4.預言の代理人

 絨毯の両端を強く掴み、ウルタミシュは地面と直角に空を裂いて上昇する。断崖絶壁の岩肌に沿って風を生み、崖の中腹に巨大な彫刻の如く聳える教団本部のエントランスへ降り立った。


 とん、という足音に気が付いた二人の守衛が侵入者かと槍を少女に向けるが、鬣のように靡く赤銀と見知った容貌をみとめ、すぐに下ろす。


「不死隊所属、"黄昏"バリフィトゥニ・ダァルギーン・ウルタミシュが帰還したと、伝えて欲しい」


 ウルタミシュが守衛の片方に近付いて帰還の報告を頼むと、守衛は腰のベルトから手鏡に似た通信器具を取り出してその通りに伝えた。

 守衛の男は通信を終えると、身なりを正してウルタミシュの方へ向き直る。


「黄昏殿、ここは冷えますので建物へお入りください。まもなく担当の者が来ます故」

「分かった」


 教団の歴史を示す彫刻が刻まれた、あまりにも巨大な両開きの扉がウルタミシュの前方にある。しかしこちらを開けると色々と不都合が生じるため、普段は扉の下部分の一部だけが開くようになっていた。

 ウルタミシュは扉を押して中に入った。


 天井は見上げてもなお高く、視界の先は霞む程に広い。幾何学模様のモザイクタイルと重厚な柱が続き、ところどころに嵌め込まれた魔水晶の輝きが見える。差し込む光の筋に塵が舞う。先程のものには及ばないまでも、壁には壮麗な扉が並んでいた。

 パチパチと篝火の爆ぜる音のほかには静かな空間に、黄昏の少女は靴音を反響させながら歩みを進めた。

 守衛の「まもなく」という言葉は比喩でなくその通りだったようだ。ウルタミシュが中へ入ってからまだほんの少ししか経っていないというのに扉の一つが開き、女官が一人と男性の荷物持ちが二人、ウルタミシュの方へ進み出てきた。


「聖なる剣とお荷物をお預かり致します。この後、黄昏殿は代理人に帰還の報告をされますように」


 ウルタミシュは聖剣と旅の荷物、外套を預けた。それでは預言者の代理人のもとへ行こうと足を踏み出そうとしたが、ドラゴニュート系種族の女官の鱗に覆われた手に制止された。


「お待ちください。代理人にお会いになられるのですから、どうぞ相応しい支度をなさってくださいな」


 それもそうだとウルタミシュは思った。砂塗れで清潔感に欠け、代理人でなくとも失礼に当たる格好をしている。女官に連れられて、三人が出てきたものとは違う扉から奥の空間に進み、更衣室に入って脚立の向こうで服を脱ぐ。


 まずは、石壁で覆われた野天の沐浴場で湯浴みをした。脂と土埃でいやな固まり方をしていた髪が解け、石鹸で洗えば汗による身体の不快感が徐々に取れていく。ひとたび任務に出ると、そうそう湯浴みはできない。

 ウルタミシュもあの女官と同様にドラゴニュート系種族だ。桶で掬って湯を頭から被り、角も含めて洗っていく。


 湯から上がったところで、乳香の香油を身体に塗ろうと先程の女官が近づいてきた。ウルタミシュは自分でできると言って断った。貴人ではないので体を他人に預けることには慣れていない。


「では、お召し物を」

「着てきたものを──」

「あの旅装は洗わせました。遠慮なさらずに」

「…………」


 宝石が嵌め込まれた金属の額当ての上からヴェールを被り、黄金の装身具を身につける。真紅の絹が見えないほどに金糸で刺繍が施された、床に引き摺るほど袖と裾の長い詰襟の長衣は一人では着るのが難しく、結局女官に手伝ってもらうことになった。

 身軽な旅装から豪奢な儀礼衣装姿になり、次は筆で目元と口元に紅をさす。下唇の中央は玉虫色に光るほど塗り重ねる。コールを使って目の際に薄くアイラインを引く。

 支度が全て完了すると女官が鏡をウルタミシュの方に向けて微笑んだ。


「本当にお綺麗ですよ。まるで宝石の化身のようです」

「……どうも」


 理解しにくい例えだと首を傾げると、装身具も一緒に傾いて金属の擦れる音がした。かなりの重量がある。


 身支度を整えたウルタミシュと女官は、入ってきたところとは違う扉を抜けて廊下に出る。教団本部の建物の仕組みはウルタミシュもよく分かっていない。入り組みすぎているのだ。

 扉を何枚も通り抜け、廊下はいつまで続くのだろうと思い始めた頃に女官の足が止まる。見れば、どうやら目の前の扉の向こうに代理人が居る様子だった。


「どうぞお入り下さい、黄昏殿。中で代理人がお待ちです」


 女官の付き添いはここまでのようだ。代わって近侍と親衛隊が周囲を囲んだ。聖剣を捧げ持つ近侍がウルタミシュの後ろに控える。

 扉が重たい音を立てて開かれていく。ウルタミシュは部屋に入って代理人の前まで進み出た。

 ダシェナ派では人への跪礼は禁じられている。ウルタミシュは頭を下げて敬意を表した。


「大地と万民に愛されし正統なるペウセシドの預言の継承者、イェセク並びにエンデギを支配する御方、諸王の王、神官長、神の代理人、ダシェナニ軍最高司令官のアーラーストヤ・ベグ様。不死隊が主席、"黄昏"のバリフィトゥニ・ダァルギーン・ウルタミシュが帰還致しました」

「顔を上げることを許す」


 感謝の言葉を述べ、ウルタミシュはゆっくりと顔を上げた。数段高い位置に立つ白髪の青年こそ、ダシェナ派の教主である神の代理人だ。黒茶色の肌に、煌めく孔雀羽色の双眸。全身を白金の宝飾品で飾り立てて、天窓から差し込む光が水路に反射して銀色の光を放っている。


「ご苦労だったな。はるばる西方の地まで……。疲れただろう。後は休息を取るといい」

「恐れ入ります」


 アーラーストヤは近侍から渡された聖剣を受け取ると、段差を降りた。そのままウルタミシュの方へ差し出す。


「改めて、聖なる剣をそなたに託そう。その刃で邪を打ち払うことを、ここに誓うか?」

「……誓いましょう」


 再び剣を手渡され、ウルタミシュは恭しく手にする。アーラーストヤが誓約の呪の類を使ったそぶりはないものの、宣誓した以上、その言葉には責任を持たなくてはならない。剣の重みが増した気がした。


「では、もう下がってよろしい。代理人は次の報告も聞かなければなりませんので」


 代理人はまだ何か言おうとしていたが、側近が先んじてウルタミシュに下がるように促した。仕方のないことだ。代理人の一日は殆どが謁見に費やされているのだから。ウルタミシュへの褒美は纏っている衣ということだった。


 部屋を退去し、勧め通りに休息を取ろうとするウルタミシュに声を掛ける者がいた。先程の女官である。


「布を巻いて持ち運んでいらしたでしょう。剣の採寸をしましたから、鞘を作ってお渡しいたします。一先ずは簡易的で申し訳ないのですが……こちらを」

「ありがとう。布よりもずっといい」


 革を簡易的に縫い合わせた鞘に剣を収め、背負い直す。布を巻くのは手間だったから。これは横から紐で止めるだけだから、抜刀する時にわざわざ剣帯から外す作業がなくていい。



 正面玄関とは別の入り口から本部の建物を出る。一歩踏み外せば落下するような崖をくり抜いた細い道を少し行くと、不安定な足場に支えられた二階建ての建物がそこにあった。

 この兵舎でウルタミシュは寝泊まりしている。壁から半分突き出るように建てられた兵舎は、場所上の理由で規模は小さい。ウルタミシュの部屋は一階の奥だ。


 部屋の扉を開け、砂色の部屋に足を踏み入れる。家具の質は上等だが、壁に掛けられている武具類と寝台以外何も置いていない殺風景な部屋だ。ウルタミシュは化粧を落とすとすぐに寝台に潜り込み、泥のように眠った。

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