第8話 モヤモヤにQ

 西条が女子と話している光景を見て、何故だかすぐにその場を立ち去ってしまった。

 熱い感情が脳内を支配して、何も考えられない……、はずなのに胸のあたりはどうしてか、だんだんと冷めていく感覚で、どこかで諦めてしまっている自分を見つけてしまう。

 西条が私以外の人と、それも女子と話していた。

 そう言うこともあるだろう。西条にも彼の日常があって、私と一緒にいる時間だけが西条の全てではない。そんなのは当たり前だ。けれど、そんな当たり前をずっと避けながら西条と接して、いざそれを目の当たりすると落ち込んでいる自分がいる。

 西条には自分以外にも話す人がいるんだ、と嫉妬よりも諦念に近い悲しみが私の胸を埋め尽くす。

 当然じゃないか。彼にも彼の世界があって、私にも私の世界がある。

 それが偶然、あの踊り場で二人の世界が重なっただけで、それ以外の普段の日常では彼と私の世界は交じり合わない。それが普通なんだ。

 

 でも、どうして――。


 私は西条から逃げるように、自分の、この感情から逃げるように、夢中で廊下を走って、そして気づけばいつも西条と会っているあの踊り場に来ていた。

 踊り場には誰もいない。


 ――私だけしかいない。


 胸が締め付けられるほどに苦しくて、でもだからって私はどうしたいのだろう。

 この悲しみは何なのだろう。

 意識では西条が知らない女子と話している事実に折り合いをつけているはずなのに、感情がそれを許してくれない。目尻がぴくぴくと動いて涙が零れそうになるのを力づくで堰き止めようと唇を噛んで我慢する。けれど、それでも涙は無慈悲に瞳から抜け出そうとして、私の我慢なんか素知らぬふりで頬に涙が一つの線を引くように落ちた。

 私はそこまで西条に固執していたのだろうか。

 そんなにも独りでいることに耐えられなかったのだろうか。

 そんなに私という人間は弱かったのだろうか……。

 西条と会ってから私は人としての強度が弱くなっていると思う。いつからか独りの寂しさに耐えられていない時を自覚するようになっていた。おそらくそれは西条と会っている時間が楽しくて、それに比べて独りでいる時間に魅力を感じなくなってきていたのだろう。いや、そもそも独りの時間に元から魅力は感じていない。西条との時間が魅力的過ぎるから今まで普通だった日常が色褪せて感じてしまうのだ。

 ああ、ダメだ。これはダメだ。

 一本の線とした落ちた涙を契機に泣くのが我慢できなくなっている。涙が止まらない。

 独りの踊り場。西条のいない踊り場。

 独りで大丈夫だった自分。

 泣くことなんかほとんどなかった自分。

 西条と出会う前の自分。

 もう、そんな自分は思い出せない。


「どうしたいのかな、私は」


 この悲しい気持ちは否定できない。でも、だからと言って私はどうしたいのだろう。

 彼を独占したいのか。

 私だけを見てほしいのか。


「………」


 何と言うかとても重い女じゃないか。そういう人間にはならないと思っていた自分なのに、ああ、今ならそう言う女の気持ちが理解できてしまうから怖くなる。


「ほんと、どうしちゃったんだろう」


 屋上の扉から肌寒い隙間風が私の足元に吹き付ける。今日はタイツを穿いてきたので地肌よりは幾分かマシだが、それでもやや寒い。やっぱり冬に穿いている厚い生地のタイツの方を穿いてくればよかったかな、と今になって後悔。


「寒いよね」


 なんて独り言。たぶん、理由が欲しかったんだ。


 ――この場から離れる理由を。


 私は寒さを理由にこの場から立ち去る。そしてそのまま授業を受ける気力もないので、教室に戻ると机に置いていた鞄を引っ掴んで早々に昇降口に向かった。

 教室に出る時は近くの人たちにチラッと視線を向けられたが、けれど反応はそれだけで、それ以上の――、声を掛けるとか、こそこそと私を遠目に話すとかもなかった。結局、私という存在はその程度ということなのだろう。

 実に呆気なく、何の障害にも躓かずに私は校舎を出ることが出来た。

 トボトボと帰路につく私。家に帰れば母がいる。母にはどんな言い訳で誤魔化そうか。

 学校をサボった言い訳を考えながら、ふと並木道の木々に視線を移した。

 痩せ細った木々は春なのにまだまだ桜を咲かすこともなく、蕾のまま私から目を逸らしている。

 誰もが私に興味がなく、求めることも、欲することもない。

 自分の存在自体を疑いたくなるほどに私は誰の目にも映っていないように見えた。

 自分で選んだ孤独なのに……。

 それが悲しくて、惨めで、恥ずかしい。

 楽なはずなのに、なんでこんな気持ちになってしまうのだろう。

 誰かに求められたい!

 私を見てほしい!

 ああ、私も他の人たちと何も変わらない。変わらないどころか馬鹿にしていた人たちよりも生き方が下手くそで、私の方が馬鹿だ。

 面倒くさい。

 何故、感情は制御できない。

 なんで私は悩んでいる。


「だから、私はどうしたいんだよ!」


 答えは当然返ってくることもなく、私の叫びはただ空気に消えていく。

 鬱々とした気分のまま、その日は家に帰って、一日中部屋のベッドで寝転がっていた。

 昔、買った恋愛小説や少女漫画を棚から抜き取って読んでみたりして時間を潰していく。

 無意味で無価値な時間の消費。

 そうして毎日が過ぎていくのだろうと、私は苦笑しながら、そんな毎日を今日も過ごす。

 

 今までの自分が過ごしてきた毎日を取り戻そうと――、無意味な自分を形成する。

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