第10話 図書館

 図書館に入ると二階、三階と中心が吹き抜けになっている開放的な空間が目に入った。壁もほとんどがガラス張りなので、その開放感の感覚は尚のことで、実に近代的な造りの図書館である。

 俺は入ってすぐの改札に図書館の利用カードをかざして中に入る。

 改札を抜けると司書さんが二、三人常駐している受付があり、そしてその受付に知り合いの顔をすぐに見つける。

 

「また学校をサボってきたんか?」

 

 大阪訛りの抑揚で話しかけてきたのは柳葉栞(やなぎば しおり)さん。平日に図書館に来る俺に興味を持ったのか、ちょくちょく話しかけてはちょっかいをかけてくる人で、どうにも俺を丁度いいおもちゃか何かと思っている節がある。

 関西弁で時々きつい口調になる事もあるが、見た目はゆるふわの綺麗なブラウンのミディアムヘアで身体も俺より年上とは思えないほどに小柄で身長は一五〇あるかないか。

 服装は見た目の通り柔らかい色合いの服を好んで着ており、今日も薄いピンクのブラウスに白のロングスカート。というか、司書は私服で大丈夫なんだな。

 ちなみに歳は二十四。

 

「こんにちは。今日も学校をサボってきました」


 栞さんは俺の言葉に肩を竦めて呆れた顔で俺を見る。

 

「そんな、堂々と言うもんちゃうで、葵くん。少しは言い訳ぐらい言いや」

「だって、栞さんに言っても意味ないでしょ? 知ってるんだから」

「そりゃあ、そうやけど。でも、ここ最近は全然、顔見せへんから死んだんかと心配したんよ」

「死んだら今の俺は幽霊ですか。祟りますよ」

 

 栞さんは微笑を浮かべて、「そうかー。葵くん、死んだんかー」と俺の冗談に乗っかってくれた。

 そうして久しぶりの栞さんと少しだけ話し込んで数分、ようやく図書館を周ることにした。

 俺の隣には栞さんがいた。久しぶりだからおすすめの本を紹介する、ということらしい。司書の業務は良いのだろうか? そんなことを疑問に思いながらも、俺は栞さんのその提案を有り難く受けることにした。俺の読んでいる本の大半は彼女から勧められたものだ。本屋に行かずに図書館に来るのは懐事情もあるにはあるが、最たる理由は栞さんからのおすすめの本を聞くことにある。

 俺たちは受付から離れると二階の文芸書のコーナーに向かった。

 エスカレーターで二階に上がり、オレンジ色の蛍光に照らされた本棚の列を目の当たりにする。いつ見てもこの景色は壮観で、棚に本が詰められているだけなのにどうしてこんなにもワクワクするのだろうか。

 俺は栞さんのあとをついていき、そして立ち止まった本棚から彼女が一冊の本を抜き出していく。

 栞さんが手にした本は『ジョゼと虎と魚たち』という小説だった。文庫本ではなく単行本で、淡いタッチで描かれた女性の絵が表紙を支配していた。

 確か昔、実写映画を観た記憶がある。あと、最近はアニメの方でも映画をしていて、観に行った。観た感想はどちらもそれぞれの良さがあったという感じだ。実写は胸の苦しみをこれでもかと表現して、足の不自由さから生まれる諸問題の描写を痛々しく演出していた。つまり辛く苦しい恋愛映画として確立していたのだ。対してアニメの方は実写よりもその点はマイルドに表現されていたが、そういったアニメ特有の記号的な演出とリアリティの演出が丁度いい塩梅で表現されており、ラブストーリーとしても上手くまとめられていた。好みで言ったらアニメの方が好きではあるかな。胸に鋭く突き刺さるのは実写の方ではあるが、あれはもう一度、観ようとは思えないんだよなあ、辛くて。後はやっぱりハッピーエンドは最高だってことかな。

 けれど、小説は読んでいなかった。著者は田辺聖子だったと思うが……。田辺聖子って言うと、源氏物語ぐらいしか思い浮かばないな。

 

「これ読んでみなよ。結構、胸に来るで。あと登場人物の話し方が大阪訛りなんがええんよ」

「ジョゼ……。このジョゼっていうのはヒロインの名前でしたっけ。確か、なんかの小説のキャラクターで……」

「サガン! フランソワーズ・サガンの『一年ののち』や。それも名作なんよ……」

 

 栞さんは大事そうに『ジョゼと虎と魚たち』の本を抱きしめていた。俺はその姿が大好きだった。本を愛している、物語を愛してやまない栞さんが大好きだった。

 

「それじゃあ、読もうかな。ジョゼもサガンの『一年ののち』も」

 

 俺がそう言うと栞さんは嬉しそうに笑って「それじゃあ、サガンの方も持ってくるわ」と告げて本棚の迷路へと消えていった。

 俺は彼女から手渡された『ジョゼと虎と魚たち』の本をパラパラとめくって、何となく中を確認する。どうやらこの本は幾つかの短い小説で構成された短編集らしい。ジョゼもその中の一つで、最後の方に挿入された短編だった。

 めくった先が丁度、ジョゼと主人公の恒夫が動物園で虎を見る場面で、俺はそのシーンを何とはなしに読んでみる。そして次の台詞に行き着いた――。

 

「〈一ばん怖いものを見たかったんや。好きな男の人が出来たときに〉か……」


 俺にとって一番怖いものとは何だろうか。そんなもの考えたことも無かった。

 怖いものなんてあるのか。たぶん、あるだろう。怖いものがない人間なんていないはずだ。ただ思い付かないのは、そういうのを考えずに生きようと、後ろなんか振り向かずに進んでいるからだろう。けれど、本当に後ろを向かないことは正しいことなのだろうか?

 後ろから迫ってくる危険は往々にしてあるのだから……、怖いものを知ることは重要なはずだ。

 でも、当の俺が思い浮かばないのだから仕方ない。ほんと、俺って毎日何を考えて生きてんのかなあ……。

 そんなことに頭を支配されていると、本を探しに行っていた栞さんが帰ってきた。手にはサガンの『一年ののち』がある。


「ほれ、持ってきたで」

「ありがとうございます」


 俺は彼女から本を受け取る。それは確かにサガンの『一年ののち』だった。そして俺に本を渡すと栞さんは、


「それじゃあ、次や」


 と言って、先を促した。どうやら今日はジョゼだけではないらしい。


「だって、何週間もけえへんかったやん。その分の本を今日は借りて帰ってもらうから、覚悟せえよ」


 ということらしい。これからはちょくちょく顔を見せないといけないな……。

 

「そうですか……。大荷物になるとさすがに持って帰れないですよ」

「ええ! そんなのダメや! 無理矢理、持ち帰ってよ!」


 栞さんは見た目通りに子供っぽく駄々をこねる。本当にこの人、俺より年上なのかな。


「分かりましたよ。早く終わらせましょう」


 俺は駄々をこねる彼女の姿にため息を吐いて先を急がせた。さすがに長い時間、栞さんを俺に付き合わせるのは悪い、特に図書館の皆さんに。というか俺が付き合わせているのではなくて、栞さんが俺を引っ張っているのだけど。それでも彼女にも仕事はあるはずだ。だから……。


「いや、なんで俺が栞さんの仕事の心配しないといけないんだよ!」


 そんな独り言ちも彼女には聞こえていないらしく、栞さんは「さあ、行くで、葵くん!」と進んでいた。

 どうやらもう少し彼女との時間が続きそうだ。

 肩を竦めて、俺は栞さんの背中を追った。

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