決戦
縁は目覚まし時計の音で目を覚ました。ベッドから抜け出し、手早く制服に着替えていく。
ふと、水坂の事が頭をよぎった。水坂は学校に来るのだろうか。自分とどんなふうに接してくるのだろうか。もしかしたら水坂は自分が舞い上がっていた様を、面白おかしく言いふらしているのだろうか。
「うっ……」
縁は下腹部に強い痛みを感じ、その場でうずくまった。内蔵を何者かに強く握られているような、そんな痛みだった。縁はうずくまったまま、痛みが引くのを祈った。腹痛はしばらくすると楽になるものの、すぐに痛みは元に戻ってしまう。それを繰り返していた。
しばらく縁がそうしていると、いつまで経っても降りてこない縁を不審に思ったのか、母親がドアをノックした。
「縁? もう冬霞ちゃん来てるけど?」
「……母さん、ごめん。ちょっと、体調が悪くて……今日は休むって冬霞に伝えてくれないかな?」
流石にこの体調では学校に行けそうになかった。縁は首を上に向け、ドア越しに母親に向かって言った。
「大丈夫?」
心配そうな声がドア越しに聞こえてきた。
「大丈夫。ちょっとお腹が痛いだけだから……」
「そう。冬霞ちゃんにはそう伝えておくね」
母親の足音が聞こえなくなると、縁は再び寝間着に着替え、ベッドに戻った。
その日以来、縁は再び引きこもりに戻ってしまった。
縁が引きこもりになってからすでに1週間が経過していた。腹痛があったのは最初の3日だけだったが、縁は相変わらず外に出ることができずにいた。
冬霞に出会ってから自分は変われたと思っていた。以前の自分より遥かに社交的になり、2回目の高校生活を満喫し、引きこもっていた2年間を取り戻せたと思っていた。しかしそれはまやかしだった。水坂に騙され、精神的にも肉体的にも打ち砕かれた。結局自分は何も変わっていなかったのだ。力を手に入れて調子に乗っていただけなのだ。
外が怖い。人が、怖い。
縁は再び高校に通うようになってからはほとんど開くことのなかったSNSのページを久しぶりに開いた。何人か消えたアカウントがあったものの、そこはほとんど変わっておらず、久しぶりにやってきた縁を暖かく出迎えてくれた。まるで昨日まで当たり前のように利用していたかのようだった。
『ごめん、今日も行けそうに無い』
冬霞は縁からのメッセージを確認すると、スマートフォンをスリープ状態にしてポケットにしまった。
普段ならばもう縁の家に向かう時刻だが、時間ができた。冬霞はもう一杯コーヒーを飲むことにした。マグカップにコーヒーを注ぎ、椅子に腰を下ろす。
すでに縁が高校に行けなくなってしまってから1週間が経過していた。以前からSNSで縁と繋がっていた冬霞は、縁に何が起きたのかなんとなく理解していた。縁は心に深い傷を負ってしまっている。
2年前、縁は心に深い傷を負い、引きこもりになってしまった。しかし数ヶ月前に再び高校に通うようになり、人間関係にも恵まれ、恋人ができた……と思っていた。しかしその恋人、水坂は縁を騙していた。それどころか2年前の縁のいじめに加担をしていた。縁の心の傷は筆舌に尽くしがたいものだろう。
どうすればいいのだろうか。大抵のことをそつなくこなしてきた冬霞だったが、今どのような行動を取るのがベストなのか思いつかなかった。
あの日以来水坂は学校に来なくなっていた。いざ来られても困るのだが、数日間全く動きがないのが不気味だった。
冬霞は残りのコーヒーを飲み干すと、コートを羽織り、高校へ向かった。
登校した冬霞が教室に入ると、水坂が何事も無かったかのように、クラスメイト達と何かを話していた。
冬霞は一瞬驚いたものの、それを表情に出さないよう意識しつつ、水坂を視界に入れながら自席へ向かっていった。途中水坂が冬霞に気づき、わざとらしく陰のある笑顔を浮かべた。
「おはよう。冬霞ちゃん」
何事も無かったかのように挨拶をしてくる水坂に、冬霞は「何を考えているんだ」と思いながらも、短く「おはよう」と返し席についた。
昼休み。冬霞が席を立とうとしたところで水坂が席の前にやってきた。まさかクラスメイトがいる前で何かをしてくるとは思えなかったが、冬霞は警戒しつつ、「何か用?」と答えた。
「冬霞ちゃん、ちょっと話せないかな?」
水坂は普段どおりの様子で、数日前に自分たちの前で怪物に変身したとはとても思えなかった。
「あすか~ご飯食べよ!」
少し離れたところから、クラスメイトが少し大きめの声で水坂を呼んだ。水坂はそれに「ごめん、私冬霞ちゃんと話があるから先食べてて!」と同じくらいの大きさで返事をした。
「手短に済ませて」
冬霞は短く答え立ち上がると、水坂に続いて教室を後にした。
水坂が選んだ場所は、以前冬霞が縁を呼び出した人気のない廊下だった。昼休みということもあり生徒の話し声が遠くから聞こえるが、この廊下は相変わらず少し不安に感じるほど静かだった。
「それで、何の用?」
水坂は2人きりになっても普段のままだったが、何があってもいいように冬霞は身構えながら問いかけた。
「私、冬霞ちゃん達のアジトがどこにあるか知ってるんだよね」
まるで友達同士で繰り広げられる、『好きな人当て』をしているかのようなテンションだった。
「そう」
冬霞は感情を抑えた声で短く答えた。ハッタリかもしれないが、本当に知っている可能性もある。どのみち反応するのは得策ではないと冬霞は考えた。
「相変わらず冬霞ちゃんはクールだね」
水坂は苦笑を浮かべたかと思うと、
「……公園の近くにある、あの『廃屋』だよねって言ってもそうなのかな?」
一段と低い声で、口の端を吊り上げて笑った。その表情は、普段の水坂とは明らかにかけ離れた、邪悪なものだった。
冬霞は一瞬バレていたことに動揺したものの、表情を変えることなく「確かにあの廃屋目立つから、そんなことを考えたくなるか」と、否定でも肯定でもない態度で答えた。
しかし水坂は冬霞の言ったことがまるで聞こえていなかったかのように、
「3日後、1時に廃屋の前で。待ってるからね」
そう一言言うと、冬霞に背を向けて去っていった。
昼寝をしていた縁は、いつの間にか床に転がっていたスマートフォンの通知音で目を覚ました。
再び引きこもりになってしまってから、縁の生活は再び以前と同じに戻りつつあった。以前と同じようにSNSをダラダラと見て時間を浪費し、生活リズムは徐々に崩れていった。
当然縁もそんな状態がいいとは思っていない。しかし時間に縛られないこの生活はある意味ではやはり楽しく、そしてそんなダメな自分自身を責めて自己憐憫に浸るのは気持ちよかった。
ベッドの上から手を伸ばし、手探りでスマートフォンを拾い上げて画面を確認すると、冬霞からメッセージが届いていた。
『3日後の1時、水坂さんと廃屋前で決着をつけることになった。あと、2日後までに三島さんからメンテを受けてね』
縁はメッセージに目を通すと、返信をすることもなくスマートフォンをベッドの上に放り投げた。
「決着って、俺行かないのにどうするつもりなんだよ……」
ベッドの上で敷布団に視線を向けながら縁は小さく呟いた。そもそもなぜ廃屋前なのだろう。まさか水坂にバレてしまったのだろうか。もしバレてしまっているとしたら、水坂に施設を破壊されてしまう可能性がある。そうなってしまったら、自分はメンテを受けられずに死んでしまう……。
一瞬縁の背中を寒気が走った。そんな身の危険が迫っている状態にも関わらず、縁は「どうでもいい」と思ってしまっていた。
「……俺、すっかり昔に戻ってしまったな」と縁は自虐的に小さく呟いた。
2日後の夜。縁はメンテを受けるべく久しぶりに外に出た。あれだけ外に出たくなかったのに、以前メンテを受けずに死にかけたときのことを思い出すと、自然と体が動きあっさり外に出ることができた。
廃屋の地下では、部屋の端に置かれたデスクで三島が何かの事務作業をしていた。
縁が来たことに気づいた三島が、「来たか」と縁の方に首を動かしながら言った。
「何をしてるんですか?」
縁は三島の元へ歩いていくと、机の上に置かれた何枚かの書類に視線を落とした。
「これでも私は教師だからな。そして教師の仕事はいくらでもある。まあ、持ち帰りの仕事だ」
三島は机の上にある書類をひとまとめにするとカバンにしまい、立ち上がった。
「準備するから少し待て」
縁に背中を向け、部屋から出ていった。
縁がべッドに腰を下ろして待っていると、三島はすでに見慣れつつある怪しい器具を押しながら戻ってきた。
縁はベッドの上に横になると、三島に向かって問いかけた。
「先生は、冬霞から聞いてるんですか?」
『何を』が抜けていたが、三島はそれを汲み取ったようで、「ああ、聞いている」と短く答え、そのまま手を動かし続けていた。
「まさか、高校の中に『奴ら』の構成員がいるとは思わなかった。しかし、高木。お前も大変だったな」
三島は縁が水坂に負けたことは当然知っている。それなのにわざわざ「大変だったな」と言ったということは、つまり三島は縁と水坂の間に何があったかを知っているということだ。
「まあ、そうですね」
三島から「大変だな」と言われるのが不愉快に感じた縁は適当に答え、会話を打ち切った。
「……2年前お前を救えなかったことは、今でも申し訳ないと思っている」
唐突に発せられた言葉に、縁は反射的に三島の方を見た。
「お前が2年前に学校に来なくなってから、その原因は相馬だろうという見当はついていた。しかし高木、お前も知っているだろうが、相馬の家によってあやふやにされ、お前と相馬の事は闇に葬られてしまった。だがそんな不正を許していいはずがない。私は相馬の罪を暴いてやりたかった。しかし私の力ではどうにもできなかった。本当にすまない」
以前相馬のことについて三島が語った時、あまり罪悪感を抱いていない印象を縁は持っていた。だが、どうやらそうではなかったようだ。
とは言ったものの、三島の立場上どうしようも無かったことは縁も理解している上に、三島に謝られてもどうしようもなかった。
「まあ、もうそれはもういいですよ」
湧き上がる感情をどう処理すべきか分からず、縁は不機嫌さを抑えるように答えた。
「そうか。ありがとう」
相変わらず冷たい声だったが、縁には三島の気持ちががなんとなく分かるような気がした。
謎の器具を繋ぎ、血液浄化が始まって数分後、縁はすでに見慣れた天井を見上げながら物思いにふけっていた。
明日決着をつけると冬霞は言っていた。しかし正直なところ、アレと勝てる気がまるでしなかった。そしてどうせ勝てないのならば、このまま家に引きこもっていてもいいのではないだろうか。どっちにしろ自分はこのままだと死ぬ。だったら引きこもって好きなように過ごしたほうがいいのではないだろうか。
そのようなことを考えていると、三島が縁の前に現れ、「明日、どうするんだ」と縁に尋ねた。
「……わかりません」
縁は戦いたくなかった。とは言ったものの、それをストレートに言うのも憚られ、三島から視線をそらしながら曖昧に答えた。
「そうか。まあ戦う気がないなら、私と塔で何とかするしかないだろうな」
「えっ……」
三島が思った以上にあっさり納得し、縁は面食らった。
「2人で勝ち目があるんですか?」
自分が戦うのを拒否したために2人で戦う羽目になってしまっているというのに、縁は三島に尋ねずにはいられなかった。
「お前が水坂に重傷を負わされたときに、誰がここまで運んだと思ってるんだ?」
三島は縁の横のベッドに腰を下ろし、縁を見下ろしながら言った。
「先生が迎えに来てくれたんじゃないんですか?」
「違う。塔だ。塔も改造人間だ」
「そんな……」
縁には信じられなかった。確かにどこか人間離れしたところがあるとは思っていたが、まさか本当に人間離れしているとは思わなかった。
「じゃあ、冬霞も俺みたいに変身できるんですか?」
「それはできない。あくまで身体能力を一時的に強化できるだけだ」
しかしそれだけであの化け物に勝てるとは縁も思えなかった。
「それで、どうやって水坂に勝つんですか?」
「おそらく、勝ち目はほぼないだろうな」
「じゃあ、どうするつもりなんですか? 先生の仲間に助けを呼ぶんですか?」
勝ち目がないのならばどうするのだろうか。もはや縁には仲間に助けを呼ぶくらいしか思いつかなかった。
「あいにく、我々にはそんな余裕はない。せいぜい、廃屋の地下にアジトがあって、我々がこのような活動をしていたことを闇に葬ることができるくらいだろうな。塔には水坂との時間稼ぎをしてもらいながら、私はその手続きをする」
そう語った三島の口調は、他人の事を話しているようにしか思えなかった。
「それで、いいんですか?」
自分でも何を言ってるのだろうと縁は自己嫌悪しつつも、言わずにはいられなかった。
「まあ、我々の組織にはよくある話だ」
縁は言い返そうとしたが、急に意識が遠くなり始めた。薬剤が効き始めたのだ。
その圧倒的な眠気に逆らうことができず、縁の意識は闇に包まれた。
塔冬霞はある日全てを失った。
日常も、両親も、自分の過去も、五体満足な自分の体も。もしかしたら最初から無かったのかもしれない。
目を覚ますと冬霞はベッドの上にいた。そこは病院の一室のようだった。
冬霞は自分の過去に関する記憶のほとんどが修正液で塗りつぶされたように真っ白で、何も思い出すことができなかった。
冬霞が上半身を起こすと、部屋に誰かが入ってきた。短く切った髪をジェルで固め、銀縁のメガネをかけた冷たい表情の男だった。彼は自分の事を『三島』と名乗った。そして三島は冬霞の身に起こったことを語り始めた。冬霞の両親は殺されたこと。冬霞自身も重体だったこと。そして冬霞は普通の人間ではなくなってしまったこと。
冬霞は三島が自分の事を『冬霞』と何度も呼んでいることに気づき、そこで自分の名前が冬霞だったことを思い出した。
冬霞は『塔冬霞』を名乗り、三島と行動を共にするようになった。身分を偽り、日本全国を飛び回った。『塔』という名字は三島がつけたものだ。正直冬霞はその名字が好きになれず、名前で呼ばれることを好んだ。
そしてある日、冬霞は三島から自分とともにとある町に向かう事を命じられた。そこで協力者となる人間を確保し、田舎ということで見逃されてしまっている、法の目をかいくぐってのうのうと暮らしている不埒な輩を処分することが目的だった。
水坂との決着の時間から1時間前。縁は自分の部屋にいた。
縁はメンテの後に三島から聞かされた話を思い出していた。
三島たちの組織と、水坂のいる組織ははるか昔から歴史の裏側を暗躍してきた。どちらが正義でどちらが悪かというのは極めて曖昧で、いつ頃からあったかも、構成人数もまるでわからない。しかし、どちらの組織の主要構成員も政府の中枢に潜入しているらしい。
かといって直接やり合うことはなく、三島や水坂のような構成員と代理戦争をさせている。
そして、今まで縁が手を下してきた者たちのうち、かなりの割合で水坂のいる組織との繋がりがあるらしい。さらにそれぞれの組織は名だたる大企業とパイプを持ち、資金や技術を提供され、時には提供される関係だ。
そしてこれは三島が個人的に調べた情報であり、もしかしたら全く違っている可能性もある。
ただひとつ確実なのは、水坂が自分たちの命を狙っているということだけだった。
更に縁にとって何より驚きだったのは、冬霞が自分と同じ、改造人間だったということだ。
三島から語られた冬霞の過去に、縁は言葉を失った。冬霞は水坂のいる組織の手によって両親を殺され、冬霞自身も危うく死にそうだったということ。そして三島の手によって彼女を改造人間にし、以降共に行動してきたということ。
「なんだよそれ……。映画の見すぎだろ」
縁は部屋で1人、ツッコミを入れた。本当に訳がわからない。ただの引きこもりだったはずが、気がつけば改造され、死にかけ、世界の裏側の秘密を知ってしまった。
そんなことをぼやいている間にも、決着の時間は近づいていく。このままでは冬霞も、三島も、水坂に殺されてしまうだろう。そう分かっていても、水坂に精神的にボロボロにされたときの痛み、体を貫かれたときの痛みを思い出すと、あの化け物ともう一度対峙する気にはなれなかった。
頭の中がグチャグチャでもう何も考えたくない。縁が頭を抱えていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「縁。少し話せる?」
ドア越しに母親の声が聞こえた。
「……何?」
少し悩んだ末、縁はドア越しに返事をした。
「ありがとう。……私、また縁がこんな風になっちゃって、正直言えば悲しい」
縁はわずかに胸の痛みを感じた。
「だけど、これだけは言わせてほしいの。縁がまた高校に通うようになって、最初は心配でたまらなかった。でも、いつの間にか彼女はできているし、以前の縁とは比べ物にならないくらい明るくなった。お父さんも、私も、縁の事を内気な性格だと思いこんでいたけど、全然そんなことはなかった。ただ自分を出すのを怖がっていただけで、本当の縁は明るい子だった。あなたは閉じこもっていた殻から、完全に抜け出すことができた。もしかしたら、縁は自分がまた以前の自分に戻ってしまったんじゃないかって思ってるのかもしれないけど、そんなことはない。縁はもう以前の自分に戻ることはない。親の私が言ってるんだから、間違いない。信じて」
「……!」
「しばらく休んだら、また元気な縁を見せてね。おやすみなさい」
ドアの前から母親の気配が消え、向かいにある両親の部屋のドアを閉める音が聞こえた。
縁はドアの前に立ち尽くしていた。母親から以前の自分に戻ったわけではない、と言われた時は正直嬉しかった。しかしそれでもこのドアを開け、水坂の前に立つ気にはなれなかった。
「本当に、俺、戻ったわけじゃないのかな」
床を見つめながら縁は小さく呟いた。もちろん、答えは返ってこなかった。
冬霞が約束の時間に廃屋から外に出ると、そこには以前と同じ純白のゴスロリ服を身に着けた水坂が立っていた。
「おや、高木はどうした?」
わざとらしく首を傾げながら水坂が言った。
「高木くんなら来ない。水坂さん、あなた1人なら私だけで十分だから」
正直なところ、怖かった。しかし冬霞は普段どおりの冷静さを装い、仕事をする時はいつも身につけている、黒を基調とした体のラインが出る服の袖の位置を直した。
水坂は「そうか、残念だ」と一言言うと、水坂の全身から衝撃波と共に白い煙が吹き出し、異形の怪物に変身した。
「……ON」
冬霞は自分の体の内側に意識を集中させ、意識の中にあるスイッチを『ON』にした。次の瞬間、冬霞は全身を流れる血液の量が一気に増えたような感覚を抱いた。力が湧いてくる。冬霞が戦闘モードに切り替わった証拠だった。
冬霞は地面を強く踏みしめ、拳を握り、構えを取った。冬霞の雰囲気が変わったことに気づいたのか、水坂は「旧世代か……まあ、遊んでやるか」と退屈そうに目を細めた。
冬霞は首元に取り付けた通信機に向かって「三島さん、これから水坂さんと戦闘を開始します」と小さく言うと、邪悪な笑みを浮かべる水坂に向かって一気に距離を詰めていった。
水坂も同時に冬霞に向かって一直線に飛び込んできた。先に手を出したのは水坂だった。2人がぶつかる直前、手から生えた鋭い爪で下から上にひっかきを放った。
しかしその爪は空を切った。冬霞は地面を強く蹴りブレーキをかけると、水坂の右手側にターンし、水坂の横っ腹に蹴りを放った。右手でひっかきを放った水坂の横っ腹はノーガード状態で、冬霞のミドルキックは水坂の横っ腹に深々と食い込んだ。そして冬霞はすかさず水坂から距離を取った。
「……なかなかやるな」
水坂は歯を見せながら不敵に笑った。普通の人間ならば横っ腹に蹴りを入れられたらしばらく痛みで動けなくなるものだが、水坂は特にダメージを受けていないようだった。
水坂は今度は構えを取ると、じわじわと冬霞との距離を詰めていった。冬霞も構えを取り、水坂に向かって少しずつ近づいていく。
2人の距離が3メートルを切った瞬間、水坂は一気に距離を詰め、冬霞の顔面に向かって手刀を放った。それを冬霞は首を横に動かし、攻撃をかわした。しかしそれを狙いすましていたかのように、水坂の反対の手が冬霞の顔面を捉えようとしていた。それを冬霞は姿勢を大きく落としてかわし、水坂の腹に向けてストレートを放った。
さすがの水坂もリバーブローにはダメージを受けたようで、表情を歪め、いかにも苦しそうなうめき声を漏らした。
冬霞は水坂が体を前に傾けた瞬間を逃さず、その顎に向かってアッパーを叩き込み、一度水坂から距離を取ると飛び蹴りを放った。
肉体を強化された冬霞の飛び蹴りは、猛獣に体当たりをされたかのような破壊力で、水坂は吹き飛ばされ、地面を何度か転がった。
手応えはあった。しかし冬霞は警戒を解かずに地面に横たわった水坂の元へ近づいてく。
水坂は手を支えにしつつ、よろめきながら立ち上がった。口元からは血が滲んでいる。
「少し遊びが過ぎたようだな。……しかし、これで遊びは終わりだ」
水坂は口元の血を拭うと、冬霞に向かって突っ込んでいった。
再び下から上への斬撃が放たれる。冬霞はそれをかわそうとした瞬間、すでにそのひっかきは冬霞の体に到達しようとしていた。
「!」
冬霞はさらに体をひねった。しかし攻撃を完全にかわすことはできず、冬霞の体の表面を水坂の爪が切り裂いた。
(くっ……速い!)
水坂の攻撃の速度が明らかに増していた。どうやら水坂は今まで手を抜いていたようだ。
さらに水坂は冬霞の胸に向かって後ろ蹴りを放った。冬霞は無理やり体を捻ったためそれをかわすことが出来なかった。とっさにガードを取り、後ろ蹴りを受け止めた。
水坂の蹴りはまるで大型トレーラーに突っ込まれたかのような威力だった。凄まじい衝撃を受け、冬霞は後ろに吹き飛んだ。冬霞が吹き飛んだ先には廃屋があり、冬霞は壁に体を強く打ち付け、崩れるように倒れ込んだ。
「ちょっと本気出したらだけなんだがな。あっけない」
水坂は自分と冬霞との力の差を見せつけるかの如く、首を傾げ、鋭い目で動かなくなった冬霞を見ていた。
冬霞は何とか起き上がろうとしていた。全身が痛いを通り越して苦しくてたまらず、体はこのまま横になっているのを命令しているかのように動かなかった。
しかしそんなわけにはいかない。冬霞は叫び声を上げ、その勢いと共に立ち上がった。地球の何倍も重力のある惑星にいるのかと錯覚するほど体が重く、立っているだけでもやっとだった。
「なんと。まだ立てるとは」
水坂も冬霞がまだ立てるのは意外だったようで、その声にはわずかに驚きが混じっていた。
「しかし、もはや満身創痍のようだな。次で、終わりだ」
水坂は立つのがやっとといった冬霞に一気に駆け寄ると、鋭い爪を使った手刀を放った。
「……ON」
冬霞は水坂の手刀に真っ直ぐぶつけるようにパンチを放った。次の瞬間、水坂は驚きの声を上げた。
「何……だと?」
冬霞の拳とぶつかった爪は砕け散り、水坂の指はあらぬ方向に折れ曲がった。
「まだ奥の手を残していたか!」と怒鳴りつけた次の瞬間、冬霞のもう片手のパンチが水坂の顔面を捉え、水坂の口から歯が何本か吹き飛んだ。さらに冬霞は鬼気迫る表情で水坂に追い打ちをかける。殴る、蹴る、そしてまた殴る……。今までの冬霞の一撃よりも何倍も重い一撃が水坂の体を蹂躙していく。
水坂の表情は今までに無いほど苦痛に歪み、もはや限界を迎えようとしているように見えた。
しかし、その前に冬霞の体に限界がやってきた。一時的にさらに体を強化して放った攻撃は、冬霞の体自身にもダメージを与えていた。冬霞の意志に反して冬霞の両腕はだらりと下がり、足は勝手に折れ曲がり、そのまま地面にへたり込んだ。
「なんだ、もう限界か! もう少しだったのに、残念だったなあ! 後少しで、後少しで私を倒せたのに!」
水坂は大げさな身振り手振りで、これみよがしに残念そうな表情を浮かべたかと思うと、
「今度こそ、終わりだ」
冷酷な表情を浮かべ、冬霞の顔面に向かって手刀を放った。
冬霞は反射的に目を閉じ、体に力を入れた。
しかし、いつまで経っても水坂の攻撃が来る気配が無かった。恐る恐る冬霞が目を開けると、水坂が目の前からいなくなっていた。辺りを見渡し水坂の姿を探すと、水坂は冬霞から見て右方向に吹き飛んでいた。
「!」
「——冬霞、遅くなってごめん」
冬霞の目の前に、縁が立っていた。
縁が自分の部屋で時計を確認すると、すでに時刻は1時を過ぎていた。
結局縁は外に出ることが出来なかった。
「はぁ……」
縁は自分の不甲斐なさに大きくため息をついた。
今頃冬霞と水坂が戦っている。冬霞があんな化け物相手に勝てるのだろうか?
おそらく三島の言う通り、望みは限りなく薄いだろう。つまり、自分の知らないところで冬霞は殺され、三島もおそらく殺される。そして自分もその後に殺されるか、メンテを受けられずに死ぬ。
「冬霞……」
縁は自然と冬霞の名前を口に出していた。ある日突然自分の目の前に現れ、そして自分を誘拐し、自分に高校に通うことを命じた謎の女の子。冬霞によって自分の人生は激変した。このまま引きこもり続けてそのまま死ぬと思っていたのに、2度目の高校生活を送ることになり、辛いこともあったが、その高校生活は思い出すと自然と笑みが溢れるほど楽しかった。そんな自分を変えてくれた女の子を見殺しにしていいのだろうか。
「いやいや、俺が行ったところで……」
縁は頭の中で考えていたことを声に出して否定した瞬間、母親の『あなたは変わった』という言葉を思い出した。母親は冬霞の事を非常に気に入っており、縁に何度も「大事にするように」と言っていた。母親には今まで何度も迷惑をかけていた。そして今もまたかけている。これ以上母親を裏切るような真似をしていいのだろうか。そして自分は曲がりなりにも男だ。男が、女の子を見殺しにするような事をしていいのだろうか。
頭の中で様々な思考が混じり合い、うるさくてたまらなかった。
「あー、畜生!」
じっとしていられず、縁は立ち上がった。そして、部屋のドアを見つめた。
「……行くしか、ないだろ」
縁はドアを開け、外へ飛び出した。
「高木くん……来てくれたんだ?」
冬霞はボロボロになりながらも、微笑を浮かべた。その表情は心から安堵してるようだった。
その笑顔に、縁は罪悪感を覚えた。
「遅くなって、ホントごめん」
縁は冬霞から目をそらし、再び立ち上がろうとする水坂に対し構えを取った。
「水坂、お前を倒す」
「やっときたか……」
水坂は目を細め、口の端を歪めた。
「何度でも倒してやるよ!」
縁と水坂は同時に地面を蹴り、お互い相手に向かって一直線に突っ込んでいった。
水坂の顔面に向かって放たれた手刀を縁はかわし、その腕を掴み、捻りながら引っ張ると、水坂を地面に叩きつけた。そして何度も地面に横たわる水坂を何度も踏みつけた。顔。腕。胸。力の限り踏みつけた。その度に水坂は苦しそうにうめき声を上げた。
「調子に……乗るなよ!」
水坂は踏みつける足に向かって爪を突き立てようとした。
縁はギリギリのところで踏みつける足を止め、水坂から飛び退いた。
水坂は素早く起き上がり縁に駆け寄ると、残った左腕の爪で左から右に薙ぎ払った。
縁はそれを姿勢を落としてかわし、水坂の顎に向けてアッパーを放った。何かが砕ける音ともに水坂の体が浮き、すかさず縁は水坂の胸に向かって掌底を放った。
水坂は血を飛び散らせながら吹き飛んだ。その一連の流れはさながら演武のようだった。
「きっ、貴様……」
水坂は今までに無いほど憎しみのこもった表情を浮かべながら立ち上がり、口に溜まった血を吐き捨てた。
「もう、手加減はなしだ」
水坂は両手を広げ胸を張り、宙を見上げながら唸り声を上げた。
次の瞬間、水坂の背中から白い肌とは対象的な、大きな黒い翼が生え始めた。
この状況でさらに変身したということは、きっと何かあるに違いない。縁は構えを取ったまま、水坂から距離を取った。
その直後、水坂の姿が縁の前から消えた。
反射的に縁は辺りを見渡し、水坂の姿を探した。
しかし水坂の姿は見当たらない。
「まさか、逃げたのか?」
水坂は逃げていなかった。何かが縁の背中を切り裂いた。
「が、ぐあ……」
突然の背中の焼けるような痛みに、縁はうめき声を上げながらも、辺りをもう一度見渡した。しかし、水坂は見当たらない。そしてさらにもう一度何者かが縁の背中を切り裂いた。
「くっ……」
縁は切り傷の痛みに耐えながら感覚を研ぎ澄ました。頭上から何か音がする。
縁は首を上に向けた。大きな何かが高速で飛び回っていた。それは背中に生えた黒い翼で飛ぶ水坂だった。そして水坂は縁に向かって一直線に突っ込んできた。
「くそっ!」
縁は向かってくる水坂に向かってパンチを放った。しかし水坂はその直前で軌道を変え、縁の攻撃をかわした。
そして水坂は空中で方向を変え、死角から縁に向かって突っ込んできた。
「高木くん! 来る!」
縁は冬霞の声に従い素早く姿勢を低くし、水坂の攻撃をかわした。
「空を飛べないお前ではどうしようもないだろう? さあ、どうする?」
水坂は上空から縁達を見下ろしながら、余裕綽々と言った様子で笑った。
「どうすればいいんだ……」
縁は拳を握りしめ、水坂を睨みつけた。
水坂は高く飛び上がると、水坂に向かって急降下をしてきた。縁は姿勢を落とし、攻撃をかわそうとした。しかし想像以上に水坂の動きが早く、空中からの蹴りをまともに食らい、縁は地面を転がった。
再び水坂は空中を飛び回り、縁に向けて急降下する。時に蹴り、時に体当たり、時に爪。水坂を捕まえようにもギリギリのところでかわされてしまう。
何度も攻撃を受けながらも、縁は耐え続けた。ここで倒れる訳にはいかなかった。しかしどうすることもできず、縁の全身は水坂の爪によって切り傷だらけになっていく。ダメージが蓄積していくに従って縁の動きが徐々に鈍くなり始めた。
「どうした。すっかりヘトヘトじゃないか。私を倒すんじゃなかったのか?」
水坂は明らかに攻撃を誘っている様子で地上に降り立った。それでも縁は行くしか無かった。水坂に駆け寄り、パンチを放つ。しかし水坂はいともたやすく攻撃をかわすと、縁に回し蹴りを放った。縁は未だへたり込んだままの冬霞のすぐ近くに吹き飛ばされた。
「高木くん!」
倒れ込んだままの縁の元に冬霞が近寄ってきた。まだ回復しきっていないようだ。
縁は手を使い、ふらつきながらもなんとか上半身を起こした。
「大丈夫……?」
いつもはクールな冬霞だったが、その表情は弱々しかった。
「何とか……ね」
縁は強がってみせたが、正直もう限界だった。
「……いや、ごめん、やっぱもう限界かも」
「そっか」
冬霞は小さくため息をつき、短く答えた。
「役に立てなくてごめん」
ここで終わりなのだと思うと、縁の口から自然と言葉が出ていた。
「そんなこと……」
「もしかしたら、一緒に戦っていたら勝ち目があったかもしれない……ごめん」
冬霞が何かを言おうとしたが、その前に縁が謝罪の言葉を続けた。
「もう限界といった様子だな」
水坂が腕を組んだ姿勢で縁たちから数メートルのところにゆっくりと飛んできた。地上に降りることなく、ハチドリのように宙に浮いたままだったが、羽の動きはそれで浮力が得られるのかと思えるほどゆっくりだった。
「まあ前よりは楽しませてくれたが、ここまでのようだな?」
水坂は明らかに油断しきった様子で、縁や冬霞が立ち上がり飛びかかって来ることを全く考慮していないようだった。
「くそっ……」
縁は立ち上がろうと体に力を入れたものの、体はそれに応えてはくれなかった。
「さて、どうやってとどめを刺してやろうか? 散々私を痛めつけてくれたんだ。楽に死ねると思うなよ?」
水坂は首を横に傾け、嗜虐的な笑顔を浮かべながら2人を見下ろしていた。
「畜生……」
縁は水坂を睨みつけた。それが今の縁にとっては精一杯だった。
水坂は縁の前に降り立ちしばらく無表情で縁を見下ろしていたが、前触れもなく縁を蹴飛ばした。縁の体に水坂のつま先が深々と食い込み、縁は口から、傷から血を撒き散らしながら吹き飛んだ。
「高木くん!」
冬霞は縁が吹き飛ばされた方向に首を動かしながら叫んだ。
縁は蹴りの強さから、水坂は本気で蹴ったわけではないということが分かった。しかしすでに限界の縁にとっては手加減した蹴りも致命的な一撃だった。
「……大体、気に食わないんだよ。引きこもりの分際でちょっと力を手に入れたからって、調子に乗ってんのがさ」
縁のもとに、水坂がボソボソとつぶやきながらゆっくりと近づいてきていた。
「引きこもりは引きこもりらしく、引きこもってSNSにでもかじりついていればいいんだよ!」
水坂は縁のすぐ横にたどり着くと、縁を強く踏みつけ、再び蹴飛ばした。縁の体は廃屋の壁を突き破り、残されたガラクタを吹き飛ばしながら家の中を転がった。
「俺は、もう、引きこもりじゃない……」
縁は近くにあった家具に体を預け何とか体を起こすと、外にいる水坂に向かって声を振り絞って言い返した。しゃべるのですら強い苦痛を伴う行為だった。しかしそれでも言い返さずにはいられなかった。
「は? なんだって?」
聞こえているのか、わざと聞こえていないふりをしているのか、水坂はバカにしたような態度で耳の後ろに手のひらを当てたポーズを取った。
「俺はもう引きこもりじゃない! もう昔の自分じゃない!」
縁はもう一度力を振り絞り、水坂にも聞こえるであろう大きさで叫んだ。
「ならば、証拠を見せてみろ」
水坂は口の端をわずかに歪め、縁に攻撃を誘っているようなポーズを取った。
「うっ、うおおおおおお!!!」
縁は一気に壁に空けられた穴から飛び出した。相変わらず全身は悲鳴を上げていたが、それらを全て無視して水坂に殴りかかろうとした。
「無駄だ」
再び水坂は空へ舞い上がり、縁の攻撃をかわした。
「この翼がある限り、お前は私には勝てない」
「クソッ!」
縁は空中であざ笑う水坂を睨みつけた。しかし確かに水坂の言う通りだった。あの翼がある限り、こちらの攻撃は届かず、水坂から攻撃を一方的に受け続けてしまう。
「高木くん!」
冬霞の叫び声に縁と水坂が振り向いた。
「負けないで、高木くん。あなたは、変わった。もう昔の高木くんはどこにもいない。ずっと一緒にいた私が保証する」
冬霞はふらつきながらも立ち上がり、力強い声で言った。
「冬霞……」
その言葉を聞いた瞬間、縁は背中を押されたような感覚を抱いた。正直なところ、気を抜けば昔の自分に戻ってしまいそうな気がしてならない。それでも、少なくとも今はもう周りの機嫌をうかがってビクビクしたり、現状を打破しなければならないと分かっていながらも一歩も動くことができず、SNSで自己憐憫に浸っていた自分はもういない。
「俺は……俺は、変わったんだ!」
縁は大声で叫んだ。水坂に向かってではなく、自分に向かって。
次の瞬間、縁は意識の中に『何か』があることに気づいた。それはスイッチのようでもあり、階段のようでもあり、どこかから垂れ下がっている綱のようでもあった。そしてそれは自分を新しいステージへ連れて行ってくれる。それだけは確信があった。
縁はそれに意識を集中した。スイッチを押したような、階段に登り始めたような、綱を手に取ったような感覚のあと、全身に力が溢れるのを感じた。
縁は両腕を目の前でクロスさせ、一気に振り下ろした。
「なっ、何?」
「何だ!?」
冬霞と水坂が揃って驚きの声を上げた。縁の全身が輝きだしたかと思うと、縁は新たな姿に変身していた。
全身は闇に溶け込むほど黒く、複眼のような目は爛々と輝いているように見えた。異常なまでの筋肉に覆われた全身は一回り細くなっていたが、洗練された力強さを放っていた。今までの縁が力任せに殴りつける棍棒ならば、今の縁は熟練の刀鍛冶によって打たれた日本刀だった。
「三島さんは確かに高木くんの体は実験段階だから、未知の部分がたくさんあるとは言っていたけど、さらにもう一段階変身するなんて……」
冬霞は新たな変身を遂げた縁を見ながら、驚きを隠せない様子で呟いた。
縁は変化した自分の手足を見回していた。全身はなぜか細くなってしまったが、以前の体より明らかに体が軽く、力に溢れているのがわかった。
水坂もさらに変身した縁を見て驚きを隠せないようだったが、
「どんな姿になろうが、この翼がある限り私には勝てない!」
再び縁に向かって急降下した。
今までの縁には、高速で急降下してくる水坂を避けるのは至難の業だった。しかし、新たな姿になった縁には決して不可能なことではなかった。
縁は水坂の攻撃をかわすと水坂の足を掴み、水坂と共に空に舞い上がった。
「くっ、離せ!」
水坂は縁を振り落とそうと縦横無尽に飛び回りながら、もう片方の足で縁を蹴りつけた。しかし縁を振り落とすには至らない。縁は水坂の足を強く握った。
「ぐぁあああ!」
骨が折れる音ともに水坂は悲鳴を上げバランスを崩した。そのまま2人はもみ合いながら地面に向かって落ちていった。
水坂は地面に全身を強く打ち付けた。水坂の体を衝撃吸収に使った縁はダメージが無く、起き上がるとすかさず水坂の背中の翼を引きちぎった。
水坂はあまりの苦痛のためか、縁が思わず水坂から飛び退くほどの恐ろしい悲鳴を上げた。
水坂が背中から血を流しながら立ち上がった。ダメージがあるのか、体がふらついていたが、
「……絶対に、殺す」
怒りが極限に達したのか、睨みつけられた縁は一瞬得体のしれない恐怖を感じた。
「がぁぁあぁあああぁぁあ!」
水坂が目を見開き、叫び声を上げながら縁に向かってダメージを感じさせない動きで、縁へ向かって飛び込んできた。
縁は鬼気迫る水坂の攻撃をかわし、振り向きざまに蹴りを放った。
しかし水坂はその攻撃をかわし縁の方を振り向くと、残された爪で切り裂きを放った。
縁は爪を手でつかみ取り、握り潰した。そして怯んだ水坂の胸に向かって蹴りを放った。何かを蹴飛ばしたときに発したものとは思えない音が響き渡り、水坂は吹き飛ばされ、地面に突っ伏したまま動かなくなった。
「すごい……」
新たな縁の力を目の当たりにした冬霞は、ただ一言小さく呟いた。
縁は倒れたままの水坂を無理やり引き起こし、殴りつけた。
「どうしたよ? 翼がなくなったらこんなもんか?」
「調子に……乗るなァ!」
水坂は文字通り牙を剥き、縁に向かって殴りかかった。
縁がまだこんなに力が残っているのか、と思うほどの一撃が縁の頬を捉えた。縁は水坂の一撃に怯むことなく水坂の顔面にパンチを放った。しかし水坂は倒れることなく、縁の腹に向かってパンチを放つ。
縁が殴れば水坂が殴り返す、縁が蹴れば水坂が蹴り返す。その繰り返し……。パワーアップした縁と水坂の力は拮抗していた。翼を引きちぎられ、追い詰められた水坂が今度こそ本気を出したのだと縁は判断した。
「ふざけるな……お前みたいな奴に、私が……」
一度距離を取った水坂が苦しそうな表情で縁を睨みつけた。
縁も水坂も全身傷だらけで、肩で息をしていた。もうじきこの戦いは終わる。縁は直感的にそう思った。
縁と水坂はお互い構えを取り、じりじりと間合いを詰めていた。縁が先に手を出そうとした瞬間、縁の体に異変が起こった。
縁の体の表面が溶け出したかと思うと、元の姿に戻ってしまった。
「え、嘘だろ!」
縁は元の姿に戻ったのが信じられず、目の前に自分の腕を持っていった。しかし縁の目に入ったのは暗い緑色をした、異常なまでの筋肉に覆われた腕だった。
さらにエネルギーを使い果たしたかのように急激に体が重くなり、縁はその場に倒れそうになった。しかし足を一歩前に踏み出し、なんとか踏みとどまることができた。
刹那。縁は自分が致命的な状況にある事を思い出し、顔を上げた。
水坂が今にも縁に飛びかかろうとしていた。
間に合わない。やられる。
しかし、水坂は縁の目の前で目を見開き、苦痛に歪んだ表情を浮かべながら固まっていた。
「グッ……なん、だと……」
いつの間にか水坂の後ろには冬霞がいた。そして冬霞の拳は水坂の背中に深々と食い込んでいた。
「なんとか間に合った。高木くん、まだ動ける?」
冬霞は不敵な笑みを浮かべた。
「もちろん」
縁は返事と同時に水坂の顔面に向かってパンチを放った。冬霞も拳を水坂から引き抜くと、縁のパンチと挟み込むように水坂の後頭部に向かってパンチを放った。
「グッ、グゥゥウゥアアアアアアアア!!!」
水坂は耳をつんざくような叫び声を上げたものの、縁と冬霞に頭を潰され、その叫び声はすぐに止まった。
頭を潰された水坂の体は不気味に何度か動いたものの、頭から血を吹き出しながら倒れ、そのまま動かなくなった。
「やった……のか?」
今度こそ力を使い果たした縁は人間の姿に戻り、そのままへなへなとその場に座り込んだ。
「高木くん、大丈夫?」
縁の目の前にやってきた冬霞が縁に手を差し出した。冬霞も全身ボロボロで、その表情からは疲労がにじみ出ていた。
「ありがとう」
縁は冬霞の手を取り立ち上がると、動かなくなった水坂を見下ろした。
「……そういえば、矢吹くんを倒した時も冬霞に助けられたね」
「確かに。私達、案外いいコンビかもね」
「だね」
縁は手を上げ、手のひらを冬霞の方に向けた。冬霞は縁の意図を察したようで、縁の手に向かって自分の手を叩きつけた。静まり返った夜に、乾いた音が響いた。
「そういえば、あれ、何だったのかな?」
あの新たな変身は何だったのか。縁は冬霞なら何か知っていそうな気がした。
「私にも正直わからない。強いて言うなら、高木くんの体は実験段階だから、私達の知らない何かがあるのかもしれない。ただ……」
冬霞は何かを考えている様子で押し黙った。
「ただ?」
続きが気になった縁は冬霞と同じ言葉を繰り返した。
「不完全だからすぐ変身が解けちゃったんだろうね」
「なんだそりゃ」
まるで答えになっていなかったが、それが妙におかしくて縁は笑い始めた。それにつられて冬霞も笑い出し、しばらく2人はその場で笑い続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます