君を失った現実

   

 

 結局、薬の効果が切れるまで、この夢世界の問題は見つからなかった。ピエロ熊と女の子しかいない不思議な夢ともお別れをしなければならない。そして、現実に戻ったら、事務所に薬使えなかったぞ、と報告せねば。場内のピアノの音はリズムまで悪くなりはじめている。本当にこの夢は不思議で仕方がない。一体何が何だったのだろう。


「また来てね!」

「来れたらな」


 と、現実世界なら絶対に来ないと判断されるような返事をする。実際、夢の行先は選べないし、相手がどこに住んでいるかもわからないので、もう会うこともないだろう。


「じゃあな」


 と、手を振り、俺の体はゆっくりとこの世界から消えていった。


 現実世界に意識が戻ってくると、もう見飽きた天井が視界に入ってきた。


 薬の報告の前に、トイレにでも行くか。


 ベッドから立ち上がり、扉を開く。その瞬間、看護師たちの大きな声が廊下に響いてきた。


「急患です! 道を開けてください! 急患です!」


 俺の目の前を担架がもうスピードで過ぎ去る。病室をすぐに飛びてなくて良かったという安心と、運ばれて行った見ず知らずの誰かの心配をして、今度こそトイレに行こうとすると、廊下に何か落ちていることに気がついた。


 俺はそれを拾い上げ、よく見てみる。


 ぬいぐるみ、か。道化師の服を着ていて、何の動物かはっきりとわからないけれど、多分熊だろう。


 待てよ……。道化師、つまりピエロと熊の組み合わせ……。


 俺は急患が運ばれて行った方向を見た。


「夕?」


 ぬいぐるみを持ったまま、そちらに向かって走り出す。


 集中治療室の前に着くと、白髪混じりで中年ほどの女性がソファに座っていた。下を向き、ハンカチを目に当て、すすり泣いている。夕の母親かもしれない。


「あの、これ」


 そう声をかけ、彼女が顔を上げたのを確認すると、夕が落としたぬいぐるみを差し出す。


「まあ、それは娘の夕のものだわ。拾ってくれてありがとう」


 やはり彼女は夕だった。そしてこの人も母親で間違いない。涙を拭きながらぬいぐるみを受け取る母親の顔は化粧がとれていて、ひどくやつれていた。


「いえ。たまたまた落ちているのを見つけたものですから」

「それにしても、よくこれが夕のぬいぐるみだってわかったわね。どうして?」

「実は、ついさっきまでその熊と、夕さんの三人でいたんです」


 夢の中で、とまで言うと説明が面倒くさくなるので、それだけを伝えると、彼女は怪訝そうな顔をする。


「それは……、一緒の空間にいたということですか」

「いえ、一緒にお話したり、ケーキを食べたり」

「ちょっと何を言っているのかわかりません」


 そんなこと言われても、俺だってなぜわかってもらてないのか、わからなかった。俺の説明が悪いのだろうか。


「夕は、幼稚園の頃から十二年間、意識を取り戻していないんですよ」


 それを聞いた瞬間、俺の中で全てのピースが繋がった。


 少し子供っぽい喋り方、平仮名で書かれたお化け屋敷、パティシエではなくケーキ屋さんと言ったこと。


 すべてが五歳で止まっているというのか。それならば、あの夢は、現実世界に戻れない檻のような悪夢だったということなのか。


 俺は何も言うことが出来ず、母親の前に立ち尽くした。言葉を探す俺の様子を察したのか、彼女は俺にも腰をかけるよう促した。


「良かったら、あなたと少しお話をしてみたいのだけれど」

「ぜひ」


 俺が彼女の隣に座ると、


「私は脇坂洋子」

「上田高樹です。二年とちょっと前から、ここに入院しています」


 あら、と少し驚く洋子さん。


「あなたも大変ね」

「そうでもないですよ。ちょっと面倒臭い病気で、入院期間が長いだけです」


 相手は十二年というのに、俺のたった二年を長いと言うのはどうかと思ったが、洋子さんはあまり気にしていないようだった。


「あの子はね、事故にあったの。ピアノ教室から帰る時ケーキ屋に寄って、駐車場で跳ねられたのよ。相手もあまりスピードは出していなかったんだけど、打ちどころが悪かったみたいで、それからずっと夕と話せないまま十二年がたったわ。


 あの子はケーキが大好きで、毎週ピアノのレッスンが終わると私にケーキ屋さんに行こうって言うの。将来はケーキ屋さんで働きたいとも言ってたわ」


 それなのにどうして、


「あんなに未来を楽しみにしていた子が、どうしてこんな目に」


 と洋子さんの目に再び涙が浮かぶ。


 俺が変わってあげられたなら良かった。対した目標も、それこそ夢もなく毎日を生きている俺よりも夕の方が何万倍も生きる価値がある。


 彼女は影で生きるべき人間ではない。


「夕さん、運ばれてましたけど、大丈夫ですよね」

「それは……わからないわ。もう駄目かもしれない」


 洋子さんの声は泣き過ぎて掠れてしまっていた。


 俺は何も出来なかった。もし、俺が夕の夢に行っていた時、彼女の悪夢を食べていたなら、夕は意識を取り戻せたかもしれないというのに。夕は楽しそうだ、なんて思い込んでしまった。


 そんな俺が夕の心配なんてする資格はない。


 洋子さんは重たい空気を隠すように少し高めの声色で話し始める。


「このぬいぐるみはね、夕の五歳の時の誕生日プレゼントだったのよ。変な見た目だけど、夕はこれがいいって言い張ったのよ。事故の時も鞄に入れていた大事なぬいぐるみ」


 それを聞き、夕の夢で出会ったこのぬいぐるみの様子を思い出す。いつも夕を楽しませようとしていたあの姿。夢でも現実でも夕にとって最高の友達だったのだろう。だからきっと、


「そのピエロ熊も早く夕さんが意識を取り戻すことを祈っていると思います」


 俺のその言葉に、洋子さんは少し頬を緩めた。


「私もそう思うわ」


 洋子さんはそのままピエロ熊のぬいぐるみを俺に差し出してきた。一体どういう意図があるのかと困惑した顔をすると、


「この子を夕の病室へ連れて行ってあげて。きっといつもいる場所で待っている方がいいわ」


 俺は、わかりました、と快諾してそれを受け取る。もしかしたら、洋子さんは突然現れた男子高校生と話さず、一人で夕を待っていたいと思っているのかもしれない、と感じたのもある。それは深読みのし過ぎかもしれないが、実際、少し夢であっただけの他人があまり介入していい話ではない。


「では、失礼します」


 と、ピエロ熊を持った俺は夕の病室へと向かう。洋子さんから聞いた病室は確か四〇四号室だ。エレベーターを使えばあっという間に着く。


『四〇四 脇坂夕』


 という文字を確認し、扉を開いた。部屋の明かりをつけると、そこは個室で、ベッドや机の上にテレビがあるだけで他には何もなく、長期入院者のそれではなかった。しかし、唯一異質なものが部屋の隅に置かれてあり、俺はそれに近づいてみた。よく見てみると、それはピアノだった。夕はピアノ教室に通っていたようなので、きっと夕の意識が戻ったときに、いつでも練習ができるように置いているのだ。


 俺も持ってきたピエロ熊をベッドの上の壁に立て掛け、ピアノの蓋を開いた。


 そっと、優しく鍵盤に触れる。あまり綺麗な音ではない。夕が事故にあってから、調律をしていないのだろう。


 今にも消えそうな鈍い音。されど、力強く、何か大きな力があるような音。残響が何も無いこの部屋に響き渡る。


 もう一度、鍵盤に指を落とし、次はドの音から順番に音階を上げていった。シを鳴らし終え、さらに隣の鍵盤に指を移す。


 何も音が鳴らない。


 その代わりに立て掛けていたピエロ熊が倒れる音が無音の空気を大きく振動させた。


 俺は嫌な予感がして、もう一度、一オクターブ下のドから弾き直す。だが、音はならない。とうとう壊れてしまったのだろうか。


「もうそのピアノは音楽を奏でられないよ」


 あの夢で聞いた声がピエロ熊から聞こえる。


「なんで」


 まだ夢を見ているのかもしれないという可能性を考えずに、俺はピエロ熊に訊いた。


「それは僕にもわからない。僕たちにわかることは、これからどうするかってことだけだよ」

「じゃあ、俺たちはこれからどうするんだよ」 

「僕はどうもしない。ぬいぐるみだしね。どうも出来ないんだ。捨てられるまで、ぬいぐるみの人生を全うする。君がどうするかは君次第だ」


 言っている意味がわからない。鼻につく喋り方がさらに俺を苛立たせた。


「お前、さっきわかるって言ったじゃないか」

「君が決めればわかるだろう。そういうことさ」

「何なんだよお前」


 頭にきた。


 ピエロ熊を掴み上げ、ふざけた顔を睨む。しかし、本人は動じていないようだった。


「頭を引きちぎって、綿をぶちまけるのか? 今、君を迷わせてる張本人の大切なぬいぐるみだ」


 確かに、そんなことは出来ない。でも、俺は今この回りくどい話をするぬいぐるみに怒りをぶつけずにはいられなかった。迷いに迷って、床に力強く投げつけたが、ちょうど上を向いて落ちてしまって目が合う。


「君は今、夢を見ているだろう。僕にはわかる」

「は?」

「それはどんな夢だい? あの人に会わなければ、見るはずのなかった夢はどんな夢なんだ?」

「俺が喋るぬいぐるみに八つ当たりしてる奇妙な夢」


 動かないぬいぐるみが笑ったように見えた。


「残念だけど、それは現実だね。もっと自分と向き合いなよ。君は絶対に夢を見ている」


 いい加減にしてほしい。なぜぬいぐるみごときに弄ばれなければいけないのか。


 俺はピエロ熊を無視して、夕の部屋を出る。そのまま自分の病室に戻ってベッドに飛び込んだ。


 あいつは俺が夢を見ていると言った。


 夢を見ている? 俺が?


 分からなかった。自分にはそんな感覚がない。ただ、何か胸に引っかかる。嫌な感覚があった。


 その正体がわからないまま、次第に意識が遠くへ消えていった。

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