7、眠気覚まし
「おい、起きろ」
耳障りの良いテノールと共に頭に受けた打撃に
「・・・いま、なんじ?」
「六時半」
最後に時計を見たのが五時半だったので、実質一時間睡眠である。
「俺はもう出るからさっさと朝飯食って行けよ。あと、今日はこれ飲め」
差し出してきたボトルを受け取る。
「・・・うげぇ」
「言っとくが休んだらチクるからな」
誰に、と言わずともそんなの一人しかいない。
しかも
「・・・うげぇ」
「そのリアクション二回目な。ほら、さっさと飲め」
催促されて渋々蓋を開ける。
中には真っ黒の丸薬が複数。ツンと鼻をつくにおいに眠気も覚める。
「二粒は飲めよ」
「・・・鬼かっ!」
思わず突っ込んでしまったが、壮馬の言っていることはあながち間違いではない。むしろ三粒飲めと言わなかった優しさを評価すべきだ。
「言っておくが、俺は昨日それ三粒飲んだぞ」
「・・・」
そんなことを言われれてしまえば、もはや逃げ場はない。
「の・・・飲めばいいんでしょ!」
こうなったらもはや意地である。
璃子は白湯の入ったコップを片手に、勢いよく口の中に放り込んだ。
しかし、右手に持っていたコップがいつの間にか姿を消している。
「ちゃんと噛めよ。そして味わえ」
意地の悪い笑みを浮かべた壮馬の手には先ほどまで璃子が握っていたコップが。
壮ちゃんの馬鹿っ!!
璃子は泣く泣く丸薬をかみ砕く。
舌がぴりぴりとして感覚と強烈なにおいにその場で本気で泣きたくなった。
六限終了を知らせるチャイムが鳴る。
担当教師が教室を出て行くとすぐに、斜め前の紫音がぱたぱたと寄ってきた。
「ねぇ、今日みんなで駅前に新しくできたカフェに行かない?オープンセールでクレープが半額らしいよ!」
「ごめん、今日この後予定ある」
「ええー!うっそー!!」
あからさまに肩を落とす
クレープ一つでこの世の終わりみたいな反応しなくてもと思うが、彼女は食べることが何より好きなのだから仕方ない。
「明日なら付き合えるよ」
「それがさぁ、明日は
バイオリンを弾く真似をする。
「あれ?レッスン月曜日だったよね?」
「うん、普段はね。もうすぐコンクールだから、週三に増やしてるんだってさ」
紫音がつまらなそうに唇を尖らすが、全国コンクール入賞の常連で将来はプロを目指しているのだからそれくらいは仕方がない。
「うーん・・・じゃあ、あたしの用事が終わってからでいい?それなら行けるけど」
「えっ!」
ぱあっとわかりやすく紫音の顔が明るくなる。
「うん!いいよ!もちろん!オフコース!」
「じゃあ、どこで待ち合わせしようか。渡すだけだからそんなに遅くはならないと思うけど」
「どこに行くの?」
「うん?宝条・・・」
あ、しまった。
自然な流れで言ってしまったが、そんなこと言えば必ず─食いつくに決まっている。
「宝条高校!?わたしも行きたいっ!」
「う・・・うーん・・・」
何とか言い逃れできないかと頭を巡らせてはみたものの、そう簡単に思い浮かぶわけもなく。
「・・・うん、わかった」
「やったぁ!安心して、璃子の恋路の邪魔はしないから!」
どうやら
本当にただの腐れ縁なんだけどなぁ。
しかし、ここでどれだけ頑張って説明したところで目を爛々と輝かせる紫音が聞く耳を持たないことなどわかり切っている。ただ、桃矢がそれを知った時不快な思いをするかもしれないことだけが気がかりだ。あいつは何も気にしていないような素振りを見せるが、結構繊細でめんどくさい。機嫌を損ねたらフォローしなければならないのはいつも璃子の役目だ。
「なんでもいいけど、あたしからはぐれないでね」
「もちろんでございますよ隊長!」
紫音がびしっと敬礼する。
どんなキャラ設定なのかわからないが、もはや突っ込む気すら起きなかった。
到着した電車から降りると、入れ違いに茶色い塊がなだれ込んでいく。
どの高校も大幅に始業、終業共に変わらないのでラッシュが重なるのは当たり前だが、こうして見るとその数の多さに圧倒される。たしか宝条は泉女の三倍近い生徒数だったはずだ。
「さすがマンモス校。しかも見た?パンツ見えそうなくらい短い子いたよ。校則緩いんだね」
感心したように言い放つ紫音。
「まあ、うちが厳しいんじゃない?スカート丈に関しては特に」
「ああ、あれね。
「ぶはッ」
校長の真似がやけに上手くて吹き出してしまう。特にクセのあるビブラートがそっくりだ。
「ふふ、伊達に四年間も同じ台詞を聞いただけあるでしょ?翠がいたらもっと大爆笑なんだけどな〜」
隣のクラスの翠も誘ったが、そういうことならば集合時間までバイオリンの練習をすると断られていた。
「本当に忙しいんだから仕方ないよ。そんなことより早く用事済ませて帰ろう」
「うん・・・って、聞くの忘れてたけど何の用事で来たの?」
おいおい、今更かよ。
半眼で睨め付けると、紫音がはっと口を押さえる。
「あっ、ごめん!その蜜月?言いにくいことだったら言わなくていいのよ!」
こいつは知った言葉を使いたい中学生か。
「言っとくけど、今日は薬の配達。サッカー部には一切寄らないからね」
「ええー!桃矢っちに会えないの!?」
「見たいならグランド見てきなよ。あっちだから」
璃子が指差す先からは男たちの声が聞こえる。
「そんな殺生な!こんなか弱いわたしが一人で行けるとお思いで!?」
「大丈夫。本当にか弱い子は自分のことか弱いとか言わないから」
「あーん!違う、男の子は苦手なんだよぉ!」
「・・・もうわかったから。ほら早く行くよ」
腕に張り付いている紫音を振り払おうとするが、ピッタリとくっついて全く離れる気配がしない。
むしろこれだけの力を持ってしてか弱いと抜かせる性根が素晴らしい。
璃子は振り払うことを諦め、そのまま数学準備室へと急いだ。
コンコンコン。
三回ノックして返事を待つ。しかし、返事はない。
「・・・あれ、留守かな?」
「一応連絡してきたんだけど・・・」
サッとスマホを取り出し、メッセージアプリを立ち上げる。
今日の昼前に送ったメッセージにはちゃんと既読がついていた。
「もう少し待ってみる?」
「うん。これは今日中に届けないといけないから待つ」
璃子の返事を聞いた紫音が手早くスマホを操作する。きっと翠に予定よりも遅くなる旨を連絡するのだろう。
シュッ、シュッと画面が流れていくのが横目にわかる。同年代はそれ以上と比べてレスポンスが早い。
思い切って電話してみるか。
「こらっ!何してるんだ!」
念のため聞いていた電話番号を探していた璃子の肩が大きく揺れる。
声のした方を向くと、そこにはがたいのいいジャージ姿の熊のような男が立っていた。璃子の見解が正しければ、生徒ではなく教師である。
ずんずんと大股で近寄ってきた男が目の前で止まる。その迫力に息を呑む。
「なんで他校生がこんなところにいるんだ!」
「それは」
「しかも校内は携帯は禁止だろう!」
「だから」
「言い訳はいいからこっちに来なさい!」
説明しようとする璃子の言葉に全く耳を貸さないどころか、腕を強く掴まれる。
首から下げた外部入校許可証が揺れる。一瞬、男がそれを見た気がしたが、すぐに視線を違う方向に向ける。
「り、璃子っ!」
どうしていいのか分からずおろおろする紫音の手が宙を彷徨っている。
「ごめん!待ってて!」
標的にされたのが紫音ではなく自分であったのは幸いだった。
何故二人ではないのか。
璃子は微かな違和感と共に何故か酷く嫌な予感がしてきた。
「あのっ、あたし許可証持ってます!」
声を張り上げたつもりだが、男は返事をしないばかりか止まる様子など一切見せない。
聞こえなかった─いや流石にそんなわけはないはずだ。
誰か助けてと叫べば誰か来てくれる場所なのか、他校生である璃子にはそれすらわからない。
ガラッ。
急に教室のドアが開いた。
「あっ」
「・・・え?」
通り様に目があった。
次の瞬間、ぐんっと体が後ろに傾く。
「ちょっ・・・と、今日はどうしたの」
驚いたように目を見開く桃矢。
「どうした
続いて出てきたのは探し求めていた
「
咎めるような物言いに男─滝岸は璃子の腕を離す。
「なにって、校内の見回りですよ。中等部と高等部も校舎は別とはいえ同じようなものですから。この子は先生のお知り合いですか」
「ええ、友人の親戚です」
「友人ねぇ・・・」
ジロジロと舐めいるように見たかと思うと、小さくギリっと歯を鳴らす。本当に一瞬だったが、璃子はそれを見逃さなかった。
「まあ、なんでもいいですがきちんと管理してくださいよ。あと、そこのサッカー部。チャラチャラしてる暇があればもっと練習しろ」
捨て台詞を残して滝岸は突き当たりの階段を降り、どこかへ消えた。
「・・・大丈夫?」
「・・・・うん、たぶん」
璃子は先ほどまで掴まれていた手首をさする。
強く握られたせいか、袖から覗く部分には指の跡がついていた。
「もしかして準備室に行ってた?」
「はい」
間髪入れずに頷くと、牧本が眉間を押さえた。
「・・・ごめんね、赤城さん。それに雪村も」
「なんで牧本先生が謝るんですか」
璃子の問いに困ったように頬をかく。
「僕と滝岸先生とはどうしても反りが合わない・・・というか、彼の指導は行き過ぎだと感じることが多くてついつい口出ししてしまうんだ。たぶん赤城さんが目をつけられたのも僕の知り合いだと思われたからかもしれない」
もし仮にそうだとしても、あんな横柄な態度をとっていい理由にはならない。
ここで桃矢たちに会わなければどうなっていたか。想像するだけで肌が粟立つ。
「何故だか知らないけど俺にも当たり厳しいですけどね。別にチャラチャラなんてしてないっての」
親の仇でも見つけたかのように顔を歪める桃矢の額を突く。
「・・・なにすんのさ」
大きな瞳が璃子を写す。
「いや・・・たぶんあんたの顔が気に入らないのかと思って」
客観的に見て、かなり顔が良い部類の人間だ。
そして世の中には顔がいい人間を毛嫌いする人種は一定数いる。それが同性であれば尚のことだ。
失礼だが、滝岸はいわゆる持て囃される風貌というにはずいぶん距離のある顔立ちをしている。コンプレックスから攻撃的になることはよくある話だ。
桃矢は反論はしないものの、納得いかないと言わんばかりに口をへの字に曲げた。
まあ、その真相はさておき、今は桃矢に焦点を当てている場合ではない。
「牧本先生、昨日はどうでしたか?」
「・・・いつもと変わらなかったね」
言いながら小さく肩を落とす。
「わかりました。では、持ってきた薬と飲み方の説明をするので準備室に行きましょう。あと、友人を置いてきてしまったので少し急いでもいいですか?」
今更ながら一人にしてしまっている紫音のことを思い出す。
右も左もわからぬ他校で放置されるなんて、心細いに決まっている。
「それはすまない。補講が長引いてしまってね」
「補講・・・」
隣の桃矢を横目で見ると、気まずそうに目を逸らす。
あれだけ山を張ってあげただろうに。
口には出さぬものの、璃子の無言の圧を感じ取ったのか桃矢が慌てる。
「あっ、あれだよ!解答欄が途中からずれてただけだから」
「尚更悪い」
桃矢の脇を小突く。
その様子を見ていた牧本は何かに納得したように小さく手を打った。
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