友人

 縁は瞼に冬特有の弱い朝日を感じながら目を覚ました。

 頭は重く、体はだるい。

 徐々に覚醒していくにしたがって、自分が見覚えの無い部屋で寝ていることに気がついた。部屋は8畳ほどの広さで、壁紙や家具は白を基調にした質素な雰囲気をしており、綺麗に片付いていた。そしてハンガーでかけられた服やインテリアから、ここは女の子の部屋だということが分かった。

 自分が女の子のベッドで寝ているという答えを導き出した縁は、無意識のうちに布団を上下に軽く動かしていた。

 柔らかく、胸の奥がほんのりと熱くなる甘い香りが縁の鼻孔をくすぐった。

 なんていい香りなんだ。縁は恍惚とした表情をしながら頭の中で呟いていた。

 縁が香りに夢中になっていると、ドアが開いて誰かが入ってきた。制服に着替えた冬霞だった。

 恥ずかしい場面を見られてしまった縁は、布団を上下に動かしていた手を素早く止め、太ももの上に叩きつけるように置いた。その動きは誰が見ても明らかに不自然だった。

「おはよう。よく眠れた?」

 冬霞は何事もなかったかのように、ゆったりとした佇まいで前髪を手で払いながら言った。

「……なんだか体が重い」

 縁は気恥ずかしさから冬霞の方を見ずに答えた。

「そうだね、私も正直眠いかな」

 冬霞はそう言うと小さくあくびをした。

 縁がそういえば何時なのだろうと思いながら部屋の中を見渡すと、ベッド近くに置いてあった小さな時計に『06:09』と表示されていた。道理で眠いはずだ。縁は大きく伸びをした。

「高木くん、今日も学校だから、朝食食べて家に着替えに戻らないと」

「あっ、そうか……あ!」

 縁が着ていたのは昨晩着ていた黒い作業着のような服だった。上はその下に着ていたTシャツ一枚になっていたものの、下はそのままだった。

「なんか、すみません」

 気まずさを感じながら縁はベッドから抜け出した。冬霞がいるということはつまりここは彼女の部屋だ。こんな格好で彼女のベッドを使ってしまったことに縁は罪悪感を覚えた。

「洗えば大丈夫。それより、朝ごはん冷めちゃうから。あと、昨日高木くんが着てた服、テーブルの上に置いてあるから着替えて」

 冬霞はどうでも良さそうに言うと部屋から出ていった。縁も手早く着替えると後を追い、冬霞の部屋を後にした。


 リビングに出た縁は、カーテンを開け放たれた窓から見える景色に見覚えがあることに気がついた。見える景色から、どうやらここは縁の家から数百メートルのところにあるアパートのようだ。

 このアパートは平屋建てで、さらに1部屋に付き駐車場が1つ用意されているという、田舎でなければ存在しないような贅沢な土地の使い方をしていた。それでも家賃は都会の人が見れば、何か曰く付きなのではないかと疑ってしまうほど安い。

 縁にはこのアパートに住むのはどんな人なのか全く想像がつかなかった。交通の便は悪く、何か産業があるわけでもない。若い人は地元を去る一方のこの町にアパートを借りて住む人がそもそもいるとは思えなかった。

 しかしアパートを外から眺めると明らかに入居者がいるのがひと目で分かり、そしてその1人が今縁の前にいるのだ。

「朝食といっても大したものはないけど」

 冬霞はそう言いながらテーブルの上に朝食を2人分置き、縁に席を勧めた。

 縁は冬霞と向かい合う形で席についた。テーブルの上にはトーストと、コーヒーが置かれていた。

「いただきます」

 縁は手を合わせてやや固めに焼かれたトーストをひとかじりした。甘い。トーストにはハチミツとバターが塗られていた。ハチミツの強い甘みがバターの塩気によって程よくまろやかに中和され、眠気でストレスを感じている脳にはそのまろやかな甘味が心地よく感じられた。そしてハチミツとバターに押されながらも、固めに焼かれたトーストの香ばしい香りがわずかに香るのが良いアクセントになっていた。

 縁が向かいに座っている冬霞に視線を向けると、冬霞は同じように焼かれたトーストを食べていた。食べている間も相変わらずクールな表情を浮かべていたが、わずかに口元が緩んでいた。

 トーストを食べ終えた縁は、ミルクで白くなっているコーヒーが入れられたマグカップを手に取った。甘いものを食べた後のコーヒーは非常に苦い。縁は一瞬覚悟を決め、口に運んだ。

 確かに苦かった。が、思ったほど苦くなかった。どうやらかなりの量の砂糖がコーヒーに入れられているようだ。

 もしかしたら冬霞は甘いものが好きなのかもしれない。縁はそう思った。

 縁が何口かコーヒーを飲んだところで冬霞もトーストを食べ終え、マグカップを手に取ると、

「高木くん、遅くなったけど、昨日はお疲れ様」

 そう一言言ってコーヒーをひと口飲んだ。

 あえてその話に触れないようにしていた縁は、冬霞のその一言を聞いた瞬間、心臓が一瞬強く鼓動を刻んだ。

 やはり、あれは現実だったのだ。自分は昨晩あの怪物の姿に変身し、相馬俊樹議員と、西川久美を殺した。正直言ってまるで実感が湧かなかった。嫌々2人の乗った車の前にまで歩いていったところまでは実感があった。だが、2人に口汚く罵られて頭に血が上ってからは正直記憶があやふやだった。記憶はあるにはあるのだが、まるで夢の中の話のような、現実感が全くなかった。

「あれは、現実だったんですかね」

 縁は頭のどこかで冬霞が「あれは夢だよ」と言ってくれないかと願いながら問いかけた。

「現実だよ」

 冬霞は即答すると、もうひと口コーヒーを口に運んだ。

「そうですか……」

 縁は残念がっているような、どうでもよさそうな曖昧な口調で呟いた。冬霞に現実だと言われたところで現実味が湧いてくることも特になかった。頭の片隅では自分は逮捕されるのではないか。と心配している自分がいたが、現実味が無いせいで夢の中で犯した罪で逮捕されのでは、と心配しているようなバカバカしさがあった。

「そろそろ行こっか」

 冬霞は立ち上がり食器を流しへ運ぶと、

「高木くんのも終わったらここに置いといて」

 そう言うとさっきまで縁が寝ていた部屋に入っていった。

 縁は残りのコーヒーを一気に飲み干すと食器を流しに置き、冬霞に倣って蛇口をひねり食器の中に水を貯めた。


 縁と冬霞が縁の家に着いたのは7時30分頃だった。母親はにやけながら2人を出迎えた。

 縁はシャワーを浴びるために冬霞と母親を玄関に残し、浴室へ向かった。


 どちらからともなく、冬霞と母親は他愛のない話をし始めた。最近あった話、天気のこと、学校での縁の様子。話題は目まぐるしく変わっていく。

 冬霞は母親の話に相槌を打ちながら、母親の様子を観察していた。最初は明らかに自分のことを警戒していたようだったが、今では逆に気に入られているのが見て取れた。それは昨晩のように身動きが取りやすくするために狙ってやったことなので、そうでなければ逆に困るのだが。

 会話が途切れ、沈黙が訪れた。ここまではほぼ一方的に母親の話を聞いていたので、何か話題を提供するべきか。と冬霞が考えていると、母親が神妙な面持ちで「冬霞ちゃん」と短く言うと、冬霞の顔をじっと見つめた。

「はい、どうしました?」

 母親は両手で冬霞の手を取り、

「本当にありがとう」

 そう一言言うと冬霞に向かって頭を下げた。

「えっと、ちょっと、どうしたんですかお母さん。私、ちょっと困っちゃいます」

 冬霞はわずかに困惑を含んだ笑顔を作りながら言った。内心でも若干困惑していた。

 母親は顔を上げ寂しそうに微笑むと、

「あの子、昔から家に友達を連れてきたことなんてほとんどなかったの。たまに連れてきたと思っても、二度とその子を連れてくることはなかった。きっと上手く関係を作るのが苦手だったんでしょうね。中学高校に上がってもそれは変わらなくて、高2のときにはついに高校に通うのをやめてしまったの。性格が性格だから、いじめにあっていたのかもしれないけれど、高校は『いじめは無かった』の一点張り。高校に行かなくなった後も部屋で暴れることもあって……正直私達の手には負えなくなってしまっていたの。だから、縁が引きこもるようになってから、毎日が不安で仕方なかったの。縁はずっとこのまま大人になることができずに引きこもっているんじゃないかって、もし私達が死んだ後どうすればいいんだろうって……」

 母親の声は途中から涙声に変わり、目からは涙が滲んでいた。

「そうだったんですね……大変でしたね」

 冬霞は何か言葉を挟むことはせず、共感を示すにとどめた。

「だから、こうやってまた縁が外に出るようになって、高校に通うようになってくれて、本当にうれしいの。冬霞ちゃん、きっとあなたのおかげよね? そうでなきゃ、また高校に通おうなんてそうそう思わないわよ。あなたは私とお父さんにとって、天使だわ。本当に、ありがとう。あの子、不器用だけど、本当は優しい子なの。これからも、縁と仲良くしてあげてくれないかしら?」

 母親は涙を流しながらも笑顔を浮かべ、冬霞の手を握る力をわずかに強めた。

 冬霞にとって母親の話す内容は特に目新しいものはなかった。縁がSNSであれこれ投稿していたのを目にしていたためだ。だがここまで感謝されるのは流石に想定外だった。どうしたものか。

 とりあえず話を合わせておいたほうが無難だと冬霞は判断し、

「大丈夫ですよ、お母さん。私、縁くんのこと大好きなので」

 冬霞は母親を安心させるべく、屈託のない笑顔を母親に向けた。


 手早くシャワーと着替えを済ませた縁は、玄関へ急いだ。

 玄関へ向かうと母親の話し声が聞こえてきた。母親の声にただならぬ様子を感じ、よくないと思いつつも母親と冬霞から死角になる位置に立ち止まり聞き耳を立てた。

「……あなたは私とお父さんにとって、天使だわ。本当に、ありがとう。あの子、不器用だけど、本当は優しい子なの。これからも、縁と仲良くしてあげてくれないかしら?」

「大丈夫ですよ、お母さん。私、縁くんのこと大好きなので」

 2人は一体どういう流れでそういう話になったのか気になって仕方がない会話が聞こえてきた。そして冬霞の最後の一言。冬霞の声色からして母親の前でのみ見せるキャラの状態で言っているので、おそらく嘘だろう。しかしそれでも冬霞のような美少女に言われていると思うと、顔が熱くなってくるのを感じた。このままだと立ち聞きしていたのが間違いなくバレてしまう。

 縁がどうしたものかと考えていると、縁の脳裏に天啓が降りた。自分はシャワーを浴びた直後だ。突っ込まれてもシャワーを浴びてたからと切り返せば問題ない。これだ。

 縁は小さく「よし」とつぶやくと、2人の前に姿を現した。母親が冬霞の両手を握っている光景にわざと「2人とも、何してるの?」と疑問を問いかけた。

 母親は冬霞から手を離すと、

「縁。冬霞ちゃんをこれからも絶対に、大事にしなさいよ」

 母親は真剣な目つきではっきりとした口調で言った。

 冬霞は母親が見ていないのをいいことに、口元を歪ませながらからかうような目で縁を見ていた。


 母親に見送られ自宅を後にした2人は、横に並んで歩き始めた。

 歩き始めてすぐに冬霞は「ねえ高木くん、私とお母さんの会話、立ち聞きしてたでしょ?」と縁の方を見ずに言った。

「なっ、してないですよ!」

 思わず縁の声がうわずる。

「その反応がもう『してました』って言ってるようなものでしょ。それに、高木くんは長年あの家に住んでるから慣れちゃってるのかもしれないけど、高木くんの家の廊下って足音がよく響くから、足音が近づいてきて急に止まったりすれば、すぐ分かるんだよね」

「そうだったのか……」

 縁はまさかそんな事でバレてしまっていたとは思わず、ばつが悪そうに首を前に倒した。

「それにしても、お母さんにあそこまで感謝されるなんて、正直私も思ってもみなかった」

「母さんとどんな話をしてたんです?」

 縁は冬霞と母親の会話は最後の部分しか聞くことができなかった。どういう流れであのようになったのか気になっていた。

「最初は高木くんの話。昔から友達付き合いが下手くそで、孤立しがちで、ついに引きこもりになってしまったっていう高木くんの半生から始まって、引きこもりになってしまってからは、お母さんは毎日が不安で仕方がなかったみたい。まあ、当然でしょうけどね」

「……」

 最初は「なんてこと話してるんだ」と思った縁だったが、冬霞から間接的に「毎日が不安で仕方がなかった」と聞かされ、罪悪感から胸が締め付けられる感覚がした。当然縁も引きこもっている間に両親がそのようなことで悩んでいるのではないかと想像はしていた。しかしそれでも間接的にとはいえ、母親が不安で苦しんでいたという話を聞かされるのはまた訳が違った。

「そのあと高木くんがまた高校に通うようになったのは私のおかげだって感謝された。それでまあ、話を合わせておいたほうがいいかなって思って」

 一気に話が飛躍したような気がしたが、縁はあえて何も言わなかった。それにしても、両親についている嘘の大きさが徐々に大きくなっている。昨日の泊まりで両親は自分と冬霞の関係をほぼ間違いなく恋人だと確信したはずだろう。もはや自分と冬霞は共犯者だ。永久に嘘をつき続けるわけではないとはいえ、両親を苦しめていたという罪悪感と相まって、朝から頭が重くなってくる。

 縁が思わずため息をつくと、後ろから「相変わらず2人とも仲良しだね〜」と間延びした声が聞こえてきた。

 2人が振り向くと、そこには神田と四谷がいた。

「2人ともおはよ〜」

 四谷が縁と冬霞に向かって手を上げた。

「おはようございます」

「おはよう」

 縁と冬霞も2人に向かって挨拶を返した。

「何か話してたみたいだけど、何の話?」

 縁と冬霞の後ろに神田と四谷がついて歩く形になり、前を歩いている縁に向かって神田が言った。

「えっと……」

 まさか正直に言うわけにも行かず、縁は返答に詰まった。

 縁がどうこの場を切り抜けるか考えていると、

「この反応は、人に言えない話をしてたっぽいな〜」

 四谷は目を細め、縁と冬霞を交互に見た。

「まさか、朝から別れ話?」

 そして何かひらめいたときのように一瞬目を見開き、わざとらしく動揺したような口調で言った。

「ま、そんなところかな」

 冬霞は否定でも肯定でも無いような曖昧な態度で答えた。

「いやいや、そもそも俺たち付き合ってすらいないですから」

 縁は「2人の前だとノリいいな」と内心思いながらツッコミを入れた。

「そういえば」

 楽しそうに3人のやり取りを聞いていた神田が首を傾げた。

「前から思ってたんだけど、高木くんって私達にも敬語だよね。私達同級生なんだから、タメ口でいいよ?」

「あ〜、たしかに!」

 四谷が神田の方を向きながら言うと、

「よしじゃあ、今から敬語禁止ね!」

 その場で今からタメ口でしゃべるよう縁に命じた。

「ええ……今からですか?」

 縁自身も折を見てタメ口でしゃべるようにしたいと思ってはいた。だが敬語でしゃべることで相手との間に作られる距離感に安心感を抱いていたため、なかなかやめることができなかった。敬語で話すと、どう頑張っても相手との距離をある程度のところまでしか詰められない代わりに、最低限の礼儀を示していると思われるメリットがあった。そして何より、途中からタメ口に切り替えるというのは勇気のいる行動だった。

「もちろん!」

 四谷は即答した。

「ほら、高木くん、早く」

 冬霞も便乗し、思わず縁は冬霞の方を見た。相変わらずクールな表情をしていたが、目を細め、口元が明らかに笑っていた。

 とても拒否できるような状況ではなかった。それに心の準備ができていないとはいえ、縁自身もいつかは切り替えたいと思っていた。縁は一度咳払いをすると、

「じゃ、じゃあ、今からタメ口でしゃべりま、じゃなくて……けど……えっと、変になっても、笑わないで……ね」

 タメ口で喋ろうとしたものの、うっかり敬語で喋ろうとしてしまったりと、噛み噛みになってしまった。恥ずかしさから顔が熱くてたまらなかった。

「よしよし、頑張ったな〜」

 四谷は満足げに縁の背中を何度か叩いた。

「痛った!」

 思った以上に四谷の叩く力が強く、縁は声を上げた。だが悪い気分ではなかった。

「敬語からタメ口に変える瞬間って緊張するよね。私も志穂とは違う中学だったから最初は敬語で、切り替えるタイミングに苦労したよ」

「そんなこともあったな〜。懐かし〜」

 縁が2人の思い出話を聞いていると、1つの疑問が湧いてきた。冬霞は去年この町にやってきたと言っていたが、やってきたばかりの頃の冬霞はどうだったのだろうか。

「そういえば、冬霞はどうだったんです……じゃなくて、どうだったの?」

 四谷は「んー」と当時のことを思い出しているような様子を見せた後、

「冬霞ちゃんは最初からこうだったね〜。冬霞ちゃんってすごい美人だからとっつき辛そうじゃん? 転校初日に私達2人が話してるところに入ってきて、最初はちょっと『うっわーっ』て思ったんだけど、いざ話してみたら話しやすくて今じゃすっかり親友って感じ」

「へえ、私そんなふうに思われてたんだ」

 冬霞が四谷の方を振り向くと、冷ややかな笑みを浮かべたが、口調は楽しそうだった。

「ま、まあ、確かに、冬霞は少しとっつきづらいかな」

 縁は冬霞と初めて顔を合わせた日の事を思い出しながら言った。

「だよね~! 冬霞ちゃんめちゃくちゃ美人だけど、可愛げがないんだよね~。そんなんじゃ男が寄り付かないぞ~? あ、でもそれはそれで高木くんが困るか。アハハ」

 1人で納得している四谷に縁は苦笑を浮かべた。タメ口で話し始めてまだわずかだったが、神田と四谷との距離が縮まったような気がしてきていた。


「おはよう」

 冬霞達と一緒に入った縁は挨拶をしながら自分の席に向かっていった。縁の席の近くで会話をしていたグループが「おはよー」と挨拶を返してきた。

 その中のグループの中にいた男子の一人が、

「あれ、高木くん、今日はおはようございますじゃないんだね」

 縁がフランクな挨拶をしてきたことに気づいた。

「あ、うん、四谷さんから『今日からタメ口でしゃべるように!』って言われちゃってね」

 縁は苦笑を浮かべた。まだタメ口でしゃべることに違和感があったが、学校に着くまでに冬霞達と話していたことで徐々に慣れつつあった。

「ああ、でもそっちの方が絶対いいよ。俺たちも高木くんが敬語だとやっぱやりづらかったし」

 別の男子がそう言うと、他の男子たちもその意見に同意を示した。

「そ、そっか、よかった」

 クラスメイト達は誰もが基本的にはタメ口で会話をしている。したがって縁だけタメ口で話してはいけない道理はなかった。むしろ縁だけ敬語でクラスメイト達と話していたので逆に浮いていた。しかしそれでも「何コイツ急にタメ口になってんの?」と言われるのではないかと縁は内心では心配をしていた。そんな状態だったので、「そっちの方がいい」と言ってもらえたことで心の中にあった『タメ口で話すことの抵抗感』が一気になくなった。


 前回の『仕事』を終えてから4日後の深夜1時。縁、冬霞、三島の3人は市民体育館の駐車場にいた。

 3年の歳月をかけて建てられたこの体育館は、完成時には大々的なセレモニーが執り行われ、なんとその日披露する合唱曲をわざわざプロの作曲家に依頼をしたほどだった。

 設備としては移動観覧席が設けられており、文化ホールとしても使用することも可能だ。ただし、縁たちの住む小さな町に対して不釣り合いなほど大きかった。おまけにこの町は辺鄙な場所にあるため、せっかく作ったはいいもののほとんど使われることはなく、すでに小規模な体育館やホールは存在していた。そのため、何のために作ったのかと首を傾げる住人も少なくなかった。

 縁と冬霞は体育館の前にある駐車場から夜の体育館を見上げていた。周りにはわずかに民家があるのみでほとんど照明はなく、暗闇の中で体育館は不気味に佇んでいた。

 前回と同じく冬霞も三島も縁に何をするのか教えてはくれなかった。

 ワゴン車に三島を残し、縁は冬霞に続き体育館のピロティへ向かった。ピロティ付近は打ちっぱなしコンクリートでできており、上を見上げると吹き抜けになっていた。ピロティを進んだ先には薄闇の中閉じられた自動ドアが見えた。

 縁は周りの気配に意識を傾けた。警備員がいる様子もなく、人気は全く無かった。こんなところで何をするのだろうと縁が考えていると、上を見上げていた冬霞が視線を戻し「高木くん」と縁の名前を呼んだ。

 縁が冬霞の横に歩み寄ると、

「今日の仕事内容を説明します」

 冬霞は手に持っていたペンライトを点灯させ、吹き抜け部分にある打ちっぱなしコンクリートにペン先を向けた。そこは地上から5メートルほどの高さがあった。

「今私がペンライトで向けている辺りに、崩れない程度にヒビを入れてほしいの」

「な、なんでそんなことを?」

 壊すならともかく、ヒビを入れるだけという指示に縁は意図が理解できなかった。

「そのうち分かるから、とりあえずやって。今日の仕事はこれだけだから」

 冬霞は質問には答えずに縁の目を見るだけで、答える気はまるでなさそうだった。

「……いつかちゃんと教えてよね」

 縁は冬霞から意図を聞き出すのを諦め、両腕を目の間でクロスさせ、変身した。そして霞がペンライトで示している位置の真下へ移動し、助走をつけずにその場でジャンプをした。縁はいともたやすく5メートルの高さに達し、力をセーブして手のひらを叩きつけた。軋むような音が鳴り、縁が手を叩きつけた場所にはヒビが入っていた。

 音が極力鳴らないよう膝を使って着地した縁は立ち上がると、先程自分がヒビを入れた辺りを見上げた。ヒビは、縁が入れたヒビを起点に、少しずつ大きくなっていっていた。

「崩れる!」

 縁はとっさにその場から逃げ出そうとした。しかし冬霞は逃げる素振りも見せず、ペンライトを動かし、縁がヒビを入れた辺りを確認していた。

「そう簡単に崩れたりしないから」

「え……?」

 縁は内心怯えながら冬霞の横に立った。ヒビの動きはすでに止まっていた上、崩れる気配はなかった。

「オッケー。これで今日の仕事は終わり。変身はもう解いて大丈夫。帰りましょう」

 冬霞は縁に背を向けると駐車場の方へ向かっていった。

 縁は変身を解き、遠ざかっていく冬霞の背中を釈然としない表情で見つめていた。前回相馬と西川を殺害した時は頭に完全に血が上ってしまっていて実感がなかったが、今回はまるで薄いガラスのようにコンクリートにヒビを入れた感触がばっちり残っている。そのため、この行為の意味について疑問を持たざるを得なかった。なぜ冬霞達は教えてくれないのだろうか。わずかだが、冬霞達に不信感が芽生えていた。


『……次のニュースです』

 数日後。朝のニュースを見ながら朝食を食べていた縁は、画面に映し出されたものを見て箸を落としそうになった。そこには相馬議員と、西川久美の写真が表示されていた。

『……日の未明、何者かに襲われ遺体で発見された相馬俊樹議員と西川久美さんですが、……県警は2人は熊に襲われたと発表しました』

 さらにテロップに表示された死亡原因を見て縁は我が目を疑った。2人を殺めたときの光景は縁の脳裏に焼き付いている。2人に負わせた傷は熊の仕業とは到底思えないものだった。警察のようなプロがそのような勘違いをするとは縁には信じられなかった。

 誰かが熊と発表するように工作を行った。縁にはそうとしか思えなかった。

『なお、死亡した相馬俊樹議員ですが、生前恐喝や公費の使い込み、犯罪行為の握りつぶしを行っていたとして、調査が進められております』

(確かにあの風貌なら他にも余罪があってもおかしくなさそうだけど、偶然にしてはできすぎている……。何かが引っかかる……)

 次の瞬間、縁の頭の中で点と点が繋がった。何者かによって相馬議員は抹殺対象にされ、自分はその片棒を担がされたのだ。したがって、数日前にコンクリートにヒビを入れさせたのもきっと何かを暴くためだったのだろう。

 この町で自分には想像がつかない何かが起こっている。そして自分はそれに巻き込まれている。縁の中で暗闇の中に置き去りにされたような不安感が湧き上がっていた。


 その日冬霞が縁の家に迎えに来ると、縁はすぐに冬霞と家を後にした。

「どうしたの?」

 今までにこのようなことはなく、冬霞も何かあると思ったのか、家を出てすぐに冬霞から話し始めた。

「今日の朝、ニュースを見たよ。相馬議員と西川さんが出てた」

 縁は冬霞の方を見ずに言った。

「そう」

 冬霞は『う』がほとんど聞こえないほど短く答えた。

「じゃあ、なぜ自分があんな事をさせられたのか理解した。ってことであってる?」

「理解したよ」

 縁は短く答えると、

「何で直前まで俺の仕事を教えてもらえなかったり、なぜそれをやるのか教えてもらえないの?」

 縁は疎外感によるイラつきを抑えながら、意識して冷静な口調で冬霞に問いかけた。

 自分は強制的に冬霞達に協力する羽目になった。しかし自分だけ情報共有されずにのけものにされていることは別の話だった。

「高木くんをのけものにしてるわけじゃないんだけど。その辺りの事は機密情報だから、高木くんにやってもらうことは直前まで言えないし、その意図についても話せないの。……だけど、ただ教えられないの一点張りじゃなくて、ちゃんと言えない理由を言うべきだったね。高木くんの気持ちを考えていなかった。ごめんなさい」

 いつもは姿勢のいい冬霞だったが、その時だけはうつむき加減で、加えて本当に申し訳なく思っているのか声には弱々しさが感じられた。

 そのような冬霞を見ていると、縁の中にあったイラつきはいつの間にかどこかへ消えていた。

「いや、まあ、そういうことなら仕方ないか」

 申し訳無さそうにしている冬霞に追い打ちをかけるように怒る気には到底なれず、縁はそこで話を打ち切った。

「分かってくれてありがとう、高木くん」

 冬霞は穏やかな表情を浮かべ、縁を見た。その笑顔に、縁は時が止まったかのように見とれてしまっていた。

「……高木くん?」

 冬霞が違和感を覚えるほど冬霞をじっと見てしまっていたことに気づいた縁は、慌てて目をそらした。自然と顔が赤くなる。以前も同じことをしてしまっていた。

 気まずさをごまかすため縁は遠くを眺め、物思いに耽る。冬霞と自分は恋人ではない。ましてや友達でもない。一時的に協力関係にあるだけで、おまけに冬霞の策略によって自分は改造人間にされてしまった。しかし冬霞と出会わなければ高校生活をやりなおせることは絶対に無かった。クラスメイト達と徐々に打ち解けることもでき、1回目の高校生活とは比べ物にならないほど充実した毎日を送ることができている。それらが自分のためではなく、冬霞が冬霞自身のためにやったことだとしても、冬霞に対して感謝の念を抱かずにはいられなかった。そして、やはり男としては冬霞のような美少女と一緒に登校できるというのは至福の時だった。

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