第75話 せいだいに
院内すべての洗浄と乾燥を終えて、リクから預かっていた用紙について説明し、治療院の職員に渡した。
「では後の事は頼む。もし、ケイリュー院長が目覚めても休ませておいた方がいい。」
「は、はい。あ、あの……ありがとうございました!」
勢いよく礼をする女性職員に、女神のごときリクが微笑んだ。
口を開くべきか困っているようで、視線が
「礼はいらぬよ。血の足りないものには沢山食べさせてやりなされ。……あと、ここで見た不思議な出来事は、内密にの。」
不思議というならどこからだろうか。優しい声音のヨウジの言葉に、私ならば問い返してしまいそうだ。
「わかりました。私たち、何にも見ていません。 院長が監査疲れで倒れてしまって申し訳ありませんでした。お薬の記録、必ずお送りします。」
実に物分かりのいい職員だ。運営も任せられるだろう。
「ケイリュー院長が目を覚まして正気でないと感じたら、これに少し魔力を込めて飛ばすといい。問題ない場合は何もせずに先程渡した質問用紙と共に辺境伯家へ送ってくれ。」
手のひらに収まる大きさの虫型魔道具を渡す。これは魔道具の中でも密偵たちに評判の品だ。
内蔵された魔石で飛ぶので、魔力を必要としない。指定した場所に戻ることができ、僅かでも余分な魔力が込められると尻の部分が光るつくりになっている。
虫の背にある筒に入れ、紙1枚程なら運ぶことが可能だ。
実はベセ兄の作品なのだが、ロザリアが気に入り、大量に仕入れたのだ。
虫型魔道具を
『あれ、食事の材料じゃないですよね?』
と、ジョシュアがデイジーに怯えながら聞いていたのを、つい思い出してしまった。
職員に収納から革袋に入った寄付金を取り出して渡し、外に出る。
『ライル、転移前に俺たちも洗浄と乾燥して。』
リクの声が頭に響く。一刻を争う事態だが疫病の素を運ぶわけにはいかないということだろう。
「では全員そのまま。息を吸い込んで止めてくれ。」
バルッソとロマイにも伝わるように指示する。一瞬で洗浄と乾燥を終える。こんなことも、今の私ならば容易く出来るようになったのだ。これもリクのおかげだと言える。
そのリクを見ると、顔色が悪い。次の治療院の心配をしているのだろう。
彼女の腰に手を回し、バルッソとロマイの手を引いたヨウジの肩に、手を置く。ペルゼはリクの肩に乗っている。
「さぁ、行こう。次はマルース治療院だ。」
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急いで転移した俺たちだけど、今ちょっと困ったことになっている。
「あんた強いな。オレと闘ってくれよ。」
マルース治療院の前に、こんがり日焼けした筋骨隆々の男の人がいて、ライルに喧嘩を売って来るせいで中に入れないでいる。
「無理だと言っている。通してくれ。そうでなければ治療院の中にいる職員を呼んでくれ。中の患者が危険なのだ。」
院内洗浄と転移が早すぎて、先触れに出した魔道具を追い越しちゃったんじゃないのかな。
先触れを聞いたマルース治療院の人が正気ならば、何かアクションがありそうなものだけど……。
「オレは、治療院の人間だ。」
いや、嘘だろ。担ぎ込まれる冒険者の側ならわかる。シャツにベストといった服装だが、そのボタンはもう下から2つくらいしかついていない。わざと開けているらしい。
「見え透いた嘘を聞いている場合じゃない。一刻を争う事態だ。」
ライルも同じ感想だったのか。呪術師が狙っているかもしれないからさっさと治療院に入りたいんだよ。
「嘘じゃねぇ。オレはアレズ。このマルース治療院の院長をやってる。先触れの魔道具はあんたが来るほんの少し前に、ちゃんと受けとった。
『治療院に危険が迫っている。患者の容態が悪化せぬように予定を繰上げて今日訪問させていただく。』とな。
だから待ってたのさ。お初にお目にかかるぜ? ヴァルハロ辺境伯閣下。」
白い歯をニカッと見せ、そのはち切れんばかりの筋肉を強調するようにポーズをとった。
「「「「は?」」」」
ポーズの意味がわからん。それに貴族のライルつかまえて、かなり上からの発言。
それより──まって院長?! 嘘でしょ?
「───確かに私が送った言葉だ。アレズ院長、なのだな。最近の治療院の人材不足には危機感を覚えるが。とにかく入らせて貰うぞ。」
「なぁ、治療院での用事が済んでからでいいからよ。オレと一戦やろうぜ。」
歩きながら肩組もうとしてライルに避けられている。距離感が壊れ気味だなぁ。強者にしか興味ないのか、ライルにしか話しかけない。
俺はもちろんのこと、じいちゃんやバルッソとロマイたちもスルーだ。下手に崇められなくていいけどさ。
なんかあの脳筋っぽい院長の日焼け、陽炎みたいに揺らいでる? これ、確かペルゼについてた……。
治療院の扉が開いて中に入った瞬間に、目に入る人に黒い揺らぎがあるのを確認した。
あれはライルが呪液と呼んでた薬の効果と同じだ。じいちゃんがとにかく体に悪ぃ祟りみたいなもんだって、言ってた。
速攻でやらないと、ヤバイやつだ。
扉が締まり切る前に直ぐに祈る。広範囲に癒しの力を広げ、なるべく早く、でもしっかり治るようにイメージする。
それから院内にいる人たちに光のバリアを張る。バリアの中にいる人たちの体にまとわりつく黒い陽炎を吸いだして、集めて固めて小さく小さくしたそれにひと言囁く。
『消えて』
パンッと軽く爆ぜる音がした。黒い陽炎はもう見当たらない。広範囲の状態感知を全体に掛ける。呪術師の糸らしいものは見当たらない。けど、かわりにとんでもないものが見える。
「『おい、なんだそりゃあ?』」
先程まで俺の存在にも気づいてなさそうだったのに、アレズ院長がこっちを振り返って見ている。不自然に被る声が見えたものを証明している。
もうはっきりと。全然隠せていない。
自慢げに筋肉を披露していた胸元に、もうひとつ顔がある。痣のような平面的なものではない。かなり立体的だ。
それぞれの顔が同時に口を開いた。
「『広範囲解呪なんて芸当ができるってことは……チッ、根暗野郎の予想通りか。
まあいい。ここで始末すればいいことだ。なぁ、聖女様よぉ。』」
にやりと
悪意ある攻撃は弾くとはいえ、その腕は酷く禍々しく見える。頭を抱えて
防御範囲に入る僅か手前で伸びた腕の動きが止まった。
爆風と破壊音がして、力を失い戻っていく腕と飛び散る床材の先に、
「貴様は、彼女に触れようと思うことさえ許さん。」
あぁ……。うちの勇者様、盛大にキレていらっしゃる。
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