9- 後日談くらいは平穏に

 カーテンから差し込む光が、だいぶ強くなってきた。

 ミルフィーユスターズのライブから十日ほどが経過し、学校の終業式まであと四日といった頃。七月中旬ということもあり、夏の暑さは徐々に徐々に上がっていた。

 この時期は例え朝であっても外に出るのが億劫になる。

 特に俺は寒さより暑さの方が苦手だ。寒さは重ね着すればまだ何とか耐えられるが、暑さは裸という限界がある。何をするにも気怠くなり、学生らしくないと言われようが俺は夏というものが嫌いだ。

 周りの連中が海やらプールやら部活で青春しようとも、俺の夏休みはもう何もせず家でごろごろすると決まっている。


「ねぇ、凛太郎。夏休みに海へ行こう」


 ――――そんなスケジュールを壊そうとする、悪魔の囁きが投げかけられた。


 俺の作った朝食をぺろりと平らげた玲は、どこか期待した目を向けてきている。

 しばらく沈黙を貫いた俺だったが、観念して息を吐いた。


「はぁ……行ってくりゃいいんじゃねぇか?」

「凛太郎も一緒がいい」

「おいおい、さすがに海で変装なんて無理だろ? ミルスタの三人で遊びに行くとかなら分かるけど、俺はそこに混ざれねぇって」

「大丈夫。今度ミルフィーユスターズの水着のグラビア撮影があって、その時に事務所がプライベートビーチをレンタルするから」

「へぇ、プライベートビーチってレンタルできるんだ」

「うん。正確にはプライベートビーチ付きのホテルを借りるんだって。私たちみたいなアイドルとか、タレントさんとか、それこそ本業のグラビアアイドルの人たちの撮影でよく利用しているみたい」


 なるほど、それならそもそも他人の目がないから、変装する必要もないしびくびくする必要もなくなるだろう。


「だけど仕事なんだろ? やっぱり俺はついて行けねぇよ」

「それも大丈夫。この前のライブのご褒美で、撮影が終わった後に私たちだけでもう一日宿泊していいって言われた。タクシー代も用意してくれるから、帰りも楽」

「はー、至れり尽くせりだな」

「凛太郎には後から合流してもらうことになるけど、これなら丸一日一緒に遊べる。それに……」

「それに?」

「雑誌とかに載る前に、凛太郎には私の水着を見てもらいたいから……」


 その言葉で、俺は思わず反応に困ってしまった。

 何というか、破壊力がすごい。あの表情の変化が乏しい玲が照れたように言うもんだから、そのギャップによって頭をガツンと殴られたような衝撃が走った。

 この誘いを真顔で断れる奴がいるのなら、俺の前に連れてきてほしい。尊敬するから。


「――――分かったよ。別に嫌ってわけでもねぇし、夏休みにどこへも行かずダラダラするってのも健全じゃねぇしな。俺でよければ付き合わせていただきますよ、ええ」

「っ、ありがとう。凛太郎にはお父さんを説得してもらった恩があるから、どこかで返したいって思ってたの」

 

 玲の顔がほころぶ。

 そうだ、この顔だ。

 最近の彼女はどうにも笑う回数が増えたように思える。その表情は酷く魅力的で、その度に心がぐらぐらと揺れるから勘弁してほしい。


「……まあ、もらえるもんはもらっておくよ。あと一応聞いておきたいんだが、ミルスタでってことはあいつらも来るのか?」

「うん」

「ミルスタの三人とプライベートビーチで過ごすなんて、熱狂的なファンに知らせたら殺されそうだよな、俺」


 同じマンションの同じフロアに住んでいるだけでも相当恵まれているのにも関わらず、間近で水着まで見せてもらえると来た。

 どうやら前世の俺は計り知れない徳を積んでいたらしい。


「――――二人きりの方が、よかった?」

「え?」

「っ、ご、ごめん。何でもない。先に行く」


 慌てた様子で、玲は俺の家を飛び出していく。

 テーブルの上にはぽつんと弁当が残されていた。どうやら鞄にしまうことすら忘れてしまうくらいには動揺していたらしい。


「ははっ、玲はあわてんぼうだなぁ……はは」


 俺は自分の頬を手のひらで叩く。 

 肌と肌がぶつかる軽快な音が響き、じんじんと痛みが走った。

 全部このビンタのせいだ。頬が熱いのは、赤いのは、全部ビンタのせいだ。

 俺は断じてときめいたりなどしていない。


 ――――無理があるか。


「アイドルって、やべぇな」


 語彙力の欠片もない文章が口から漏れる。

 

 心の奥底に芽生えた小さな感情の芽から、俺は目をそらした。

 今の俺は、この芽に名前をつけられない。

 つけてしまえば、もう無視できなくなる。この感情を育てたくなってしまう。

 育ちきってしまえば、それはきっと俺を苦しめる。


 俺の人生は、もっと平穏でいい。


「さてと、こいつをどうやって学校の中で渡すか考えねぇとな」


 わざとらしく独り言を口にして、気持ちをリセットする。

 自分の分と彼女の分の弁当を鞄につめ、俺は焼いた食パンを口に加えた。


 ――――最近、思うことがある。


 このままいつまでも玲との関係を保っていれば、働かないという俺の人生の目標を達成できるのではないかと。

 だけどこれはただの都合のいい妄想だ。

 彼女のような芸能人と俺のような一般人は、どう足掻いても釣り合いが取れない。

 

 いつか別れる時が来る。


 玲もアイドルを辞める時が来るし、俺も理想の嫁との結婚を目指す時が来るはずだ。

 今回の玲の家族の件で、俺はそれを再認識した。

 だからそれまでは、せめてそれまでは、玲のことを支えていこう。彼女の平穏を、その輝きを守るために。


「……ん?」


 家を出ようとした俺は、靴を履きながらポケットのスマホのバイブレーションに気づいた。

 どうやら誰かからラインが届いたらしい。

 その場でパスワードを入れ、差出人とのライン画面を開いてみた。


 相手の名前は――――二階堂梓。


 そして内容は、以下の通りだった。


『今度の土曜日、一緒にご飯に行きませんか? ……水族館に乙咲さんと一緒にいた理由が聞きたいです』


 ――――あれ、冷房効きすぎてないか?


 そう錯覚するほどの寒気が背中に走る。

 体は一気に冷えたはずなのに、なぜか汗はとめどなく流れ始めていた。


 どうやら俺はもうしばらく働かなければならないらしい。

 こんな男に懐いた、とある大人気アイドルのために。


「はぁ……くそったれ」

 

 思わず悪態が漏れる。

 

 俺の人生は、もっと平穏いい。

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