衝動
翌週。縁にとって毎朝冬霞が迎えに来るのは完全に日常の一部と化していた。冬霞は相変わらず自宅に迎えに来るときはなぜか活発で、裏表のない元気な少女を演じていた。
「冬霞ちゃん、おはよう。ホント、いつもありがとうね」
「いえいえ。こちらこそ、縁くんとは仲良くしてもらっていますし、こうやってお母さんとお話するの楽しいですから」
いつの間にか冬霞は母親と仲良くなり、彼女がやってくるたびにあれこれ雑談をするようになっていた。母親も冬霞の事をすっかり気に入ったようで、
「あの子、最初ネットで知り合ったっていうから心配だったけど、すごくいい子ね。これからも冬霞ちゃんと仲良くしなさい」と縁に話していたくらいだった。
最近は冬霞がやってくる時間も早くなり、その分母親と雑談をするようになっていた。
今日も冬霞と母親が雑談に花を咲かせているうちに時間になり、2人揃って母親に「行ってきます」と言い、自宅を後にした。
冬霞は外に出てすぐに「高木くん」と縁の名前を呼ぶと、
「今日の夜、空けといて」と縁の耳元で耳打ちをした。
縁はそれを聞いて動揺せずにはいられず、思わず冬霞に視線を向けた。一体今夜何があるのだろうか。自分と冬霞の関係は監視される者と監視する者の関係でしか無いと思っていた。母親に向かって「仲良くさせてもらっている」と言うのも方便だと思っていた。しかし2人で食事に行ったりと、全く興味がないわけでもなさそうだった。もしかしたら、そういうことなのだろうか。
そのようなことを考えてしまったせいか、冬霞を意識してしまい縁の心臓は強く鼓動を刻み始めた。朝の冷たい空気が気持ちよく感じてしまうほど、顔が熱くなるのを感じた。
「あ、はい。大丈夫です。冬霞とってことなら親も何も言わないと思います」
縁は冷静を装い、表情を引きつらせながら答えた。
「それはよかった」
冬霞はふっと息を吐くように微笑むと、
「今夜、高木くんの初仕事だから」
思わず身がすくむほどの冷たさを感じさせる真剣な表情で冬霞は縁を見つめた。
「えっ……あの、仕事って?」
縁が一瞬だけ感じた残念さも、冬霞のただならぬ様子にすぐに吹き飛んだ。『仕事』とは一体何をするのだろうか。改造された自分が行うことなのだから、真っ当なことでは無いのは間違いないのだろうが、その内容についてぼかされていることが強い不安を抱かせた。
「それは今夜話すから」
冬霞はそれ以上は何も言わず、そこで会話は途絶えた。その後も2人は通学路の途中で神田と四谷と合流するまでは何も言葉を交わすことはなかった。
その日の夜。時刻は23時を回ろうとしていた。縁は廃屋の地下にいた。
縁はその日帰宅すると母親に「冬霞の家に遊びに行ってくる」と話し、家を出た。母親は縁が拍子抜けするほどあっさり快諾した。
冬霞と示し合わせていたとおりに、外出してしばらくしてから『元々夜には帰るつもりだったが、泊まることになった』と母親にメッセージングアプリで連絡をしたときも即『OK!』という返信が来たくらいだった。
そこで冬霞が母親と話すときは明るい女の子を演じていたのは、母親の信頼を得るためだったと気づいたときは、彼女の用意周到さにわずかだが恐怖感を抱いた。
縁はベッドから起き上がると、あくびをしながら体を伸ばした。廃屋の地下に冬霞と共にやってきた縁は、冬霞に仮眠を取るよう命じられていた。
縁はベッドから抜け出し、被っていた布団を畳んだ。ぐっすり寝たおかげで頭は冴え渡っていた。
縁がもう一度伸びをしていると、冬霞と三島が現れた。2人は上下とも黒を基調とした、体のラインがよく分かる、スパイ映画にでも出てきそうな格好をしており、冬霞は長い髪の毛を後ろでまとめていた。
「おはよう。よく眠れた?」
冬霞はいつものように、本当は縁がよく眠れたかどうかなどまるで気にしていなさそうな淡々とした口調で言った。
「はい、まあ。……というかなんですかその格好」
縁には2人は何かのコスプレをしているように見えた。しかし2人にそのような趣味があるようにも思えなかった上に、2人は張り詰めた雰囲気を放っていた。
「これから仕事だからな。高木、お前の分もあるから着替えろ」
三島は手に持っていたコスチュームを縁に手渡した。コスチュームは思ったより重く、作業着のような手触りをしていた。
「私達はちょっと席を外すからその間に着替えて」
冬霞はそう言うと2人は再び部屋から出ていった。縁は釈然としないまま着替え始めた。服の素材は頑丈そうで、一般的な作業着を少しタイトにしたようだが、作業着のようにポケットはついていなかった。靴は足首まであるブーツタイプで、縁は2人に倣ってズボンの裾をブーツの中にしまい込んだ。
縁が着替え終えるとすぐに2人が戻ってきた。
「なかなか似合っているな」
三島は縁を一瞥すると、言葉とは裏腹に興味なさげに小さく呟いた。
「あの、ポケットなくてスマホがしまえないんですけど」
縁の着ている服にはポケットの類が一切なかった。
「高木くん、そういった物は全てここに置いていって。これからやることは、証拠になるものは一切残さないようにしなければならないから」
2人の様子から、悪事の片棒を担がされることになるのが縁には直感的に分かった。縁は無意識のうちに後ずさりをしていた。
「高木くん。君には逃げ場はない。前にも話したけど、君の体の中には特殊な爆破装置が埋め込まれている。もし逃げようとしたら私はそれを躊躇なく作動させる。そして、処分されるのは高木くんだけじゃない。……わかるよね?」
冬霞は縁の考えていることはお見通しと言わんばかりの表情で縁を見つめた。縁はこのときだけは冬霞の宝石のような目が恐ろしく感じられ、体が凍りつきそうなほどの恐怖を感じた。
「塔、高木。そろそろ時間だ。行くぞ」
「はい」
三島が背を向けながら言い、冬霞は感情の欠片も感じられない口調で短く答えると、2人は出口へ向かって歩いていった。
自分はすでに後戻りできないところまで来てしまっている。縁はその事実に平衡感覚を失ってしまったような、全身の力が抜けていくような感覚を抱いていた。できるのならばこの場で首を掻っ切ってしまいたい気分だった。だがそんな度胸はないし、自害をしたところで少なくとも両親達は無事では済まないだろう。拒否したくなるような現実が目の前で起こっていたとしても、それは逃げていい理由にはならない。こんなことはしたくないが、やるしかない。
「やるしか、ないのか」
縁は俯きながら吐息混じりで小さくつぶやき、出口へ向かってよろよろと歩いていった。
三島の運転で、3人はどこにでも走っていそうな5人乗りワゴン車で夜の国道を走っていた。深夜となると走っている車はほとんどなかった。
冬霞は助手席に、縁は後部座席に座っていた。三島も冬霞も一切口をきくことはなく、車内は暖房とエンジンの音が支配していた。
車はいくつかのトンネルを通り抜け、縁がほとんど行ったことのない町の外れへ向かっていた。縁の記憶では、そこは山道の中にペンションのように古びたゴシック調のラブホテルがいくつか点在しているエリアだった。周りに何もないところにそのようなデザインのラブホテルが建っている様は、異世界の住人がひっそりとそこへ住んでいるかのようにも見えた。
三島はその中のラブホテルの1つの近くに車を止めた。ラブホテルは道路から枝分かれした坂道の上に建っていた。外観はホテルの照明で薄暗く照らされ、不気味さを感じさせる。明らかに一昔前に建てられたであろう古臭さを感じさせるデザインをしており、『SWEET TIME』といういかにもなホテル名の看板が照明で照らされていた。
三島は冬霞と縁に車から降りるように命じた。
冬霞は短く「はい」と答えると車から降り、縁も冬霞に続き車を降りた。そのまま冬霞は下り方向へ歩いていき、縁も後ろに続いて歩く。
少し歩いたところで冬霞は道路のど真ん中で立ち止まり、縁は冬霞から少し離れたところに立った。車が通ることはまずなさそうな時間帯だったが、道路のど真ん中に立つという行為はどこか落ち着かなかった。
外は耳が痛くなるほど静かだった。わずかに点在する街灯の明かりは頼りなく道を照らし、何軒か建っているラブホテルの周りだけ明るいため、ラブホテルがどこにあるかすぐに分かった。
「高木くん。これから今から高木くんにやってもらう事を話します」
冬霞は縁の方を見ず、道路の上り方面を見ながら言った。
「はい」
縁は静まり返った夜中でなければ聞こえないであろう小さな声で答えた。縁はこれから自分が何をさせられるのか不安で頭がいっぱいだった。こんなところに連れてこられて自分は何をするのだろうか。ラブホテルの襲撃でもするのだろうか。しかしそんな事をして何か意味があるとも思えなかった。
冬霞は坂の上にあるラブホテル、『SWEET TIME』に視線を向けた。縁もそれにつられてラブホテルの方を見る。
「あのホテルは市議会議員の相馬俊樹御用達で、毎週このくらいの時間に利用していることが分かっているの。そして高木くんにやってもらうのは、もうすぐこの道を通る相馬議員を愛人と共に殺すこと」
「えっ……」
縁は最初冬霞が言ったことを理解できず、何度も頭の中で冬霞の言葉を反芻することでようやく理解することができた。
「こっ、こっ……殺すって、言葉の意味通り……ですよね?」
縁は動揺のあまり言葉が上手く発せず、何度か噛んでやっと言葉を発することができた。殺す、というのは直接的な意味は『命を奪う』ということだ。しかし冬霞は違う意味で殺すという言葉を使っていると信じたかった。だが縁には今自分が置かれている状況から冬霞は『命を奪う』という意味以外で殺すを使っているとは到底思えなかった。
「そうだよ。高木くん。君が、殺すの」
冬霞は振り返り、縁を見つめた。縁に対して何も期待していないが、縁が今晩仕事をこなすことに対してまるで疑問を抱いていない。そんな表情をしていた。
「そっ、そんな……。絶対ムリですよ!」
縁は思わずその場を立ち去ろうとした。しかし自分の体の中に埋め込まれた爆破装置の事を思い出し、一歩足を踏み出しただけで立ち止まった。
「……来た」
冬霞が道路の上り方面を見つめながら呟いた。その声に縁はつられて冬霞の視線を追った。
ラブホテルの出入り口から、1台のセダンがゆっくりと出てくるところだった。そして道路へ出ると、縁達の方へ向かって走ってきた。車から発せられるライトの明かりが縁達から見て大きく見えるようになり、それに比例してエンジン音が徐々に大きくなっていく。
そして相馬議員が乗っているであろうセダンのヘッドライトが縁達を照らした瞬間、セダンは耳障りなスキール音を鳴らし、縁達から見て数メートル前のところで止まった。
「高木くん、さあ、行って」
縁はためらうような足取りでセダンへ向かって歩いていく。当然だが縁はこのような事はしたくなかった。しかし現状縁にはこれ以外の選択肢が用意されていない。元の体に戻るためにはやるしかないのだ。「可能ならば逃げ出したい」という思いを「選択肢が他にない」と強く思い込むことで塗りつぶした。
セダンは何度もクラクションを鳴らしていた。静まり返った夜ということもあり、クラクション音が一際大きく聞こえた。
縁が道路からどく気配がないためか、セダンのドライバーがクラクションを鳴らすのをやめ、窓から顔を出すと、
「おい! こんな時間に何やってるんだ! どけ!」
縁に向かって怒鳴りつけた。その怒鳴り声を聞いた瞬間、縁はとある人物を思い出した。相馬健吾。2年前縁をいじめていた、世界で一番許せない男。相馬という名字を聞いてまさかとは思っていたが、市議会議員という職業、そして声がそっくりなところから、目の前にいる男は相馬の父親で間違いなさそうだ。だが確証は得られたわけではない。縁はそのままセダンへ向かって歩いてく。いつの間にか縁の足取りからはためらうような様子は消えていた。
縁は手を伸ばせばセダンに触れることができるような距離にまで近づくと、窓から顔を出している男の顔をじっと見つめた。僅かな明かりのみだったが、自分のやることは全て間違いないと言わんばかりの自信に溢れ、粗暴さを感じさせる息子を彷彿とさせる顔つきが見えた。彼が相馬俊樹で間違いないようだ。
相馬はついにドアを開け外に出てきた。真夜中の人通りの無い道に急に人が現れれば幽霊か何かを疑いたくなるものだが、どうやらその手の類のものは信じない質のようだ。
「おい! なんだお前!」
相馬は縁に詰め寄り、怒鳴りつけた。その様子は市議会議員には到底見えず、そもそもカタギに見えなかった。
縁は気がつけば自分でも恐ろしく感じるほど落ち着いてた。相馬健吾が好き勝手やれていたのはこの男の存在があったからなのだ。そして今も好き勝手やっていることは想像に難くなかった。
人殺しなんてやりたくない。だがこの男が存在することで自分は学校に通えなくなり、その結果改造されてしまい、今こんな事をやる羽目になってしまっているのだ。
もし自分が引きこもりを続けていたら、この男がいたおかげで自分は引きこもりになってしまったと知って悔しいとは感じても、殺したいとまでは思わなかっただろう。だが今自分はこの男を殺せと命令されている。殺してしまっていいのだ。
縁は無意識のうちに頬がひきつったような不気味な笑みを浮かべていた。俺は、この男を殺していい。殺したいし、殺す大義名分もある。縁は自分の中で良心という名のリミッターが解除される音が聞こえた。
相馬は縁が急に不気味な笑顔を見せたことに不穏な気配を感じ取ったのか、一歩下がり距離を取った。相馬は縁を睨み続けていたが、その表情は僅かだが怖気づいているようだった。
縁と相馬の間に緊張感が生まれ始めた束の間、それを破るような声が助手席側から聞こえた。
「ちょっと、俊ちゃん、何してるの? 早く行こうよ」
媚びたような若い女の声だった。声の主が助手席側のドアを空け、降りてきた。縁は反射的に降りてきた女の方に視線を向けていた。女の顔を見た瞬間、縁は我が目を疑った。助手席から降りてきたのは、2年前縁が思いを寄せていた西川久美だった。2年前と比べてメイクが明らかにけばけばしくなっていたが、縁にはすぐに分かった。
「高木くん……?」
西川も縁だと言うことが分かったようで一瞬驚いたような表情を見せたものの、
「あのさぁ、引きこもりがこんなところで何やってんの? まさか、私がこういうことしてるのどこかで突き止めて、嫌がらせでもしようと思ったとか? ……気持ち悪いんだけど」
嫌悪感を隠そうともせず、汚物を見るような目で西川は吐き捨てるように言った。そしてその一言は、縁の心に鋭いナイフのように深々と突き刺さった。ショックのあまり、言葉を発することができず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
「何だ、お前の知り合いか」
相馬が少し安心したような口調で言うと、
「元同級生だよ。バイト先も同じだったから話し相手になってやってたら、私のこと好きになっちゃったみたいで……隠してるつもりだったみたいだけど、バレバレだったんだよね〜。アハハ」
西川が嘲るように下品に笑った。
「なんだよ。一瞬幽霊か何かかと思っちまったよ。……おい、高木くんだったか? いい加減、どけよ」
相馬は縁に対して抱いていたわずかばかりの恐怖心も完全に消えたようで、縁を睨みつけた。
睨みつけられた縁は一瞬心臓が止まりそうになった。本能が「殺される!」と警報を鳴らしている。今度は縁が後ずさりをする番だった。
「いい加減、早くどいてくれない? 引きこもりは引きこもりらしく家でオナニーでもしてればいいんだよ。全く、ホント気持ち悪い。まだ自殺して幽霊にでもなって現れたほうが、何倍も面白いんじゃない?」
相馬に続いて縁に追い打ちをかけるように西川が言うと、
「おいおい、お前、それは言いすぎだろ」
それを聞いていた相馬は表情を歪ませると、不愉快な笑い声を上げた。その笑い声は縁が寒気を感じるほどだった。
「……」
縁の頭の中でいくつもの『問い』が目まぐるしく駆け回り始めた。なんだこれは。この女、親子と寝ておきながら、自分のことを棚に上げておいて、なぜ俺のことをここまでバカにできるんだ? クソビッチの分際で俺にここまで言う権利があるのか? 人のことを弄んでおいて、被害者ヅラ? は? ふざけんなよ。なんでお前にそんな事言われなきゃならないんだ。お前なんてその顔がなけりゃゴミクズ以下のくせに。お前らのせいで。お前らのせいで俺の人生はめちゃくちゃだ。なのにお前らは俺に謝罪する気配なんて全くなく、それどころか更にバカにしてくるだけ。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな。
こいつら、殺す。
縁は思いつく限りの呪詛をつぶやきながら両腕を目の間でクロスした。
「おいおい、何だこいつ? 何が始まるんだ?」
急に目の前でボソボソとつぶやきながらポーズを取った縁を見て、相馬はまるで目の前で見世物が始まったかのような調子で言った。
縁は自分の体の内側に意識を集中し、意識のスイッチを切り替えた。次の瞬間縁の全身が溶け出したかと思うと、縁の姿は異形の怪物に変化していた。
「なっ……ばっ、化け物!」
先程まで大笑いしていた相馬の表情が恐怖に歪んだかと思うと、縁から背を向け一目散に逃げ出した。縁は大木のように太い脚でアスファルトを蹴飛ばし、走り出した。最初の一歩を踏み出した瞬間、衝撃でアスファルトがえぐれ、足跡ができた。
一気に加速した縁は相馬の前に回り込んだ。相馬は急に目の前に現れた縁にぶつかり、まるで壁にぶつかったかのように吹き飛び、地面に尻もちをついた。
相馬は腰が砕けてしまったのか立ち上がることなく、手と尻を使って縁から距離を取ろうとした。
相馬は恐怖からか大きく目を見開き、口からは声にならないうめき声が漏れていた。
「たっ、頼む! 見逃してくれ! お、おおお、俺が悪かった! 頼む!」
縁は相馬の前にかがみ込むと、しばらく相馬をじっと見下ろしていた。
その間も相馬は恐怖に顔を歪ませながら肩で呼吸をしていたが、縁が何もしてこないことに気づくとふらつきながら立ち上がり、縁に背を向けて再び走り出した。
しかし相馬の逃走劇はそこで終わった。縁は相馬の背中に向けて手刀を放ち、肉がえぐれる音と共に相馬の体をいともたやすく貫いた。相馬は目を見開き、口から大量の血を吐き出した。そして体を何度か痙攣させたかと思うと、そのまま動かなくなった。縁が相馬から腕を引き抜くと、相馬だったものはそのまま重力に従ってその場に倒れ込んだ。
縁が手から相馬の血を滴らせながら周りを見渡すと、西川の姿は消えていた。縁は相馬の亡骸を一瞥すると、走り出した。
西川久美は無人の道路を必死で走っていた。普段運動することがほとんどないため息が苦しくてたまらない上に、足に力が入らない。それでも走るのをやめたらあの化け物に殺されてしまう。
逃げる途中でヒールは脱いでしまったので、履いているのはストッキングのみだ。道路の上には砂利が散らばっており、尖った小石を踏みつけるたびに痛みが走る。それでも命には代えられない。
だが流石に限界だった。足がもつれ、西川は道路に倒れ込んだ。冬だと言うのに額からは大量に汗が滲んでいる。西川は息を整えながら袖で額の汗を拭った。
しばらく休んでいるうちに徐々に呼吸が落ち着いてきた。西川は周りの音に耳をすましながら、自分の周りを見渡した。耳が痛くなるほど静かで、自分以外に動いているものは何もなかった。自然と大きなため息が出ていた。
呼吸が落ち着いてくるにつれ、自分たちの目の前に現れたものは何だったのかを考える余裕が出てきた。あれは一体何だったのか。あれはやはり高木の幽霊だったのだろうか。健吾のせいて引きこもりになったという話は聞いていたが、死んだという話は聞いたことがない。聞いていないだけで死んでいても別に不思議ではないが。確かに好意を持たれていて気持ち悪いとは思っていたから、学校に来なくなってせいせいしたと思ってはいた。とは言ったものの、そのくらいで化けて出られる筋合いはなかった。
まずは誰かに助けを求めなくてはと思ったところで、スマートフォンの入ったカバンごと車の中に置いてきてしまったことを思い出した。
しまった。西川は自然と舌打ちをしていた。取りに戻ることはできない。このまま歩き続けて目に入った民家で助けを求めるしか無い。そう思ったところで、後ろから何か動物が走っているような物音が聞こえた。こんな田舎では野生の動物を見かけることは日常茶飯事だ。なんだろう。西川が音のする方を向いた瞬間、何か黒く太いものが自分の胸を貫いていた。遅れて胸から焼けるような痛みが走り、西川は反射的に大声で叫んだ……と思いきや、西川の口から出たのは小さなうめき声だけだった。喉から液体が湧き上がってくる。その液体は鉄のような味がした。
続いて西川は急激に体が寒くなるのを感じた。全裸で真冬の海に放り込まれたような、体の芯から凍りつくような寒さだった。寒くてたまらない。しかもなんだか意識が徐々に遠のいていく。なんとか意識を保とうするも、そのまま西川の意識は闇に包まれた。
案の定西川は下り方向へ逃げていた。後を追いかけていた縁は西川が振り向いた瞬間、相馬と同じように手刀で胸を貫き、命を奪った。
西川の胸に突き刺さった手刀を引き抜くと、西川はうつ伏せに倒れ、泉が湧くように血溜まりが広がっていった。
縁は何の感慨もなく西川だったものを見下ろしていた。頭の中で激しく燃えていたものが燃料を使い尽くし、徐々に消えていくような感覚があった。
しばらくそうしていると、上り方向から車が走ってきた。縁達が乗ってきたワゴン車だった。ワゴン車は縁の近くに停車し、三島と冬霞が降りてきた。
2人は西川の死体の前に歩み寄り眉一つ動かすこと無く、
「任務完了、だな」
「はい、そうですね」
事務手続きでもしているかのような口調で西川の死体を見下ろしながら言った。
縁は2人を眺めているうちに、更に頭の中が冷えていく感覚を抱いた。意図的にOFFにしていた体の様々なセンサーが次々とONになっていくような感覚が起こり、気がつけば縁は人間の姿に戻っていた。
不思議なことに腕についていた血は、変身を解くと同時に綺麗さっぱり消えていた。
人間の姿に戻ってすぐに急激に疲労感が強くなり、縁は立っていられずその場にへなへなと座り込んだ。とにかく体が重くてたまらなかった。
「高木くん、お疲れ様」
首を動かすのもだるく、縁が声が聞こえた方向に目だけを動かすと、冬霞が中腰で左手を左膝に置き、右手を縁に向かって伸ばしていた。その表情は、出発する前よりも穏やかに見えた。
「立てる?」
縁は声を出すのも億劫で、冬霞の問いかけには冬霞の手を取ることで答えた。冬霞に体重をかけ、よろめきながらも何とか立ち上がった。
「車に乗って」
冬霞に手を引かれながら縁は車に向かって歩いていった。膝が笑い、思ったように歩くことができなかった。何日も飲まず食わずだったら、きっとこんな風になるのだろうな。そんなことを縁は考えていた。
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