第1-16話 「私が、悪かったんだ」 弱かったから、馬鹿だったから、空気が読めなかったから。

翌朝、目覚めた私は立ち上がれなかった。

……頭が、ぼうっとする。

身体が雨に長い間打たれたように冷え切っているのがわかった。

手指が細かく震え、肌が燃えるように熱い。

「いい加減、起きなさい」

なかなか居間に現れない私に苛々とした声を張り上げた母が部屋にはいってきて腰を抜かしている私の額に手をやった。

「すごい熱!」

すぐに体温計が出てきた。

――熱は38度を易々と超え、39度近くあった。

「昨日の夜は冷えたし、風邪をひいたのね」

母は言い、雑炊と風邪薬を出してきた。

和也が何か言いたげに母の後ろに立っていたが、私は無視した。

「学校に連絡しておくから、今日はゆっくりしてなさい」

母公認で休みをもらって私は、ほっとした。

あの不安定な場所から、一日だけでも離れられるのは、いいことのような気がした。


風邪特有のぼうっとした熱に身を任せて惰眠をむさぼっていたとき、ピンポンというチャイムが鳴った。時計を見ると、いつの間にか十六時三十分を過ぎていた。もう放課後の時間だということも忘れ、宅急便か何かだろうと重たい身体を引きずって、私は不用意に扉を開けた。

そこに、竹内奈緒が立っていた。

 「お見舞いに来たよ」と、笑って、彼女はポカリスエットと雪見大福が入ったビニール袋を手で持ち上げて見せた。

私は、一瞬、呆けたが、「あ、ありがとう」と、気がついたら口が動いていた。

「上がっていい?」

何事もなかったかのように言う竹内に、私はおそるおそる頷いた。

「お邪魔しまーす」

人のうちに遊びに行き慣れているのだろう。竹内はどこからかスリッパまで勝手に出してきて、私が寝ている部屋に入ってきた。

「和也くんと相部屋なんだね」

都営住宅だからな、と言う私に、ふぅん、と気のない返事が聞こえた。

「二人でポカリのもうよ。コップ出して」

友人が遊びに来たことなどない私は、こういうとき動きが鈍い。竹内が言うまで客人に対してお茶を出す、という考えが思いつかなかったことを内心恥かしく思った。

だが、それを悟られないように、黙って綺麗に洗ったコップを差し出す。

とく、とくと音を立てて、スポーツ飲料が私と竹内、二つのコップの中に注がれた。

「雪〇大福好き?」

私は頷いた。良かったー、と竹内は笑った。

多分、気を使って二個一組のアイスである雪〇大福を買ってきたのだろう。

ポカリと百円アイスなら、値段も安いから、私が気を遣うことも無い。世なれた様子が竹内の行動の端々から伝わってきた。

私はふう、と息を吐いた。

一体、何からどう話せばいいのだろう。

竹内はポカリ〇エットを飲み、雪〇大福を「美味しいー」と言いながら突っついている。

「アイス早く食べないと溶けちゃうよ」

「お前は」

知っているのか? と口に出した言葉が、熱からか掠れた。

「何を?」

と、竹内がまぶしいものでも見るように、目を細めた。

私は顔を伏せ、自分の身体を見下ろした。

……しばらく逡巡したが思い切って、右袖を捲くる。

そこには、多分一生消えないであろう、醜い火傷があった。

「一組にいる万丈のことは知っているよな」

「うん。昨日出た名前だね」

良い噂は聞かないけど、と竹内は昨日、絵画部に向かう道すがら、万丈のことをそう言っていた。

「そいつにやられた」

「……」

「小学校四年生のときに。まあ、あいつは直接手を下さずに見ているだけで取り巻きにやらせたけどな。……ひどい火傷だろ? これでも、ずいぶん見られるようになったんだ」

それに最初は顔や目をやられそうになったんだ、と私は続けた。

竹内は黙って、私の右腕をそっと持ち上げた。

私は反射的に腕を引っ込めたくなったが――竹内がどう行動するかを最後まで見守る気持で、奥歯をかみ締め、その衝動に耐えた。

竹内の細い指先が私の火傷をなぞる。

「……痛かった?」

一言、聞かれた。

私は首を振った。

……事実そうだったから。

物理的に言えば、焼けた鉄に押し当てられたその瞬間に痛みは感じなかった。ただ――。

「ショック、だった」

と、答えた。

「いろんな意味で」

 原因はなんだったの? と問われた私は首を振って「何も」と応えた。

 「強いて言えば、多分、万丈の虫の居所が、悪かったんだと思う」

だから、私がその不機嫌のはけ口になったんだと、そう思う――。

そう言葉を紡いだとき、私の右腕にぽとり、と雫がこぼれた。

私はぎょっと顔をあげた。

竹内が泣いていた。

「可哀想……」

何も感じない傷痕をまた細い指先が上下して撫でる。

「そんな酷いこと……菊ちゃんが、可哀想」

 竹内の涙を見ていたら、私の心の中にあったしこりがぎゅっと鷲掴みにされた気がした。

とうに固まって、かちこちになった、古い絵の具の塊のようなそれが、みるみるうちに柔らかくなり、血をあふれださせる。

「……んで、お前が泣くんだよっ」

熱い息と一緒に、私の鼻はツンと痛くなり、目からぼろぼろと温かい涙がこぼれ落ちた。

「私が、悪かったんだ」

弱かったから、馬鹿だったから、空気が読めなかったから、と私は続けた。

「だからって」

人を傷つけていい理由には、ならないよ、と竹内が言ったとき、私はずっと胸の奥で叫んでいたことを代弁してもらえた気がした。

私が何をしたっていうんだろう。

 ここまでのことをされるようなことを?

もし、そうでないのだとしたら……どうして、私一人が犠牲に、皆の鬱憤のはけ口に、ならなければならなかったんだろう。

「菊ちゃんは、悪くないよ」

優しい声が、竹内の声が、私の傷だらけの心にすっと温かく染み通っていく。

「――俺は、変わるべきなんだろうな」

昨日の麗の言葉を思い返していた。

見た目だけでも、何とかしたらという言葉。

「変身大作戦?」

竹内が流した涙を拭いながら、少し笑った。

ゆっくりと、パジャマの袖が竹内の手で戻された。

引き攣れた痕が隠れた。

「その痕、体育の授業のときや、夏服で半そでになったときはどうするつもりだったの?」

竹内の問いに私は「包帯をするつもりだった」と、答えた。

「それだと、ますます噂になっちゃうよ」

隠さないほうがいいよ、と竹内は続けた。

「それにね……その痕は菊ちゃんの恥じゃないよ。万丈の恥だと、私は思うよ」

「そう……なのかな」

「そうだよ」

力強く言う竹内に、私は「なあ」と声をかけた。

ん? と竹内が私の顔を覗きこむ。

なんで私みたいな奴にここまで良くしてくれるんだ?

その一言が、出てこない。

言ったら、この良い時間が、終わってしまいそうな気がするから。

麗のことも聞きたかった。昨夜私の元を訪れる前、竹内のところへ行って私と縁を切るように説得したと言っていた麗のこと。

でも、今は。

熱でぼうっとした頭。傍らに座っている竹内の体温。ガラス越しの葉桜と、羽箒ばぼうきでさっと掃いたような羽状の雲が浮かんだ綺麗な空。

私は少し柔らかくなりすぎた雪〇大福に緑の小さな楊枝を突き刺した。

バニラの香りがふわりと漂った。

この静けさと安寧さが心地よい。出来れば、もっと続いて欲しい。そう思ってしまう。

竹内は楊枝を使わずに器用に手で雪〇大福をつまむとぱくりと一口で食べてしまった。

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