怪人19歳

アン・マルベルージュ

暗黒

 地方の高校に通う高校2年生の高木縁(たかぎゆかり)は、2年に上がってから同級生からいじめのターゲットにされていた。『ゆかり』という名前だが、男だ。

 ターゲットにされた理由は理不尽なものだった。いじめの主犯格、相馬健吾(そうまけんご)の彼女の名前も『ゆかり』であり、それが気に入らなかったから。そういじめの主犯格の相馬は言っていた。

 しかしそれはただの口からでまかせの話で、体格が良いわけではなく、常にうつむき加減の暗い雰囲気を漂わせている縁は、ターゲットにするには丁度良かっただけなのかもしれない。

 その日の放課後も、縁は校舎の人気のない区画にあるトイレに呼び出された。着くのが遅くなるとそれだけで殴られてしまうので、縁は小走りで呼び出されたトイレに向かった。

「今日は早かったな」

 トイレに入ってきた縁に向かって、露骨に見下しているような口調で相馬が言った。

 相馬は壁によりかかった状態で腕を組んでいた。身長180センチを超える巨体のため、それだけで威圧感がある。自信と粗暴さを併せ持った顔つきをしていて、やはりモテるのか、クラスで女子生徒を何人も侍らせて談笑している光景を縁はよく見かけていた。

 相馬の左右には、いつものように相馬の子分が意地の悪そうな笑みを浮かべながら縁を見ていた。子分も同じ学年だったはずだが、クラスが違うため縁は名前をはっきりと覚えていなかった。

 縁はトイレ内の不愉快な空気を感じながらも、

「う、うん。なんたって相馬くんからの呼び出しだからね。走ってきたんだ」

 縁は媚びへつらうような笑みを浮かべた。少しでも相馬の不機嫌を損ねてしまうと、暴力を振るわれてしまう。

 縁は相馬の表情をチラリと盗み見た。今日は相馬の機嫌が良さそうだ。縁は小さくため息をついた。機嫌が良ければあっさり解放してくれる場合があるからだ。

「そうか。そういやこの前借りた金なんだが、もう無くなっちゃったんだ。悪いんだけどまた貸してくれないか?」

 相馬はわざとらしく申し訳なさそうな口調で縁に手のひらを向けた。口では「悪いんだけど」と言ってはいるものの、どう見ても申し訳なく思っているように見えなかった。加えて、相馬は縁が貸したお金を返してくれたことは今まで一度もなかった。

「う、うん、もちろんだよ。だけどごめん。バイトの給料日前だから、今ちょっと余裕がなくて……」

 何が貸してだふざけるな。一度だって返してくれたこと無いくせに。縁は内心でそう毒づきながらも、表情にはおくびにも出さず意識して作り笑いを浮かべたまま、財布からお札を何枚か出すと相馬に渡した。相馬はひったくるように縁の手にあるお札を受け取ると、お札の枚数を数え始めた。みるみるうちに相馬の表情が険しくなっていく。

「おい、なんか少なくないか?」

 相馬に睨みつけられ、縁は体を硬直させた。

「ご、ごめん。もうすぐ給料日だからそれまで待」

 すかさず縁は釈明しようとしたが、言い終わる前に相馬は縁の腹に回し蹴りを放った。それを見ていた子分2人は、何かの催し物を見ているかのように歓声を上げた。

 縁は痛みに耐えきれず、その場に力なくへたり込んだ。

 相馬は「俺は今すぐ必要なんだよ!」と言いながら縁をもう一度蹴りつけた。

「ご、ごめん。来週、来週にはなんとかするから」

 縁は痛みをこらえながら何とか答えた。

「……明日だ。明日までになんとかしろ」

 相馬は一切取り合おうともせず、子分たちに「おい行くぞ」と短く言うと、出口へ向かって歩いていった。

「あばよ~。高木」

 子分の1人の木田が露骨に馬鹿にしたようなポーズを取りながら縁の横をすり抜けていく。

 相馬と相馬の子分は縁を残して去っていった。

 

 1人残された縁は、ゆっくり立ち上がり、大きく息を吸い込んだ。トイレで深呼吸をするということに抵抗があったが、呼吸を整える方が大事だった。

 縁は悔しさからトイレの壁を蹴りつけた。何か自分が悪いことをしたわけでもないのにカツアゲをされ、暴力を振るわれる。抵抗しようにも相馬との体格差を考えると現実的ではない。助けを求めようにも、相馬からの報復を考えると怖くてできなかった。

 ともかく今は帰りたかった。しかし縁がトイレを後にしようとしたところで今日はバイトがあることを思い出した。ポケットから携帯を取り出し、ディスプレイに表示されている時刻を見た瞬間、背筋に寒気が走った。

「バイトに遅れちゃう……」

 急いで向かわなければ間違いなく遅刻する時刻だった。

 バイト代のほとんどは相馬に渡している。そんなバイトを真面目に頑張る必要もなかった。

 だがバイト先の大人たちにはそんな事は関係ない。遅刻したり仕事ぶりが悪ければ怒られる。しかし相馬に金を渡せなければ暴力を振るわれてしまう。

 なぜ自分はこんな事をしているのだろう。そんなことを問いかけたくなってくる。しかし今はとりあえずバイトでお金を稼ぎ、相馬の機嫌を取るしか無かった。

 縁は体の節々の痛みを我慢しながら、バイト先へ急いだ。


 その日のバイトを終えた縁がバイト先を後にしたところで、後ろから「高木くん!」と誰かが声をかけてきた。後ろを振り向くまでもなく縁には声の主が誰か分かっていた。

「あ、西川さん、お疲れさまです」

「うん、お疲れ様」

 声の主は縁のクラスメイトの西川久美(にしかわくみ)だった。輪郭のはっきりした大きな目をしており、艶やかな髪の毛を肩まで伸ばし、前髪を水平に切り揃えた髪型をしている。チャームポイントは、縁が西川に会うたびについ視線が行ってしまう、艶のある口だ。

 2人は横に並んで歩き始めた。基本的にシフトが被った場合は2人一緒に帰るのが恒例になっていた。そして、縁はこうして2人で帰るのが密かな楽しみだった。縁は西川に思いを寄せていたからだ。西川のおかげで今も縁はバイトを続けることができている。

「今日はバイト楽でよかったね」

 西川が髪の毛を払いながら縁に向かって微笑む。

「うん、そうだね」

 西川の顔を見てしまうと照れて顔が赤くなるので、縁は顔をそらしながら答えた。もちろん何もないのに視線をそらすと西川に不審に思われてしまうので、歩いていて何かに視線が移ったという体で視線をそらす。

「ん? そっちに何かあるの?」

 西川は縁の視線を追った。

「あっ、いや、知り合いがいたと思ったけど、勘違いだったみたい」

 縁はごまかし笑いをしながら頭をかいた。幸い西川はそれ以上追求してくることはなかった。

「そういえば、聞いてよ!」

「うん」

 いつものように西川が話題を振った。そしていつものように縁はひたすら相槌を打つ。西川の話す内容は縁にとっては退屈だったり、意味がよくわからないものもあった。だがそれでも縁にとっては至福のひとときだった。こうやって楽しそうに話を聞いていれば、いつか自分の想いが実るかもしれない。そんなことを考えながら、いつものように帰り道の途中で別れるまで、縁は西川の話を聞き続けていた。


 翌日。その日も縁は相馬の元に向かっていた。財布の中には昨日バイト先から前借りしたバイト代が入っていた。

 縁が最初に店長に「バイト代を前借りさせてもらいませんか?」と頼んだとき、店長は渋い顔をしていた。だが日頃から縁は真面目に働いており、縁のただならぬ様子に「今回は特別」と念押しされ、前借りをすることができた。

 トイレに入ってきた縁に向かって相馬はいつものように壁によりかかりながら、「昨日の分は持ってきたか?」と鋭い目つきで縁を睨みつけた。これまたいつものように相馬の横には子分が立っていて、ニヤニヤしながら縁を見ていた。

「う、うん。持ってきたよ」

 縁は相馬の前まで歩いていくと、財布からお札を取り出し相馬に手渡した。

 相馬は縁の顔を見ずに縁の手からお札を受け取ると、その場で金額を数え始めた。金額が問題ないことを確認すると相馬は満足そうに、「やればできるじゃねえか」と言いながら縁の肩を叩いた。

「う、うん、ありがとう」

 縁は俯きながら作り笑いを浮かべた。とりあえず今日は何事もなく終わりそうな予感がし、縁は小さくため息をついた。

「そうだ、ちゃんと約束を守った高木にはご褒美をやらないとな」

 縁は嫌な予感を抱いた。相馬の表情は明らかに何かを企んでいるように見えたからだ。

「妹から借りてきたんだが……」

 相馬は自分のカバンから何かを取り出した。それはどこかの学校の女子用制服だった。

「妹と高木の身長は大体一緒くらいだから、『ゆかりちゃん』にはぴったりだと思ってな」

 縁の身長は165センチなので、女子でその身長は少し高めだ。だが兄が180センチを超える高身長なのだから、妹も身長が高めでも不思議ではなかった。

「えっ、それはちょっと……」

 縁は困惑した表情を浮かべた。縁にはそのような趣味はない。女子用制服を着ろと言われて縁は強い抵抗感を抱いた。

「あ? おい高木。俺がせっかく妹から制服借りてきてやったのに、何だその態度は」

 相馬は眉を吊り上げ、縁を睨みつけた。縁の表情が凍りつき、青ざめていく。縁は胃に痛みを感じ、思わず腹に手を伸ばした。

「ごっ、ご、ごめん」

 縁は恐怖で上手く声が出なかったが、何とか声を絞り出した。

「じゃあ、着ろ」

 相馬は手にした制服を縁に突き出した。縁は相馬から制服を受け取り、何度かためらったが、渋々その場で着替え始めた。


「こ、これでいい?」

 着替え終えた縁は恥ずかしさから両腕で体を隠し、体をくねらせながら相馬に向かって遠慮がちに問いかけた。

「プッ、こっ、これでいいじゃねえよ……クッ、クククッ……」

 縁が着替えている間も相馬は子分と何かを話しながらクスクスと笑っていたが、ついに我慢ができなくなったのか大声で笑い始め、トイレの中に笑い声が響き渡った。

 縁はその不快な笑い声を意識しないよう、他のことを考えながら視線を落とし、笑い声が収まるのを待った。

「ハハハハ! 本当に着るとは思わなかったぜ! プッ、クッ、フフフ……。おい、金田、コイツの写真撮ってくれ」

 相馬の子分の1人、いつも相馬の向かって左側に立っている金田はポケットからスマートフォンを取り出すと、縁に向かって「おい何かポーズを取れ」と顎をしゃくった。

「えっ、ポーズって言われても」

 金田に「なんでもいいから早くしろ」と急かされ、縁は渋々適当なポーズを取った。 

 それを見た金田は一度吹き出すと、体を震わせながら写真を何枚か撮り始めた。写真を撮っている間、手がブレるからなのか笑いをこらえようとしているように見えたが、結局我慢できずに吹き出していた。何枚か写真を撮り終えると撮った写真を見ているのか、スマートフォンのディスプレイを見ながら不快な笑い声を立て始めた。

「金田、俺にも見せろよ」

 相馬は金田のスマートフォンの画面を横から覗き込んだ。そしてもう1人の子分の木田も反対側から覗き込み、3人一緒に不愉快な笑い声を立て始めた。

「金田、お前、写真撮影の才能あるわ。おい、この写真俺にも送ってくれ」

「オッケー」

 金田はよほどおかしいのか体を震わせながらスマートフォンを操作し始めた。数秒後、相馬はスマートフォンを取り出し、画面を見て吹き出した。

「ホントこの写真何度見ても笑えるな。傑作だぜ……そうだ、ちょっとお前ら耳貸せ」

 3人はしばらく何かを話し始めると、話がまとまったのか3人とも縁を見て悪意のこもった笑顔を縁に向けた。

「高木、その格好で校舎の周りを一周してこい」

 縁は相馬が発した言葉の内容が一瞬理解できなかった。その格好で走ってこい。つまり、女子生徒用の制服を着たこの状態で校舎の周りを一周……。

「む、ムリだよ!」

 縁は泣きそうな表情を浮かべながら抵抗した。ただでさえこの格好でいるだけでも恥ずかしいというのに、さらにこの状態で外に出るなんて冗談ではなかった。

「やらないならこの写真をクラスのグループトークにバラ撒く」

 相馬は縁に自分のスマートフォンの画面を見せた。すでに相馬が送信ボタンを押すだけで、グループトークに写真が投稿される状態になっていた。

「そ、そんな……。今の時間だと絶対人に見られちゃうよ」

「誰も歩いて一周しろとは言ってないだろぉ?」

 金田が露骨にバカにしたような態度で笑った。

「そんな、イヤだよ……」

 縁は目の端に涙を浮かべた。

 とはいったものの、嫌だよと言ったところでやめてくれる相手だとは思えなかった。しかしどちらかを選ばないと相馬は絶対に許してくれないだろう。少しでも選択を先送りしたい気持ちから無意識のうちに縁は床を見つめていた。

「高木。俺はお前が校舎の周りを一周しようが、この写真をグループトークにバラ撒こうがどっちでもいいんだ。お前がそうやって黙ってやり過ごそうって魂胆ならグループトークに写真をバラ撒くだけだ」

「……」

 縁は俯いたまま拳を強く握りしめた。相馬からの容赦ない言葉に、縁はまるで暗闇に閉じ込められているかのような感覚を覚えていた。

「おーい高木。黙ってちゃ分からないぞ?」

 金田が教師が生徒に向かって言うような口調で冷やかす。

(誰でもいいから助けに来て)

 縁は心の中でそう思わずにはいられなかった。なぜ自分がこんな目にあわなければならないのか。何か自分がしたわけじゃないのに。縁という女みたいな名前だって、親が決めただけで自分が付けたくて付けたわけじゃないのに。

「おい、高木。いつまでそうしてるんだ。写真バラ撒くぞ」

 俯いたままの縁にしびれを切らしたのか、相馬の口調には苛つきが混じっていた。

 縁は今にも泣き出しそうなのを歯を食いしばり堪えた。高熱を出して寝込んでいるときのように全く頭が働かないが、どちらを選ぶべきか必死に考えていた。もしグループトークに写真をバラ撒かれたら、確実にクラス全員には自分がこんな格好をしたことを知られてしまう。対して校舎一周は想像するだけでゾッとする事だが、顔も名前も知らない人に見られたところですぐに自分がこんな事をしていたと特定することは難しい……。

「……校舎の周り一周をやるよ」

 それを聞いた相馬は、悪魔のような邪悪な笑みを浮かべた。


 空が赤く染まり、少しずつ暗くなり始めていた。

 縁は泥棒のようにコソコソと生徒昇降口へ向かった。夕方ということもあり生徒昇降口には人影はなく、夕焼けの赤い光が生徒昇降口を照らし、郷愁的な光景を作り出していた。

 縁は自分の靴に履き替えると、すぐに全力で駆け出した。相馬達も少し離れたところからついてきていた。

 走り出してしばらくは人影が無かったが、吹奏楽部が練習しているエリアにさしかかった。練習している吹奏楽部員達の姿が視界に入った瞬間、縁は引き返したくてたまらなくなった。

 この高校の女子生徒の制服ならば、ボーイッシュな女子が走っているくらいにしか思われない可能性もある。だが、今縁が着ているのは相馬の妹の通っている中学校の制服だ。吹奏楽部員達の目を引く可能性は高い。

 縁は吹奏楽部員達が演奏に集中して気づかない事を祈りながらスピードを上げ、吹奏楽部員達の前を突っ切った。幸い、走る縁に一瞬視線を向けた吹奏楽部員は何人かいたものの、気に留めるような様子を見せることなく再び演奏を始めた。

 続いて、野球部のグラウンドの前に差し掛かった。校舎とグラウンドの間は約20メートルほど距離があり、野球部員に見つからないように縁は校舎側に寄った。だがそれが仇となった。角を曲がろうとしたところで、陰から歩いてきた野球部員と追突してしまった。体格に恵まれない縁は野球部員に突き飛ばされ、尻餅をついた。

 野球部員は尻餅をついた縁を見て、「え、男……?」と困惑した表情を浮かべた。

 縁は野球部員から視線をそらし素早く立ち上がると、野球部員から逃げるように走り出した。残された野球部員は、走り去っていく縁を不審な目で追った。

「……なんだあれ?」


 縁から少し離れたところを走る相馬達も、縁が野球部員とぶつかって尻餅をつくところを目撃していた。金田はそれを見て「アッチャー」と言いながら大げさに額に手を当て、頭を後ろに仰け反らせた。

 縁の走るスピードは遅かった。相馬達はほとんど息が上がる事なく縁と一定の距離を保ち続けることができた。

「さっきの野球部とぶつかったの笑えたな。高木が焦りまくってるのが顔見えなくても分かったぜ」

 金田はニヤニヤと意地の悪い笑顔を浮かべながら相馬を見た。しかし相馬の表情は退屈そうだった。

「お前あんなので笑えるのか。随分と笑いの沸点が低いんだな」

「……チッ、別に大した面白いと思ってねえよ」

 金田は強がるような口調で否定すると視線を前に戻した。早くも縁は疲れ始めているのか走るスピードが落ち始めていた。

「そうだ。いい事を思いついた」

 相馬は引きつったように口元を歪ませた。誰が見ても良からぬことを考えているのが分かる表情だった。


 縁は走りながら必死に動揺を押さえつけていた。縁の記憶が正しければぶつかった野球部員とは面識がない。だから顔を見られたところで、あんな格好をして走っていたのが自分だと特定される可能性は低い。だがゼロではない。野球部に所属しているクラスメイトは何人かいる。話を聞いた彼らが自分だと特定してしまうかもしれない。気がかりで仕方がないが、今は走り切る事に集中しなければならない。

 もうすぐ一周だ。気持ちを切り替え、意識的に強く地面を蹴った。体は走るのをやめるようにと息苦しさと横腹の痛みを発している。だが走り終えるのが遅くなればなるほど、誰かに見られるリスクは増えてしまう。縁は必死で走り続けた。スタート地点である生徒昇降口が見えてきた。もうすぐだ。着替える前に着ていた制服はトイレに置きっぱなしになっている。このまま生徒昇降口に入って靴を履き替えてトイレに向かおう――。縁が最短距離で生徒昇降口に向かおうとしたところで、男女二人組が出てきた。すでに下校時間からかなり経過している。人が出てくるとは縁は全く考えていなかった。自分たちに向かって突っ込んでくる縁に気づいた男女二人組は目を丸くし、「うわ!」と悲鳴を上げた。このままではぶつかってしまう。縁は右足をひねるように強く地面を蹴り、右側に方向転換をした。ギリギリ男女二人組を避けることができたが、バランスを崩し、地面に倒れ込み、しばらく転がった後壁に激突した。

「おい、大丈夫か!」

 男子生徒がうずくまっている縁のもとに駆け寄った。縁は体のあちこちの痛みを堪えつつ壁に体を預けながら立ち上がった。2人に一瞬だが顔を見られてしまった。すぐに2人の前から逃げなければ……。そう縁が思ったところで、縁と男の後を追いかけてきた女子生徒の発した言葉で縁は反射的に女子生徒の方を見てしまった。

「え、高木くん? 何その格好……」

(しまった!)

 すかさず縁は女子生徒から顔をそらした。女子生徒の顔に縁は見覚えがあった。ほとんど話したことはないが、同じクラスの吉岡だ。

 当然縁は吉岡の問に答えることなく2人の前から立ち去った。


 トイレに駆け込んですぐに着替えを済ませた縁は壁に寄りかかり、虚ろな目で佇んでいた。同じクラスの吉岡に見られてしまった。おそらく吉岡は他人に話すだろう。そうなれば、グループトークに写真をバラ撒かれるのと大差がない。

 どうして校舎一周を選んでしまったんだろう。いや、しかしグループトークに写真をバラ撒かれるのを選ぶのはそもそも論外だ。というよりそもそも。

「どうして俺がこんな目に合わなきゃならないんだよ……」

 縁の声に嗚咽が混じり、目からは涙が溢れた。その時、相馬達がトイレに入ってきた。こんなところを相馬達に見られたくない。縁は涙を拭い、鼻をすすり、泣いていたことを悟られないよう表情を作った。

「おいなんだ、もう着替えてるのか? 俺は一周し終えたらすぐ着替えていいと言った覚えはないんだがな」

 相馬は縁を睨みつけた。

「ご、ごめん」

 縁はまた暴力を振るわれるのではないかと怯えながら、相馬に向かって頭を下げた。

「まあいいや。お前がカップルを避けた時に転がりながら壁にすっ飛んでいくの面白かったしな。おい、行くぞ」

 相馬は縁が拍子抜けする程にあっさり手を引くと、トイレから出ていった。


 翌朝。縁は不安に怯えながら自分のクラスへ向かった。教室に入った瞬間談笑していたクラスメイトが縁に視線を向けたが、すぐに視線を戻し、談笑を再開した。

(よかった)

 縁は自分の席に着くと、カバンを机の横にかけた。

 縁には友達がいない。内向的で他人と話すのが得意ではない縁は学校生活においてずっと一人だった。そのおかげで困ったこともあるし、周りを見ると羨ましいと思うこともあった。だが、輪に入ろうとして拒絶されるのが怖かった。稀にそんな縁を不憫に思って話しかけてくれるクラスメイトもいたが、決まって緊張してまともに受け答えができず、彼ら彼女らは縁から離れていってしまった。

 朝のホームルームが近づくにつれて、徐々に登校してくるクラスメイト達でにぎやかになっていった。縁は誰かが教室に入ってくるたびに、目が合わないように誰が入ってきたかチェックしていた。縁の目当ては吉岡だ。もちろん吉岡が来たからといって話しかけに行くなんてとてもではないができない。だが、縁はいつ吉岡が来るか気になって仕方がなかった。

 そしてついにホームルームが始まるギリギリの時間になってようやく吉岡が教室に入ってきた。吉岡が視界に入った瞬間、縁の心臓は激しく鼓動した。息が苦しくなり、気持ちを落ち着けようとしても冷静でいられなかった。縁は目を閉じて深呼吸をしたが、それでも心臓は激しく鼓動を刻んでいた。

 吉岡の席は縁から左前の位置にある。吉岡は縁が見る限りは特に様子におかしいところはなく、近い席のクラスメイト達と一言二言を交わし、席についた。

 吉岡が席に着いてすぐに担任の三島が教室に入ってきた。いつものように短く切った髪をジェルで固め、度の強い銀縁のメガネをかけ、服装はこれまたいつものように灰色のスーツを着ていた。担当教科の国語の授業は淡々としていて面白みがなかったが、その冷たそうな雰囲気と、その見た目通りの冷たい物言いのおかげで、授業をしっかり聞いているか聞いていないかは別として、居眠りをするような生徒は全くいなかった。

 担任の三島は出席を取ると、淡々と連絡事項を話していく。そして「昨日生徒何人かから報告があったのだが……」と前置きをして話し始めた連絡事項に、縁は血の気が引いた。

「昨日の夕方、どこかの学校の女子用制服を着て敷地内を走っていた変質者がいたようだ」

 クラスメイト何人かはそれを聞いて騒ぎ出した。

「マジかよ!」

「この高校にそんな変質者が出たことあったっけ?」

 教室内がザワザワと騒がしくなる。平凡な日常に突如現れた、身の危険を感じない程度の非日常。彼ら彼女らがどこか楽しそうな表情をしているのも無理もなかった。

 だが縁は違う。目撃例があり、あの日女子用制服を着ていた姿を自分を知る者に見られている。犯人は自分だと特定されるのは時間の問題だろう。

 縁は視線を下に落とし、震え始めた。息が苦しい。吐き気がしてくる。視界にまるで黒いフィルターがかかってしまっているかのようだ。

「静かに」

 担任の三島がよく通った声を発し、徐々に教室内は静かになっていった。

 その後も担任の三島は連絡事項を話していくが、縁は全く頭に入らなかった。

 縁が荒い息を何とか整えようとしていると、ポケットのスマートフォンが震えた。三島に見つからないようにこっそりと縁は画面を確認すると、相馬からのメッセージだった。

 縁は嫌な予感しかしなかったが、恐る恐るメッセージを開いた。

『今この場で自分がやったと告白しろ。もちろん俺たちの名前は出すなよ』というメッセージと共に、送信ボタンを押すだけで、グループトークに縁が制服を着た写真を送信できる状態になったスクリーンショットが添付されていた。

 縁は「どっちも一緒じゃないか!」と内心で毒づき、恐る恐る左後ろ、相馬の席の辺りに視線を向けた。しかし相馬は縁とは一切視線を合わせようとせず、再び縁にメッセージを送ってきた。

『早くしろ』

『ホームルームが終わる前に告白しなければバラ撒く』

『お前がやらないなら俺がお前がやったって言うぞ』

『俺が言うより、自分で告白したほうが潔いと思わないか?』

『俺はお前のためを思って言ってるんだぞ』

『こういうのは後になればなるほど罪が重くなるぞ』

 相馬から連続して送られてくるメッセージで縁は追い詰められつつあった。

(なんだよこれ。俺がやったって言わなくても写真をバラ撒かれる。この場で自分がやりましたって言っても下手すれば停学。いや、そもそもそんなことをこの場で言ってしまったらもうこの学校にはいられない。どうすればいいんだ……)

 三島は連絡事項を話し終え、教室から出ていこうとしていた。タイムリミットが近づいている。

 再び相馬からメッセージが送られてきた。

『やれ』

 もはや、やるしかなかった。

「あ、あの……」

 縁は手を上げてゆっくりと立ち上がった。三島とクラスメイトの視線が縁に集中する。

「高木か。どうした?」

「あの」

 縁は拳を強く握った。意を決して「自分がやりました」と言おうとするも、どうしても言うことができなかった。

「……すっ、すみません、やっぱなんでもないです」

 どうしても「自分がやりました」という一言が出てこなかった。縁は三島と目を合わせないように座った。三島は「そうか」と短く答えると教室を出ていった。その時縁は殺気のようなものを感じたが、意識して気にしないようにした。

 その後、相馬から特にアクションは何もなかった。


 午後の授業が始まる直前、教室に三島が現れた。縁の姿を認めると、「高木、ちょっといいか」と縁を呼び出した。

「あの、午後の授業がもう始まるんですが」

 もうすぐ午後の授業が始まるというのに呼び出されるのはよほどのことだ。縁は嫌な予感を抱いた。

「分かっている。すでに5限目の難波先生には話してある。ついて来い」

 三島と縁が向かったのは職員室の隣にある面談室だった。関係者以外には聞かれたくない話をするために設置されている。

「私は職員室に取りに行くものがあるから、座って待っていなさい」

 縁は三島に言われたとおりに面談室の中央に置かれた席に腰を下ろしたが、心が落ち着かず、面談室の中を見渡した。面談室の一面には壁に接するように長机が置かれ、その上に教科書などがブックエンドを使って立て掛けてある。それ以外には部屋の中央に置かれた椅子と机以外何もない、殺風景な部屋だ。

 今まで縁は面談室に入ったことはないが、どのような時に使われるかは知っていた。問題を起こした生徒に聞き取りを行う時だ。

 つまり、女子生徒用の制服を着て校舎の敷地内を走っていた犯人が、縁だと特定されてしまったため呼び出された可能性が極めて高い。

 縁は不安から無意識のうちに体を縮こめていた。心臓の音がうるさい。手に滲んだ汗をズボンでぬぐった。

「待たせたな」

 三島がクリアファイルを持って面談室に戻ってきた。

 縁と向かい合う形で三島も席に着いた。縁は判決を言い渡される前の被告人の気分だった。

 三島はクリアファイルからカラー印刷された写真を取り出し、縁の前に置いた。それを見た縁は目を丸くして硬直した。

 三島の取り出した写真には、縁が女子生徒用の制服を着て走っている後ろ姿が写っていた。

「私は信じたくないのだが、これは高木、お前か?」

 三島は射るような視線で縁をじっと見つめた。

「そ、それは……」

 縁は押し黙った。紛れもなく写っているのは自分なのだが、「はい、それは自分です」と即答などできるはずがなかった。

「これは誘導尋問ではない。違うなら違うと言ってくれ。……だが嘘だけはつかないでくれ」

「……はい」

 縁は小さい声で頷いた。写真に写っているのは確かに自分だ。だが認めたら最後、何かしらの処分が下る。間違いなく両親に連絡が行くだろう。そうなった場合は間違いなく「どうしてこんなことをしたんだ」と問い詰められることになる。

 両親には迷惑はかけたくない。だからといって「これは自分ではない」と嘘をつくわけにも行かない。もし自分が嘘をついたことがバレてしまった場合は罪が重くなる。そして確か三島に呼び出されたときに相馬は教室にいた。ただでさえ今は相馬の言いつけを破ってしまっている。ここで自分ではないと嘘をついた場合、相馬に密告されてしまう可能性がある。

 縁の頭の中に1つの疑問が湧いてきた。

「あの、先生、この写真ってどうしたものなんですか?」

「これは相馬がたまたま現場に居合わせたからと提供してもらったものだ。相馬は高木に似ている気がすると言っていて、言われてみれば確かに高木に似ている。それでこうやって呼び出したわけだ」

 やはり犯人は相馬だった。縁は吐き気を堪えながら、「あの先生……もしもの話ですが、これは俺ですって言った場合はどうなりますか? やっぱり停学ですか? その場合は親に連絡が行くんでしょうか?」

 表情と質問内容から、もしかしたら三島に犯人はやはり自分かという確信を抱かせてしまったかもしれない。しかし不安から縁は聞かずにはいられなかった。

 三島は少し考えているような様子を見せたあと、

「即停学ということはないだろうな。まずお前はこの高校の生徒だ。実はお前の性自認は女性で、女子用制服を着たかった、ということであればそもそも罰することはできない。仮にそうではなかったとしても、正直悪ふざけの範疇だろう。まあ、その場合は反省文を書いてもらう必要はおそらくあるだろうが、この程度でお前の両親を呼び出したりはしない」

 そう言い終えると、三島は縁を観察するような目で見つめた。三島の表情からは縁が犯人だと確信しているのかをうかがい知ることはできなかった。

「そう、なんですね」

 縁は無言の空気に耐えきれず、場をつなぐように言葉を発した。

「処分がどうなるかは話した。だから仮にお前が犯人だったとしたら、話しやすくなったんじゃないか?」

「それは……」

 三島は「停学にはならない」と言っていた。反省文は書かなければならないが、それでも停学よりは遥かにマシだ。だが縁にはもう一つ懸念点があった。

「あの、もし犯人が分かったら、犯人は誰だったのかって全校生徒に知らせるんですか?」

「それはない」

 三島は即答した。

 処分はされず、犯人は誰だったと生徒に知らされることはない。ならばこの場で犯人だと認めたほうが良さそうだ。縁はそう判断した。

「先生……写真に写ってるのは、俺です」

「そうか」

 三島はため息まじりに短く答えた。

「なぜこんなことをしたんだ?」

「……先生も知っての通り、俺は大人しい性格です。そんな性格だから色々溜め込んじゃうんです。それが積もり積もって、という感じです」

 縁は自嘲気味な表情で答えた。

 当然この動機は嘘だ。だが大人しい性格だから色々と溜め込んでしまうというのは本当のことだった。

「そうか、分かった。授業に戻っていい」

 三島は写真をクリアファイルにしまい、立ち上がった。

「はい」

 縁も立ち上がると、面談室を後にした。

 

 その日の夜。縁はバイトを終えて帰宅するところだった。その日もクラスメイトの西川とシフトが被っていたため、いつものように他愛のない話をしながら歩いていた。その日は珍しく相馬からの呼び出しも無かった。そして悩みの種だった、『女子生徒用の制服を着て校舎一周』の件も一旦は解決した。これからも相馬に嫌な目にあわされるのだろうが、縁は一旦は平穏を手にしていた。

「それにしてもさ、こんな田舎にも変質者って出るんだね。ああいうのって都会の話だと思ってたわー」

 ボーッとしながら西川の話を聞いていた縁は、西川がその話題を降ったことにより意識を現実に引き戻された。

「あっ、うん、そう……だね」

 縁は歯切れ悪く笑顔を浮かべた。

「だよね~。犯人ってどんな奴なんだろうね? やっぱキモいおっさんなのかな。多分、まともに女に相手にされなくて頭おかしくなっちゃったんだよ。想像してたら寒気してきた……。そんな奴、生きてる価値ないよね。さっさと捕まえて死刑にしちゃえばいいのに」

 縁は西川がこのような残酷な発言を平気でするのがあまり好きではなかった。だが、「そういう事言うのやめたほうがいいよ」と注意する勇気はなかった。縁にできるのは曖昧な笑みを浮かべて、西川が違う話題を振るまで我慢することだけだった。


 次の日、縁が教室に入ると教室内の空気がおかしいことに気がついた。クラスメイト達が自分をチラチラと目を合わせないように見てくるのだ。そして何かを話している。内容は聞き取れなかったが、声のトーンからいい話をしているわけではないことだけは分かった。

 縁は不安に駆られた。思わず自分の腕や足を調べたが、どこか汚れているわけでもないし、破れているわけでもなかった。

 縁は教室を出てトイレに向かった。鏡の前に立ち全身をくまなく調べたたが、特におかしなところは見つからなかった。

 縁が教室に戻ろうとしたところで、廊下の途中にある掲示板の前に人が集まっていることに気づいた。普段掲示されているのは地域の催し物や標語くらいで、何人もが立ち止まって見るようなものが掲示されていることはまずない。縁も気になり、掲示板の前に立ち止まって掲示物を確認した瞬間、縁は「ウソだろ……」と声を漏らしていた。

 そこには三島に面談室で見せられた女子生徒用の制服を着た自分の後ろ姿の写真と、これまた同じように女子生徒用の制服を着て生徒用昇降口に向かって走っている自分を正面から写した写真の2枚が貼られていた。

 縁は気が遠くなりそうだった。その時、縁の前に立っていた生徒が縁の気配に気付き、縁の方を振り向いた。その生徒は縁には見覚えの無い顔だったが、縁の顔を見た瞬間その顔にはみるみるうちに困惑が広がっていった。掲示板に貼られている写真と縁の顔を見比べると、「え、もしかして」と縁に向かって話しかけてきた。

 縁は素早く掲示板の前から立ち去ると、何かを決断したかのような表情を浮かべながら自分の教室へ走って向かった。勢いよく引き戸を開けて縁は自分のクラスの教室へ入った。教室内に大きな音が響き渡り、自然と教室内にいるクラスメイト達の視線が縁へ集まる。縁は自分に集中する視線を意に介さず、相馬の席に向かって歩いていった。相馬はいつものように自分の席の周りに女子数人を侍らせ、談笑をしていた。

「そ、相馬……くん」

 縁は喉から必死に声を絞り出し、相馬に話しかけた。相馬が侍らせていた女子数人が冷たい目で縁を見た。そして縁の姿を認めた相馬は一瞬冷めたような表情を見せたが、すぐにその表情は微笑に変わった。

「やあ、高木くん。珍しいね。何か俺に用?」

 相馬は縁をいじめているときに見せる本性ではなく、クラスメイトや教師相手に見せる猫を被った『好青年』といった態度で縁に接した。その白々しさに縁の怒りは爆発しそうになったが、すんでのところで耐えた。

「……あの、写真のことなんだけど」

 縁は拳を震えるほど強く握りしめながら言った。

「写真?」

 相馬は「本当に何のことか分からない」という反応を見せた。縁も一瞬だけ本当に知らないのではないかと思ってしまった程だった。しかしそんなはずはないという確信が縁にはあった。

「とっ、とぼけないでよ! あの写真貼ったの相馬くんでしょ!」

 縁は声を張り上げた。教室内が時が止まったかのように静かになった。

「高木くん、申し訳ないんだけど、本当に君の言ってることが分からないんだ」

 相馬は微笑を浮かべながらも、どこか困ったような表情を見せた。しかしこの内心ではほくそ笑んでいると思うと、縁は今すぐにでも相馬に飛びかかって殴りたいという思いを抱かずにはいられなかった。

「こっ、これ見ても同じこと言える?」

 縁はポケットからスマートフォンを取り出すとメッセージングアプリを開き、相馬とのやり取りを相馬に突きつけた。縁は勝利を確信した。

 相馬が侍らせていた女子達も縁の画面を覗き込んだ。すると女子の1人が鼻で笑った。

「これ相馬くんじゃないでしょ。高木さぁ、いくら自分が女子に好かれてないからってそれはちょっとないと思う」

「えっ、そんなはずは……」

 縁はディスプレイに映し出されている画面を確認した。しかし画面には相馬とのやり取りが表示されていた。

「確かに、それは俺じゃないね」

 相馬もメッセージングアプリを開くと、縁に画面を見せた。

「えっ、なんで?」

 相馬のスマートフォンの画面に表示されているプロフィール画像は、笑顔の相馬だった。縁が普段相馬とやり取りをするときに相馬が使用しているアカウントのプロフィール画像は、デフォルト画像のままだ。このアプリには相手に応じてプロフィール画像を変更する機能はない。

 縁は相馬のスマートフォンの画面を見つめながら必死で頭を働かせた。何かがおかしい。そして、とある事に気がついた。

 相馬が使っているスマートフォンが、普段縁の前で使っている機種と違っていた。

「そっ、相馬くん、もう1台携帯持ってるでしょ?」

 縁は内心鬼の首を取ったような気分だった。

 それを聞いた相馬は表情は相変わらず爽やかだが、小馬鹿にしたように笑った。

「もう1台? なんでもう1台も携帯を持つ必要があるんだ? そもそも、俺がこれ以外持っているところ見たことあるかい?」

 相馬は手に持ったスマートフォンを自分の目の高さで掲げると、侍らせている女子達に問いかけた。

「うーん、な〜い!」

 相馬の横にいた派手な雰囲気をした女子が元気よく答えた。それに続いて他の女子たちも無いと答えた。

「ほら、彼女達も無いって言ってるけど?」

 相馬は腕を組み、自信満々な表情で笑った。

 縁はたじろぎながらも、

「……カバンにもう1台入ってるんじゃないの?」

 この場から立ち去りたい気持ちを必死で堪えながら言った。

「ふ〜ん」

 相馬の雰囲気が少し変わったことに縁は気づいた。相変わらず好青年、といった雰囲気をしているが、縁を痛めつけているときの相馬から放たれる、悪意のようなものを縁は感じた。

「別にカバンの中見せてもいいけどさ。もし無かったら……どうする? これってさ、立派な名誉毀損だよね?」

 相変わらず相馬は微笑を浮かべていたが、声にはどことなく刺々しさが感じられた。

「えっと、それは」

 縁は返答に困り、相馬から目をそらした。縁の額に汗がにじむ。

「それは、じゃないよね? どうするの? カバンの中身見るの? 見ないの? 俺は別にどっちだっていいんだけどさ。俺は後ろめたいことなんて何もしてないしね。まあ、もし無かったら出るところへ出させてもらうけどね」

 相馬は冗談めかした態度で縁の目を見つめた。睨みつけられたわけではないのに、縁は相馬に睨まれたかのような恐怖心を抱いた。

「わあ、怖い。相馬くんのお父さん、市議会議員だからタダじゃ済まないかもね」

「おい高木ぃ、この町にいられなくなっちゃうぞ。アハハ!」

 相馬が侍らせている女子の一人がバカにしたように言い、それにつられて周りの女子達も笑い始めた。

 縁は普段相馬が2台スマートフォンを持っていることを知っていた。だがここまで自信満々な態度を取っているということは、おそらく今日は持ってきていないのだろう。屈辱だった。相馬の鼻をあかすどころか返り討ちにされ、この場を収めるには相馬に頭を下げるしか無さそうだった。

「相馬くん、ごめん。疑った僕が悪かったよ」

 縁はこれ以上相馬と戦うことを諦め、相馬に向かって頭を下げた。相馬は頭を下げて敗北宣言をする縁を、口の端を歪めながら満足げな表情で縁を見ていた。


 その日、縁は周りの生徒達からの侮蔑の込められた視線を感じつつも放課後を迎えた。

 そして放課後。縁のスマートフォンに相馬から「いつもの場所に来い」というメッセージが届いた。


 いつものように縁が人気のない区画にあるトイレに入ると、相馬がこれみよがしにもう1台のスマートフォンを手に持って立っていた。

「や、やっぱりもう1台も持ってきてたんだね……」

 縁は苦々しく言った。

「まあな」

 相馬は当たり前だろう。と言わんばかりの態度で短く答えた。

「もし、僕がカバンの中を見たらどうするつもりだったの?」

「は? お前にそんな度胸無いだろ。お前は絶対見ない」

 相馬は首を傾げ、嘲るように笑った。

「もしも、の話だよ」

 縁は怯えながらも自分を奮い立たせながら問い詰めた。

「絶対ありえねえよ。だがまあ、もし大事になったとしても、親父に握りつぶしてもらうまでだな」

「そ、そんなことできっこ」

「いやできる」

 縁が言い終わる前に相馬は断言した。

「お前が思ってる以上に田舎は何でもありなんだよ。親が地元の有力者なら多少の犯罪を塗りつぶすくらい朝飯前なんだよ」

「そ、そんな……」

 相馬の信じられないような発言に縁はめまいを感じていた。相馬の物言いからして、おそらく過去に何度も父親の権力によって犯罪を握りつぶしたことがあるのだろう。

「どっ、どうしてそんな事が平気でできるの?」

「はあ? 当たり前だろ? 他人がやったら逮捕されてしまうことも、俺がやっても逮捕されないんだ。そんな特権を持ってるのに有効活用しないなんてありえないだろ?」

 相馬はそれが当然のことであるかのように、乾いた笑みを浮かべた。

「というかさ、お前よくまだ学校に来られるな。すぐに登校拒否になってしまうと思ってたのにまだ当たり前のように来てるの信じられないんだけど。正直、お前にはもう飽きた」

「えっ、それってどういうこと?」

「お前の高校生活は終わり。っていうことだよ」

 そう言い放つと相馬はトイレから出ていった。


 次の日。登校した縁は自分の席の惨状を見て愕然とした。縁の席には目を背けたくなるような落書きが大量にされており、机の中にしまっていた教科書は破り捨てられ、席の周りに散らばっていた。

「ひ、ひどい……」

 縁の口から自然と言葉が漏れていた。

 縁は床にかがみ込むと、机の周りに散らばった教科書を拾い集め始めた。いつの間にか縁の目からは涙が溢れ、口からは嗚咽が漏れていた。

 ふと、周りからの視線に気付き、縁は視線を上げた。クラスメイト達は汚いものを見るような目つきで縁を見ていた。その目つきは人間を見ているものとは到底思えなかった。

 彼らの中に自分に味方をしてくれる人は1人もいない。今の縁にとっては、教室の中にいるクラスメイト達は人間ではなく、人間の姿をしているものの、意思の疎通が成り立たない全く別の生物のようだった。

 その時教室に西川が入ってきた。縁は助けを求めるように西川を見つめた。

 しかし西川は縁を一瞥し、「うわ」と一言呟いただけで、立ち止まることなく自分の席へ歩いていった。

 縁はもうこの教室にいることが耐えられなかった。糸が何本か切れた操り人形のように頼りなく立ち上がると、そのまま教室を後にした。

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