終章 愛すべき馬鹿
逃げてしまった。
屋上で澄人から河北さんを助けろ、と言われた。
お前が救うんだ、と言われた。
そんなことは僕にだって分かっている!
けれど、僕には出来ない。
だから彼の制止も構わずに、屋上から逃げてしまった。
屋上の扉を勢いよく閉めて、階段を駆け下りていく。
終わったことだと自分に言い聞かせた。
僕にはもう関係ないことだと見て見ぬ振りをした。
けれど、その逃避の先に何があるという訳でもない。
あるとしたらずっと抱え込んで生きていく、――後悔しかない。
僕のしたいこと?
そんなこと決まっている。
けれど、僕にはそれをする勇気がない。
だから僕は何も出来ないんだ。
僕、古井学が河北さん、――河北京子に恋した契機はとてもありふれた、些細なものだった。
いや、それを切っ掛けとはっきり断定できるほど具体的なものではないのだけれど、強いて言えば同じ図書委員の仕事で一緒にいたあの時間が恋した契機たりうるのだと思う。
その瞬間に、あの場面に、そんな劇的な出来事によって恋が芽生えた訳じゃない。これが小説ならフィクションとして失格もいいところだが、しかし得てして恋というのはただ何となく、良いな、と思って好意を抱く、そんな曖昧で蒙昧なものなのだ。逆に具体的でしっかりとした理由を持って恋をしたと言っている奴の方が疑わしいじゃないか。
と、まあ、そんな契機で僕は彼女に恋をした。
そう、彼女に好意を抱いた始まりは僕が一方的に感じていた淡い感情、ただそれだけだった。
河北さんがいじめられている事に気付いたのは彼女に好意を抱いてすぐだった。
そもそもクラスの空気なんてものに興味がなかったので河北さんに好意を抱かなければ、そのまま河北さんがいじめられている事実も知らずに来年のクラス替えまで過ごしていたかもしれない。
興味のない事は本当に視界に入らない。それが僕だった。
しかし、今回は気付いてしまった。そう、気付いてしまったのだ。
いじめの事実を知ってまず思った事は河北さんを助けなければ、という思いだった。だが、その思いは瞬間的に頭によぎったものに過ぎない。すぐに頭に去来するのは自身の無力感だった。
僕に何ができる?
クラスでは中心的な立場なんてのは戯言にもならない程に無縁なものであり、僕はクラスの何人が僕の存在を認識しているのか甚だ疑問なくらいに存在感が薄く、日陰にひっそりと佇む一生徒だった。
だからこそ、面倒ごとには巻き込まれず、クラスの揉め事も我関せずにしていれば大抵の事は僕とは関係のない余所で解決してくれた。
このいじめだって今までの僕だったら見て見ぬ振り、もしくは気づかずに素通りしていたはずだった。
けれど、僕は恋をしてしまった。
言葉にするとこれ以上に羞恥に悶える事もない、それは死ぬほどに恥ずかしい理由なのだが。
そう、僕は彼女に恋をしてしまった。
図書委員で一緒に仕事をするぐらいの希薄な関係性と言ってもいい、その程度の関わりなのに、それを絶対の恋愛だと信じてしまった。
河北さんを女性として少し意識してしまったのが最後、男というものは簡単だ。そこから自分はもしかしたらこの人の事を好いているのかもしれない。いいや、僕はこの人の事が好きなんだ。そうだ、絶対にそうなんだ、と早々にこの感情が恋であることを決めつけてしまう。
一刻も早くこのモヤモヤに形を与えたかった。
だからこそ、それは性急すぎるぐらいに恋愛という鋳型に落とし込められる。
その性急さが今にしてみれば恨めしい。
彼女に恋をしたからこそ彼女がいじめられている事実を知ってしまい、そして自身の無力感を自覚する結果になってしまった。
けれどそこで止まっていれば、それ以上自己嫌悪を増幅させる事もなかった。
僕はこの無力感を根本的に否定する為に、ならばいっそこのいじめという状況を利用して河北さんと結ばれれば良いじゃないかと考えた。
この時点で僕は見失っていた。
そもそも彼女を助けたい、助けなければと思ったのが始点で、そこから生じたのが無力感だったはずだ。ならば無力感を解消させるには河北さんを救う道筋を辿るほか道はないのに、僕は助けられないとハナから踏み出すことをせず、もっとも卑しい考えを行動に移してしまった。
その為に友人である一ノ宮澄人すら利用した。
そうだ、かけがえのない友人を自分の卑しい思惑の為に利用したのだ。
それで結果は自己嫌悪に苛まれて、何もかもが駄目になった。
河北さんを助ける勇気もなく、かと言って卑しい思惑すら最後まで全うする勇気もない。
自分の無価値さに絶望した。
いや、元から絶望していたからこそ、全てをハナから出来ないと諦めていたんだ。
河北さんとの江ノ島デートは楽しい反面、同時に罪悪感に首を絞められそうだった。
彼女の笑顔を見れば見るほどに、ああ、僕はこれから彼女と区切りをつけるのかと、純粋な笑顔をこちらに向ける河北さんに申し訳ない気持ちで胸が締め付けられた。
僕の卑しい思惑を告白して、果たして彼女はどんな表情をするのか? それを思うと怖くて膝が笑いそうだった。
しかし、まさか河北さんから告白をしてくるとは夢にまで思わなかった。
弁天橋から海を望む、これがデートの最後だとそう思って、僕は自分の思惑を告白しようとした。
まったく、彼女の愛の告白に比べれば、僕の告白は身勝手で、自分のことしか考えていない。
結局、自己嫌悪を取り除く自分自身のための告白。そう考えると、それはそれで自己嫌悪に苛まれる。
まったく僕って奴は――。
僕はその告白を断った。
自分勝手だ。本当に、どうしようもない。
彼女が僕に向ける感情が恋であるはずがないと、僕は勝手に解釈して帰結させた。
実際に彼女にその感情を芽生えさせたプロセスを聞いた訳でもないのに、僕は自身の解釈が正しいのだと断定した。
河北さんはこのいじめられている状況下において優しく接した僕に特別な感情を抱いたにすぎず、それがもし平常時ならばきっと彼女は僕に恋なんてしなかった。
つまりは吊り橋効果だ。
だからこそ、僕は彼女の告白を断った。
それは恋愛として間違った形だと僕は結論付けた。
けれど、それで本当に良かったのだろうか……。
ああ、どうしてこんなに複雑になってしまったのだろうか……。
まったく、上手くいかない。僕も澄人みたいに上手くやれれば……。
屋上から逃げ出した時、一瞬だけ振り返って視認した澄人の顔がチラつく。
澄人は僕の方をじっと見つめ「信じている」と言って、頷いた。そのときの澄人の顔は何の迷いもなく、憂いもなく、その名前のように暗い影など差さない、澄み切った表情で僕を見つめていた。
ごめん、澄人。君の言ったことは正しい。
そんなこと僕だって理解している。君の言う通りに僕が動かなければいけない。その思いは未だに頭の中をぐるぐると巡っている。けれど、どうしても足に力が入らない。どうしても、最初の一歩が踏み出せない。
それで良いのか、と自問自答は幾百回も繰り返した。
経った一握りの、一握の砂、それぐらいの。いや、もっと少なくても、小さくても良い。
一粒、ひとかけら、たったそれだけの勇気で僕は動ける。
けれど、たったそれだけの勇気すら僕にはひねり出すことも出来ない。
こぶしを握り締めて、歯噛みする。
分かっている。分かっているんだ!
僕が、僕が、僕が!
――一歩を踏み出さなければ。
六限目の授業が終わり、あとは担任の先生を待ち、ホームルームを終わらせて帰るだけ。
担任を待つ間の教室はガヤガヤと騒がしい喧騒に包まれていた。
ジャージに着替えて部活に備える者。早く帰りたくて仕方ないのか足をジタバタと踏み鳴らす者。
そんな教室の喧騒の中には、もう日常と化してしまった河北さんへの陰口も混じっている。いや、それをもう陰口と呼べるかは甚だ疑問だ。これ見よがしに教室中に聞こえるように、馬鹿でかい不快な声で河北さんの悪口を話している。
内容は聞くも堪えない、まんま嘘だと分かるようなものばかり。テストでカンニングをしただとか、同級生の男を何人もかどわかしているだとか、学校外ではおっさん相手に援助交際しているだとか、よくもまあそんな出まかせ、嘘八百をすらすらと言葉に出来るものだ。
そして一番不快なのはその話に躊躇いなく笑っている連中だ。
高校生ってのは猿の集まりなのか? ウキ―、ウキ―、と喚いて動き回る動物。
こいつらは半端に脳が発達してしまった動物なのか。
しかしそんな猿たちに怒りが湧き上がるのと同じくらいに、何も出来ずに歯噛みしている自分が情けない……。
「ねえねえ、河北さんって何人とヤったのー?」
「ちょ、やめなよー。河北さんをもらってくれる人なんかいないんだからさー」
「それなー。でも、おっさんとか相手ならイケんじゃないのー? ねえねえ、河北さん、どうなのー?」
また、あの女子三人組が河北さんへ、不快で気持ちの悪い言葉の数々を声に出していた。
今は、そうか。清宮さんがいないのか……。
彼女たちも清宮さんがいれば表立って河北さんへちょっかいを掛ける事もない。
清宮さんが河北さん側に付いている事はクラスの皆も何となく察せていた。その影響もあって、河北さんをいじめている彼女たちも本格的に河北さんへ手を出すような事はしない。
しかし、遂にその均衡も崩れつつある。
今までは清宮さんの他クラスにまで及ぶ影響力もあり、彼女たちも牽制する程度だった。だが、最近になって彼女たちは清宮さんが何もしてこない事を、自分たちの優勢と取ったのか、いじめは顕著になっていた。
馬鹿な奴らだ。一年の頃、澄人から聞いた話によれば、清宮さんの影響力は本物らしい。ならば、清宮さんが本腰を入れた時が、彼女たちの終わり。
彼女たちは自分たちの力を過信して、つつかなくてもいい藪をつついてしまったのだ。
ふん、いい気味だ……。
これも自業自得。あいつらが馬鹿な真似をした天罰だと思って、これからは精々真っ当に生きることを願うばかりだ……。
「そうだ、清宮さんに任せればいい。俺が出る幕なんてある訳ないんだから……」
小さく諦念の言葉を独り言ちる。
ああ、これでいいはずだ……。
――本当にそれでいいのか?
他人に頼って、他人に望みを委託して、それでいいのか?
足が震える。
こぶしを握る。
歯軋りが強くなる。
――これでいいはずがない。
何度目になるか分からないその否定はずっとずっと自分を苦しめ続ける。
こんな他力本願でいいはずがない。
ここで他人に頼ればこの先ずっと後悔するのは目に見えている。
けれど、それが分かっていながら、僕は未だに勇気が出せない。
どうして僕の足は、腕は、口は、声は、言葉は、動くことも、発することも、紡ぐことも出来ないんだ!
出せよ、出せよ! 勇気を! 出せよ!
分かっている! 分かっている! 分かっているけど……。どうして――。
――僕がしたいこと。
そう言えば、昨日屋上で澄人にそんなことを言われた。
僕のしたいこと。……そんなのは分かっている。
彼女を助ける。
いや、それよりも、もっと根本的でもっと原初的な、まず始めなければいけない僕のスタートライン。
――僕は、河北さんに、好きだと告白したいんだ!
ただそれだけだった。
彼女に恋をして、彼女に好きだと伝える。
そんな簡単で、シンプルで、真っすぐな道筋。
たったそれだけだったのに、どうして僕はこんなにも寄り道をしてしまったのだろうか。
こんな複雑に考える必要なんかなかった。
こんなに回りくどい行動をする必要なんかなかった。
ここですべきことは、ここでしなければいけないことは、――ここで僕がしたいことは。
女子三人組の不快な不協和音の悪口発表会は未だに続いている。
河北さんはそんな彼女たちの言葉を背中で受けて、一人、授業で使われた黒板を消していた。
廊下側、一番後ろの席に座る僕からは、ただ淡々と黒板を消している河北さんの後ろ姿しか確認できない。彼女の表情は窺い知れなかった。
けれど、僕の見間違いでなければ、少しだけ肩を震わせている。
河北さんは何も言い返さない。いや、何も言い返せないんだ。
そんな河北さんを見て、僕は――。
どうする、どうする……。と、今頃そんな優柔不断で、それこそどうする!
そんなの決まっている、そんなの決まっているだろ!
動け、動け、動け!
僕のしたいこと。それはただ単純で、馬鹿々々しくて、恥ずかしすぎる、そんなありふれた、それだけのこと。
けれど、それは僕が今もっともしたいことでもある。
唇が急速に乾いていく。
そんな唇もずっと震えている。
怖い。怖すぎる。怖すぎて心臓がバクバクと胸を打つ。
やらなきゃいけない。やらなきゃいけない。やらなきゃいけない!
脚も震えて、膝も笑っている。
右手のこぶしで膝を叩いて慄きを抑えようとするが、それでも震えは止まらない。
こんちくしょう! この野郎! この臆病者!
頑張れよ、僕! ここでやらなくていつやるんだ。
というか、何をやるんだっけか?
ああ、ああ、あああ!
なんかもう分らなくなってきた。何をするんだ? 何をしないんだ? 何がしたいんだ?
分からない。もう、良く判断も出来ないが――。
どうとでもなれ。やっちまえ。もう、やっちまえ!
しろ、しろ、しやがれ、僕!
「す、好きだああああああああーーーーーーーーー!」
その声は大きな声量とともに教室中に響いた。
先程までの喧騒が嘘のように、教室はしんと静まり返っていた。
周りを見渡せば、クラスの皆がぽかんと口を開けてこちらを見ている。
笑っていた連中も、女子三人組も、そして、振り返って目を見開いている河北さんも。
教室の雰囲気に我に返って、一気に恥ずかしさが込み上げてくる。
や、やってしまった。何を言ってんだ、僕は!
そんな羞恥心から、反射的に顔を下に向けようとしたが、首を振ってすぐに顔を上げる。
そうだ。暴走でも見切り発車でも何でも良い。僕は勇気を出したんだ。ずっと殻に閉じこもって足を震わしていた僕がやっと一歩を踏み出した。そのちっぽけで小さく惨めな勇気だとしても僕は勇気を出せた!
うじうじとやってしまった事を悔いても仕方ない。もう、覚悟を決めるしかないんだ。
僕は席から離れて、真っすぐと教室の前方に進む。
そして黒板の前まで来て、河北さんの方へ顔を向けた。
「――河北さん、手伝うよ」
河北さんは目を丸くして呆然とこちらを見つめている。
やっと言えた。僕は君に好意を伝えて、ただ君の味方になりたかった。
非力で頼りない僕だけど、それでも少しでも河北さんの力になれれば、と。それで僅かでもこの状況が変われば――。
しかし僕のその声とともに、教室はざわざわと騒ぎ始める。
こちらを訝しげに見る連中。笑いをこらえる連中。そして嘲笑している連中――。
そんな教室の反応に僕は小さくため息を吐いた。
まあ、そうだよな。周りからすれば突飛な行動にしか映らないし、僕なんかが河北さんの味方になっても警戒してくる奴なんかいない。
ただの笑い者になるだけだ。
というか「好きだあああ!」なんて、なんであんな場所で言っちゃうかな僕は……。
澄人ならもっと上手くやっていたのかな……。
そんな自分の不器用さに呆れ果てていると――。
「あり、ありが、と……う。ありが、と、う……」
突然、目の前の河北さんが泣き始めた。
止めどない大粒の涙を流して、周りも気にせずに鼻をすすって泣きじゃくっていた。
「か、河北さん? だ、大丈夫?」
その言葉に河北さんは頷くものの、どう見ても大丈夫そうには見えない。
突然の出来事に何が何だか分からなかった。
それは僕だけではないようで、喧噪を取り戻しつつあった教室もまた静寂に包まれていた。
こんな事態は想像していなかった。
まさか、あの河北さんがこんなにも自身の弱さを隠さずに泣くなんて……。
僕は彼女の事を誤解していたのかもしれない。
河北さんは強い人間だと勝手に思っていた。誰よりも真っすぐで、他人にどう言われようが自分の意見を貫き通す。そんな強い人間だと――。
今、泣いている彼女が本当の彼女なのかもしれない。
僕はそんな河北さんの泣きじゃくる姿を眺めて――。
「ごめんなさい!」
そして、またしても予想外の事態が起きた。
その大きな声とともに、もう一人。河北さん同様、席に座っていた女子が声を出して泣き始めたのだ。
今度は何だ?
泣き声が聞こえる方へ視線を向ければ、その女子はあの女子三人組が取り巻いている、いわば彼女たちのリーダーとも言える人物。
――鈴木美緒さんだった。
「えっ、美緒? 何、どうしたの?」
取り巻く女子三人組も彼女の突然号泣し始めた姿に困惑している。
鈴木さんは泣きながら席を立ち上がって、ゆっくりとこちらに向かってきた。
そして河北さんの前まで来ると、泣きながら頭を下げた。
「ごめんさい、ごめんさい、ごめんなさい! 私、こんな事になるなんて思わなくて……。ただ、ちょっと苛々してただけなの! 私のせいで、本当にごめんなさい!」
何が何だか分からなかった。
鈴木さんの話を聞く限り、どうやら鈴木さんが、河北さんがいじめられる契機になった人物のようだが、どうして今になって謝り始めたんだ?
目まぐるしく進んでいく状況に置いてけぼりになっていると、次は河北さんが口を開き始めた。
「ううん、私こそ、私こそ強く言い過ぎたと思う」
「そんなことない! 河北さんは河北さんのままで良いんだよ!」
「そう、かな……」
「そうだよ!」
話が勝手に進んでいく。
「私、ずっと謝りたかった! 許してもらえるなんて思わないけど、私はあなたに謝らないといけないんだ! こんなの私の身勝手で、ただ私がしたいこと、それだけなんだけど……」
「ううん」
鈴木さんの悲痛な叫びに河北さんは優しい顔で首を振った。
「私こそ、謝ってくれてありがとう。本当にありがとう……」
「うん……うん……。本当にごめんなさい……」
彼女と彼女はお互いに泣き、そして二人抱き合って今までの悲しみを、後悔を、絶望を、失望を、ゆっくりと塗りつぶしていく。
――これで……、良かったのかな……。
正直、この展開についていけない僕だが、結果だけ見ればこれ以上に無いほどの大団円だった。
いじめの原因でもある鈴木さんが河北さんに大衆の前で謝れば、いじめをする大義名分もなくなる。大義名分なんか知ったこっちゃねぇ、と言われてしまえば終わりだが、いじめをする連中は変なところで、そういうのを気にする。だから心配はいらないだろう。
クラスの奴らを横目で確かめてみれば、呆気に取られていた。
そして一番気になるところである河北さんのいじめに執着していたあの女子三人組を見れば、とても間抜けな顔をしていた。僕はそれに内心で大笑いした。
力の入っていた肩を脱力させて、重い荷物から解放された気分になる。
まあ、河北さんたちが抱き合っているのを目の前にその横にいる僕ときたら何かの役に立ったのか疑問に思うが、いやホント、僕って何したんだ?
と、最終的な自分の無能さに情けなさをひしひしと感じていると、廊下側の教室後方の扉の向こうに澄人と花川さんの顔が見えた。
「ん? 澄人……?」
彼の顔を見て、そこでようやく合点がいった。
そうか、やはり君が仕組んだんだね。
僕はすぐさま走って澄人たちのいる廊下に出た。
そして僕に気付いた澄人が親指を立てて、満面の笑顔を見せる。
「よくやったな、学!」
*
いやあ、驚いた!
まさかここまで上手くことが運ぶとは思わなかった。
俺に策略家の才能があるとは。これでデ〇ノートとか拾っても有効活用できそうだ、なんてそこまで自惚れはしないが、しかし上手くいったのは事実。
「どういうことなんだ、澄人? 僕には何が何やら訳が分からない」
俺は今、教室から出てきた学に勢いそのままに詰め寄られていた。
学にしてみれば鈴木の事は一切話していなかった事なので驚くのも無理はない。
それに、――これは俺も驚いたが、まさか河北が啼泣という形であそこまで自分の弱さをつまびらかにするとは思わなかったしな。
「ま、お前が屋上の一件でそのまま逃げ続けるとは思っていなかった。今日この放課後で何か仕掛けるんじゃないかと期待して舞台を整えてみれば、案の定お前は期待通りに動いてくれた。いや、さすがにあそこで『好きだああああああ!』なんて叫ぶとは想像出来なかったけどさ。でも、その告白は河北にとっては効果抜群。結果オーライって訳だ」
俺の説明に学は「えっ」と言って口を半開きにしている。
「もしかして僕を信じていたの?」
「ああ、お前が屋上から立ち去るときに言ったろ?」
「けど、もし僕が昨日の今日ですぐに動かなかったらどうしてたのさ?」
「その時は、また明日も同じように舞台を整えるだけだ」
「……そっか、澄人はすごいな。……信じてくれてありがとう」
深く頭を下げる学に俺は「礼なんかいいから」と言って頭を上げさせる。
しかし、学には明日も同じように――、と言いつつ、本当にできるかと言われれば難しい。
「さすがに二度もあいつが騙されるとも思わないしな……」
「そうね。二度も同じ手は通用しない」
と、俺の独り言ちに返答した声は廊下の奥、学の後ろから聞こえた。
「おう、清宮。どうした? そろそろホームルームが始まるんじゃないか?」
俺の茶化した態度に清宮はビシッと指をさして睨みつける。
「そう言うのいらない。轟先生に呼び出されたと思ったら、先生からは一ノ宮に私を足止めするように言われたとか話してたし。ネタは上がってるから」
あの教師、すぐにバラしやがったな。
しかし、どうにかこうにか足止めはしてくれたのだろう。目の前の遅れてやって来た清宮がその何よりの証拠だ。
「……また一ノ宮に全部持ってかれたんだ」
清宮は扉のガラス窓から教室の様子を確認して、小さな声で呟いた。
清宮には轟先生を使って教室から離れてもらった。清宮が居ては学や鈴木の行動も今回のように上手くはいかない可能性があった。
河北が陰口を言われる状況を作らなければ、学を奮い立たせる事は出来なかっただろうし、泣いた河北には清宮が誰よりも先に駆け寄って、それでは鈴木が介入する隙間は無くなっていたはずだ。
清宮と言う存在は正直、邪魔だったのだ。
それは彼女の存在感がそれほどまでに特別である証左でもあるが。
「今回のは借りだから。いつか返すから」
清宮はそう言って教室に入っていった。
俺は教室に入っていく清宮の背中に「あとは頼むわ」と声をかける。
残念ながらその声への返答はなく、清宮は教室へ消えていった。
「なんだか、勝手だなー」
と言ったのは俺の背中で今まで静観していた妃菜。
「そう言うな。それがあいつの味なんだ」
「ふーん。そうかなあ?」
首を傾げる妃菜に俺は「ああ」と頷いて微笑む。
正直これからの後処理が一番面倒な仕事だ。それを清宮に全て任せるのだから、こんなの俺の方が借りだと言って良い。けれどあいつはそれを貸し借りなんて認めないだろう。そんなものは清宮にとっては当然の義務だと認識している。
あいつはどこまで行ってもすごい奴だ。
「そんじゃ、この辺で俺たちも戻るか。じゃあな、学」
俺の出来ることはもう何もない。あとは彼ら彼女らの――舞台だ。
もう俺の出る幕はない。
俺は学に手を上げて自分の教室に向かった。
「ああ、うん。今回はありがとう」
「だから礼なんかいいから」
「そう? けど、ありがとう」
「お前なあ……」
ため息を吐いて振り向くと、学は先ほど同様に深く頭を下げていた。
本当、律儀な奴だ……。
そんな彼の真っすぐで、純粋な姿につい微笑を浮かべてしまう。
その姿は俺が望んで、俺が理想を押し付けた、俺の知っている彼の姿だった。
これはやはり俺の身勝手な幻想の強要だ。
けれど、彼には、――古井学には、そうやって笑って愚直に真っすぐに突っ走る姿が似合う。
「ま、後はお前自身で頑張れよ」
だからこれから先の未来をつかみ取るのはお前自身だ。
その未来に関しても、もう俺の出る幕はない。お前ならもう俺の助言はいらないはずだ。だから頑張れ、とただ陰ながら彼の恋を応援している。
俺はそう言って、今度こそ教室に向かう。
背中越しにまだ彼が頭を下げている姿が実感できた。もしかしたらそれは俺の思い違いかもしれない。しかし、俺はそれを確信をもって実感している。
何故なら、彼とは、――古井学とはそういう人間なのだから。
*
今回の『いじめ』の原因は河北がいじめてくる相手に何も言い返さなかった事に理由があったと俺は考えている。
これは個人的な見解ではあるが、『いじめ』の対応として無視は何よりも悪手だ。
『いじめ』に対して無視をしたり、反応を示さなかったり、それによっていつか相手の興味が削がれると考えるのは当然の帰結だと思う。
しかし、『いじめ』って奴はそう簡単じゃない。
反応を示さないなら、反応があるまでちょっかいをかけ続ければいい。それでも駄目なら、相手に対するちょっかいをより一層激しくしてしまえ、とそう考えてしまう。
今回の場合はそれに該当する。
河北が何も言い返さないので、相手は「ああ、言って良いんだ」と勘違いして、安心して河北に暴言を吐く結果になった。
そして周りが言っているなら自分も、と『いじめ』に加担する敷居がどんどんと低くなって、その空気は波及していった。
今回これほどに『いじめ』が過激化し、大きくなったのは、それらの経緯や理由があって、『いじめ』が顕在化してしまったのだろう。
だからこそ、河北には反応を示してもらう必要があった。
どんな反応でも良い。怒ってもいいし、憐れんでもいい。
どんな表情でも、どんな感情でも。
――鼻をすすらせて、嗚咽を漏らして、大泣きしてもいい。
彼女の反応は想定以上の成果だった。
鈴木も感極まって、自分も泣いてしまう始末だからな……。
鈴木に関しては、事前に河北に謝れるようにその舞台を用意すると言っていたので、心配はしていなかったんだが、まさか鈴木も泣くなんてな……。
そして学に関しては、信じてはいたが、まさかあそこまでの事をするとは……。
さすが俺の友人だ。
とまあ、以上が今回の大まかなあらましだ。
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