古き忘却の空

澄岡京樹

月光・霧夜・電波塔

古き忘却の空


 ——見えぬ。見えぬのだ。

 ……ここからでは、空が見えぬ。


 伸ばした手は崩れ去り、砂粒の如き細切れとなっていく。——もはや武具は持てぬ。だというのに、そんな中でも尚、私は空に焦がれていた。


 ◆


 闇に生き、闇夜で殺し、幾百年。

 幾つもの断末魔を聞いた。幾つもの事切れを見た。その血を啜った。——それでも、それでも私の焦がれが薄まることなど一度としてなかった。


 わからなかった、それがどうしてなのか。わからなかった、その燻りの治め方が。わからなかった、他ならぬ、私の願いが。


 そんな形定かならぬ渇望を胸に抱きながら、殺戮を続けること幾百年。私はついに、我が永刻の終焉と相見えた。


 満月の晩だった。街の光に霞んでいても尚、その月明かりは眩いものだった。その真下に聳える電波塔、その足元より声がした。


「……この国にも、存在したか、吸血鬼」


 我が永刻の終焉は、男の姿をしていた。この国に西洋の服装が普及してもう随分と経つが、その男は着流を羽織り、足袋と雪駄を履いていた。……むしろその男が、現世うつしよから浮いて見えた。もっとも、私も似た格好をしているため、人のことなぞ言えない立場なのだが。


「……吸血鬼とは……私のことか……?」

 私の言葉に、男は「そうだ」と答えた。


 ——吸血鬼。人を襲い、そして生き血を啜る闇の者。確かに私はそれであった。生まれ落ちた国でそのように呼ばれたことが確かにあった。そしてそこから逃げてきた。その際、この国に渡った吸血鬼は、果たして私だけだったのか。それは定かではない。だが男の言ではそうなのかもしれない。私は独りゆえに、多くは知らなかった。


「私は……かつて世を騒がせた。夜と闇と霧の中、私は多くの血を浴びた。始めから吸血鬼だったわけではない。……だが、いつの頃か、私は闇でしか過ごせぬ身となっていた」


 久方ぶりの会話、加えて相手が吸血鬼を知る者だったがゆえに、私は珍しく饒舌であった。どこか予感があったのだ。この男ならば、我が渇望を満たし得るのではないか——と。


「そうか。だが後天的でも吸血鬼吸血鬼。——悪いがここで、斬り捨てる」


 そう言って男は、光刃ビームの刀を腰から抜いた。

 構えた光刃刀からは、常にチリチリと電光が揺らめき、それは電波塔の彩りのようでもあり、同時に——


「月のようだ。空に浮かぶ、あの大きな光穴のようだ」


 霧に紛れる生活の中、いつしか見なくなっていた月夜の空を、かつての私は好いていた。それを思い出すきっかけとなったのが、私を斬り裂こうとする光刃の煌めきなのは、我が所業への皮肉なのであろうか。


 私は、どこか憧憬にも似た感情で男の刀を見据え——


「——それになら、斬られても良い」

「——であるなら、これにて御免」


 刹那の間。白熱なる光刃が我が身を斬り裂く。——ああそうだ。斬り——切り裂く。そのような呼ばれ方も、あったのだった。


「——空に焦がれし吸血鬼。お前の名は、何という」

 何を思ったのか、男は私に問いかける。どうしたものかと思ったが、一瞬の思考の末、人であった頃の名を述べた。


「ジャックという。かつて霧夜を——」

 駆けた者——。


 言い終わらぬうちに、血塗られた肉体が崩壊を始めた。


 体はうつ伏せの体勢で崩れ落ち、空はビルディングで阻まれる。——ああ、これでは——


 ——見えぬ。見えぬのだ。

 ……ここからでは、空が見えぬ。


 伸ばした手は崩れ去り、砂粒の如き細切れとなっていく。——もはや武具は持てぬ。だというのに、そんな中でも尚、私は空に焦がれていた。


 ——ふと一瞬、故郷を思わせる霧が見え、男の刀をぼやかせた。それがどことなく月光に見えて、我が渇望は露と消えた。



古き忘却の空、了。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

古き忘却の空 澄岡京樹 @TapiokanotC

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ