「嫌なら逃げたっていいんだ」



彼女が遠ざかっていく気配を感じながら、その場に座った。スーツで海なんて、どうかしている。


波の音を聞きながら、彼女の揺れる髪を思い出す。随分大人びた子だったな。

波が近づいては、離れていく。潮の匂いが鼻腔に満ち、耳は波の音で塞がれる。

遠くから聞こえる波の余韻、現実から離れていくようで。



 ——溺死もありっちゃありなのか?

でも、苦しいって聞くし、何よりこの青緑色の水が体内に入るのを考えると。でも、海の一部になれるのなら、本当に、なれるのなら、それも……。



「貴方、死のうとしているんですか?」


「うわっ!?」


 すっ、と耳元に顔を近づけられ、囁かれた。突然のことに驚くと、彼女が俺の後ろに立っていた。てっきり俺とはもう話したくないと思っていたのに。


「……ああ、まあ、今日中くらいには」


「……海はおすすめしませんよ」


 遠くの白い船でも見ているのだろうかと思ったが、彼女の視線は海の先へ向けられているように思えた。しっとりとした声は俺を心配などせず、ただ本当におすすめはしない、と言っているようで。


「何か理由でもあるの?」


「海は、怖いから。昼間に溺れるのならまだいいけど、夜は絶対おすすめしません。もっと怖いから」


「夜のほうが気持ち的に死にやすい気がするんだけど」


「駄目。怖いから。本当に」


 彼女はふるふると首を横に振った。何度も怖いと口にするのを聞いていると、海は怖いと刷り込まれていくようだった。



 彼女は「怖い」と言っているが、しかしその表情に恐怖の色はなく、憂いを心の底にためて諦めてしまったような、色でいうのなら灰色の顔をしていた。



「近くに街灯がないから、明かりが全くないんです。どこからが海なのかもよくわからない。真っ暗。特に曇りで星も月も見えない夜なんかは、ぞっとしますよ。深い闇の底みたい。暗闇に目が慣れてもずっと深い底なんです。本当に真っ暗だよ。波の音が私を呼んでるみたいに聞こえるし、あの中で沈んだら、ねっとり体に絡みついて底に、深くて暗い底に、引きずり込まれて、きっともう戻ってこれない」



 彼女は視線をだんだん下げていき、俯いた。その苦しそうに歪める表情を髪で隠す。


「……死のうとしたんだね」


 彼女は俯いた。肯定も否定もしなかった。


「怖いと思うことは自分を守ることだと、その時強く思いました。痛い、と思えばそれを回避するにはどうしたらいいか、考えるでしょう?それか、痛いからもうこれはしない、とか。痛みがなかったら、みんなとっくに自殺していると思わないですか?大人おとなさん」


 「おとなさん」と俺のことを呼ぶ時に彼女はふふっと肩を竦めて可愛らしく笑った。悪戯っぽさのあるその表情に初めて学生らしさを感じた。



「大人さんは、どうして死ぬんですか?」


「この世界がくそだから」


「そう、ですか。くそみたいな世界でくそみたいな死に方を、するんですね」


「女子がくそなんか言うもんじゃありません」


 と、軽く小突くとまた小さく笑った。笑ってくれると、何だか少し安心してしまう。


「自殺なんて、溺死だろうが首吊りだろうが全部、くそみたいな死に方ですよ。自分を自分で殺すことは、これ以上ない、痛みだよ」


 彼女の横顔は、もう笑っていなかった。

海をまっすぐ見つめ、やっぱり遠い目をしながら長い睫毛をはためかせる。泣いているのかと、思ってしまった。



「だから私は絶対に自分では死んでやらないんです。どんなに辛くたって、絶対に」


「じゃあ、さっきのは?どうして海になんか」



「あれは、嫌なことを殺しているだけです。嫌なことがあって死にたいと思った私を、ああやって殺してリセットしているだけ。一度死んだら何だってできる気がするってあれ、多分、本当ですよ。大人さんもやってみませんか?」



 ぽんっと俺の背中を叩いて、彼女は立ち上がった。スカートを絞りながら「ポイントはね」とやけに明るい声で続ける。



「服を着たまま、海に入るんです。そしたら、自分を一度殺した証拠が残るでしょう?濡れた服が、証拠」


「学生さんが、凄いこと考えるなあ」


「……ふふっ、凄いですか?」



 彼女から落ちていった海水が砂浜の色を変えていく。


 白い脚から滴る水は、彼女の涙のように思えた。



「じゃあ俺は一度、俺を殺してみるよ。でももしそれでも、やっぱりちゃんと死にたい気持ちが消えなかったら?」


「そしたらしょうがないから私が殺してあげる。自殺より幾分かマシでしょう」


「……ははっ」


 思わず笑ってしまった。


胸が苦しくなって、手の甲で鼻のあたりを触りながら、恥ずかしさのような苦しさのような、感情がい交ぜになって上がってきて、笑っているのに、なんだか泣きそうになってしまう。




「君はとても頑張っているんだね。自分を何度も殺すのは、限界なんてとうに超えているんだろう」




 俺は革靴と靴下を脱ぎながら、潮の匂いを感じながら、独り言のように彼女に伝えた。




「嫌なら逃げたっていいんだ」



 視線が交じり合う。


——彼女は静かに、やっと、涙を流した。



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