いつく限りの罵詈雑言ばりぞうごんを浴びせた。


 一段落ついたところで、修介は流れる音楽に身を任せながら考える。

 おそらく質問の仕方を間違えているのだろう。これはあくまでも自分の知識不足を補う為のガイドであって、行動指針を決定づけるような質問には応じないのかもしれない。


「オッケー、アレサ、音楽を止めてくれ」


 流れていたクラシック音楽はゆっくりとフェードアウトした。芸が細かい。


「さて、ここはどこだ?」


『質問が曖昧です。その質問には回答できかねます』


「ここは異世界?」


『質問が曖昧です。その質問には回答できかねます』


「ここから一番近い人間の集落はどこにある?」


『ここから北へ約三〇キロほど離れた地点にあります』


「おっ」初めて内容のある回答が得られて、修介はちょっと嬉しくなった。


「ちなみに北ってどっち?」


『私を鞘から抜いて地面に立ててください』


 言われるがままに剣を鞘から抜いて地面に立てる。


『手を放してください』


 手を離すと剣が修介から見て右手前方にカランと乾いた音を立てて倒れた。


『こっちです』


「……」


 質問にはしっかり回答してくれたし、きっとすごい機能なんだろうが、馬鹿にされているような感じがするのは気のせいだろうか。

 とはいえ、とりあえず進むべき方向はわかった。三〇キロメートルということは六、七時間程度歩けばたどり着けるだろう。今が昼頃だと考えると、のんびりしていると日が暮れてしまう。この世界の日没が何時くらいなのかわからないから、早めに移動を開始したほうがいいだろう。だが、その前に背負い袋の中身くらいは確認しておきたかった。

 修介はさっそく背負い袋を開けようとする。


『……あの、すいません』


「ん?」


 地面から声がした。


『さっさと拾ってもらえませんか?』


 地面に転がったままのアレサが機械音声独特の抑揚のない声で自らを拾うよう催促してきた。


「……」


『拾ってください』


「ちゃんと自己主張できるんじゃないか。その様子だと簡単な受け答えだけじゃなくて、ちゃんと会話もできるんだろ?」


 言いながら修介はアレサを拾って、鞘に納める。

 人類の常識を超越した技術で作られた剣だ。そんなしょぼい性能なわけがない。


『失礼しました。あらためまして、私はアレサ。マスターを補佐するために作られた、ソード型ガイドです。無知なマスターがこの世界で野垂れ死にしないよう知識面でサポートしますので、よろしくお願いします』


 流暢な日本語だが、抑揚のない機械音声なので違和感が凄い。おまけに結構酷いことを言われていた。

 とはいえ機械相手に腹を立てても仕方がないと、修介は努めて冷静に応じることにした。


「宇田修介だ。よろしく頼む」


 そう言ってから、修介はあらためて荷物を確認した。

 背負い袋の中には、水袋や食料。鍋やオタマなどの調理器具。ナイフ。火打石。防寒用のマント。紐や布、包帯などの細々としたものが色々と入っていた。それら小物を入れる為の小さな袋もいくつかあった。

 水袋には水も入っている。食料は干し肉とビスケットっぽい何か。数日分はあるだろうか。どのくらい日持ちするのかは知らなかった。別の小さな袋には塩も入っていた。調味料として使うのだろうか。

 とりあえず旅に必要そうな最低限の物は揃っていそうでほっとした。適当そうな神様だったが、きちんと仕事はするようだ。


「でもこれ、どこで調達してきたんだろう?」


『マスターの精神衛生を考慮して、その質問には回答できかねます』


「なにそれ、すごい気になるんだけど?!」


 だが、アレサはそれ以上は何も言わなかった。

 仕方なく修介は荷物を背負い袋に入れ直すと、それを背負いながら立ち上がった。


「そういえば……」


 さっきからずっと引っかかっていることがあった。

 アレサの抑揚のない喋り方と声に、どこか聴き覚えがあるのだ。

 前の世界でAIと会話したことなんてない。どこで聴いたのか。

 どうでもいいことなのだが、このまま思い出せないとずっと引きずりそうなので、旅立つ前にすっきりしておきたかった。

 頭をひねり懸命に思い出す。

 ふと脳裏に閃光がほとばしった。

 修介はついに答えにたどり着いた。


「オッケー、アレサ! 『お風呂が、沸きました』って言ってくれ!」


『お風呂が、沸きました』


「やっぱりか!」


 修介の脳内に『人形の夢と目覚め』のメロディーが再生された。

 これもおそらくあの老人が修介の脳内イメージを勝手に使ったのだろう。

 それにしても、人工知能の声のイメージが風呂沸かし器とは。修介は自分のイメージの貧困さを思い心の中で泣いた。せめて人気女性声優の声をイメージできていたならどれだけよかったか。

 とはいえ、謎が解けてすっきりした。

 修介はあらためて北の方角を見る。


「よし! それじゃあとりあえず北に向かって歩いていくか!」


 誰もいない街道に修介の声が響き渡る。

 こうして修介の異世界冒険が地味に幕を開けた。


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