再起

 日が沈み外が暗くなり始めたころ、縁は自分の部屋で目を覚ました。

 季節は秋。昼間はまだ若干暑いものの、日が沈むと半袖では若干辛い程度に寒くなり始めていた。

 縁が家に引きこもるようになってから1ヶ月が経過していた。最初は両親もなんとか縁を家から出そうと画策していたが、気がつけばそっとしておいてくれるようになっていた。それから毎晩、両親同士の口論が聞こえるようになった。両親は縁に聞こえないようにするためか、縁の部屋のある2階ではなく1階で口論をしていたが、口論がヒートアップすると声が大きくなってしまうため、2階の縁の部屋にまで声が届いてしまっていた。

 目を覚ました縁が一番最初にしたことは、枕元に置きっぱなしにしてあるスマートフォンからSNSをチェックすることだった。SNS上には縁のようにいじめによって引きこもりになってしまった人達がたくさんいた。そして彼らと交流する事が今の縁にとっては一番の楽しみになっていた。いじめ加害者への恨み、消えない将来への不安、自分を理解してくれない大人たちへの愚痴。そんなことをSNSに投稿したところで現状が何一つ変わらないことは分かっていたが、やめられなかった。

 縁が高校に行かなくなってからは相馬からメッセージは一切届かなくなった。きっと新しい獲物にターゲットが移ったのだろうと縁は考えた。

 高校に行かなくなったことにより相馬からの脅威は解消された。その代わりに将来への不安という新たな悩みが発生した。ネットで中学生の頃からいじめにより引きこもりになってしまった40代男性のブログを見たとき、縁は見てしまった事を後悔した。その男性は、このような記事を書き残していた。

『頭の中は中学生で止まってしまっているのに、鏡を見るとそこにはおっさんになってしまった自分がいる。正直信じられない。これは夢だと思いたくてたまらなくなる。まるでずっと悪夢の世界にいるようだ』

『昔はいじめっ子を殺したくてたまらなかったが、今は自分を殺したくてたまらない』

『日に日に年老いてく両親を見ていると、怖くてたまらなくなってくる』

『俺が何をしたっていうんだ』

 といった具合に読んでいるだけで気が滅入るようなものばかりだった。

 そして縁が何より恐ろしいと感じたのは、そのブログの更新は数年前を最後にぴたりと止まってしまっていたところだった。

 このようなものを見てしまうと、嫌でもなんとかしなければならないと思うようになる。だが自分にはまだ時間はあるし、自分は今まで辛い思いをしてきたのだから、少しくらい休んでいてもバチは当たらないだろう、と思うと結局今すぐ行動を起こそうとする気にはなれなかった。

 ベッドの上で横になったまま、半分寝ている頭でSNSのタイムラインをチェックしていく。一通りチェックし終えると、『今起きた。今日も死にたい(泣いている表情の絵文字)』と投稿する。しばらくすると繋がっているアカウントから『おはよう。俺も死にたい』『おはようじゃなくてもうこんばんはだろ笑』のような反応が返ってくる。それに対して縁も反応し、雑談が始まる。雑談の内容は様々だが、込み入った話をすることは一切なく、上っ面だけの社交辞令のような会話がほとんどだったが、その程よい距離感が逆に心地よかった。

 そんな中、1人だけ辛辣な反応をしてくるアカウントがいた。アカウント名は見るからに適当に決めていそうで、プロフィール画像は教科書のイラストのような性別不明の手描きイラストだった。縁が『死にたい』と投稿すると、『死にたくなる前にそれ相応の行動はしたのか? そうじゃないのならば甘えだ』という反応をしてきて、聞きかじった知識で持論を展開すると『その考えは甘い。なぜならば〜』と一刀両断してくるアカウントだった。

 縁は正直このアカウントが苦手だった。SNSにおいて、縁はそのアカウントがしてくるような反応は求めていなかった。ただ自分の感情を吐露し、それに共感だけして欲しかった。

 ただ毎回1人だけそんな反応をしてくるせいか、縁はそのアカウントはどのような人が利用しているのか興味を持っていた。もしかしたらかなり年の行ったおっさんの可能性もある。しかしおっさんと断定するには情報が少なく、性別年齢不詳のアカウントとして縁は一旦棚上げにしていた。

 縁はSNSでの雑談に飽きると他のアプリに移動した。動画共有サービス、まとめサイト等、スマートフォンがあれば無料でいくらでも時間をつぶすことができる。昔の引きこもりは何をして過ごしていたのだろう。そんな事を考えながらダラダラと過ごしているといつの間にか朝になっていた。

「もうこんな時間か……」

 窓から差し込む光を遮断するためにカーテンを閉めようとしたところで、外から女性の声が聞こえてきた。縁の家は左右に歩道がある道路に面している。

 縁はその女性の声に聞き覚えがあった。恐る恐る自分の姿が見えないように気をつけつつ、 窓から外を見下ろした。そこにいたのは、縁が以前思いを寄せていた西川だった。誰かと楽しそうに話している。

 その隣を歩いている相手を見た瞬間、縁は一瞬息ができなくなった。

 西川の隣にいたのは、相馬だった。

 2人の距離、そして西川の楽しそうな声。縁は2人の関係をすぐに推察した。そして相馬の家はこの辺りではないことを縁は知っていた。それなのに朝から2人で歩いているということは。

 縁は衝動的に目に入った置き時計を手に取ると、壁に叩きつけた。時計はバラバラになり、床に置き時計のかけらが散らばる。それだけでは衝動は収まらず、縁は椅子を逆さに持ち上げると、壁に向かって力いっぱい叩きつけた。椅子は時計とは違い簡単にはバラバラにはならず、小さい部品が割れただけだった。縁は何度も何度も壁に椅子を叩きつけた。壁紙は剥がれ、壁には穴が開いていた。何度も壁を叩いているうちに椅子を掴んでいる手が痛くなってきた。だがそれでも縁は体内から湧き上がる破壊衝動に操られるままに壁を殴りつけ続けた。

 縁が椅子で壁を殴りつけ始めてすぐに音に気づいた両親が縁の部屋に入ってきた。

「縁、何してるんだ! やめなさい!」

 縁の父親は縁の元へ向かうと、両腕を掴んで壁を殴りつけるのをやめさせようとした。

「うるせえ!」

 縁は父親を突き飛ばすと再び椅子で壁を殴りつけ始めた。椅子を握る手からは血が滲み始めていたが、逆に心地よさを感じてすらいた。とにかくぶっ壊したい。自分もついでにぶっ壊したい。縁の頭の中はそれしかなかった。

「縁! 落ち着け!」

 父親は縁に体当たりをした。縁の手から椅子が離れ、床に落ちる。縁は父親とともに床に倒れ込んだ。父親は縁ともつれ合いながらも縁を力づくで床に押さえ付けた。

「うわあああああああ!! 離せ! 離せ! 離せよぉおぉぉおおおお!!」

「縁、落ち着け! 落ち着くんだ! ……母さん、救急車を呼んでくれ!」

 少し離れたところで2人が揉み合うところをうろたえながら見ていた縁の母親は、駆け足で部屋から飛び出した。

「くそっっったれ!! なんでだよ! なんでこうなんだよ……なんで……ふざけんなよ! うぅぅぅうううあああああああああーー!!!」


 すっかり昼夜逆転生活が身についてしまった縁は、珍しく普段より早い時間に目を覚ました。

 昼間、そして室内であっても部屋の空気は息が白くなるほどに寒い。縁は体を丸めて布団の中で縮こまった。そして布団の中でスマートフォンのロックを解除した。暗闇の中の唯一の光だ。

 縁が引きこもりになってから3度目の冬を迎えていた。縁が開けた壁の穴は上から布を貼るという簡単な補修のみでそのままになっている。

 縁が部屋で大暴れをして以来、両親は縁との関わりを極力避けるようになった。ただし縁が生きていけるように最低限の面倒は見てくれていた。

 およそ2年の引きこもりによって縁の部屋は無秩序な状態になっていた。実家に住んでいるおかげでギリギリのラインを踏みとどまることはできていたが、部屋の様子を見ると荒れた縁の心がひと目で分かる。そんな状態だった。

 そして縁の心理状態も悪化していた。1日の過ごし方はほぼ変化していなかったが、焦燥感、そして『死にたい』という思いは、2年前とは比べ物にならないほどに肥大化していた。しかし、それに反比例するように行動力は完全に衰えてしまっていた。なんとかしなければならない、と分かっているのに何もできない。そんな自分が嫌でたまらず、縁の心はさらに荒んでいく一方だった。

 そして今日もいつものように縁はSNSに『死にたい』と投稿した。

 布団の中でダラダラとSNSの投稿をチェックしていると再び眠気に襲われた。縁はその眠気に逆らうことなく眠りに落ちた。


 縁が目を覚ますと外は完全な暗闇になっていた。縁がいつものようにSNSを開くと、見慣れない通知が来ていた。思わず縁の退化した声帯から「お」と「あ」の間のような小さな声が漏れる。

 誰かからダイレクトメールが届いていた。縁は誰だろうと思いながらダイレクトメールを開いた。送り主は、例の辛辣な反応をしてくるアカウントだった。相変わらずプロフィール画像は教科書のイラストのような性別不明の手描きイラストのままだ。

『毎日のように死にたいって言ってるし、死なせてあげようか?』

 縁はそのメッセージを無表情で見た後、鼻で笑った。そして『どうやって死なせてくれるんだ?』と返信した。

 数分ほどして返信が来た。

『直接会って殺してあげる』

(どこに住んでいるか分からない相手をどうやって直接殺すのだろう)

 縁は『俺がどこに住んでるか知らないだろ』と返信した。

 次のダイレクトメールを見て縁は背筋に寒いものを感じた。ダイレクトメールには縁の住んでいる町の町名までの住所が書かれていた。

 縁は『なんで知ってるの!?』と返信した。「この住所であっています!」と言っているも同然だが、気になって聞かずにはいられなかった。

 返信はすぐに来た。『それは会ったときに教えてあげる。で、どうするの?』と書かれていた。

 縁はスマートフォンをスリープ状態にすると目を閉じた。何かしらの方法で住所を特定してしまうような相手だ。実際に会ったらただでは済まないだろう。まともな考えをしていたら普通は会いに行こうとは思わない。だが縁の精神状態はすでに普通ではなくなっていた。繰り返される刺激のない毎日に飽き飽きしていた。死にたいと思っているが、いざ自殺する勇気はない。しかし相手は殺してくれると言っている。そしてこのダイレクトメールの送り主はどのような人なのか単純に興味が湧いてきていた。

 縁は『いいよ、会おう』と返信した。

 しばらくしてから会う日時、場所が指定されたダイレクトメールが送られてきた。場所は以前縁が通っていた高校の近くにある公園だった。


 土曜日の14時。縁は指定された公園にいた。伸びた髪の毛は洗面台にあった母親のヘアゴムで雑にまとめ、だらしなく伸びていたヒゲは父親のシェーバーで剃った。服は引きこもる前に着ていた服を問題なく着ることができていた。

 縁はこれでもかと言うほど厚着をしていたが、それでもやはり寒くてたまらなかった。冬の寒さは痛さを感じるほどだ。

 縁は寒さをごまかすために公園の中を歩き回り始めた。縁が以前通っていた高校は住宅地の近くにあり、冬とはいえ公園には人が集まっていた。部活帰りと思われる高校生のグループ、親子、ジャージを着てジョギングをするお年寄り。

 縁は久しぶりに外に出たことにより、自分の周りに人がいることに違和感を覚えていた。この世界には何億もの人々が生きていて、部屋に引きこもっていても会わないだけで、すぐ近くに沢山の人々が住んでいることを当然知っている。だがあまりにも人と会わない生活を続けていたことで、自分の周りに自分以外に人がいることが信じられないと感じるようになってしまっていた。

 周りに人がいることの違和感に居心地の悪さを覚えながら、縁はスマートフォンで時刻をチェックした。時刻は14時5分。待ち合わせの時間はすでに過ぎている。周りを見渡すが、それらしき人は見当たらない。縁はダイレクトメールで到着したことと、自分の服装の特徴を送った。しかしメッセージに反応はなく10分が経過した。縁の脳裏に「このまま来ないのではないか」という考えがよぎった。会うことを受諾したときはその場の勢いで深く考えずに決めてしまったが、そもそもいたずらの可能性だっていくらでも考えられた。

「帰ろ」

 口の中で小さくつぶやき、縁がその場を後にしようとしたところ、後ろから「オイルさんですか?」と誰かから声をかけられた。素っ気なさを感じる女性の声だった。オイルは縁のアカウント名だ。

 縁が反射的に振り向くと、そこには縁と同年代くらいと思われる少女が立っていた。彼女を見た瞬間、縁は目を奪われた。彼女は縁が今までに見たことが無いほどに美しかった。

 背中に達するほど長く伸びた黒いストレートヘアは、思わず手を伸ばしたくなる艶のある光沢を放ち、肌は人形のようにシミひとつなく、自然と視線が吸い込まれてしまいそうになる宝石のような瞳をしていた。そしてダッフルコートにチェックのマフラーという出で立ちだ。コートの下に何を着ているのかはわからなかったが、コートの下裾からわずかにチェックの入ったスカートがはみ出していた。

 目の前の少女は縁の顔をじっと見つめた。冷気を感じるほどの冷たい目つきだったが、それすら魅力的に感じられた。まるで絵から抜け出してきたかのような美貌を持つ少女だった。

「あ、はい、そうです……」

 相手は完全に男、それもおそらくある程度年上だと思いこんでいた縁は動揺を隠すことができず、挙動不審気味に答えた。

「はい。もう分かってると思うけど、私が『きくに』です」

 美少女『きくに』は表情を変えることなく、素っ気なく言った。

「その、それできくにさんは……」

「その呼び方やめて」

 縁が続きを言う前に目の前の美少女は自分の事を『きくに』と呼ぶ事を拒否した。しかし縁は彼女の本名を知らないのでそれ以外の呼び方がなかった。

「えっと、そう言われても、きく……あなたをどう呼んだら良いのか分からないんですが」

 縁は美少女の雰囲気に気圧されながら遠慮がちに問いかけた。

 美少女は「うーん」と少し考える様子を見せると、「それじゃ、冬霞(ふゆか)って呼んで」と本名らしき呼び方を提案してきた。

「あの、それってもしかして……本名ですか?」

 縁が冬霞が本名だと思ったのは、『冬霞』という単語を自然に発しているように感じられたからだ。

「そうだけど? 塔冬霞(とうふゆか)。それが私の名前」

 自分の事を冬霞と呼べと言った美少女は、風で少し乱れた髪の毛を手ぐしで整えながら答えた。

「あの、いいんですか? そんなに普通に本名を明かしちゃって」

「今日死ぬ相手に教えたところで危険なんて全くないでしょ?」

「た、たしかに」

 初対面の相手にあっさり個人情報を明かす冬霞に危うさを感じた縁だったが、自分は今日何のために会ったのかを思い出し納得した。今日自分は彼女に殺してもらうために会ったのだ。

「周りを見て。ここは死ぬのを決意するにはいい場所だよ」

 冬霞は周りを少し見渡すと、皮肉の混じったような笑顔を浮かべた。

「え?」

 縁は冬霞と同じように公園を見渡した。だが、縁は冬霞の言葉の意味が理解できなかった。何か事件があったわけでもなく、何か変わったモニュメントがあるわけでもない普通の公園だ。なぜこの公園が死ぬのを決意するのにいい場所なのか、縁にはさっぱりわからなかった。

「あの、冬霞さん、それってどういう意味ですか?」

「そっか、わかんないか。まあ、ずっと引きこもってると脳が退化しちゃうから仕方ないか」

 冬霞はバカにしているのではなく、それが普遍的で常識のような口調で言った。本人にはバカにするつもりはないのかもしれないが、縁はその発言を聞いてムッとせずにはいられなかった。

「えっと、そういう言い方はないんじゃないですか?」

 縁の物言いもつい攻撃的になる。

「実際そうでしょ。だって引きこもってたら全く刺激がないし。知ってる? お年寄りがボケちゃう原因って刺激がないのが原因だって。つまり君の脳はボケ始めちゃってるの。君と会話してるとなんだか違和感があるのがその証拠。若いのに可愛そうだね」

 冬霞はただ事実を淡々と語るような口調で答えた。

 縁は言い返すことができず冬霞から視線をそらした。冬霞の言うとおりだった。こうやって誰かと会話をするのは久しぶりだったが、たしかに脳の動きが鈍くなっている感覚があった。言葉を発するときに引っかかる感覚があったし、会話ってこんなに頭を使うものだったのかと戸惑わずにはいられなかった。会話だけでもこうなのだから、脳の様々な部分が錆びついてしまっていることは想像に難くない。

「まあ、その話は置いといて、なんでこの公園が死ぬのを決意するのにいい場所か教えてあげる。公園にいる人達を見てみて」

 縁は言われるがままに公園にいる人達を観察した。部活帰りと思われる高校生のグループは楽しそうに何かを話している。子供と遊んでいる父親の表情は穏やかで、子供は小さな体を元気に動かして楽しそうに騒いでいる。そして縁の前を一組のカップルが通り過ぎていった。縁はカップルの顔に見覚えがあった。2年前に縁が女子生徒用の制服を着て校舎を一周したときにぶつかりそうになった吉岡とその彼氏だった。あれからも2人は愛を育み続けたのだろう。2人の表情は見るからに幸せそうで、2人の周りだけはゆっくりと時が流れていっているかのようだった。2人は完全に自分たちの世界に入っており、縁に気づく様子はなかった。

「……」

 縁は冬霞の言葉の意味を理解した。自分は2年間何もしていなかった。その間にも周りの人達は止まることなく勉強、仕事、恋愛、子育てに精を出し、今より良い明日を手に入れるために努力をし続けていた。しかし自分は何もしていなかった。何かをやろうと思えばやる時間はあった。それなのにやらなかった。親に甘え、堕落した毎日を送ってきた。そしてこれからも周りの人達との差は開いていく一方だ。縁は自分が底の見えない穴を落ちていくような感覚を抱いた。

「……死にたい」

 縁の口からは無意識のうちに言葉が漏れていた。

「そう、君は生きていく価値がないんだよ。だから、私が楽にしてあげる」

 冬霞は冷たく微笑んだ。縁はその笑顔に救いのようなものを感じた。


 冬は日が沈むのが早い。すでに空は暗くなり始めていた。

 縁と冬霞は、公園から少し歩いたところにある廃屋の中にいた。近辺に住む人ならば誰しも知っている廃屋だった。その廃屋は林を切り開いた草むらの中に建っており、外観は時代遅れのデザインをした2階建て一戸建てだ。縁の記憶が正しければ縁が小学生の頃にはすでに無人になっていた。長いこと手入れがされていないため庭は雑草が生い茂り、建物自体は老朽化が進み何かが出そうな不気味さを放っていた。何度か取り壊しが検討されたそうだが、未だに取り壊されることなく残っている。

 冬霞は慣れた様子で裏口から廃屋の中に縁を連れ込んだ。中は想像以上にきれいだったが、古い建物特有のかび臭さで充満していた。

 縁が冬霞とともに入った部屋の中には椅子が置かれていた。その椅子もやはり古そうだったが、後から持ち込まれたかのように部屋からは浮いて見えた。

 縁は冬霞に勧められその椅子に腰を下ろした。冬霞はカバンから小瓶とコップを取り出すと小瓶の中身をコップに注ぎ、縁に手渡した。コップの中にはピンク色の液体が入っており、ドライアイスのようにわずかだが白い煙が立ち上っていた。

「これは何ですか?」

 縁は恐る恐る少しだけ顔にコップを近づけながら冬霞に問いかけた。

「それは毒だよ」

 冬霞の声は少しだけ楽しそうだった。

「それを飲んだらすぐに眠気がやってきて、眠っている間に心臓が止まってそのまま死ねちゃうっていう便利な薬」

 縁は手にした毒をじっと見つめた。確かに言われてみれば毒々しい色をしている。

「さあ飲んで」

 冬霞は目で飲むように促した。

 縁は手にした毒をじっと見つめた。これを飲めば死ねる。しかし実感が湧かなかった。死ぬってどういう状態なのだろう。眠りに落ちるようだと聞いたことはあるが、それは実際に死んだ人の話ではない。なぜなら死んでしまった人の話は聞けないから。実際はもしかしたらものすごく苦しいのかもしれない。何しろ人間という生物からただの肉の塊に変わってしまうのだ。その過程で耐えられないほどの苦痛を感じても不思議ではない。

 縁はあれだけ「死にたい」と言っていたのに、死ぬとはどういう事なのか全く知らないことに気づいた。知らないものは怖い。縁はこの薬を飲むのが怖くてたまらなくなってきた。

「……どうしたの?」

 縁が一向に毒を飲まない事を不審に思ったのか、冬霞は眉をひそめ、目を細めた。

「いや、これを飲んだら俺死んじゃうんだって思ったら怖くなってきて」

 縁は今ここで毒を飲まずに家に帰っても、しばらくしたらまた「死にたい」と言っている自分を手に取るように思い浮かべることができた。しかし、いざここで自分の人生が終わってしまうのかと思うと怖くてたまらなかった。

 冬霞はまるでぐずっている子供を諭すように縁の前にかがみ込んだ。そして縁を見つめた。

 見つめられた縁は、呪いをかけられたかのように目をそらすことができなかった。冬霞は別人かと思うほど穏やかな表情を浮かべ、きっと聖女はこんな感じなんだろうなと縁は無意識のうちに思っていた。

「確かに怖いよね。だけど、想像してみて? 君はこのままだとずっと変わらない。それどころか、状況はますます悪くなっていく一方。そして、その苦しみはいつまで続くか分からない。だけど、今これを飲み干せばその苦しみは一瞬で終わる。一瞬だけ、一瞬だけ我慢するだけで全てが解決できるんだよ?」

 まるで眠れない子供を優しくあやすような声で、縁の手を取りコップを縁の口に近づけた。

 誰かからここまで優しい言葉をかけられたのは、縁にとって久しぶりのことだった。そんな久しぶりに優しい言葉をかけてくれた冬霞の言うことは、縁にとっては魔法の言葉のように感じられた。

 縁は催眠にかかったかのようにコップに口をつけると、ピンク色の液体を一気に飲み干した。ピンク色の液体はシロップのような味がした。

 飲み干してしばらくすると、縁の体に異変が生じた。目を開けているはずなのに、視界が徐々に狭まっていく。縁は声を発しようとした。しかし喉から出たのは小さなうめき声だった。椅子から立ち上がろうにも、体は動かない。その間にも視界は狭まっていく。視界を闇が侵食していく。そして視界が完全に闇に包まれた瞬間、縁は意識を失った。


 まぶたに白い光を感じながら縁は目を覚ました。そして重力と背中の感触から、自分はどうやらベッドの上で横になっていることが分かった。徐々に意識がはっきりしてくるにつれて、縁の頭の中で1つの疑問が大きくなっていった。

(どうして俺生きてるんだろう?)

 そして体の感覚が何かおかしいことに気がついた。体が明らかに一回りも二回りも大きくなっている。

 縁が体の感覚がおかしくなっていることに戸惑っていると、まぶたに当たる白い光に2つの影ができていることに気がついた。誰かが自分を覗き込んでいるようだ。縁はゆっくりとまぶたを開いた。白い光の正体は天井に取り付けられている蛍光灯だった。

「えっ!?」

 縁は自分を覗き込んでいる2人の顔を見て驚きの声を上げた。縁を覗き込んでいたのは冬霞と、2年前に縁の担任をしていた三島だった。冬霞は公園で会ったときのダッフルコートではなく、チェックのワンピース姿になっていた。そして三島はなぜか白衣を着ていた。

「目を覚ましたか」

 三島は2年前と変わらない冷ややかな声で言った。

 なぜこの2人が一緒にいるのだろう。縁が「なぜ2人が?」と問いかけたところで自分の声もおかしいことに気がついた。

「あ、あれ?」

 縁は無意識のうちに腕を上に持ち上げた。自分の腕が視界に入る……はずが、縁の視界に入ったのは暗い緑色をした、異常なまでの筋肉に覆われた腕だった。そして鱗のような硬い皮膚に覆われていた。さらにその目の前にある腕は縁が思ったように動いた。間違いなく自分の腕だった。縁は上半身を起こし、首を動かして腕以外の自分の体を見ていった。腕だけではなく、全身が完全に別物になってしまっていた。

 縁の体はバッタのようでもあり、大型爬虫類のようでもあり、肉食の魚類のような、見たこともない禍々しい人型の怪物の姿になっていた。

 縁が変わり果ててしまった自分の体を見て呆然としていると冬霞が口を開いた。

「おめでとう。君は生まれ変わったんだよ。高木縁くん」

 冬霞は目を細めて儚さを感じさせる微笑みを縁に見せた。

「え、いやいや! ちょっと待ってくださいよ! 俺、死んだはずじゃなかったんですか?」

「高木。生物学的にはお前はすでに死んでいる」

 現状がさっぱり理解できず取り乱す縁に、三島は授業中に生徒に語りかけるような口調で答えた。

「えっ、生物学的にって……俺現に今生きてるじゃないですか!」

 生物学的には自分は死んでいる。と言われても縁は納得ができなかった。

「高木くん、それはね、君がそう『錯覚』しているだけ。君はあの薬を飲んだときに一度本当に死んだの。君は死んだ後に体を切り刻まれて改造人間になったの。だから君はもう人間じゃない」

「そっ、そんな……俺は死なせてくれるって言うから薬を飲んだのに、こんなのって詐欺ですよ!」

「詐欺ではないな。お前は一度本当に死んだのだから」

「いや、だから……!」

 うまい具合に言いくるめようとしてくる三島と冬霞に憤りを覚えながら縁は語気を荒げた。

「そうか。じゃあ、お前はどうして欲しいんだ?」

 取り付く島もない、といった具合に淡々とした口調で三島が言った。

「元の体に戻してください!」

「元の体に戻ってどうするの?」

 三島とのやり取りを黙って見ていた冬霞が会話に入ってきた。どことなく批判的で刺々しさを感じさせる口調だった。

「高木くん。君はそもそも死んだも同然だったよね。両親に甘え、SNSで毎日ほぼ同じ内容を投稿して、働くわけでもなく、何かを学ぶわけでもなく、ただその日を無駄に過ごすことの繰り返し。元の体に戻ったところできっと君はまた同じ生活を繰り返す。そんな状態で元の体に戻ったところで意味があるの?」

「くっ……」

 縁は歯を食いしばった。口の中も改造によって別物になってしまったようで、縁は違和感を覚えた。

 確かに冬霞の言う通りだった。元の体に戻ったところで、またあの死んだような毎日に戻るだけだ。しかし好きでこんな風になったわけじゃない。相馬にいじめられさえしなければ、今頃大学に通っていたはずだ。それなのに三島は担任のくせに何もしてくれなかったというのに、突然目の前に現れて自分に説教をしてくる。冬霞は初対面で自分の事をSNS上でしか知らない癖に好き勝手に言ってくる。

 縁の中で強いエネルギーが一気に爆発した。

「うるせえ! お前らに俺の何が分かるって言うんだよ!!」

 縁は力任せに自分が寝ているベッドを殴りつけた。巨大なハンマーで殴りつけたかのような衝撃が走り、金属製のフレームでできていたベッドは飴細工かのようにひん曲がった。ベッドが曲がった衝撃で、縁はベッドの上から放り出され地面に転げ落ちた。

「なっ、なんだこれ……」

 縁は尻もちをついたまま呟いた。その声は、震えていた。

「高木くん、君が変わったのは見た目だけじゃないの。改造されたことによって人間離れした怪力を発揮できるようになっている。多分コンクリートくらいなら簡単に粉砕できるはず」

「なっ、なんだって……」

 縁は自分の変わり果ててしまった手を見つめた。突然手に入れてしまった力に手の震えが止まらなかった。

「俺は、どうすればいいんだ……」

「どうしても元の姿に戻りたいなら、戻してやってもいい。ただし条件がある」

「えっ、本当ですか!」

 呆然とする縁に三島が思わず飛びつきたくなるような提案を持ちかけ、縁は反射的に三島に視線を向けた。

「しばらく私達に協力する。そうすれば元に戻してあげる」

 三島と冬霞は射るような視線で縁を見下ろした。

「わっ、分かりました。協力します!」

 2人は何に協力するのかについては明言しなかったが、縁は深く考えずに協力することに決めた。

「ありがとう。それじゃあ契約成立ってことで」

 冬霞は縁に手を差し出した。縁も立ち上がり、その手を伸ばそうとしたところで冬霞は手を引っ込めた。

「あれ? どうしてですか?」

 縁が不思議に思い問いかけると、

「君に手を握られたら私の手潰れちゃうでしょ? 一旦人間の体に変身してもらっていい?」

「えっ、そんな事できるんですか?」

 元の体にしてもらうまでは怪物の姿のままだと思っていた縁は、思わず声のボリュームが大きくなった。

「できる。意識を内側に集中して、自分の体を小さくするようなイメージをして。そうすれば人間の体に変身することができるから」

「やってみます」

 縁は直立不動の姿勢で意識を内側に集中した。改造されたことで大きくなってしまった自分の体を、再び元の大きさになることをイメージした。体の中で何かのスイッチがオフになった感覚があった。縁の体の表面が一瞬ドロドロに溶けたかと思うと、縁は人間の体に変身していた。

「やった……元に戻れた! あああ、よかった……」

 縁は安堵のため息をつきながらはその場にへたり込んだ。

「……あれ?」

 安心したのもつかの間、縁の頭にひとつの疑問が生じた。人間の体に変身できるのならば、元の体に戻してもらう必要は無いのではないか。

「あの、人間の体に戻れるなら、元の体に戻してもらう必要って無いんじゃないですか?」

「高木。残念ながら、そういうわけにはいかない。確かに見かけ上は人間に見えるが中身はそうじゃないんだ」

「君の体は実験段階でまだ不完全なところがあって、定期的に体のメンテをする必要があるの」

 冬霞が淡々と補足した。

「そっ、そんな……」

「だから、私達に協力して」

「っ……」

 縁は拳を握りしめ、うつむいた。協力する以外の選択肢は無さそうだった。元の体に戻れたところでまた同じような生活を送るだけかもしれない。それでも、こんな怪物の体のままでいるのは嫌だった。

「……分かりました。協力します」

 縁は顔を上げ、2人に向かって宣言した。

「じゃあ、今度こそ握手しよっか」

 冬霞は縁に手を差し出し、縁は冬霞の手を握った。冬霞の手は小さかった。そして冷たかったが、柔らかかった。縁は女の子の手を握るのは生まれて初めてのことだった。気がつけば縁は初めて握る女の子の手の感触に全意識を集中していた。

(女の子の手ってこんなに小さいのか……それにしても、やわらかい……同じ人間の手とは思えないや)

「ところで高木くん」

「……」

「高木くん」

「……はっ、はい!」

 冬霞の手の感触に心を奪われ反応が遅れてしまった縁は、焦りながら返事をした。

「もう大丈夫?」

「あっ……すいません!」

 縁は慌てて手を離した。縁とは対象的に、冬霞は特に気にした様子はなかった。

「私達の仲間になったのだから、これからのことについて説明するね」

「は、はい」

 思わず縁は姿勢を正した。

「まず、さっきも言ったけど君の体は不完全だから、ここに定期的にメンテを受けに来て貰う必要がある」

「あの、そういえば、ここってどこなんですか?」

 縁は部屋の中を見渡しながら言った。天井や床、そしてベッドが置かれていることから病室に見えないこともなかったが、窓が一切なかった。

「ここは、高木くんが薬を飲んだあの廃屋の地下だよ」

「えっ」

 縁にはあのボロボロの廃屋の下にこのようなものがあるとは信じられなかった。しかし、なぜいつまでたっても取り壊されないのかを理解した。

「話を続けるね。そして、高木くん。君の体の中には特殊な爆破装置が埋め込まれています」

「……は?」

 縁は冬霞の言ったことをすぐに理解することができず、間抜けな声で聞き返した。

「君の体は不完全だけど、機密情報のかたまりなの。だからもし万が一のことがあったときに証拠隠滅をするため、そして無いとは思いたいけど君が逃げ出そうとしたとき用」

 縁は全身の血の気が引く感覚がした。思わず手が胸に触れる。胸は人間の体だったときと同じように上下に動いている。自分はもう人間ではないことが信じられなかった。

「もちろん、日常生活でうっかり爆発してしまうなんてことはないから安心して」

 冬霞のフォローにならないフォローに、縁は「いやそういうことじゃない」とツッコミを入れたくなったが、とてもではないがツッコミを入れられるような状況ではなかった。


 冬霞に薬を飲まされてから1日が経過し、すでに日曜日になっていた。

 縁は半分夢を見ているような状態で帰宅した。帰宅したときに両親が家にいる気配を縁は感じたが、両親は特に何も言ってこなかった。

 自室に入った縁は部屋の臭さに思わず「くさ!」と声に出していた。たまらず窓の前に走り、窓を全開にした。長きにわたる引きこもり生活で鼻が慣れてしまっていたが、久しぶりに長時間外に出たことにより慣れがリセットされてしまったようだ。

 縁は窓から顔を出して外の空気を大きく吸い込んだ。思わずため息が出る。外から見える景色は平和そのものだ。まさか廃屋の地下に謎の施設があり、自分はそこで改造されてしまったなんてとても信じられなかった。

 縁は窓を閉めて部屋着に着替えるとベッドに横になった。横になった瞬間布団からもふわりと顔をしかめたくなる臭いが縁の鼻孔を刺激する。

(布団洗濯しないとな……)

 縁は無意識のうちにベッドに投げ出していたスマートフォンを手に取りロックを解除した。冬霞からダイレクトメッセージが1件届いていた。

『今後のことについてです。協力してもらう仕事内容については追々話すとして、高木くんにはもう一度高校に通ってもらいます』

「え?」

 なぜもう一度高校に通わなければならないのか。理論が飛躍しすぎていて縁には全く理解ができなかった。すぐに『なんで俺高校にもう一度通わなきゃいけないの?』と返信した。

 10分ほどして、『私が高校生だから同じ高校に通ってもらえると監視がしやすい』と返ってきた。

「高校生だったのか」

 縁には冬霞は20歳前後、自分と同い年くらいに見えた。まさか現役女子高生だとは夢にも思わなかった。

 縁がどう返信したものか考えていると、再び冬霞からダイレクトメッセージが届いた。

『私達が手回ししておくから高木くんには編入という形で、編入試験も免除できるようにするから安心して。それに高木くん、年の割に子供に見えるから大丈夫』

「余計なお世話だよ!」

 思わず縁はスマートフォンに向かってツッコミを入れると、すかさず『今更高校なんて嫌だよ!』と返信した。

 数分後『これはお願いじゃなくて、命令』と短いダイレクトメッセージが送られてきた。

「冗談じゃない。今更高校なんて」

 縁はダイレクトメッセージを放置し、動画アプリを起動した。

 

 その後何度も冬霞からダイレクトメッセージが送られてきていた。しかし縁は全て無視した。通知が邪魔なので通知をオフにし、大量に送られてくるダイレクトメッセージにうんざりするのでSNS自体を開かないようにした。SNSを開かなくても時間を潰す手段はいくらでもある。気がつけば自分の体が改造されていることも、メンテを受ける必要があることも忘れ、1週間が経とうとしていた。

 縁がいつものようにスマートフォンで適当に動画を見ていると、縁の体に急に異変が訪れた。まるで金縛りにあったかのように急に体が動かなくなった。そして視界は徐々に赤みがかかっていき、心臓は激しく鼓動を刻み、息が苦しくてたまらなかった。口からは泡が吹き出し、縁の脳裏に『死』がちらついた。

 遠ざかる意識の中、縁は部屋の窓が開く音を聞いた。誰かが部屋に入ってきていた。誰なのか分かる前に縁は意識を失った。


 縁は再び廃屋の地下にある施設のベッドの上で目を覚ました。以前と同じように三島と冬霞が縁を見下ろしていた。

 冬霞は縁が目を覚ましたのに気づくと、これ見よがしに大きなため息をついた。

「高木くん、君もう少しで死ぬところだったんだからね。まさか定期的にメンテが必要なの忘れてたとか言わないよね?」

「そっ、そんなは……すみません、忘れてました……」

 完全に忘れてしまっていた縁は弱々しい声で答えた。

「はあ。やっぱり」

 冬霞は再びため息をついた。今度は自然なため息だったが、心底あきれているのが縁には伝わってきた。

「まあ塔、そのへんにしておけ」

 相変わらず感情の読めない冷たい声で三島が冬霞をたしなめた。

「はい先生、じゃなかった、三島さん」

「別にどちらでも私は構わないが」

「いやいや、構いますから。というか、その無表情っぷりなんとかならないんですか? 冗談で言ってるのか本気で言ってるのか分からないんですけど」

 やはり冬霞も三島が何を考えているのか分からないようだ。言っている内容は批判めいていたが、それなりに気心が知れているような軽さを感じる口調だった。

「私は本当にどちらでも構わないが……。まあ、その話はまた今度にしよう」

 三島は縁を観察するような目で見下ろした。

「高木。次はこういう事が無いように気をつけろ。今回は何とかなったが、ギリギリの状態のメンテナンスは体に負担がかかる」

 相変わらず淡々と、生徒に指導する教師のような口調だ。

「はいはい、分かりました。気をつけます。……というか、その先生みたいな喋り方やめてもらっていいですか? 俺はもうあなたの教え子じゃないんですよ?」

 昔と変わらない口調が鼻についた縁は、上半身を起こすとわざとらしくイラついているような口調で答えた。

「……そうだな。すまない。気をつける」

 三島は無表情でメガネを指一本で上げながら言った。その淡々とした態度が縁の怒りに火を付けた。

「大体、アンタがちゃんと仕事してくれれば俺はこうならなかったんですよ? 久しぶりに顔を合わせて謝罪の一つでも言ってもらえるかと思ったらそんな気配は全く無くて、言ってくるのは説教だけ!」

「すまなかった」

 三島は縁に向かって頭を下げた。そして頭を上げると、

「相馬が何かをしていたことは正直感づいていた。だが、相馬の家は少し厄介でな……。最悪私にこのような裏の顔があることがバレてしまう危険性もあった。だが、それは高木には関係ない話だったな。すまない」

 もう一度三島は頭を下げ顔を上げると、縁をじっと見つめた。

 三島の視線に耐えきれず、縁は目をそらした。感情のままに爆発してしまったが、いざ謝罪をされると居心地の悪さを感じていた。だからといって三島を許したわけではないが、三島1人の力でなんとかなる話でもなかったはずだ。しこりが残る感じはするが、縁は一旦この事は置いておくことにした。

「まあ、許さないけど、この話はもういいです。メンテナンスについても気をつけます」

 縁は床を見つめながら小さい声で答えた。自分でこの話題を出しておいて虫のいい話だとは思ったが、これ以上この話を続けなくなかった。

 三島とのやり取りを横で見ていた冬霞が口を開いた。

「高木くん、やっぱり君には高校に通ってほしいの。何かあったときに直接話しにいけるし、毎日顔を合わせるからメンテナンスを忘れることもないよね?」

 冬霞は最後の一文を強調するように言った。

 縁は正直言ってもう一度高校に通うのは嫌だった。しかしもう二度とメンテナンスを忘れないという自信はなかった。そして、何かあったときに冬霞が近くにいるのならば相談しやすい。高校に通うこと自体は嫌だが、高校に通うことのメリットは多々ある。

「分かり……ました」

 縁は渋々承諾することにした。

「高木くん、ありがとう」

 冬霞は穏やかな笑顔を見せた。縁はその笑顔を見ているだけで温かい日差しを浴びているような心地よさを覚え、無意識のうちに冬霞を見つめてしまっていた。

 縁に見つめられていることに気づいた冬霞は不思議そうな表情で「どうしたの?」と縁に問いかけた。

「い、いや、なんでもないです」

 縁はごまかすように咳払いをした。縁の顔は恥ずかしさから赤くなっていた。

「そう。ちなみにもう高木くんの家に編入の書類は送ってあるから、早めに送ってね」

「……え?」


 縁が帰宅すると、父親が待ち構えていたようにリビングから出てきた。

「ずっと部屋にいると思ったら、外にいたのか。縁、話がある」

 縁は無言で父親と共にリビングに入ると、リビングには母親もいた。縁は両親と向かい合う形で席についた。縁は2人の顔をしっかりと見るのは久しぶりだった。2人は以前より白髪もしわも増えていた。

「縁、これは何だ?」

 父親はテーブルの上に冬霞が送っていた高校編入の書類を置いた。

「これは……」

 縁はすぐに答えが思いつかず、目を泳がせた。

「縁、もしお前がもう一度高校に通いたいと思っているなら、父さんも母さんも通わせてやりたいと思っている」

「え?」

 父親の予想外の反応に、縁は思わず口をポカンと開けた。

「ただ、一度やめてしまった高校にまた通わなくてもいいんじゃないか? それに……」

 父親はそれ以上先は言わなかった。そして縁も父親が何を言いたいのかすぐに分かった。高校側は決して認めなかったが、縁はいじめが原因で高校をやめた。そして縁がもう一度通おうとしているのは、その一度やめてしまった高校だ。両親が他の高校を通うことを勧めるのももっともだった。しかし縁には他の高校に通うという選択肢は与えられていなかった。なんとか父親を説得しなければならない。

「父さん、ありがとう。だけど、もう一度ここに通いたいんだ。ここに、通わせてください」

 縁は父親に向かって頭を下げた。縁には正攻法以外で父親を説き伏せる方法が思いつかなかった。

「……そうか、分かった」

 父親は腕組みをしてしばらく考える様子を見せた後、静かに頷いた。

 なんとか父親を説得することができ、縁は気の抜けた表情で安堵のため息をついた。

 しかし父親は引っかかるところがあったようで、

「ところで不思議なんだが、縁は一度退学しているのになぜ編入なんだろうな? おまけになぜか編入試験は免除されている。一度高校に問い合わせていたほうがいいか……」

 父親は立ち上がり、電話の方へ向かおうとした。

(まずい!)

 立ち上がろうとした父親を縁は押し止めた。

「き、きっと俺が一度退学してるからだよ。高校側もそのへんを考慮してくれてるんじゃないかな? それにこっちに不都合なことはなにもないし」

 縁は額に汗をかきながらなんとか父親を納得させようとした。三島や冬霞が手回しをしてくれているのだろうが、細かく突っ込まれると面倒なことになりそうな予感が縁にはあった。

「……うーん、まあ、それもそうか」

 父親は納得したようで再び椅子に座った。

「縁、本当に大丈夫なの? 2年遅れで、しかも途中編入なんて」

 母親が心配そうに縁を見つめた。縁が大丈夫だと言ったとはいえ、やはり息子が高校をやめた理由が理由なので不安なようだ。一般的に、定時制高校でもなければ16歳になる年に高校に入学し、19歳になる年に高校を卒業するのが多数派だ。しかし縁は19歳で高2をやり直すことになる。周りの生徒から見れば縁は異分子だ。そうなったときに再びいじめに繋がってしまう可能性も決して低くはない。母親が不安に思うのも当然だった。

 縁もそれが怖かった。それでも縁は「大丈夫」と言う他なかった。

 こうして引きこもり歴2年の縁は、19歳にして高校2年生をやり直すことになった。

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