登校
朝7時30分。縁は2年ぶりに制服に袖を通していた。制服は2年前に着ていたものをクリーニングして使うことにした。
「ふぁ……ねむ」
縁は大きなあくびをした。不規則な生活に慣れてしまった縁にとって、朝7時は起きる時間ではなく、寝る時間だ。昨晩は久しぶりに23時にベッドに入ったものの、一睡もできず朝を迎えてしまった。おかげで頭も瞼も重い。改造人間にされてしまってもこういうところは人間のままのようだ。
縁はカバンを背負うと、1階に降りた。縁は不思議な感覚を覚えた。まるで引きこもっている間の2年間が夢だったかのようだ。
そんなことを考えながら縁はリビングへ向かった。リビングではすでに両親は朝食をとっていた。縁も席に着き、朝食を食べ始めた。2年前はこれが当たり前だった。また今までの2年間が夢だったかのような感覚を縁は抱いた。しかし2年で明らかに老け込んだ両親を見ると、あの2年は間違いなく現実のものだったと受け入れずにはいられなかった。
「まるで2年前に戻ったようだな」
父親が昔を懐かしむような表情で呟いた。
「うん、そうだね」
縁は小さく頷いた。その後は特に会話も始まることなく、3人は無言で食事を続けた。父親は縁が朝食を食べている途中に会社に向かい、部屋には縁と母親が残された。
朝食を食べ終え縁が時計を見ると、そろそろ出発しなければならない時間になっていた。次の瞬間、縁は急に不安に襲われた。自分はこれからすでにある程度人間関係が出来上がっているコミュニティに飛び込むのだ。そして自分は2年引きこもっていた上、彼ら彼女らより2歳年上だ。上手く溶け込めるより浮く可能性が遥かに高い。そう思うと、高校に行くのが怖くてたまらなくなってきた。それについては何度も考え、やるしかない。と決意したのに。
極度の不安から、縁の顔は青ざめていた。縁の様子がおかしいことに気づいた母親が、「縁、大丈夫? やっぱり……」と声をかけた瞬間、玄関のチャイムが鳴った。
「誰? こんな時間に……」
母親は立ち上がると、玄関に向かって歩いていった。しばらくすると、母親は信じられないようなものを見たような表情で戻ってきた。
「縁、あなたを迎えに来たっていうお友達が来てるんだけど」
嫌な予感を覚えながら玄関に歩いていった。
「おっはよー! 縁!」
そこにいたのは冬霞だった。
「え、えええ!? 冬霞さん? どうして?」
縁は思わず素っ頓狂な声を上げた。冬霞が迎えに来たのも驚きだったが、キャラが縁の知っている冬霞ではなかった。縁の知っている冬霞は、どこか得体の知れないところのある少女だった。しかし今目の前にいる冬霞は、活発で、裏表のない元気な少女。という雰囲気だった。
母親も縁に負けないくらい困惑しているようで、「あ、あの、どちら様ですか?」と冬霞への問いかけに動揺が感じられた。
「おはようございます。お母さん。私、塔冬霞っていいます! 私と縁くんは元々SNSで知り合いだったんですが、縁くんがまた高校に通うって言ってきたんです。以前からお互い近くに住んでるって事は知っていたので『どこに通うの?』って聞いてみたら、なんと同じ高校で、だったら一緒に登校しようって話になってたんです。……なんだか縁くん、忘れちゃってるみたいですけど」
冬霞は縁が呆気に取られるほど明るい表情で、元気な声で、大げさなボディランゲージで母親に2人の関係を説明した。役者も裸足で逃げ出したくなるほどの豹変っぷりに、冬霞が実は二重人格なのではないかと思ってしまうほどだった。ただそうしているときの冬霞は、縁が無意識のうちに見とれてしまうほど魅力的だった。
「あ、ああ、そうなんですね」
母親は納得したようで、ホッとした表情で微笑んだ。
冬霞は「はい、そうなんです!」と元気よく答えると、
「縁、私との約束を忘れるなんてひどいよ!」
縁に向かってわざとらしくすねたような態度で言った。
「あ、ああ、うん。ごめん」
縁は冬霞の話に合わせたほうが良いと判断し、
「ごめん母さん。冬霞さんと約束してたのをすっかり忘れてたよ。じゃあ、行ってくるね」
リビングにカバンを取りに戻ると、冬霞と2人で家を後にした。
縁の家から高校までは徒歩15分ほどだ。縁の住んでいる町はほとんど高低差がなく、家から高校まではずっと平坦な道だ。お互い無言で2分ほど歩いたあと、縁は疑問を冬霞にぶつけた。
「あの、どうして突然家に押しかけてきたんですか?」
「高木くんの自主性に任せていたら、1日目からいきなり登校拒否になってそうな気がしたから」
冬霞はいつの間にかキャラを偽るのをやめ、元の調子で淡々と言った。
「うっ、いや、そんな……どうして、そう思ったんですか?」
図星を突かれ、縁は顔をひきつらせた。
「そりゃ分かるでしょ。ずっと引きこもってたのに、いきなり高校通えって言われても無理だろうし」
冬霞の言う通りだった。縁は何も言い返すことができなかった。
「というか、母さんの前で見せたあのキャラはなんですか……」
縁は気まずくなったので話題を変え、もう1つの気になっていたことを冬霞に聞くことにした。
「高木くんもああいうの好きでしょ? 元気いっぱいなかわいい女の子に迎えに来てもらうってシチュエーション、男子高校生なら誰しも一度は夢見ることだと思うんだけど」
冬霞は涼しい顔で突拍子のないことを言い始めた。
「……たしかにまあ、嫌いではないけど」
縁も2年遅れの高校生とはいえ、実際憧れていたシチュエーションだ。だがそれに同意するのは負けた気がするので、あまり関心が無さそうな風を装って答えた。
「それと、私の事は冬霞って呼ぶこと。高木くんだけさん付けじゃお母さんも不審に思うでしょ?」
「ええ……どうしても呼ばなきゃダメですか?」
急に冬霞に自分を呼び捨てにするようにと言われ、縁は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。今まで女の子を呼び捨てにしたことのない縁にとっては、ハードルが高い。
「ダメ。ほら、試しに呼んでみて」
しかし冬霞は容赦なく呼び捨てするよう縁に促した。とてもではないがごまかせる状況ではなかった。
「ふっ……ふ、ふふ、ふ……冬霞」
何度もつっかえながら、ようやく縁は一度だけ『冬霞』と呼ぶことができた。それだけで縁の顔は真っ赤になっていた。
「よくできました。慣れるために普段から私のことは冬霞って呼んでね」
「ええ……」
初日から難易度の高い課題を出され、まだ授業が始まってもいないのに縁は頭が重くなってきた。
高校に近づくに従って、徐々に同じ制服を着た生徒が縁たちの周りに増えていった。
「もう、ここまで来て帰るとか言わないよね?」
「いや、流石にここまで来て帰らないですよ……」
2人は生徒昇降口から校舎の中へ入った。
「それじゃあ、私はこのまま教室に行くけど、高木くんは職員室だね。場所は流石に覚えてるよね?」
「流石に覚えてます……」
「うん。私と高木くん同じクラスだから、また後でね」
冬霞は軽く手を振ると縁に背を向け、教室に向かっていった。
縁も冬霞から「同じクラス」と告げられ、安心と不安の混ざった感情を抱きながら職員室へ向かった。生徒昇降口から職員室までは少し距離があるが、場所は体が覚えていた。縁が職員室の前にたどり着いたとき、廊下の反対側から見覚えのある人物が歩いてきた。
「無事来たか」
相変わらず何を考えているのか分からない表情で三島が言った。
「はい、冬霞が迎えに来てくれました」
三島とどう接したらいいのか分からない縁は、余計なことを言わず、最小限の事だけを答えた。
「なるほど、塔のおかげか」
三島は特にそれ以上は何も言わず、
「入れ。お前の担任の先生のところまで案内してやる」
引き戸を開けて縁に中に入るよう視線で促した。縁は素直に従い中に入った。
2年ぶりに見る職員室はほとんど変わっていなかった。何人かは見覚えのない教師がいたが、ほとんどは見覚えのある教師だった。職員室の中は学年ごとに職員の机で島が分かれているが、縁が見る限りそこも変わっていないようだった。
縁が三島の後ろについて歩いていくと、三島は2年の島の30歳前後くらいの若い男性教師の座っている席の前で止まった。
「徳川先生、今日から先生のクラスに編入になる高木を連れてきました」
徳川、と呼ばれた男性教師が三島と縁の方を振り向くと、人の良さそうな笑顔を2人に向けた。
「おお、三島先生、ありがとうございます!」
「いえ。では、あとはよろしくお願いします」
三島が去った後、徳川は白い歯を見せて笑った。徳川は髪を短く刈り上げ、どことなく体育教師っぽい雰囲気を漂わせていた。
「高木。今日から担任になる徳川信長だ。名前の通り担当教科は歴史だが、実は日本史よりは世界史のほうが得意なんだよな。これからよろしくな!」
おそらく初めて会う人には毎回これを言っているのだろうと思うほど、言い淀みなく徳川は自己紹介をした。
「はい、よろしくお願いします……」
三島と話した後ということもあり、縁には徳川が相当表情豊かに感じられた。
「とりあえず、事情は色々と聞いている。もし何かあったら遠慮なく先生に相談してくれ」
徳川は自信ありげに微笑んだ。縁は「はい、ありがとうございます」と答えたものの、内心では「どうせあてにならないだろ」と毒づいていた。
ホームルームの時間になり、縁は徳川と共に教室へ向かった。先に徳川が教室に入り、縁は徳川に呼ばれるまで外で待機する。
しばらくすると教室の引き戸についている窓越しに、徳川が中に入ってくるように、という手振りをしてきた。縁の心臓はうるさいまでに激しく鼓動していた。縁は一度目を閉じて大きく深呼吸すると引き戸を開け、教室に入ると、徳川の横に立った。
「彼が今日からこのクラスに編入する、高木縁だ。高木、自己紹介をしてくれ」
「は、はい。高木縁です。みなさん、よろしくお願いします」
縁は新たなクラスメイト全員からの視線を感じつつ、頭を下げた。次の瞬間、教室内にパラパラと拍手が鳴り響いた。拍手してもらえる=歓迎されているというわけではないが、縁は少しだけ安心感を覚えた。
しかし安心感を覚えたのもつかの間、縁は自分の耳を疑った。
「ちなみに高木はみんなより2歳年上で、諸事情でこの高校に通うのも2回目だそうだ。みんな、仲良くしてやってくれ」
(は、はああああああ!?)
縁は反射的に徳川の方を見た。しかし、徳川は自分は正しいことしていると言わんばかりの顔をしていた。縁にはそんなデリケートな事をクラスメイト全員の前で当たり前のように言ってしまう徳川の思考回路が理解できなかった。どうしてこうも教師って奴は大人のくせして頼りにならないのだろう。縁は見世物にされているような感覚を覚えながら歯ぎしりをした。
4限目が終わり、昼休みになった。縁は頭の疲れから机に突っ伏した。2年前の自分はわずかな休憩が合間に挟まれるだけで連続で授業を聞き続けられていたのが、縁には信じられなかった。
それにしても腹が減った。縁はカバンから弁当箱を取り出した。弁当箱を開けようとしたところで、縁は頭上から誰かに声をかけられた。縁が視線を声の方に向けると、冬霞が女子2人を引き連れて立っていた。
「高木くん、どうせ1人でしょ? 私達と一緒に食べない?」
冬霞がそういった瞬間、教室にいた生徒ほぼ全員が縁達の方を向いた。そしてほぼ全員が内緒話をし始めた。
「なんで高木さんと塔さんが?」
「まじかよ羨ましい……」
「塔さんってあんなキャラだっけ?」
冬霞が引き連れていた女子達も困惑しているようだった。
「実は高木くんって私のいとこなんだ。いとこが寂しそうにぼっちしてるのは流石にちょっと可愛そうかなって」
冬霞は引き連れていた女子達の方に振り向くと微笑を浮かべながら言った。
「あ、そうなんだ」
それを聞いて冬霞が引き連れていた女子達は少し安心したようだった。
「いや、俺は1人で大丈夫ですから」
女子3人に対して男子1人は流石に気まずい。そして2年前も縁は1人でお昼を食べていたので、1人でいることに問題はなかった。
「はぁ……せっかく私が少しでも早くクラスに馴染めるように気を使ってあげてるっていうのに」
冬霞は小さくため息をついた。
縁は気恥ずかしさから断ってしまったが、確かにこのままだと前回の高校生活とほとんど変わらない毎日になってしまいそうだ。それは少しだけ嫌だった。そして冬霞の親切を断ってしまったことにわずかに胸が痛んだ。
「……はい。分かりました。じゃあ、お願いします」
縁は立ち上がると、冬霞達に続いて教室を後にした。
縁達が向かったのは食堂だった。食堂といっても、学食は縁が以前通っていた頃にはすでに廃止されており、大きなテーブルが並べられているだけの部屋だった。以前食堂に代わる呼び名を付けることが検討されたようだが、結局今も名前は食堂のままだ。
縁達は空いているテーブルに着いた。縁と冬霞が並んで座り、向かい側に冬霞が連れてきた女子2人が並んで座った。
全員が席に着くとそれぞれ弁当を広げ、食べ始めた。冬霞だけどこかで買ってきたパンで、それ以外の3人は母親に作ってもらった弁当だった。
食べ始めて女子3人はおしゃべりをし始めた。縁はその会話に加わること無く黙々と食べ続け、他の3人はまだ弁当が半分近く残っているというのに、1人だけ完食してしまった。
手持ち無沙汰になってしまった縁は3人の会話に聞き耳を立てていた。意外だったのは、冬霞が女子2人と仲良さそうに会話をしていたことだ。冬霞は他人との交流をあまり望んでいない印象を縁は持っていたが、横から今の冬霞を見ているとその印象は完全に覆されてしまった。
そのようなことを考えながら縁が3人をぼんやり眺めていると、縁の真正面に座っている女子と目があった。
「あ、そういえば高木……さん? 私達の名前、覚えてる?」
目の合った女子が言った。
「あ、すみません、さすがに初日で覚えるのはちょっと」
ホームルームの終盤、縁のため生徒一人一人が簡単な自己紹介を行った。そして縁は女子2人の顔に見覚えがあり、自己紹介をしていた光景を覚えていた。しかし、内容についてはまるで思い出すことができなかった。
「ですよね。私が神田美穂で、こっちが四谷志穂です」
神田は神田自身、四谷の順に指差しながら笑った。神田は元々くせっ毛なのか、パーマをかけた髪のあちこちがはねていた。見た目に全く気を使っていないわけではないが、どこかスキのありそうな印象があった。四谷は対象的にショートヘアで、気だるそうなぼんやりとした表情が印象的だった。
「神田さんに、四谷さん、ですね」
縁は2人の顔をじっと見て脳に焼き付けようとしながら言った。
「そういやさ、なんで高木くん敬語なの? 私達より年上なのにさ〜」
四谷は見た目通りのどこか気が抜けたような口調で、そして縁が年上だと知っていながら当たり前のようにタメ口だった。
「高木くんはね、他人との距離の掴み方が下手だから怖くてタメ口で話せないの。だから2人とも遠慮なくタメ口で話してあげて。でないと、このままだと高木くん卒業までぼっちでいそうだから」
横から冬霞が全くフォローになっていないフォローをした。その表情は少しだけ楽しそうだった。
「あの、冬霞、それ全然フォローになってないですよ……」
「フォローするつもりで言ってないからね」
「ええ……」
縁が冬霞の掴みどころのなさに困惑していると、
「そういえば、2人ってちょっと変だよね。冬霞ちゃんは高木……くんの事をいとこなのに『高木くん』って呼ぶし、高木くんは『冬霞』って呼び捨てするのに、敬語だし。ほんとにいとこなの?」
神田が何か引っかかっているような表情で言った。2人を怪しんでいるというより、単純に疑問をぶつけてきたように縁には感じられたが、答えが思いつかず縁は目を泳がせた。
「え、えっと……」
縁がしどろもどろになっていると横から冬霞が、
「実はね、私達いとこだけど、遠い親戚だから会ったのは割と最近なんだ。それで最初は高木くんの事を『縁くん』って呼んでたんだけど、高木くんったらなんて言ったと思う? 『恥ずかしいので名字にしてもらえませんか?』だよ?」
冬霞が縁のセリフの部分をオーバー気味に物真似しながら言った。ただしあまり似ていなかった。
それを聞いて神田と四谷はクスクスと笑い始めた。
「高木くんも最初は私のこと『塔さん』って言ってたんだけど、私が『冬霞』って呼んでって強めに言ったら、呼び方は『冬霞』にしてくれたんだけど、なぜか敬語はそのままで『そこだけは許してくださ~い!』って言うんだよ。変だよね~」
「なにそれ。高木くん変なのー」
縁は横で「ちょっとムリがあるんじゃ」と思いながら聞いていたが、冬霞の話し方が面白かったからか、2人は特に違和感なく受け入れているようだった。
「高木くんって自己紹介したときになんか暗い人だなって思ったんだけど、面白い人だね。これからもよろしくね」
神田は自然な笑顔を浮かべながら言った。
「あ、うん、よろしくお願いします」
なんか暗い人という言葉には少し傷ついたが、縁にとってこのように好意的に自分を受け止めてもらえるのは久しぶりのことだった。縁は胸の奥がじわりと暖かくなるのを感じた。
放課後。縁が帰ろうとしたところで縁の前に3人の男子生徒が立ち塞がった。縁は無意識のうちに相馬を思い出し、胃を握られたような痛みを感じた。
縁の真正面にリーダー格風の男子生徒が立ち、少し後ろに残りの2人が立っている、という立ち位置だ。縁の席は一番後ろのため、机と男子生徒に囲まれ、逃げ場がない。
「高木クンさ、ちょっといいか?」
威圧感のある表情と声で縁の真正面に立っている男子生徒が言った。残りの2人は少し離れたところで意地の悪そうな笑みを浮かべている。
縁は目の前にいる男子生徒の名前を覚えていた。確か矢吹哲也という名前だったはずだ。自己紹介で雰囲気がどことなく相馬に似ていると思ったことと、お昼を食べていたときに四谷から「矢吹くんには気をつけたほうがいい」と言われたことで記憶に残っていた。
矢吹は短い髪の毛を立たせ、眉毛を細く整え、鋭い目つきをした、何より相手に威圧感を与えることを最優先しているような風貌をしていた。
どう考えても拒否できるような状況ではなく、縁は怯えながら「な、何かな?」と答えた。
縁は目の前が少しずつ暗くなっていく感覚を覚えた。今度は上手くやれそうだと思ったのに、結局はまたこういう奴に目をつけられてしまうのか。どうしてこうなってしまうんだろう。自分の周りのすべてのものを恨みたい気分だった。
「高木クンさ、何初日から塔とメシ行ってんの? 気に食わないんだけど」
「す、すみません、実は僕と冬霞……塔さんっていとこで」
縁は矢吹と目を合わせないように俯きながら小さな声で答えた。
「はァ? んなこと信じられるわけ無いだろ!」
矢吹は一際大きな声で縁に怒鳴りつけた。教室に残っていたクラスメイト達が一瞬振り向き、すぐに視線をそらした。
「す、す、すみません……」
縁は一歩下がると萎縮しながら懸命に矢吹に謝罪した。しかし縁の目を合わせようとしない態度が矢吹には気に食わなかったのか、矢吹は縁の胸ぐらを掴み縁の顔を引き起こした。
「なんなのお前? そういう態度余計にイラつくんだけど?」
矢吹の顔は怒りで真っ赤になっていた。縁にはこんな短気で、手の早い人間が大手を振って歩いているのが信じられなかった。
矢吹が更に強く胸ぐらを掴み、シャツが首にめり込み、縁の首に痛みが走る。
「や、やめてよ……」
縁は無意識のうちに縁の胸ぐらを掴んでいる腕を強く握った。次の瞬間、矢吹は悲鳴を上げた。縁は矢吹の悲鳴に驚き腕を離し、矢吹も縁の胸ぐらを掴んでいた手を離し、縁から距離を取った。
「お前、何しやがった」
矢吹は縁が強く握った部分を自分の手で覆いながら縁を睨みつけた。その表情は、予想外の反撃を受け、戸惑っているようだった。
「な、何って?」
縁は矢吹がなぜそのような反応をしているのか理解できず、混乱していた。しかし、矢吹がさらに激高していることは分かった。
「ふっ、ふざけんな、テメェ!」
矢吹はボクサーのような構えを取ると、勢いをつけ、縁の顔面に向かってパンチを放った。
教室から出ていくに出て行けず、2人の様子を見ていたクラスメイト達は目を背けた。
次の瞬間、教室に鳴り響いたのは、縁の顔の骨が砕ける音……ではなく拳と縁の広げた手がぶつかった乾いた音だった。
「なんだと……?」
矢吹は目を丸くし、何がなんだか分からないという表情をしていた。矢吹が放ったパンチは、縁が顔の前で広げた手の中に収まっていた。
縁にもどうして自分がこんな芸当ができてしまったのかは分からなかった。しかし縁の手は確かに矢吹のパンチをがっちりと受け止めていた。
「あ、あいつ、矢吹のパンチ受け止めたのかよ!?」
「ボクシングジムに通ってる矢吹のパンチを受け止めるって、アイツ何者なんだよ……?」
少し離れたところにいた矢吹の子分も驚きと戸惑いの声を上げていた。
矢吹は縁から拳を振りほどくと距離を取り、構えを取ったまま再び縁を睨みつけた。しかし一度縁にパンチを受け止められたためか、腰が少し引けていた。
「お前、何者なんだよ……」
矢吹の声から闘志が薄れつつあるのが見て取れた。
「も、もう、やめましょうよ」
縁の声は矢吹には届かなかった。もう一度矢吹は縁に向かってパンチを放った。しかし、そのパンチは縁に届くことなく、矢吹は明後日の方向へおかしな姿勢で床にひっくり返った。
「お前ら、何やってるんだ!」
男性教師数人が教室に飛び込んできた。その中には担任の徳川もいた。
徳川は縁と、おかしな姿勢でひっくり返っている矢吹を見ると、
「高木! お前初日からいきなり何をやっているんだ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「え、ぼ、僕は何も……」
いきなり徳川に怒鳴りつけられ、縁は困惑した。自分は被害者なのに、初日から誤解されて頭ごなしに怒鳴られるなんて。なぜこうもロクでもないことばかり起こるのか。許されるのならば泣きたい気分だった。
「この状況で何もしてないもあるか! 何を言ってるんだお前は!」
徳川が縁に向かって詰め寄ろうとしたとき、
「先生、高木くんは何もしていません。一方的に矢吹くんが手を出して、自分でひっくり返っていただけです。高木くんは被害者で、悪いのは矢吹くんだけです」
そう言って縁たちの前に歩いてきたのは冬霞だった。
「あの、先生、確かに高木くんからは一切手を出していませんでした」
「矢吹くんは自分からひっくり返ってました」
冬霞を皮切りに、教室で遠目から2人を見ていたクラスメイト達も縁の無実を証言し始めた。
「高木、そうなのか?」
若干冷静になったように見える徳川が縁に尋ねた。
「は、はい。僕からは何もしていないです」
「……そうか。すまなかった」
徳川達は矢吹を伴い、教室を出て行った。徳川達が教室から出ていくと、教室から出るに出られなかった生徒達も続々と出て行った。
「高木くん、私達も帰ろ?」
いつの間にか冬霞は帰り支度を済ませていた。
「あ、は、はい」
縁は急いで帰り支度を済ませると、冬霞に続いて教室を後にした。
縁と冬霞が外に出ると、外はすでに暗くなり始めていた。外に出た瞬間冷たい風が吹き、縁は思わず首を縮めた。
「初日から大変だったね」
生徒昇降口を出て歩き始めたところで冬霞が不意に言った。
「はぁ、本当ですよ」
縁は疲れた表情でため息をついた。初日から色々とあったおかげで縁はヘトヘトだった。
ヘトヘトだったが、縁は確認したいことがあった。
「あの、放課後のことなんですけど
「ああ、あれはおそらく、改造されたことが理由かな。本来の力はあの姿でなければ出せないんだけど、人間の姿でも身体能力が上がっているんだと思う」
「やっぱり……」
縁は自分の手のひらに視線を落とした。見かけ上は何ら変哲のない普通の手だ。だがこの体の中は人間離れした人間ではない何かなのだ。冬霞と出会ってから今まで色々なことがあり、そして今日のようなことがあったのに、縁にはまるで信じられなかった。
「高木くんが矢吹くんを倒すところ、みんな見てたよね。明日からきっと高木くんを見る目変わるよ?」
冬霞は口元に笑みを浮かべながら縁を見つめた。
「そうかもしれないですけど、それってまずいんじゃないですか?」
それは大丈夫なのかと縁は疑問に思った。
「みんなの前で変身するのは絶対にダメだけど、今日くらいのことなら『昔格闘技やってたから』って理由でごまかせるんじゃないかな?」
「うーん、そうですかね……」
縁は「格闘技をやるような人間が引きこもりになるのだろうか」と思ったが、自分の監視役の冬霞がいいと言っているのならばと気にしないことにした。
そのまま2人は特に言葉を交わすこと無く、縁の家の前に到着した。
「じゃあ、ここでお別れだね」
「あ、はい。ありがとうございました」
冬霞は「じゃあまた」と短く言うと、縁に背を向けて歩き出した。しかし、すぐ立ち止まって再び縁の方を振り向いた。
「明日も迎えに来るからね」
「えっ」
冬霞は再び背を向けると、そのまま去っていった。
翌日。
本当に次の日も迎えに来た冬霞と共に縁は高校へ向かっていた。
「昨日は良く眠れた?」
「おかげさまで、生活リズムが1日で元に戻った感じがしますね」
そう言った後、縁は大きなあくびをした。夜に寝るという正しい生活リズムに戻ることはできたが、10時間以上ダラダラ寝ることに慣れてしまっていたため、8時間睡眠でも縁には眠り足りなかった。睡眠時間に関してはまだ慣れるまで時間がかかりそうだ。
「そういえば、冬霞は元々この辺りの出身なんですか?」
縁はこの隣にいるよく分からない少女の事を何も知らないことに気づき、いくつかのことを聞いてみることにした。
「去年この町にやってきて、それまではあちこちを転々としてた」
「ってことは転勤族だったんですね」
「まあ、そんな感じ、なのかな」
冬霞は歯切れ悪く答えた。縁には冬霞はこの話題を避けたがっているように見えた。2年引きこもっていたとはいえ、相手がこのような反応をしているのに話題を続けるのはいい事ではないというのは分かっていた。縁は「そうなんですね」と短く言うと、この話題を終わりにした。
2人の間に沈黙が訪れた。縁は気まずさを感じつつも黙々と高校への道を歩いていく。
高校へ近づき、2人の周りに同じ制服を来た生徒をぽつぽつと見かけるようになった頃、後ろから2人に誰かが親しそうに声をかけてきた。
「冬霞ちゃん、高木くん、おはよー!」
2人が後ろを振り向くと、そこには神田と四谷がいた。
「おはよう」
「お、おはようございます」
縁と冬霞は2人に挨拶を返し、そのまま4人で会話が始まった。
「一緒に登校するなんて、2人って仲いいんだねー」
四谷が明らかにからかっているような調子で言った。
神田もそれに乗ったようで、
「そうだよね。昨日みたいにお昼誘ったり、一緒に登校したりって、ちょっと疑いたくなっちゃうよねー」
縁と冬霞の反応を気にしているように2人の方を見た。
しかし冬霞は、
「残念ながら、本当にただのいとこだよ。2人とも知ってると思うけど、高木くんは事情があって高校に通うのは久しぶりだから、勝手が分からなくて困ったりしないように一緒にいてあげてるだけ」
2人のからかいを一蹴した。
「まあ、そういうことにしてあげよっか」
「冬霞ちゃんって優しいね」
神田も四谷も冬霞の回答に一応は納得したようで、特に不満そうな反応を見せることもなかった。
「それにしても、高木くん、昨日のはすごかったね〜」
四谷が次の話題に選んだのは、昨日の放課後の矢吹とのいざこざの一件だった。
「あ、はい、それはありがとうございます」
四谷も教室にいたため、その話題が出るだろうと縁は思っていたが、その話題にあまり触れられたくなかった。だが無下にする訳にも行かず、作り笑いでごまかした。
「高木くんは知らないと思うんだけど、矢吹くんってちょっと気に食わないところがあるとすぐに怒鳴ったり、脅してきたりするからみんな困ってたんだよね。おまけにボクシングやってて見た目も怖いから誰も逆らえないし、それで余計調子に乗っちゃうから手がつけられなくって。だから、多分高木くんが思っている以上にみんな高木くんに感謝してると思うよ」
真剣な表情で言う神田に、縁は作り笑いをやめた。
「そ、そうなんですかね」
誰かに向かってではなく、独り言を言うように縁は自信なさげに呟いた。あの時縁はただ訳も分からず、なんとかあの場を切り抜けようとしただけで、誰かのために何かをしたつもりは全くなかった。したがって感謝をしていると言われても。それに対して「そうですか」としか言いようがなかった。
「そうだよー! 矢吹ざまーみろって感じ。ホント、スカッとしたよ〜」
四谷が空を殴るような動きをしながら言った。
「そう、それならよかったです……」
縁は褒められているというのに居心地の悪さを感じつつ、曖昧な表情を浮かべていた。
縁が教室に入った瞬間、教室内の雰囲気が明らかに変わった。明らかにクラスメイト達が縁の事をじっと見ている。縁は2年前の事を思い出し不快感を抱きながらも、視線を集めていることを意識しないようにしつつ、自分の席に着いた。
すると1人の男子生徒が意を決したように席から立ち上がり、縁の席の前まで歩いてきた。
「あ、あの、高木……さん」
その男子生徒は正直おしゃれとは言えないメガネをかけ、見るからに弱々しい顔つきをしていた。
縁が何の用だろう、と思いながら「何でしょう」と言った後に男子生徒の名前を覚えていないことに気づき、「えっと」と言葉を詰まらせると、
「えっと、俺、山田、しっ、獅子皇(ししおう)って言いま……す」
山田は恥ずかしそうに自分の名前を消え入るような声で言った。縁は昨日の自己紹介で1人だけ自分の名前を恥ずかしそうに言っていた男子生徒がいた事を思い出した。そして彼は自己紹介のあとに矢吹に茶化されていた。
「あ、ああ。山田さん、どうしましたか?」
縁は努めて名前の事には触れないよう意識しながら山田に尋ねた。
「た、高木さん、昨日は矢吹くんを懲らしめてくれて、ありがとうございました!」
山田は縁に向かって最敬礼の角度まで頭を下げた。
「えっと……山田さん、どういうことですか?」
縁は山田が頭を下げたことで、さらに注目を浴びてしまっていることに戸惑いながら問いかけた。
「俺、矢吹くんに名前のせいでよくいじめられてたんです。でも、俺ヒョロヒョロだから黙って耐えるしか無くて……もう、正直もう限界だったんです。……だから、高木さんが矢吹くんを倒してるところ見て、ものすごく嬉しかったんです。ホント、ありがとうございました」
山田は涙を流しながら、もう一度縁に向かって頭を下げた。
「あっ、はい……」
縁は狐につままれたような気分だった。なぜ自分は山田にここまで感謝されているのだろう。
しかし昔の自分のような理由でいじめられていたクラスメイトを救うことができたという事実は、昔の自分を救うことができたような感覚があった。
「うんうん。矢吹、本当に好き勝手してたもんな。俺もスッキリしたよ。高木クン、ありがとう」
2人の成り行きを近くで見ていた男子生徒がそう言ったのを皮切りに、縁の近くにいた生徒数人も感謝の言葉を伝えた。さらに生徒数人が立ち上がり、縁の元へやってきた。それが呼び水となり、縁はクラスメイトに囲まれた。
「高木クンって何かの格闘技やってたの?」
「どうやったらあんなに強くなれるの?」
「一回高校やめた後山ごもりでもしてたの?」
「どうやったら反射神経って早くなるの?」
「え、えっと……」
縁は徳川が教室に入ってくるまでクラスメイト達から質問攻めを浴びせられることになった。縁は戸惑いつつも、少しだけ心地よさを感じていた。
ホームルームで矢吹は1週間の自宅謹慎になったことが徳川の口から告げられた。
高校生活2日目は体育の授業がある日だった。縁には心配事が2つあった。1つ目は身体能力がかなり上がってしまっているため、うっかり本気を出してしまうと高校記録どころか世界記録に肉薄してしまう可能性があった。そしてもう1つは、『二人組を作って』だった。
その日の授業内容はバドミントンだった。体育では典型的な二人組を作る必要がある競技だ。そして2年前の縁はもっぱらペアの相手は体育教師だった。
ペアの相手が体育教師になることが決して悪いわけではない。ただ周りは友達同士で遊びのように楽しくやっているのに、自分は体育教師とペアを組んでいることで義務感・授業を受けている感がどうしても出てしまう。周りと違うことに疎外感を覚えてしまうのだ。
しかし縁の不安は杞憂に終わった。
「高木クン! 俺と組もうぜ!」
「いや、俺でしょ!」
今やクラスのヒーローとなった縁と、クラスの男子たちはペアを組みたがった。
「え、あ、ありがとう……」
縁が困惑した表情を浮かべていると、少し距離を取って1人で立っている男子生徒がいることに気づいた。山田だった。
山田はうつむき加減で、寂しそうな表情を浮かべていた。
「……ごめん、僕、山田くんと組みますね」
縁はクラスの男子たちに頭を下げると、山田の元へ走った。
「山田くん! 僕と組みませんか?」
山田は一瞬驚いたような表情を見せると、
「え、高木さん? お、俺とでいいんですか?」
怯えたように縁に問いかけた。
「はい。一緒にやりましょう!」
「あ、ありがとうございます!」
それを聞いた山田の表情は、明かりが灯ったかのように一気に明るくなった。
山田の運動神経は、見た目通りあまり褒められたものではなかった。しょっちゅうコート外へシャトルを飛ばし、授業中シャトルを取りに行くのはほとんど縁だった。だが縁は全く苦を感じなかった。身体能力が上がったことで昔より遥かに楽に動けるようになった、というのもあるが、こうやって誰かと体を動かすのは楽しかった。縁は元々運動が好きではなかったが、今日に限っては楽しいと思うことができた。
夜。矢吹哲也は自宅謹慎を無視し、外を出歩いていた。
すでに放課後を迎えているので子分2人を自宅近くのコンビニ前に呼び出した。コンビニは辺鄙な場所にあり、店内に客の姿はなく、店員も暇そうにあくびをしている。
矢吹は子分たちにクラスの様子を尋ねた。
「クラスの様子、どうだ?」
「正直、完全に高木に持っていかれたって感じだな」
「クソッ」
矢吹は飲んでいた缶コーヒーの缶を握りつぶした。スチール缶だというのに、缶は鈍い音を放ちながら歪にへこんだ。
縁に負けてしまった事で、矢吹の面子は完全に丸潰れだった。もう今までのようにクラスで好き勝手やることはどう考えても無理そうだった。
「あの野郎」
矢吹は怒りに震えながら奥歯を強く食いしばった。その怒りに震える顔つきは、子分ですら怯え、息を呑むほどだった。
矢吹が自分の顔つきが他人を怯えさせるほどのものだと知ったのは小学生の頃だった。何の事だったかはすでに覚えていないが、何か気に食わないことがあったときに同級生に向かって文句を言ったら、その同級生はあっさり自分の考えを曲げた。その時の同級生の怯えきった表情は今でも覚えている。
以来、何か気に食わないことがあったときは相手に詰め寄り、自分の考えを押し通していた。
それが気持ちよくてたまらず、効果をさらに上げるために髪型や眉毛も威圧感を与えられるように整え、ボクシングジムに通った。そして思いの外モテた。何でも自分の思い通りだった。
だが、高木によって今まで積み上げてきたものが全て破壊されてしまった。高木から何かを奪われたわけではない。クラスメイトの前で自慢のパンチを止められ、殴りかかろうとしたら足を引っ掛けられ、無様にひっくり返っただけだ。
しかしあの一度の敗北で矢吹の中で何かが粉砕されてしまった。以前と同じように威勢を張ることはもうできない。以前の自分と同じようにいることはもうできない。
どうにかして高木にリベンジをするしかない。それ以外に今までの自分を取り戻す方法が矢吹には思いつかなかった。しかし今の自分では、再び高木に挑んでも返り討ちにされるだけなのは、火を見るよりも明らかだった。
矢吹は衝動的に握りつぶした缶を地面に叩きつけた。叩きつけた缶は甲高い音とともに跳ね返り、矢吹とは反対側へ転がっていった。
その転がっていく缶を、矢吹は目で追っていた。転がっていった缶は、コンビニに向かって歩いてきた何者かの足に当たり、止まった。矢吹はそのまま視線を上げた。足の主の全身が視界に入った瞬間、矢吹は驚きとも困惑とも取れる声を上げた。
「なんだありゃ」
足の主はフリルとレースで装飾された白いドレスのような服、いわゆるゴスロリと呼ばれる服を着ていた。そして目元が隠れるほどの大きな帽子を深めにかぶっていた。そのような格好をした女性を今まで矢吹は見たことがなく、無意識のうちにじっと見つめてしまっていた。
「こんばんは」
ゴスロリ女は矢吹達の前に歩いてくると、矢吹達に声をかけてきた。
「……何か用か?」
矢吹は目の前にいるゴスロリ女に得も言えない不気味さを感じ、警戒しながら答えた。
「私と一緒に、面白いことをしないか? お前を強くしてやるぞ?」
相変わらずゴスロリ女は目元が隠れたままだったが、歪んだ口元から、そして口調から矢吹を煽っているのは明らかだった。
「お前、何言ってんだ?」
矢吹は目の前のゴスロリ女をねめつけながら言った。ゴスロリ女は見るからに華奢な体つきをしていて、どう見ても矢吹の方が強そうだった。
「そのままの意味だ。簡単な日本語で言ったつもりだが、こんな言葉も分からないなんて、体の鍛えすぎで脳まで筋肉になってしまったのか?」
ゴスロリ女は口元を歪ませ、白い歯をのぞかせた。
「おい、俺をバカにしてるのか?」
その態度が矢吹の癇に障った。矢吹はゴスロリ女に詰め寄り、睨みつけた。
「誰がどう見たってバカにしているだろ。こんなことも分からないなんて、想像以上にバカのようだな」
ゴスロリ女は鼻で笑った。
「この野郎!」
矢吹の怒りが爆発し、矢吹はゴスロリ女に掴みかかった。しかし、矢吹の腕は空を切っただけだった。
ゴスロリ女はまるで瞬間移動したかのように、さっきまでいた場所から1メートルほど離れた場所に立っていた。
「馬鹿かお前は。こんなところでやりあったら店員に見られるだろ」
ゴスロリ女は冷たい口調で言った。
「おいてめえ! 逃げるのか!」
矢吹はゴスロリ女に怒号を浴びせた。怒りから矢吹の顔は真っ赤になっていた。
「安心しろ、ちゃんと相手をしてやる」
ゴスロリ女はコンビニの真正面から横、レジに立っている店員から死角になる場所へ向かっていった。そこはコンビニの照明もほとんど当たらず、ちょうど良くスペースがあった。
「ほら、かかってこい」
ゴスロリ女は右手を手のひらを上にして正面に突き出すと、四本の指を何度か曲げ、挑発的に『かかってこい』のジェスチャーをした。
矢吹は叫び声を上げながらゴスロリ女へ突っ込んでいった。そしてゴスロリ女の顔面に向かってストレートを放った。
しかし再びゴスロリ女は目にも留まらぬ素早さで真横へスライドし、矢吹の攻撃をかわした。
すかさず矢吹は体をひねり、ゴスロリ女へ向かって再びストレートを放った。そのストレートも虚しく空を切るだけだった。
2度目のストレートをかわすと同時にゴスロリ女は矢吹の後ろへ回り込み、矢吹の背中に向かって回し蹴りを放った。矢吹は口からうめき声を出しながら吹き飛ばされ、顔から地面に倒れ込んだ。
「何だあの女。おかしいだろ……」
「おい、逃げるぞ!」
いともたやすく倒されてしまった矢吹を見て、矢吹の子分は駆け足で逃げていった。
「なんだ、もう終わりか?」
ゴスロリ女は地面に突っ伏したままの矢吹の前まで歩み寄ると、矢吹を見下ろしながら心底退屈そうな口調で言った。
「ぐっ、うっ……」
矢吹は苦しそうな声を上げながらも、腕を使って何とか上半身を起こした。そして精一杯の虚勢でゴスロリ女を睨みつけた。
「な、何……なんだ……お前」
ゴスロリ女は矢吹の前にかがみ込むと、矢吹に向かって手を差し出した。
「私と一緒に来ないか? 私のように強くしてやるぞ?」
矢吹は差し出された手を見て数秒迷った末、ゴスロリ女の手を取った。ゴスロリ女は矢吹の手を上に引き、矢吹を立たせた。
「1人で歩けるか?」
ゴスロリ女はまるで子供に言うような口調で矢吹に向かって問いかけた。
矢吹はゴスロリ女の力に驚いたものの、「ああ」と短く答えた。
そして2人はそのまま闇の中へ消えていった。
矢吹はこの日以来、行方不明になった。
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