第二章 夏休み編

10-1 終業式なのにプロローグ

 チャイムの音が鳴り響く。

 俺はサウナのように蒸し暑い体育館の熱から少しでも逃れるため、ワイシャツをパタパタと扇いだ。

 

 男子高校生、志藤凛太郎の二回目の夏。

 今年の平均気温が去年よりも高いと予想されている時点で、はっきり言ってすでに八割ほど敗北が確定していた。


「暑いね、凛太郎」

「ああ……暑いな、雪緒」


 俺の隣に立つ稲葉雪緒と、そんな中身のない会話をする。

 何故俺たちが体育館にいるかと言えば、それは今日が終業式の日だからに他ならない。

 すでに全校生徒が舞台を目の前にして規則正しく並んでおり、跳ね上がった人口密度によって体感温度は本来計測されるであろう温度よりも高くなってしまっているはずだ。


 それでも、明日から夏休みだと思えば耐えることができる。

 容赦なく渡された夏休みの課題がどれだけ多かろうとも、約四十日という長い休みと比べれば些細な問題だ。

 まあ、結局はほとんどの生徒が八月後半で苦しむことになるんだけれど。ちなみに俺は宿題に関しては前半で終わらせるタイプである。これをよく意識高いだの真面目だの言われることがあるが、ぶっちゃけやることがないだけだ。

 去年の夏など酷いもので、バイトするか勉強するか雪緒と飯を食うかのどれかしかなかった。友達と遊んでいるだけ恵まれていると思ってはいるが、後半彼とその家族は海外旅行に行ってしまったため本気でバイト以外にやることがなかった。

 そのことに不満があったわけではないが、何度かこれでいいのかと自問自答したことだけは告白しておこう。

 

 ――――ふと、視線を我がクラスに所属している大人気アイドルに向けてみる。


 乙咲玲という名の大スターは、この熱気の中ですら平然とした顔で立っていた。さすがはアイドル。もともと表情の変化が乏しいということもあるが、ヘタっているところすらも周りには見せない。


 俺の視線に気づいたのか、横目でこっちを見る彼女と目が合った。

 途端に玲は顔を綻ばせ、何とも愛らしい笑みを浮かべる。ここ最近になって彼女が浮かべるようになった、あらゆるファンを尊死させる殺人スマイルだ。

 さすがに俺はもう動じない。何故ならこの前のライブにてその上位互換を画面越しではなく生で体感したからである。


『えー、では校長先生の挨拶です』


 マイクを通した教師の声が響き渡り、舞台の中央に初老の校長先生が現れる。

 さて、校長の話というものは常々長いと言われがちだが、うちの校長もそれは例外ではない。

 一学期にあったイベントなどを総ざらいしつつ、夏休みの過ごし方に対して口を出してくる。別に校長の言っていることが間違っているわけではないのだが、この場においては反感を大いに買っていた。なんたってこの気温なのだから、皆一秒でも早くここから立ち去りたいんだ。


『————これにて、終業式を終わります』


 皆が心を無にして耐えていれば、そんな教師の言葉とともにようやく解放される。

 後は成績表をもらって、いくつかの連絡事項を聞いたら今日のところは終わり。


(……よし)


 自分の成績表を見た俺は、ほっと息を吐く。

 うちの学校は五段階評価で成績を出し、当然ながら5が一番いい評価だ。俺の成績には比較的5が多く並び、次に4が目立っている。

 良い成績と言っていいだろう。昨年から努力を積み重ねた甲斐があった。


「凛太郎、成績はどうだった?」


 教室で前の席に座っていた雪緒が、身を乗り出して問いかけてくる。


「ん? ああ、去年より上がってたぞ。雪緒は?」

「僕は去年と同じくらい。あんまり変わってないね」

「お前は元々成績がいいからなぁ」

「ははは、体育以外はね……」

「まあこの時期は仕方ねぇって。二学期になったら取り戻せばいいさ」

  

 雪緒の成績は学年の中でも相当上位に当たる。ただしそれは座学系に限る話であり、こと一学期に関してだけ体育だけはどうしても2を取ってしまうのだ。

 これに関しては、六月から始まる水泳の授業が原因である。聞くところによると、塩素と肌の相性が悪くてそもそも参加できないらしい。参加していない生徒に好成績をつけるわけにも行かず、学校側も雪緒側も双方了承したうえで、最低限の成績を与えるという話で落ち着いているんだそうだ。こればかりはもう仕方がない。


「でも今回ずいぶん頑張ったよね、凛太郎。入学当時から別に悪い訳じゃなかったけど、やっぱりいい大学を狙ってるの?」

「……まあな、一応それが条件だし・・・・・・・


 親父の下を離れる際に、俺は一つの条件を言い渡されていた。

 偏差値60以上の大学に入ること。それが俺のクリアしなければならない課題である。

 親父としては、最低限志藤グループの名を汚さない程度の学歴を持っていてほしいらしい。

 未成年であるうちは親に逆らうことができない以上、このくらいは守るしかないのだ。

 何にせよ、親父の下で訳の分からない経営学やら何やらの知識を叩き込まれるよりはマシである。

 

「できれば、大学も凛太郎と一緒がいいなぁ」

「情けねぇ話だけど、さすがにお前と同じ偏差値の所には行けねぇぞ」

「その時は僕が合わせるから大丈夫だよ。偏差値が高い場所に一人で行っても、多分ストレスが溜まるだけだからさ」


 それは確かにそうかもしれない。

 やはり何事も身の丈に合ったものを選ぶに限る。


「そんじゃまあ二人でまた頑張りましょうってことで、今日はどうする? 一応俺は暇だけど、宿題でもやりに行くか?」

「いいね。問題集系のやつからササっと終わらせちゃおうか」


 今日の午後は玲も仕事でいないし、雪緒を新居に招いてもいいかもしれない。

 たまにはあいつら以外のために飯を作るか――――。


「あ、ごめん。帰る前に図書館に本を返しにいかなきゃ。先に行っててくれる?」

「ん、分かった。下駄箱のとこで待ってるわ」

 

 鞄を肩に担ぎ、雪緒を残してそのまま玄関の方へ。

 屋内であっても、やはりじめじめとした嫌な湿気が肌に張り付くような感覚がある。この湿気さえ何とかなれば、夏ももう少し快適になるんだろうなぁ。


「——あ、あの!」

「ん?」


 下駄箱に寄りかかってボーっとスマホを眺めていると、突然聞き馴染みのない女子の声が聞こえてきた。

 顔を上げても、周りに人影はない。

 どうやらこの背を預けている下駄箱の向こう側にいるらしく、そもそもこの声は俺にかけられたものではなかったようだ。


「私とっ、付き合ってください!」


 うっ、と息が詰まる。

 まさかこんなところで生告白を聞いてしまうだなんて思いもしなかった。きっと俺がいることに気づいていないんだろう。下手に動くと気まずい思いをさせてしまうかもしれないし、ここは一旦気配を殺す。

 今告白して成功すれば、夏休みは恋人と過ごせる最高の時間になるはずだ。タイミングとしては申し分ない。せっかくなら成功してほしいと思い、俺は祈るように目を閉じた。


「————ごめん、好きな人がいるんだ」


 おい、待て。女子の方に聞き覚えはなかったが、こっちの男にはあるぞ。

 完璧超人の大人気イケメン、柿原祐介。

 告白シーンに遭遇することも稀だが、そこに知り合いが関わっているだなんて思いもしなかった。


「そ、そっか……ごめんね、急に」

「謝らないでくれ。気持ちはその、すごく嬉しかったから」


 女子の方が走り去っていく音がする。

 黙ってやり過ごそうと思ったが、よく考えれば俺と柿原はクラスメイト。下駄箱の位置はほぼ一緒なわけで――――。


「凛太郎……いたなら声をかけてくれればいいのに」


 まあ、こうなるよな。


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