第三章 自分のしたいこと

 江ノ島デートから数日。

 あれから学とは連絡を取っていない。もちろん会ってもいない。

 彼は河北からの告白を断った。

 その理由は「これは恋なんかじゃないから」らしい。

 学の言によれば河北の学に向ける感情は依存に近い。学と一緒にいれば一時的にいじめから解放され、安らぎを得られる。自分でなくても、それは誰にでも務まる役目。

 河北は恋をしたんじゃない。それは見せかけで、恋を理由に学に依存しているだけ。

 だからこそ、学は告白を断った。

 自分で招いた種で、自分が望んだエンディングだったのに、彼はそれを拒んだ。

 結局、自分を許せずにその結果を許さなかった。

 どこまで行っても古井学は馬鹿だったのだ。

 俺なんかは、それで始まる恋だってあっていいじゃないかと思ってしまう。

 人間、どこかしらに醜い部分はある。その醜さを含めて自分なのだから、共生して生きていくしかない。醜さを嫌悪して、その先に潔癖な人間は出来上がらない。いつだって、どこかに醜さを見つけて、ずっとずっと醜さという小さな汚れに苛まれ続けるのだ。

 そこまで思いつめなくても良いのではと友人のこれからを少し危惧しながらも俺は今日も今日とて、変わらない日常をつつがなく過ごしている。

 友人の恋に終着が訪れようと俺の日常には何の変化もない。周りから見ればその程度の些末な出来事。事件にもならない、路傍の石のごとく誰の関心ごとにもならない。

 唯一の変化はあれから妃菜とは一言も話さなくなった事だろうか。いつも通りに学校には来て、いつものメンバーで駄弁って、けれど俺とは目も合わせずに声をかける素振りもなかった。

 やはり怒っているのだろうか。有耶無耶にしたと思っていたが、妃菜は俺が相談を解決できなかった事に怒って、失望して、そして俺を見捨てたのか――。

 勝手な奴だと憤りたかったが、解決できなかった事実は変わらない。巻き込んだのは妃菜だが、引き受けたのは俺だ。俺の責任なのだから、彼女の失望ももっともなのかもしれない。

 そして今、そんな俺と妃菜の微妙な空気を察したらしい咲野と界人が話してみそ、ということで放課後の教室にて、二人に江ノ島での出来事を大まかに話していた。

 俺が話し終えると、続けざまに咲野がぽつぽつと一年の頃の河北との思い出を語り始める。咲野は河北に「自分らしくあれ」みたいなことを言って励ました事があるらしい。もしかしたらそれが今回のいじめに繋がったのではないかと咲野は心配しているが、そんな事はないだろう。

「自分の事を疑わず他人の事ばかり言ってる奴なんて嫌だろ。それは河北にとって考える良い切っ掛けだったんじゃないか。お前に気付かせてもらって河北だって感謝してるだろうよ」

「そうかな?」

「ああ。というか河北はお前の助言で自分を認めてもらう努力を覚えたんだ。それが友好関係に繋がる事はあっても、いじめに繋がる事はない。これとはまったく別の原因があって今回のいじめに繋がったんだ」

 そう、おそらく謎の人物ミオに関わる何かがあっていじめに発展してしまった。

「それじゃあ、その原因って……?」

 咲野が首を傾げて俺を見つめるが、界人がそれを遮った。

「いや、澄人はもうこの件からは下りたんだろう? じゃあ関係ない事は考える必要はないだろ。なあ?」

 そう言って微笑みを向けてくる界人。咲野は界人の言葉にまたもや首を傾げる。

「え、そうなの? 澄人が解決してくれるんじゃないの?」

「あっ、ああ、俺なりに頑張ったんだけどな……」

 その結果は何の進展も介入も出来なかった。ただ傍観するだけ。

「澄人はよくやったよ。そもそも他クラスの問題なのに澄人が出張ったら、問題が一層こじれるだろ。河北さんに話しかけて、古井くんにアドバイスをして、ここまでやったら誰も文句を言う奴はいない。ここら辺が限界なんだよ」

 界人は他クラスの問題を強調して咲野を説き伏せる。

 そうなんだよな。それがあるからこの問題は一向に前に進めない。俺では立ち位置的に介入しにくい状況なのだ。

「でも、それでも澄人なら何とかしてくれるよ!」

 咲野はキラキラとした瞳で俺を見つめる。俺にそんな瞳を向けないでくれ。。

 俺だから何とかなるなんて、そんな無責任な理想はただただ苦しいだけだ。

「俺を何の英雄と勘違いしてるんだ? まあ、このままじゃ寝覚めが悪いのも事実だし、轟先生にでも言ってどうにかしてもらうよ。それでいいだろ?」

「うーん。澄人がそう言うなら、まあ……」

 咲野は唇を尖らせて納得いっていない様子だが、それ以上は踏み込まないでくれた。

 咲野も河北とは友人らしいし、この問題を見過ごせない気持ちも分かるが、いじめという問題はどうしたって繊細で複雑だ。少しでも手順を間違えれば一気に崩壊してしまう。

 いじめを起こすのは簡単なのに、いじめを解決するのは無理難題と言えるほどに難しい。

「そうだ、仕方ないんだ」

 界人が横から追随する。

 こいつもこいつで俺の事を考えてこう言ってくれるだけで、界人だっていじめを見逃すのは本当は嫌に決まっている。

「田中も斎藤も心配してたぞ。あんま周りに迷惑かけんなよ」

「迷惑かけたつもりはないんだが……」

 と言いつつ、そのつもりはなくとも、田中たちが心配していたのは事実だ。彼らには申し訳ない。

 しかし、それにしても田中が心配していたのは驚きだ。あいつはこう言うことをすぐに茶化して、からかってくる奴だと思っていたが、存外俺が思っているほど田中も馬鹿ではないのかもしれない。いや、あいつはバカだ。そう信じたい。バカであってほしい。田中はバカ。

 斎藤に関しては動画の感想を言わなかったりとあからさまに彼を避けていた自覚があるので本当に申し訳なく思う。

 形ある何かを成し遂げている人を目の当たりにすると、何も出来なかった自分が惨めな存在だと思ってしまう。毎日の頻度で動画をアップしている斎藤がどうしようもなく輝いて見え、対して自分がどうしようもなく惨めに思えて仕方なかった。

 俺は失敗したのに、こいつは俺と違って何故こんなにも成功しているのだろうか、とそれは醜い嫉妬に似た嫌な感情。そんな自分の感情と向き合うのが怖くて、だから俺は斎藤を避けていた。彼には一切の非も無いというのに……。

 後でちゃんと二人には事情を説明しておかないとな。

 そして今はとりあえず目の前の二人に謝らなければ――。

「ごめんな、二人とも……」

 重い空気にはしたくなく、俺は苦笑しながら謝辞を述べた。

「俺に謝られてもな……。お前はよくやったよ」

「うんうん、澄人は頑張った。私が勝手に澄人なら解決できるって思っただけでさ。私こそごめん」

 二人も苦笑して、それぞれ首を振って俺の努力を讃える。

 俺にはもったいない級友だ。俺はただ失敗しただけなのに……。

 不意にスマフォが振動した。

 何かと思い、画面を見れば北村先輩からLINEが来ていた。

『放課後、生徒会室に来てね』

 妃菜も大概だが、この人も勝手な人だ。

 俺は二人に、急に用事が出来た旨を伝えて教室をあとにした。

 今頃になって北村先輩から何の用だろうか。……大体見当はつくが。

 どうやら河北の問題の情報を妃菜に提供したのが北村先輩らしく、十中八九それに関しての事なのだろうが、俺はもうこの問題からは手を引いた。

 俺に出来る事はもうないはずだが……。

 生徒会室に向かう足取りは決して軽くはなく、むしろ重いほどだった。

 廊下の途中、窓から西日が照って廊下の一部分を赤く染め上げていた。

 立ち止まって赤く染まった床を見つめる。

 またもやスマフォが振動した。

『早く来て』

 画面を見てため息を吐く。

「分かりましたよ、まったく」

 立ち止まっていた足を一歩前へ。

 俺は生徒会室に急いだ。



 生徒会室の扉を開ければ、そこには轟先生がいた。というか轟先生しかいなかった。

「あら、一ノ宮じゃない」

 ベランダの欄干に腰を預けて煙草をふかしている轟先生が俺に手を上げてくる。

「校内で煙草を吸って良いんですか?」

 轟先生の指に挟まれたものを見つめて、それがやはり煙草である事を確認する。

「ベランダならいいのよ。……来月から禁止らしいけど。まったく喫煙者に不自由な社会になったものだわ。自由と平和が世界のスローガンじゃないのかしら」

「世界のスローガンって……。でも煙草の煙で困ってる人もいるんだから仕方ないんじゃないですか?」

「私をそこらの自分勝手な輩と一緒にしないでほしいわね。私には私なりのポリシーがあるの。人に迷惑かけてまで吸わないわよ。けど今の禁煙文化は度が過ぎてるって話」

「なるほど。でも人間なんてルールを決めてあげないと、それこそ度が過ぎてしまう。皆が皆、先生みたいにはなれないんですから、やっぱり仕方ないんですよ」

「確かに、それを言われてしまえばどうしようもないわね」

 そう言って轟先生は煙草の先を携帯灰皿に押し付けて火を消した。

「まあ、一ノ宮に免じてこれからは職員室で吸ってあげるわ」

「そうしてください」

 ベランダに吹く風で轟先生の白衣がはためき、その姿がどうにも様になっていてかっこいい。

 そんな姿を見て、俺はため息を吐かざるを得ない。

 白衣に煙草に教師然としていない姿はなんともラノベに出てくるような教師像そのものだが、こんな人が現実に本当に存在しているとは今でも驚きだ。ここに独身要素もプラスすればどこぞの国語教師と同じなのだが、残念なことに轟先生は既婚者だ。その点では勝ち組なのだろう。というかこの人、人妻かよ。俺にそんな癖はないが興奮する人には興奮するのだろうか。

「それで、一ノ宮は生徒会室に何の用なの?」

 轟先生はベランダに通じる扉を後ろ手で閉めて、こちらにやって来た。

「北村先輩に呼ばれたんですよ。何の用かは聞かされていませんが」

「ふーん。それは変ね。北村なら体調が悪くて欠席したわよ。だから今日の生徒会の仕事も会長がいなくても出来る作業だけやって皆には帰ってもらったのよ」

「なるほど」

 ということは、――どういうことだ?

 たしかに俺は先程、北村先輩から連絡を受けてここにやって来たはずなんだが。

 再度スマフォを確認すると、新しいメッセージが来ていた。

『今日は轟先生と話してもらいます。何を話すかは君に任せるよ。自分の胸に手を当てて話したい事を話すように』

 スマフォを静かにしまって、天井を見上げる。

 はめられた。

「どうしたの?」

 轟先生は手近な椅子に座って足を組んだ。そして小首を傾げてこちらを窺う。

「どうやら俺と先生を引き合わせる為に北村先輩が仕組んだようです」

「引き合わせる? 私と一ノ宮を引き合わせて恋の成就とか? 旦那はいるけどそれでもいいなら、私は構わないわよ」

 そうか、ここから轟飛鳥ルート突入! 今日からヒロインは轟先生。みんなの前ではツンツンしてるけど、俺と一緒の時だけはデレデレしてくる可愛い奴なんだ、ってそれっぽく言ってみても人妻との恋愛とかドロドロの未来しか見えないんですけど。ラブコメ成立しないでしょ。

「そう言うことじゃありません」

 まあ、こんな綺麗な人に誘われたら嬉しくない訳でもなくもないけど、やはり轟先生と恋人とか考えられねぇよ。

「冗談よ。それで、引き合わせるってどういうこと?」

「それは――」

 何を話すのか。おそらく河北京子の問題を指しているのだろう。

 ここまでして俺にこの問題を解決させようとするのか……。

 いや、これは轟先生に相談する絶好の機会じゃないか。先程界人たちにも話した通りあとは轟先生にこの問題をどうにかしてもらうしかない。と言ってもこの人が良い顔して問題解決に奔走する姿なんて想像できない。だが、それが教師の務めで大人の役目。轟先生には申し訳ないが、もう教師が介入しなければ問題は終息しない段階だ。

 俺は決断して河北の問題を話そうと口を開きかけた。しかし――。

「へえー。三組のいじめの問題ね」

 俺が話すよりも先に轟先生が話そうとしたことを言葉にした。

「どうしてそれを……」

 俺の疑問に轟先生は手にしていたスマフォをかざして、画面を見せてきた。

「北村から今連絡があってね。一ノ宮だと話すのを渋るかもしれないから、らしいわよ」

「はあ、さいですか」

 なんて用意周到な人だ。俺が話せないという可能性も考慮して手を打っていたのか。

 北村先輩の周到さに舌を巻きながらも、これはこれで話が速いと俺は思った。

「三組でいじめが起きてる事は知っていましたか?」

「………………」

 俺の質問に返答はなかった。だが俺は構わずに話を続けた。

「三組の河北京子という女子がいじめられているそうです。何を契機にいじめが起きたのかは分かっていませんが彼女がいじめられているのは事実です。俺もこの目で彼女の上履きがゴミ箱に捨てられているのを見ました」

「なるほどね」

 轟先生はふむふむと頷いて「それで?」と訊く。

「先生にはこの問題をどうにかしてほしいんです」

「ふーん」

 轟先生は机に肩肘をついて頬杖をしている。

「私にどうにかしてほしい、か。私が快く引き受けると思う? こんな面倒くさそうなこと。聞かなかった事にしていいかしら?」

「教師としてその発言はどうなんですか? 先生が解決しなくても他の先生に伝えるくらいでもいいですよ。もう生徒間で解決できるレベルじゃないんです」

「本当にそうなの?」

「どういうことですか?」

 轟先生の発言に自然と眉間に力が入る。

 それは俺が何も出来なかった、その未熟さへの皮肉のようで俺が責められているように聞こえる。

「そう怖い顔しないでよ。あんたが悪いなんて一言も言ってないでしょ?」

「けれどそのニュアンスはありましたよね」

「そりゃあ、そういう風に言ったもの。あんたが解決できてれば、全てが楽に事が収まった」

「俺がそこまで責任を持たないといけないんですか?」

「それもそう。一ノ宮がそこまで責任を感じる事じゃないわ。けど、一ノ宮はどうなの? 私には未練がましく後悔たらたらな顔に見えるけど」

「どんな顔ですか」

「鏡で見る?」

「遠慮しておきます」

 視線を落として轟先生の指摘について考える。

 俺が未練がましい? そんなことはない。申し訳なさは多少なりとも抱いているつもりだ。けれどそれ以上に未練や後悔は存在しない。解決できなかった事は誰がどう見ても仕方のないことじゃないか。誰よりも俺がそれを理解している。

 だから未練なんて、後悔なんて、そんなことはあり得ない。

「それじゃあ、お願いします。俺はこれで……」

「待ちなさいよ。もう終わり? 自分勝手な男はモテないわよ?」

「あいにく恋人はいます。これ以上モテようとは思いません」

「でも、その恋人さんと今はちょっと微妙な感じらしいけど?」

 上げかけた腰を落として轟先生の顔に向き直る。

「よく見てますね」

「これでも教師なのよ。生徒のことは把握しているの」

「すごく説得力の無い発言ですね」

「ありがとう」

「褒めてませんよ」

 轟先生は首を振った。

「私にとっては誉め言葉。理想の教師像とか辟易するのよ。熱いのとか暑苦しいのとか」

「それはただ熱い先生ってことでは?」

「そうよ。中学の頃、クラスの担任が所謂、熱血教師って奴で本当に嫌だったわ。合唱祭とか体育祭とか練習の為に放課後は毎日居残りなのよ? 担任だけは一位にこだわってたけど、私たちはそれ程でもなくて、結局は微妙な順位になった。そして担任は私たちに説教。なんでもっと努力しなかったんだ、なんで真剣に頑張らなかったんだ、とか心に響かない言葉ばかり。そこで初めて気づいたわ。大人って独りよがりなんだなあって」

「そして先生はその中学の思い出を教訓にしたと? 独りよがりの権化みたいな人が何を言ってるんですか?」

 轟先生は手を振って俺の言葉に反論する。

「違うわよ。独りよがりでも良い。けど他人に迷惑をかけるのは止めようって考えたのよ」

「それで生徒には無干渉という訳ですか。それはそれで教師としてどうなんですか」

 轟先生の暴論にため息を吐きかけて首を振る。もう、この人はどうしようもない。どこまで行ってもこの人は轟飛鳥と言う存在なのだ。

「一ノ宮はこれからどうするの?」

「どうって、なんですか?」

「河北京子の問題よ。本当に手を引くの?」

「しつこいですね」

 妃菜も北村先輩も轟先生も何故もそこまで俺に執着するのだろうか。俺より上手く立ち回れる奴がいるかもしれない。大人に任せた方がすぐに収拾できるかもしれない。何も出来ないと諦めた俺にはもう価値がないというのに。

「私やその他の教師に任せていいの? それで後悔しないのね?」

「後悔って……。もう、それしか打てる手段がないんですよ」

「あなたが思い描く終わり方にならないかもしれないけど、いいのね?」

「それは、どういうことですか?」

 俺の問いに轟先生は微かに息を漏らして、力なく笑った。

「生徒間のいじめや嫌がらせの問題に教師が介入して良い解決をしたことは、ほぼないのよ。表面的に問題を終息させることは出来る。けれど、その後の人間関係は? 関係性を築き直すのは当人たち、つまり生徒たちの役割なのよ。無理矢理に教師が沈静化させた問題の後に、人間関係が上手くいくと思う? 言っておくわ。問題解決なんて誰でもできる。けれど、そこに人間関係の修復は含まれないのよ」

「教師じゃ人間関係までは踏み込めないって事ですか?」

「そういうこと。そこからは私たちの領分じゃないし、安易に踏み込んで良いものでもない。仮に問題終息後の人間関係まで教師が面倒を見るとして、一ノ宮は上手くいくと思う?」

 俺は小さく首を振って、項垂れた。

「生徒にとって教師はどこまで行っても部外者です。教師に何を言われようが胸の内でちゃんと納得しなければ関係性を修復できるはずがない。表面上、仲良くするフリはするかもしれませんけど、そんなの……」

 そんなの、何の解決にもなっていない。

「だから私たちも手をこまねいているのよ。今だって、こんな面倒ごとに悩まされる日々を早く抜け出したいって思ってるのに……。ほんと、どうしようかしら」

 俺は轟先生のその言葉に顔を上げた。

「待ってください。先生はこの問題を北村先輩に連絡をもらう前から知っていたんですか?」

 轟先生は片眉を上げて「そうよ」と答えた。

「三組の担任教諭から何週間か前に相談を受けたのよ」

「そ、そうなんですか」

 そう言えば、いつしか喫茶店で会った時にそんなことを言っていたような。そんな前からこの人は知っていたのか。

「まあ、前から知っていようが考える結論は変わらない。教師による強硬手段じゃ一ノ宮が望む本当の解決は叶わないわ」

「俺は一言もそんなことは……」

 轟先生は大仰にため息を吐いて俺を指さした。

「もう、そういう面倒くさいのはやめなさいよ。あなたはそれを望んでいるんでしょう。その難しい理想があるからこそ、叶えられないと悟って手を引いた。そうでしょ?」

 返す言葉もなかった。まったくその通り過ぎて怖いくらいだ。この人は生徒には無干渉と言いながら、やっぱり生徒のことをよく見ている。

「一ノ宮のしたいことは何なのよ」

「俺のしたいこと?」

「そう。一ノ宮が本当にしたいこと。誰かに何かを頼まれてやるんじゃなくて、一ノ宮はどうしたいの? 解決できる云々は置いといて、一ノ宮がこの問題をどうしたいのか。どこに向かわせて、どこで終わらせたいの?」

「俺は――」

 そこから言葉は続かなかった。その先の答えを俺はまだ持ち合わせていない。

 轟先生は言葉に詰まったそんな俺を優しい眼差しで見つめて、小さく微笑んだ。そして俺に気を遣うように小さく呟く。

「まあ、気長にやるしかないのかもしれないけど……」

「そうですね……」

 俺は首を垂れて俯いた。

 俺のしたいこと?

 やらなければいけない使命ではなくて、やりたいと思う欲求。

 俺は今まで妃菜から頼まれた相談をどのような気持ちで引き受けてきたのか?

 そうだ。俺は仕方ないと、諦念交じりに相談を引き受けてきた。

 では何故、どうして、俺は自分のしたいことでもない相談事を解決してきたのか。

 俺のしたいこと、それはなんだ?

 考えても、答えは出てこない。疑問が頭の中で錯綜し、渦になって、散らばっていく。

 俺は椅子から立ち上がって無言で扉に向かった。

 早く独りになって冷静になりたかった。ぐちゃぐちゃの思考を整えて、いつも通りの俺に戻らなければ。

 足早に扉に向かい、そして扉に手を掛けようとして、後ろから轟先生に声をかけられた。その声に俺は反射的に振り返ってしまう。

「最後にヒント。鈴木美緒(すずき みお)を覚えている? その人物があんたが探している子よ」

「鈴木美緒……。去年クラスが一緒だった?」

 俺が探しているってどういうことだ? 確かに鈴木美緒という人物は知っている。一年の頃クラスが一緒でよく話した記憶もある。クラスでは女子の中心的な存在で明るく気さくな人柄だった。妃菜とも仲が良かったような気がするが……。

 まさかと思い、轟先生を凝視する。

 鈴木美緒? 美緒? ミオ?

 それは河北京子がいじめられる契機に関わる人物の名前だ。しかし、鈴木がそのミオなのか?

 俺は今一度、一年の頃の鈴木の記憶を思い出すが、やはりあいつがいじめを起こすような人間だとは思えない。鈴木はそんな性格じゃなかった。俺や妃菜や咲野など、いじめという行為を無意味だと思っていた一人だったはずだ。そういう奴だった。だからこそ今の今まで俺は鈴木美緒を可能性から除外していたのだが――。

「先生はそれをどこで知ったんですか?」

「花川から教えてもらったのよ」

「妃菜が……?」

 あいつはミオの正体を知っていて俺に言わなかったのか。

 何故? そんなの決まっている。

 あいつの勝手な理想の押し付け。どこまで俺を英雄にしたいんだよ。

「もしかして先生もグルなんですか? 妃菜と北村先輩の」

 轟先生は手をひらひらと振って苦笑する。

「疑いすぎよ。どうやら私もあの子たちの掌の上で踊らされてるらしいからね。今日だってあんた同様、北村に謀られたようだし」

「先生はそれでいいんですか?」

「私はいいわよ。それで面倒ごとが解決するなら騙されてもいいわ。大事なのは自分が納得できるかどうか。私は花川たちがどんな意図であんたや私を謀ろうが、私にとってはその先にある結果が重要なのよ。結果が満足できるものなら、私はそれでいい」

 轟先生はどこまでも自分を持っている。自分が納得できるなら騙されてもいいなんて、俺はまだそこまで割り切れない。

「自分が納得できる。つまりは自分のしたいこと。その欲求に背かない事なら許してしまえる。私の欲求は面倒ごとの無い日常で、のほほんと過ごすこと。その欲求に忠実にしていれば、花川たちにどう扱われようが許してしまえる」

「それは結局、それぞれに利害が一致しているってことですか?」

「そう言うことかしら。あんたは――、一ノ宮はどうなの? 許せる?」

 床を見つめて、こぶしを握る。

「俺は許せません」

 騙されて、謀られて、勝手に理想を押し付けられて。そんなの俺からしてみれば理不尽も良いところだ。許せるはずがない。

「でも、私にはそうは見えないのよね。一ノ宮はやっぱり後悔たらたらな顔をしてるわよ」

「だからどんな顔ですか?」

「鏡で見る?」

「いえ、それは遠慮します」

「そう? 自分の顔くらいちゃんと認識しといたほうが良いと思うけど。自分のことをちゃんと知るためにも」

「………………」

 轟先生の言葉にうまく返答できなかった。

 自分を知る。自分のしたいこと。自分が納得できること。轟先生は一貫して自分自身を認識する重要性を説いていた。いや重要どころか、それはものを考える上での大前提で、俺にはそれが欠落している。だからこそ俺の思考は行き止まりしてしまう。

 無言の状態で立ち止まっていると、そんな俺に気を使ったのか轟先生は優しい声で話を切り上げた。

「柄にもなく話しすぎたわね」

 こんな時に限って優しい一面を見せる。だからやっぱりこの人も教師なんだな、と再認識してしまう。

「すみません」

 俺の陳謝に轟先生は「なにがよ」と目を逸らして微かに頬を朱に染めていた。

 そんな先生に苦笑しながらも、俺は今度こそ扉に手をかけて生徒会室をあとにする。

「それじゃあ、失礼します」

「なに、もう帰る気? もう少し付き合いなさいよ。職員会議が終わるまであともう少しなんだから」

「いや、あんたは早く会議に出ろよ」

「教師に向かってなんて口の利き方をするのよ」

 その声とともに後ろから肩のあたりを軽く殴られる。そうして隣に並んだ轟先生に視線を向けて首を傾げた。

「どうしましたか?」

「あんたに言われたから、会議に行くのよ」

「なんですか。先生ツンデレってやつですか?」

「違うわよ。学年主任に怒られるのが嫌なのよ」

 今から会議に途中参加しても怒られるのは変わらなさそうだが。

「まあ、そう言うことにしておきますよ」

「なんだが癪に障る言い方ね」

「そうですか?」

「そうよ」

 と言って轟先生は丸めたプリントで俺の頭をはたく。

「理不尽だ」

 後頭部を抱えて非難を叫ぶが、轟先生は鼻で笑って一蹴する。

「いいのよ。これが私のしたいことなんだから」

 俺の頭をはたくのがしたい事ってどういう趣味だよ。

 頭を擦りながら恨めしい視線を送るが轟先生は肩を竦めて微笑むだけ。間もなくして轟先生は「それじゃ」と言って立ち去った。

「なんつー暴論だ」

 彼女の後ろ姿を眺めつつ、俺は小さな声で呟く。

 その声は当然、轟先生には届かずに空気に溶けていった。



 轟先生と別れて教室に戻れば、咲野と界人はもういなかった。しかし教室には思わぬ先客がが待っていた。

「清宮?」

 窓際の机に瞑目しながら腰を下ろしているのは見間違えることなく、確かに清宮美海だった。

 俺の声に目を開けて清宮がこちらに視線を向ける。

「………………」

 何も言わないのかよ。

 胸の内で悪態を吐きながらも清宮にここに居る理由を尋ねる。

「どうした? 俺になんか用か?」

 と言ってみたものの、こいつが俺に用事なんて考えられない。こいつはそういう奴だ。昔はもっと可愛げがあったんだけどな。

 思った通り清宮は「別に」と言ってそっぽを向いた。視線の先は風でカーテンが揺らめく窓の外。彼女の目にはどんな景色が見えているのだろうか。

「部活はどうした?」

 何とはなしに聞いてみた。

「体調が悪いからって休んだ」

「ふーん。悪そうには見えないけどな」

 まさか答えが返ってくるとは思わず、ついつい小言で反応してしまった。いけない、先の轟先生との会話での感覚が抜け切れていない。

 それに今、清宮と話すのはどうにも嫌な気がした。

 このまま彼女と話していればいつしかボロが出ると思って、俺は机に置いていた鞄を引っ掴み、清宮に「そんじゃ」と言って、ついと教室を後にしようとして――。

 しかしそこで清宮に呼び止められる。

「ねえ、京子の問題からは手を引いたんだよね」

「あ?」

 振り向いて、疑問よりも先に怒りが込み上げた。お前もそれか。

「知ってたんだな。つっても、お前ならさすがに勘づくか」

「そりゃあ嫌でも気づくわよ。私は釘を刺したはずなんだけど、どうして勝手なことするかな」

「勝手なことをしてどうもすみませんでしたって謝ればいいか? けど、どうせ俺は何も出来なかった。傍観しかできなかった。まあ、そういう点では何もしなかったに近いし、謝る必要もないな」

「そうね。一ノ宮は何も出来なかった……」

「改めて言うなよ」

 うんざりだ。たかだか少しの失敗でこんなにも責め立てられないといけないのか。

 妃菜や轟先生はともかく、こいつは俺に河北の件に関わってほしくなかったんだろ? 自分で何とかするって考えなんだろ? それともただ失敗した俺をからかいたいのか。だとしたら相当、悪趣味だ。

「話はそれだけか? なら俺はもう帰るけど」

 清宮は俯いている。その雰囲気は鬱々と暗いもので覆われていて、何故だかその空気に既視感を覚えた。

 ああ、そうか。これは俺だ。何も出来なかった無力さに打ちひしがれた自分自身のようで、清宮のその姿に少し自己嫌悪に近い、同族嫌悪を感じてしまう。

「私も……私も、何も出来てない」

 予想通り、彼女も自身の無力感に絶望している。なんでも出来ると無意識にでも感じていた自尊心が崩れていく。俺と彼女はその崩壊を今、ただ茫然と眺める事しかできない。

「お前は俺なんかよりも河北の助けになってるだろ?」

 慰める気なんかなかったのに、彼女の項垂れた姿を見てしまえば、つい優しい声音で彼女の功績を労ってしまう。

 けれど、彼女はそんなことを望んでいる訳ではない。

 結果が欲しい。成功という名の問題解決を望んでいる。ただそれだけだ。

「他クラスの一ノ宮が今回の問題にアプローチできる範囲は限られている。だから、今回こそは私の手で、私の力で解決できるって思ったのに……!」

「そうか」

 俺は勘違いをしていたのかもしれない。

 他クラスだから、当事者ではないから。だからこの問題に手を出せる限界を決めていた。前提として問題に一線を引いていた。

 俺がもし河北と同じクラスだったら、河北と友人関係だったら、清宮と同じ立ち位置だったら、俺は河北へのいじめを止めることが出来ただろうか? 問題を解決することが出来ただろうか?

 自信をもって頷くことは出来ない。

 それはもしかしたらの世界線で、考えても詮無きことなのは重々承知だが、俺は考えてしまう。結局は俺もどう足掻こうが目の前で俯く清宮と同じように何も出来ないのではないか、と。

「手を貸そうか?」

 その言葉は不意に口から出てきた。

「………………」

 清宮からの返答はない。

 ひとしきり沈黙が続く。カーテンが風で揺らめく音だけが教室に響いた。

「やっぱり、さっきの無し」

 俺は苦笑いを浮かべて手を横に振った。

 清宮に手を貸そうなんてのは野暮だ。彼女は身の回りの問題を自分の力で解決したいから今まで努力してきたんだ。クラスの皆と絶妙な関係性を築き、自分の裁量権が多方面に及ぶように、自分という存在を特別に見せた。そして事実、清宮はそれを実際に成し遂げている。清宮の名はクラスだけに留まらず、他クラスの奴だって清宮を知っている。それほどに彼女は特別な存在という武器を手に入れた。それがすべて努力の賜物だと誰も気づかず……。

「ねえ」

 静かだった教室に清宮の凛とした声音がこだまする。

 

「――あんたは諦めるの?」

 

 その声は俺の心臓めがけて刺すように鋭く、そして突き放すように冷徹だった。

「私は諦めないよ。あんたみたいに頼まれてるから解決しようとしてるんじゃない。私は問題を解決したいから努力してるんだ」

 手を貸そうか、と不意に言葉が出た。それが俺の弱さだ。俺は頼まれないと、相談されないと動くことが出来ない。俺はまた清宮を使って問題に関わろうと言い訳を作ろうとした。

 何が一緒だ。何が清宮と同じ立ち位置だったら、だ。

 こいつと俺は全然違う。

 俺なんかよりも行動する理念をしっかりと確立させている。

 俺なんかよりもちゃんと問題に向き合っている。

 清宮美海は俺なんかよりも気高く、美しく、自立している。

「そうか」

 相槌しか打てない。

 何をやっているんだ、俺は。

 どうしたいんだ、俺は。

 答えは見つからない。どうしても見つけることが出来ない。

「私は最後まで足掻く。それを言うために来たから」

 そう言って清宮は教室から出ていった。

 一人残された俺はするりと手から鞄を落として、じっと窓の外を眺める。

 カーテンから透けて見える景色は赤く染まった夕空だけで、それ以外は特に確認できない。

 清宮なら俺とは違った景色が見えていたのだろうか。

 答えは返ってこない。その疑問はずっと頭の中で渦巻くだけ。



 自宅に帰ってからソファに寝転び、今日あったことについてずっと考えていた。

 けれどいつまで考え続けても答えは出てこない。

 ずっとずっと扉の無い部屋を彷徨っているようで、その窮屈さと外へ出れない絶望に嫌気が差してくる。

 轟先生には自分のしたいことが重要だと言われた。

 清宮には俺は頼られないと解決しようとしないと言われた。

 清宮の言い分はもっともだった。俺は妃菜に相談されない限り動かない。自分から積極的に問題を解決しようと前のめりになったことなど一度足りともなかった。

 自分とは何だ?

 それに背かなければ何事も許してしまえる、自分が納得できるほどの信念、信条。

 つまりは『自分のしたいこと』

 今までの俺を振り返れば確かに、俺には欲求が無かった。

 ただ流動的に物事に流されていた。

 問題を解決する事も妃菜に頼まれたからすべきことだと思って、解決に邁進していた。

 自分の意志も感情も心情も、どこにも存在しない。どこを見渡しても更地で、まっさらな地面が広がっているだけ。

 何もない。何もない。何もない。

 ――俺は空っぽな人間だった。

 他人より少し立ち回りがよくて、今までの相談事もたまたま上手くことが収まっただけ。

 何かを持っていると思い込んでいて、実際は何も持ち合わせていない。

 握った手を開けばそこには何もない。

 俺には何もない……。

 ――何者でもない。

 小一時間ほどソファに寝そべっていた。その間ずっと考え続けて、しかし答えは未だ見つけられない。

 考えることにも疲れて目を閉じて頭を落ち着かせれば、眠気が襲ってくる。そしてそのまま眠ってしまいそうになって――。

 しかしその時、床に投げ出していたスマフォが振動と同時に騒がしい着信音を鳴り響かせた。

 ソファから手を伸ばしてスマフォを取り上げれば、画面には北村先輩の電話番号が表示されている。

 億劫に思いながらも電話に出れば、北村先輩の静かな声がスマフォの向こうから聞こえた。

『やあ、澄人くん』

「どうしましたか、北村先輩」

『どうしたと思う?』

「さあ? どうしたんですか?」

 おどけた調子でしらを切る。電話の理由なんて分かっている。

『なんだよー。分かってるくせに。君はそこまで鈍感じゃないだろう?」

「鈍感ですよ。ラブコメ主人公に負けないくらいに鈍感です」

『いやいや。君はどちらかと言うと相手の気持ちを知った上で鈍感のふりをする人間だ。君はそうやって嘘をつく』

「嘘は優しさです」

『けれど同時に真実を隠す残酷な手段でもある』

 確かに嘘は残酷だ。けれどそれで救われる人だっている。一概に嘘の価値は否定できない。

「先輩は嘘が嫌いですか?」

『いいや。どちらかと言えば、好きかな。嘘は上手く使えば魔法になる』

「それじゃあ、俺は魔法使いですね」

『そうかー、澄人くんは経験が無いんだね』

 北村先輩は俺の発言に対して、さも憐れんでいるように返答した。

「何の経験か、とは訊きませんよ。先輩もそんな下世話な隠語を使うんですね」

『私だって年相応にそう言う事にも興味があるってことだよ。初めては澄人くんがいいなあ』

「これも何の初めてなのか、とは訊きませんよ」

『聞いてくれてもいいんだよ。私は聞いてほしい』

「やめておきます」

『何で?』

「そりゃあ……」

 浅く息を吐いて、言葉を区切る。

「――先輩のことが好きになっちゃいますから」

 自分の吐息が少しだけ熱い気がする。

 北村先輩は一瞬だけ声を詰まらせて、しかしすぐに落ち着き払って返答する。

『それは、駄目だね』

「はい。駄目です」

 力なく笑って、天井を眺める。

 北村先輩との恋愛か。そんなのはあり得ないよな。

『話を戻そうか』

「話題なんて最初からありませんでしたよ」

『そうだっけ? でもまあ、君なら察しがついているだろう? 私が何を話したいのか』

「俺の話したい事じゃ駄目ですか? 例えば昨日読んだ小説の話とか」

 何の話なのかは知っている。けれど俺はそれから目を逸らす。もういいだろ……。

 北村先輩は俺の冗談に軽く笑って、しかし、しっかりとそれを否定する。彼女は俺の逃避を許さない。

『それはとても興味をそそられる話題だけれども、でも駄目だよ。私から電話をしたんだ。私の話したい事を話すんだ』

 俺はその返事に微笑みを浮かべて、ため息を吐く。

「すごい理不尽だ」

 この人はやはり自分勝手だ。俺はいつも振り回されているように感じる。そういう星のもとに生まれてしまったのだろうかと疑問に思う事もしばしばで、北村先輩以外にも妃菜も轟先生も、俺の周りには自分勝手な人間が多い。まあ、そういうところが魅力的でもあるのだが……。

 そんな北村先輩は俺の言葉に「そうだよ」と言って笑った。

『この世は理不尽だらけ。それもやるせない理不尽ばかりだ。私の理不尽なんて可愛いものだから我慢しなさい』

「その論理すら理不尽ですね」

『そうだよ。けれどそれが君に対する私の在り方だから。こういう愛情表現だってあるんだよ』

「そんな愛情じゃあ、誰にも好かれません」

『君に好かれれば十分。君はこんな私が嫌いかい?』

 今度は俺が声を詰まらせる番。けれど俺も北村先輩と同様、すぐに落ち着き払って質問に答える。

「好きですよ。遺憾ながら」

 スマフォの向こうから「あはははは」と楽しそうな笑い声が聞こえる。

『浮気だね』

「そういう意味じゃありません」

『分かっているよ、ごめんね。からかいが過ぎた。話を戻そう』

「だから、話題は最初からありませんって」

『ああ、そうだった。けど君から話してくれても良いんだよ? いや、君から話しなよ』

「いえ、俺は……」

 北村先輩が何の意図で電話してきたのかその真意までは分かりかねるが、どんな話題で電話してきたのかは察する事が出来る。

 河北京子のいじめの話だろ――。

 胸の内で自分の予想を投げやりに言葉にする。

 今日はこの話題で持ちきりだ。皆が皆、この話をしたがる。そろそろ飽きてもおかしくないだろうに。

「轟先生に会わせたのは何の意図があったんですか?」

『いきなり質問? 性急だなあ』

 からかうような抑揚のある声。北村先輩と話しているといつだって主導権を握られる。けれど今は彼女の好きなように話の流れを作らせない。

 そもそもこの人が妃菜を使って俺に面倒ごとを押し付けた張本人。北村先輩が今回の黒幕と言ってもいい。いじめだってこの人のマッチポンプかもしれない、というのは冗談だが。果たしてこの人はどこまでこの問題に精通しているのか。そして俺を利用してこの問題をどのような決着に向かわせようとしているのか。

「轟先生と話させたのは何か理由があったんでしょ? 北村先輩は俺を先生と会わせて何をしたかったんですか?」

『さあ? それは君が自覚することに意味があるんだ。君はどう思う?』

「どう思うって……。分からないから聞いているんです」

『分からない? 本当に分からないの? そうか、それじゃあ君はまだ辿り着けてない』

 辿り着く? 北村先輩の話はなんだか胡乱で要領を得ない。俺をどうしたいのか。結局この人の掌の上で踊らされているようで気分が悪い。

「俺をどこに辿り着かせたいんですか? コンビニだったらすぐに行けますよ」

『それじゃあ、おでんを買ってきてもらおうかな』

「この時期におでんはもうないでしょう」

 それに最近のコンビニにはカウンター横におでんを展開していないらしい。もっぱら袋に詰められているものだけで、おそらく北村先輩が言っているのはそれではないだろう。

『まあ、冗談はその辺でさ。轟先生にはなんて言われたんだい? そしてそれに対して君は何を思ったのかな?』

 核心の質問だった。北村先輩はこちらを試すように問いかける。

 轟先生が俺に話したこと、それは――。

「自分のしたいことが重要だと言われました。自分がどうするべきかではなくて、どうしたいのか」

『つまり君がこの問題をどうさせたいのか。どこに向かわせたいのか』

 言おうとしたことを先に言われた。もしかして轟先生との会話を盗み聞ぎされていたのだろうか。

『それで君はどうしたいの? 先生の言う通り、そこが重要だと私も思うし』

「俺は……」

 放課後、生徒会室での場面がフラッシュバックする。そこには俯き、項垂れ、首を振る自分がいた。

「……まだ分かりません」

『そうか……』

 電話の奥からは微かに嘆息が漏れた音が聞こえた。落胆されたのだろうか。未だに答えを見つけられていない俺に北村先輩も失望したのだろうか。

『澄人くんはさ、なんで花ちゃんの頼まれごとを引き受けるのかな? それは君にとって本当にしたい事なの?』

「……違います」

『それじゃあ、どうして花ちゃんの頼みごとを引き受けるのかな? 君にとってはしたい事でもないのに何故やるのか。澄人くんは断る事だって出来るはずだ』

「いや、それは妃菜が無理矢理……」

『花ちゃんを言い訳に使うのはカッコ悪いよ』

「………………」

 正直、自分の真意なんて考えてこなかった。他人の真意ばかり探って、疑って、暴いて。俺の視線はいつだって外側に向いていた。自分の内側に視線を向けた事はついぞなかったし、そうしようとも思わなかった。

 俺とは何だ? 何をしたいんだ? 何を欲しているんだ?

 まるで哲学、というかそのまんま、まさしく哲学だ。

 ニーチェ先生の『ツァラトゥストラ』を途中で投げ出した俺に果たして自分の欲求と対峙する力を有しているのだろうか。

『人に頼られてそれを引き受けて、その場合そこには損得勘定に即した決定意志が介されている。澄人くんは花ちゃんの持ってきた相談事を引き受けた。その結果から逆算して理由を考える。さて、君はどのような理由で、いやもっと具体的にどんなメリットを見出して相談事を引き受けたのか。そこに答えはないかい?』

 北村先輩の懇切丁寧な説明によるその方程式はまったく誰もが頷ける論理的な考えだった。その考えに則れば、おそらく俺も答えに辿り着く事が出来るのだろう。いや、出来るはずだ。

 けれど、その答えに俺は納得できるのだろうか。

 果たして俺は損得勘定をもとに妃菜が持ってくる相談事を引き受けていたのか?

 たぶん、違う。

 メリット、デメリットで行動原理を定められるなら、それは俺の理想像とも呼べる人間の在り方だ。七面倒くさい感情に惑わされず、そのシンプルな姿は人の思想の完成形で理想形。しかし生憎、俺はそこまで完璧に論理で構成された人間にはなれていない。この先もその理想に追いつく事はないだろうと悟りながらも。いや、理想は幻想だから美しい。ならば俺はそろそろ現実を見るべきなのかもしれない。

 ――現実。

 理想に夢想している自分。それに向き合う時。

 大層な言葉を羅列しているが、辿り着く答えはおおかた大層なものではないだろうに。

 俺は何故もこうまでして小難しく思考を深めてしまうのか。

 俺の悪い癖だ。

 とうに答えは見つけている。ただ目を背けているだけ。

「そこに答えはないでしょうね。損得じゃない。俺の行動は理屈では説明できない。馬鹿みたいに粗雑で、非論理的で、感情に流されている」

 そんな理想とはかけ離れた自分を直視したくなくて、見ない振りをしていた。皆が焦がれる一ノ宮澄人の理想を見せかけでも、その虚像を維持しようとした。けれど虚像は虚像でしかない。現実に映る自分の姿を隠し通すなんてこと出来やしない。

 理想を守り続けて、いざその理想が維持出来なくなったら、次はそれを理想の押し付けだと言って周りの皆に責を負わせる。

 それは、逃げているだけだ。

 だから、そろそろ逃げるのを終わりにしなければいけない。

 逃げちゃダメだ、と追い詰められた可哀想な主人公のようになるまで自分を責めろ、とは思わないが。むしろ逃避も精神を安定する為の一つの有効な手段なのだから。

 しかし今この時に限っては自分を責めてやらねばならない。

 古井学の相談も、河北京子の問題も、どちらも中途半端に投げ出した自分を情けないと自覚しなければいけない。

「俺は友人の恋愛が成就してほしいと思って相談を引き受けた。それに付随して友人の恋愛成就の為に河北京子の問題を解決しようとした。そして友人が恋愛はもういい、と諦めて、俺も問題から手を引いた。字面だけをなぞれば、それだけの話だった。けれど……」

 独白だった。

 敬語も丁寧語も忘れている。これは北村先輩へ語っているのではない。俺は自分に語りかけ、自分に問いかけ、そして自分という舞台で独白している。

 だからこそ疑問を提示する。

 本当に問題から手を引いたのは友人――古井学の為だったのか、と。

 彼の意志の尊重だと言って河北の告白を断った事を肯定したが、しかし俺はただ自身の本意の責任を取るのが怖くなって、その本意をひた隠ししたのではないか? いや、したのだ。隠したのだ。

 表面上の言葉が彼の真意だと誰が言った? 学が言ったか? それこそ疑わしい。

 友人ならば学の言葉の裏側まで読み解かなければならない、とそこまでいけばそれはもう何か不思議な力、超能力の類になってしまうが。

 人の言葉はいつだって表があり、裏がある。いいや、裏なんてのは決めつけかもしれない。しかし真意を、本意を隠しているかもしれない。可能性はある。証拠を出せ、証人を出せ、というならば俺自身がそうだ。俺だって隠している。俺だって感情を、心情を、気持ちのあらゆるを隠している。自分というサンプルをもとに友人もそうかもしれないと、やはりそれも決めつけで、もしかしたらいい迷惑であり、お節介かもしれない。

 けれど、俺は動かなければいけない。動かないと何も始まらない。動かないとスタートラインすら立てない。動かないと問題を解決するマイクロ単位の道程すら進むことは叶わない。

 だからこそ、今回は古井学に『理由』になってもらおう。

 そもそも彼を発端に、そして契機に、この複雑な問題に介入することになったんだ。問題に取り組む『理由』になる事ぐらい許してもらわなければ割に合わない。

「今回は友人のために問題を解決します」

『その友人くんは望んでいないとしても?』

「望んでいます。それは確信ではなく願望に近いものですが。けれど俺は助けなければいけない。いやそれも違う。俺は彼に、彼女に、彼女たちに手を貸すだけだ。手を貸して、それからは彼らの本意と行動しだい」

『それはまた自分の行動『理由』の放棄ということかい?』

「違います。ちゃんと手を貸す『理由』を決めている。もう迷うことはない」

 俺が問題解決しようとする『理由』は見つかった。けれどこの問題は俺が一方的に解決して収まるものじゃない。そもそも、それで収まる結末を俺は望んでいない。

 学が、河北が、そして――。

 最後には彼ら、彼女らの意志が必要だ。

『それは友人のため?』

 北村先輩が問う。

「まあ、それが主な理由で、あとは――」

 恋人のため、なんて恥ずかしい事は言わない。言いたくないし。

 結局、俺の最大『理由』は妃菜の為なのかもしれない……。

 首を振って、苦笑する。

 その『理由』が一番しっくり来てしまうから、たちが悪い。

『もう大丈夫なようだね。なんだか知らないが、自分で折り合いをつけたようだ』

「はい」

 結局、この人の誘導に導かれたような気がするが、まあ、今回は良いだろう。

 行動すると決めたからには、その日が吉日。すぐに動かなければ。

「それじゃあ、電話、切りますね」

『ああ。私も安心したら眠くなってきた。次、君と話すのは問題が解決したときだ。それまで楽しみに待っているよ』

「はい。楽しみに待っていてください」

『ああ、そうする……』

 北村先輩の声は段々と薄く掠れていき、最後には小さな息遣い、――寝息が聞こえるだけだった。

 眠ってしまったのだろう。彼女が裏で何をしていたのかは分からないが、相当疲れていたはずだ。そして、ようやっとその疲労から解放されて気を張っていた糸がプチンと切れた。

 俺は何も言わずに電話を切った。

 そして別の人物に電話をかける。

 数回のコール音の後にその人物は電話に出た。

「出てくれてありがとう」

『答えは出たんだよね』

「ああ。だからお前に電話したんだ。それに頼みごともある」

『ふーん、そっか。それじゃあ、私もそろそろ許そうかな』

「ああ、許してくれ。お前と話さないと俺は案外寂しいらしい」

『へぇ~、そうなんだぁ~。澄人にそんなこと言われたの初めて。とっても嬉しい』

「ごめんな」

『ううん。こっちこそ自分勝手でごめんね。けど、これが私の愛情表現だから……』

 倒錯的で、歪曲した愛情は所謂ヤンデレのようで戸惑うこともあるが、しかしそんな彼女に恋している自分がどうしようもない。

『それで、頼みごとって?』

「ああ、それはな……」

 電話の向こうにいる人物、――花川妃菜に一つの頼みごとを言った。

 彼女は嬉しそうに高い声で相槌を打って、俺の頼みごとを受け入れた。

『それだけで、いいの?』

「ああ、それだけでいい。それだけ調べてくれれば、あとは俺がするよ」

『分かった。澄人を信じる』

 妃菜の返事に「ありがとう」と伝えて、同時に身体を起こす。ずっとソファで寝ころんでいたので、身体の節々がズキズキと痛い。しかしそんな痛みにかまけている時間はない。

 ようやく、問題解決のために動くのだから。

 初めの一歩にはずいぶんと遅い幕開けに自分の不甲斐なさを自覚して、しかしてすぐに終わるだろう幕引きを想像する。

「大丈夫、上手くいくはずだ」



 茜色に染まっていた夕空も徐々に暗く薄らいでいき、夜空の黒に侵食されていく。この時間の空は、霞んだ赤と、暗さを増す夜色と、うっすらと見える星々の輝きとが合わさって幻想的な光景を描き出す。

 この空の美しさが一瞬なのだろうとそれを想うと、どうしようもなく寂しい。

 俺は今、横山公園に来ている。

 妃菜、北村先輩との電話から一晩明けて、その放課後。俺は横山公園のテニスコートにやって来たのだが、ここに来た理由はとある人物に会うためだ。

 テニスコートに備え付けられたライトが点灯し始めて、もうそんな時間かと気付かせる。

 薄暗くなっていたテニスコートは眩しく、しかして淡い人工的な光に照らされる。その光景は放課後の部活動とはまた違った印象を受ける。青春とは異なる青さというか。まあ、部活動も何もやっていない俺にはもう分からない感慨かもしれないが……。

 美しくも幻想的な空はあっという間に消失して、今は微かに灰色と黒を塗って描かれた未完成な夜空になっている。

 テニスコートは全部で四面あって、それぞれに俺と同い年のように見える男子や女子がボールを打ち合っていた。

 その中に目当ての人物が汗だくになって一所懸命にラリーをしている。

 俺はテニスコートからフェンスを挟んで設置されているベンチに座り小説を読んでいる、ふりをしている。

 もう何時間になるだろうか。そろそろ不審者に思われても仕方ないが、さて、いつになったら目当ての人物に接触できるか。そしてその人物にどう声をかけるか。

 正直、ノープランだが、まあ、俺の天地の才能とイケメンフェイスがあればどうとでもなる、とナルシズムに思えればいいのだが、そんな楽観的に考えられる訳もなく、さあ、どうするべきか……。

 しかし幸か不幸か、テニスコートの向こうは休憩に入ったらしく、練習していた人たちがフェンスから出てきて、横山公園へ三々五々に散っていった。

 目当ての人物もフェンスから出てきて、そしてすぐにベンチに座っていた俺に気付いたようでこちらに近づいてきた。

「あ、あれ? 一ノ宮? どしたのこんなとこで?」

 考えの整理がついていない俺は内心で焦りながらも、どうにか平静を装って笑いかける。

「やあ、鈴木。待ってたよ」

 待っていた相手は、――鈴木美緒だった。

 すらっとした手足はスポーツ少女というよりもモデルのようなスタイルの良さ。テニスウェアから覗く健康的な肌色は美麗さだけでなく活発さを印象付ける。髪は黒が透けて、ライトの光に照らされると茶髪に見えるが、確かこれは地毛らしく、今まで髪を染めた事はないらしい。今はポニーテールにまとめられ、しかしそれでも髪には汗が滴っている。

 一年の頃よりも少し垢抜けただろうか。まだまだ瑞々しさを感じるが、そこに少しだけ大人っぽさが見え隠れする。

 クラスが変わって一ヵ月ほどしか経っていないのに、女子って変わるときはすぐに変わるからなあ、と内心で女子の成長スピードに驚きつつ、彼女の様子を確認するが……。

 鈴木は俺の言葉に若干引いた顔で「えっ、えっ、えっ?」と困惑していた。

 そりゃあ、学校外で、それも別のクラスになってからはろくに話してもいないし、ましてや会ってもいない男子が待ち伏せしているとか女子にすれば、マジ恐怖体験かよ、というレベルだろう。

 さて、色々な奴と話した経験を有している俺でも、この状況を上手い具合に切り抜けるすべを持ち合わせてはいない。というか、最後は結局、河北の件に関して話すのだから、どうしたって上手くいく未来なんか見えない。ここは変に話を回りくどくしても意味がないだろう。

 高をくくった俺は単刀直入に話を切り出すことにした。

「河北京子。……彼女の話を聞きに来たんだ。それだけ言えばもう分かるだろ、鈴木?」

「――っ!」

 引き気味の顔から一変、彼女はハッとした表情で驚きを隠せないでいた。

 あたり、か。

 この反応を見れば、やはり鈴木は河北の問題に少なからず関わっている。

「何で知ってるの?」

 怯えた表情の鈴木は震えた声で問いかける。

「それは――」

 彼女の額からは汗が流れて、顔全体がびっしょりだった。はたしてその汗が練習で掻いたものなのか、それとも今この場で掻いた汗なのか……。

 俺は一度、小さくため息を吐いて、立ち上がる。そして近くの自動販売機でスポーツドリンクを二つ買って、片方を鈴木に投げ渡した。

「すごい汗だぞ。飲めよ」

「あっ、うん。ありがとう」

 鈴木はペットボトルのキャップを開けて、ぐびぐびと中身を飲んでいく。そんなに喉が渇くほど練習していたのか、とそこまで俺も鈍くない。

 スポドリのお陰か、彼女の汗は徐々に引いてきたようだった。

 俺も同様、スポドリを飲んで喉を潤す。中学でサッカーをやめてからはスポドリなんて普段飲まないので、久しぶりのこの甘さに懐かしさを感じる。

 意外に糖分が多いから日常的には飲もうとは思わないんだよな。

「落ち着いたか?」

 半分くらい飲み終わって、彼女の顔を窺う。見れば先程よりも汗が引いて、顔色も良くなっていた。

「うん。大丈夫」

「そりゃあ、良かった」

 彼女の顔色を確認し終えて、俺は一気にスポーツドリンクを飲み干した。

 空になったペットボトルをゴミ箱に捨てて、振り返って彼女に声をかける。

「そう言えば、鈴木ってテニスしてたんだな」

 一年の頃は俺と同じく部活動をしていない者同士、俺と妃菜と三人で一緒に下校することもあった。

「部活じゃなくて、クラブで小学三年生ぐらいからやってるの」

「へぇー、約七年も続けてんのか。すごいな」

 鈴木は苦笑しながら首を振った。

「ただ、だらだらと続けてるだけだよ」

「そうなのか?」

「そうだよ。続けて誰もがプロになれる訳じゃない。人には限界があって、そこに突き当たれば、そこがその人のゴール。私もこれ以上続けて上手くなる訳でもないのに、けど……」

「そんな簡単に辞められるほど、軽い気持ちでテニスをやっていなかった。そうだろ?」

「先に言わないでよ。でも、うん。そうだよ」

 俯く鈴木の隣に座って、背もたれに背中を預ける。

「暑いな」

「何それ。……けど、そうだね。暑いね」

 顔を上げて力なく笑う鈴木はどこか無理をしているようだった。顔色が良くなっても、彼女の懸案事項は未だに胸のつかえとして残っているのだろう。まだ根本的な問題の解決はしていないのだから。

 その解決のためにも彼女、――鈴木美緒には聞かなくてはいけないことが山ほどある。

 俺は意を決して、鈴木に顔を向けて口を開いた。

「鈴木は河北をいじめてるのか?」

 

「違う!」

 

 その否定の言葉は俺が質問を言い終わるのと同時に、いやそれよりも少し早く、発せられた。

「違う。違う。違う……」

 彼女は首を振って否定の言葉をぶつぶつと呟く。それはどうにも自分に言い聞かせているようで、彼女のその様子は痛ましかった。

「違うのか?」

 自分自身に否定の言葉を刷り込ませている彼女は、俺の問いに口を噤んで、かぶりを振るのをやめた。

 俯く彼女は小さく「違わない」と言って、両手で顔を覆う。

 そんな鈴木の姿を静かに眺めるだけで、俺は何も言わなかった。

 彼女は泣いていた。

 肩を震わして、感情を涙に変えて少しずつ吐露していく。

 鼻をすすり、嗚咽を漏らし、彼女は徐々に泣き声を大きくした。

 やはり鈴木は問題の根本的な部分に関わっている。そしてその根本的なところを鈴木は今まで隠してきた。どんな理由にせよ、彼女はそれを隠した結果、河北はいじめられ続けたのだ。

 その事実は変わらない。そう変わらないはずだが……。

 しかし、今、分かることもある。

 鈴木美緒は河北京子のいじめに対して罪悪感を抱いている、ということだ。

 その証拠が目の前で人の目も憚らずに泣きじゃくる彼女の姿だ。

 これは嘘泣きか? なんて邪推は馬鹿々々しい。

 鈴木のその涙が本物であることぐらい俺にも分かる。

 女の子が鼻水垂らしてまでつく嘘なんかこの世には一つ足りともない。

 彼女は嘘偽りなく、本当に涙を流しているのだ。

「話してくれるか?」

 だんだんと彼女のすすり泣く声は萎んでいった。肩の震えも小さくなって、徐々に冷静さを取り戻しているのだろう。

 そんな彼女は顔を覆っていた両手で目をごしごしと拭った。そして顔を上げれば、目の周りを赤く腫らせた鈴木の顔がお披露目される。

「うん」

 鈴木の泣き腫らした顔にどんだけ泣いてんだよ、と茶化して笑ってやりたいが、そんなことをすれば彼女の頷きが無くなってしまう。

 はあ、とため息を吐きたくなる。

 こんなシリアスな雰囲気は元から苦手なんだよ。今すぐにでも実にもならない馬鹿話でも話して、鈴木には泣いた事も忘れて笑ってほしいが、そうはいかない。

 ここで目を背ける訳にはいかない。

 俺はもう決めた。この問題を解決すると、決めたんだ。

 だからこそ鈴木の話を聞かなければいけない。

「ありがとう」

 頷いてくれた鈴木に感謝を述べて笑顔を向ける。

 鈴木も力なく笑って、もう一度頷いた。

「無理しなくてもいいからな。けれど、話してくれたら嬉しい」

「決意したのに、なんでそんなこと今ごろ言うかなあ」

 鈴木は俺に向き合って俺の頬に掌を押し当てた。彼女の手は人肌ほどに温かく、なんだか、とても安心する。

「ヌルヌルするな。汗か?」

「もうさー。女子にそういうこと言う? サイテー」

 彼女は笑って、俺も笑う。

「それでこの手は何? 好きでもない男にこんな事すると勘違いさせるぞ」

「確かに、一ノ宮の事はそういう目で見てないし困るなあ。妃菜に殺されそう、一ノ宮が」

「おい、俺かよ!」

「あははははっ、冗談、冗談。ごめん」

 腹を抱えて笑い出す鈴木。先ほど泣いていた事なんて、無かったように。

「………………」

 結局、茶化してしまう。これが俺の甘さだろうか。

 同じクラスだった女子に、他愛もない話で盛り上がった友人に優しくしてしまうのは、やはり俺の甘さなのだろう。

 これ以上訊くのはやめようか……。

 明日で良いじゃないか、と心中で誰かが囁く。その言葉に首を振りたいのに、けれど――。

「緊張っていうか、不安だったんだ。一ノ宮に嫌われるんじゃないかって……」

 彼女の返答に目を見開いた。

「どういうことだ?」

 鈴木は視線を下に向けて、軽く笑みを浮かべる。

「これから話す内容を聞いて、一ノ宮はどう思うのかなって不安なんだよ。こんな私っぽくない私の姿を見て、一ノ宮は失望するんじゃないかな?」

「失望って……」

 しない、なんて断言はできなかった。

 俺が知っている鈴木美緒はいじめになんて加担しない。そんなもの意味もないし価値もないと、俺と同じような考えの持ち主だと、一種それは同志のようにも思っていた。その友情にも似た感情を覆すほどの現実とのギャップがあるのならば、もしかしたら俺は鈴木に失望してしまうかもしれない。

 まったく、ここにきてまた理想の押し付けなのか。

 俺もまた鈴木美緒に多少なりとも理想を抱いていたのか。

 心の中で首を振る。違う。そうじゃない。

 一年の頃、一緒のクラスで馬鹿話をしていた鈴木も、それも現実だった。

 そうだ、俺が見てきた鈴木はたしかに現実だったはずだ。

 彼女が俺の予想だにしない、考えられない行為をしても、そこには何か理由があるはずだ。

 信じよう。彼女を、――鈴木美緒を。

「失望なんてしない。だから大丈夫だ。まあ、最低な行為をしたんなら、サイテーって言ってやるけどな」

「ふふっ。もう、なにそれ。私だってそんなこと言われたら傷つくよ。けど、そうやってちゃんと言ってくれた方が良いかも。変に同情とかされても嫌だし……」

 鈴木は微笑んで、俺の頬から手を離した。

「よし。話すね!」

「ああ」

 何か吹っ切れたようで、彼女の目は据わっていた。彼女が良いのなら良いのだろう。

 咳払いをして話すを準備を、気持ちを整える。

 そして彼女は話し始めた。

「四月が始まって間もない放課後の事だったかな。前日にテニスの試合があって、それが上手くいかなくてさ。その日はメンタルダメダメで、私苛々してたんだよ。前日まで試合の事で頭いっぱいだったから宿題とかも手つかずで、その日は教室に残って宿題をやってた。そしてその宿題を回収する担当が河北さんだったんだ。河北さんは私が宿題を終えるまで待ってくれて、けどさ、私には逆にそれがプレッシャーっていうか……。河北さんだけじゃなくて、それ以外にもクラスでよくしゃべる子たちも残ってくれて、けどその子たちもその子たちで、うっさい声で楽しそうに話して、それなら先に帰ればいいのに――とも思ったんだけど、せっかく私を待ってくれてるのにそんなこと言うのもさ……」

「お前が待っててくれって言ったのか?」

「言ってないけど。でも無下には出来ないよ。それにそんなこと言ったらさ……」

 彼女の声は萎んでいく。

「そんな奴ら、本当に友達なのか?」

 俺の問いに鈴木は苦笑して首を振る。

「ううん。正直私は友達だと思ってない。クラスが変わってすぐに話しかけてきて、それからずるずるその子たちと話すようになって……。話しててもあんまり面白くないし、他人の悪口ばっかで退屈で……。でもそれもさ、しょうがないし……」

「しょうがない、か……」

 一言で言えば、面倒くさい人間関係だ。

 好意的に接してくる人を拒むことは出来ない。

 仲良くしようとしてくる人を拒むことも出来ない。

 俺の見解では大方、見た目も上の上で性格も明るい根っからのリア充気質の鈴木に、雰囲気リア充の奴たちが群がって来たのではないだろうか。そして恐らくその雰囲気リア充の奴らが駅で河北の悪口を言っていた女子三人組だ。

 そうか、何となく問題の全体像が見えてきた。

「それで、宿題をやって、どうしたんだ?」

「うん。まあ、それで苛々しながら宿題してて、けど全然終わりが見えなくてさ。それでもっと苛々しちゃって……」

「お前らしくないな」

「だから私っぽくないって言ったじゃん」

「そうか」

「………………」

 鈴木は黙ってテニスコートの方に視線を移した。

「テニスに限界を感じてるのか?」

 俺もテニスコートに視線を向けて、彼女の顔を見ずに問いかける。

 先程の鈴木の言葉。

 だらだらと続けているだけ。

 プロになれる訳じゃない。

 ――限界。――ゴール。

 俺も似た感情を抱いた事がある。

 中学でサッカーをやっていて感じた違和感。

 これから上手くなるか分からない。いや、多少技術は向上するだろう。けれどそんなのプロになるだろう本物たちに比べれば微々たるもので、それじゃあ、これ以上サッカーをやっていても意味ないかもな、なんて……。

 努力をしたくない大義名分を欲していたのかもしれない。

 隙が生まれて、そこが抉じ開けられ大きな穴になって、そしてただの空洞になってしまった。そこはもう空っぽで、サッカーに対するやる気はいつの間にかどこかに行ってしまった。

 それを自覚して、俺は中学でサッカーをやめた。

 鈴木はどうなのだろうか?

「私はいつかはプロになるんだろうなって思ってたんだよ。中学まではそれで迷いなく真っすぐに突っ走れた。けど高校生になってから試合に勝てなくなることが多くなって、今じゃ全然、勝てなくなっちゃった……。どんなにどんなに練習しても、結局試合で負けるんだよ。いつしか試合の日を思うと憂鬱になって、テニスコートに立っても勝ってる自分の姿が思い描けなくなって……。――昔はもっと違った。努力すればそれに見合った対価が得られる。だから努力して、努力して、努力して。そうやって結果が出て、結果が出て、結果が出て! それが自信にも繋がって、私はこのままもっと先に行けるんだ、そう思ってた。けどそんな昔の感覚すらもう、とっくのとうに忘れちゃった。それで最近はずっと苛々してた。学校で能天気に馬鹿笑いしている人や、落ち込んだ振りして慰めてもらってる人とか、どいつもこいつも、幸せそうに! 不幸そうに振る舞ってる奴だって、本当の苦しみを知らないんだよ! 私は、私は、私は……。どうして私だけが……!」

 顔を俯かせて、彼女はまた涙を流した。

 そんな泣きじゃくる鈴木に「それはお前の思い込みだろ」なんて言って、さすがに納得するはずがないよな。

 そもそも、彼女は理解しているはずだ。

 自分の考えの身勝手さに。

「だから、その放課後も苛々してたんだな。そして、その苛立ちが河北のいじめに繋がったのか?」

 鈴木は泣き声を抑えて、静かに頷いた。

「そうだよ。苛々しながら宿題をやってる私に河北さんが『なんで宿題をやって来なかったの?』って訊いてきて、それに過敏に反応しちゃった。それで河北さんに酷い事を言っちゃった……」

「酷いこと?」

「うん」

 唇を震わせている。口を開けようとして躊躇っている。それほどに彼女にとってその言葉を言った事を後悔しているのだろう。

「――河北さんって、前々から思ってたんだけど、ちょっとウザいよね」

 鈴木は泣きながら、河北に投げかけた言葉を声に出した。

「なんで、あんなこと言ったんだろう……。どうして、どうして……」

 彼女の言によれば、その一言で周りにいた女子三人組も追随して河北に暴言、罵詈雑言などを言い始めたらしい。

 それに対して河北は言い返すこともなく、その反応がさらに女子三人を勢いづかせた。

 女子三人はずっと、今までの鬱憤を晴らすように汚い言葉を投げつけた。

 河北は言われっぱなしで何も言い返さない。こぶしを握って、顔も苦しそうに歪めて、何も言わず、いや何も言えずに立ち尽くす姿。その姿を見て漸く鈴木は自分が大変な事をやってしまったのだと思い至ったそうだ。

「私はもう何も言ってないのに、他の三人はずっと河北さんに悪口をぶつけてた。それで私に共感を求めてくるんだよ? ただちょっと軽はずみに言っただけなのに……。いつの間にか日が経つにつれて、その場に居なかったクラスの女子たちも河北さんの陰口とか言うようになってさ。最終的に女子だけじゃなくて男子も、そして教室の皆に――」

 ――いじめは広がっていった。

 鈴木の一言を契機に、彼女の想像を超える状態にまで発展した。

「謝ろうとは思わなかったのか?」

 その質問に鈴木は泣き声を大きくして大粒の涙を流した。

「謝ろうと思ったよ? 思ったけど……。もう、そんなこと言える雰囲気じゃなかった。今頃になって私が謝って、そしたら次は私が標的になるかもしれない」

「お前はそんなこと気にする奴じゃなかったろ? いじめなんか無意味で無価値で、そう思ってたはずだ。鈴木、お前はそんな薄汚い行為に怯える奴じゃなかった!」

「違うよ! 私はもとから弱かったんだよ! 一年の頃は一ノ宮がいたから安心できた。心の余裕があったんだよ!」

「俺がいたから?」

 鈴木は睨みつけるように鋭い眼差しで俺に視線を向ける。

「一ノ宮はすごいよ。一ノ宮がいるだけでクラスの雰囲気が良くなる。嫌な奴なんか、いなくなるんだよ」

「そんなのは、買い被りだ」

「違う! 違うよ……。だって、今の、私のクラスがその証拠だもん。清宮さんは上手くやってると思う。けど、一ノ宮と比べちゃうと清宮さんは特別すぎるんだよ。誰からも一目置かれて、触れられない特別な存在で……。けど特別すぎれば、それはもう部外者でもあるんだよ。一ノ宮はその特別感が良い意味でなかった。一ノ宮は誰とでも分け隔てなく絡むことが出来るじゃん? その上で皆からすごい奴だって思われてる。一ノ宮は相手との絶妙な距離感で接することが出来るんだよ。だから一ノ宮がいるクラスでは問題も事件も起きない。クラスの雰囲気が悪くなる事もない。一ノ宮には自覚ないかもしれないけど、一ノ宮の存在はすごく大きかったんだよ……」

 一呼吸おいて、彼女は話を続ける。

「だからさ、今のクラスじゃ私は弱い。一年の頃の私なんか嘘っぱちだよ。いじめが無意味で無価値なんてこと分かってる。けど怖いんだ。怖くてしょうがないんだ……」

 彼女は項垂れる。嫌々と耳を塞いで首を振る子供のように、鈴木は涙を流して罪悪感から逃げていた。

 しかしそのまま塞ぎ込んでいて、何になるんだ?

 お前はそのままで良いのか?

「サイテーだな」

 俺は項垂れる彼女の頭に、思ったそのままの言葉を投げつけた。

「言ったろ。最低な行為にはちゃんと、サイテーって言ってやるって」

「あっ」

 鈴木は顔を上げて驚いた表情をしている。

「本当に言わなくてもいいじゃん。こんな泣いてる女子にフツー言う?」

「俺は真の男女平等主義者だからな。女子でも男子でも変わらない。それが間違いだと思ったなら友人でも親友でも、ちゃんと言ってやる」

 それはひょっとして、傲慢かもしれない。けれど、それが相手の為になると信じて言ってやらねばならない。傲慢、思い込み……、それは全部答えを先送りにする言い訳でしかない。

「お前は河北に悪口言った事を悔いてんだろ? 後悔してるんだろ? 悪かったと自分の非を認めてるんだろ?」

 鈴木は唇を噛みながら、苦しそうに頷く。

「分かってる。謝らないといけない。河北さんは何も悪くない。私が勝手に苛々して、河北さんを怒りの捌け口にしただけで。けど、怖いって言ってるじゃん! 怖くて、怖くて、どうしようもないんだよ!」

 鈴木の叫びが夜中の横山公園に響き渡る。

 俺はベンチに寄りかかって、首を上に向けた。夕空は綺麗さっぱり消えており、そこには、代わりに夜空が広がっていた。星々が散っていて、ゆっくりと動く人工衛星の小さな光も視認できる。こんなに星が綺麗に見えるのはやはり相模原が田舎である証拠か、なんてプロの相模原市民は気落ちしない。東京への便も良く、なおかつ美しい夜空も味わう事が出来るのは相模原市民の特権だ。

 しかし相模原と言っても千差万別。山梨に近ければ周りは山ばかり、逆に東京に近ければ、夜も明るいネオン街が広がっている。ここら辺はその中間地点と言った感じだ。住宅街が広がる一方で相模川の方へ少し向かえば木々が鬱蒼とする山々がお出迎えする。

 横山公園は住宅街に囲まれている影響もあって夜はとても暗くなる。街灯がぽつぽつと淋しく灯っている程度で、夜の散歩にはやや心許ない。しかし、だからこそ、横山公園から夜空を眺めれば星々の煌めきに驚かされる。

 俺はそんな夜空を見つめながら口を開き、――言葉を紡ぐ。

「お前はそれでいいのか? お前はそのままでいいのか? 断言してやる。このままじゃお前は絶対に後悔し続ける。ずっと、ずっと、ずっと」

「脅し? そんなの言われなくても分かってる! けれど、これはどうしようもないんだよ。私は怖い。この恐怖感を拭うことなんてできない!」

「友人でもない奴に嫌われてもいいだろ。興味ない奴の好意も嫌悪もどうでもいいはずだ。そんな奴らに嫌われる事に恐怖を覚える必要なんかない」

「分かってる! そんな理屈は分かってる! けど、けど、けど! これは理屈じゃなくて感情なんだよ! この恐怖を強引に説き伏せないでよ! そんなので解決なんかしない」

「怖いのは河北も同じだ! お前はそれに目を背けて、自分だけ怖い怖いってそれは通用しない」

「それは……」

 鈴木は言葉を詰まらせて押し黙った。

「俺はただ、お前がどうしたいのか。お前が何をしたいのか聞きたいんだ」

 どの口が言っているんだか。俺がその台詞を言っている事がどれほど滑稽なのか自分が一番理解している。けれど、今はそんな自分を棚に上げて、目の前の彼女に問いたださなければいけないのだ。

 自分のしたいこと、を。

「あっ、あっ、そ、それは……」

 鈴木は口をパクパクと開閉して自分の答えを言いあぐねている。躊躇って、言い淀んで、彼女は自分の答えが正しいのか迷っていた。

 俺はその隙を狙いすまして言葉を続ける。

「怖いだなんだ、お前の出来ない理由は分かった。俺は無理強いしてお前に河北への謝罪を強制する気はない。けどな、お前はどうしたいんだ? 出来る出来ないは関係なしにお前が河北に謝りたいのか、それとも謝りたくないのか。もう一度訊く。お前はどうしたい?」

「そんなの……。そんなの決まってる……」

 そうだ、最初から決まっている。

 お前は良い奴だ。正しい奴だ。こんな事で悩む奴なんかじゃない。

「私は、謝りたい! 河北さんにちゃんと、ごめんなさいって言いたい。それで許してもらえるかは分からないけど、だけど私は謝りたいよ!」

 悲痛な叫びは俺の胸に届いた。

 それでいいんだよ、鈴木。

「なら話は簡単だ。お前の望みを俺が叶えてやる。お前が河北に謝りたいって言うなら、その舞台を用意してやる」

 俺の言葉に彼女は驚きの表情の後、すぐに首を大きく振って俺の提案を否定する。

「出来るはずない……。いくら一ノ宮だって他クラスの問題に介入なんか出来ないよ。気持ちだけで嬉しい。こんな問題、誰にだって解決出来るはずない」

 その通りだ。他クラスの問題を一人で解決する力を俺は有していない。だからこそ、俺は今の今まで問題解決に立ち往生していた。

 しかし、それは俺が一人で解決する場合だけだ。

 俺一人で不十分なら、他の奴を頼ればいい。他の奴が駄目なら、そのまた他の奴に頼ればいいだけの話だ。

「じゃあ、お前が、――お前たちが解決するんだ」

 この問題は決して俺が解決する必要はない。

 当人たちで解決できるなら、それが一番良いに決まっている。

「そ、そんなの出来たら今ごろ苦労しない! 清宮さんでも駄目だったんだ。もうクラス内で解決なんて……」

「だから言ったろ? 俺が舞台を用意してやる。お前が怖いとかほざけない状況を作ってやる。あとは、お前たちが解決しろ」

「出来るはず……、出来るはず、ない……」

 萎んだ声でぶつぶつと否定の言葉を呟いて首を振るが、俺は彼女のその不可能を決めつける姿に不敵に笑って見せる。

「出来る。絶対に出来る。これはもう決まっている事だ。お前が無理だと何回言おうが、これは絶対に成功させる。だから、お前も覚悟を決めろ。お前なら絶対に出来るはずだから」

 俺は鈴木に手を差し伸べた。

 お前なら出来るなんて、まさしく理想の押し付けだ。

 けれど、一年の頃の、――過去の鈴木を思えば、あの鈴木の姿だって現実だったはずだ。今現在の鈴木からすれば、それは理想という名の幻想、そんな鈴木は最初から存在していないと首を振るかもしれない。だが、過去の鈴木の姿は確かに現実だったんだ。

 ――なら未来の鈴木だって、現実に変わる。

 唇を震わせて、何回も口をパクパクしている。

 言うか言うまいか、彼女は今葛藤していた。

 けれどお前なら、――鈴木美緒なら大丈夫だ。

 きっと、答えを出してくれる。

「私は……、私は……!」

 つっかえつっかえの鈴木の声は懸命にその先の答えを導こうと必死だった。

 俺は優しく微笑んで彼女の答えを待つ。

 大丈夫。お前なら、きっと……。

 そして、彼女は答えを声に出す。

 ――その答えは。


 彼女との話が終わってテニスコートから離れると、後ろから「といやっ」と肩をチョップされた。

 振り返れば、妃菜が「にひひ」といたずらに成功した子供のように笑っている。

「んだよ」

「なにさー、その反応。せっかく美緒ちゃんがここでテニスの練習してるって調べたのにー」

「それに関しては、あんがと」

「うん、どういたしまして。それでどうだったの? 美緒ちゃんは説得できた?」

「いやー、どうだろうな」

「なんだよーその返事! なんだか心配だなあ」

 妃菜は大仰に肩を竦めて、やれやれと首を振る。

「澄人の真似」

「似てねぇよ」

「似てるよー!」

 頬を膨らませて、ぷんすかな感じの妃菜さん。可愛い。

 けれど、妃菜の杞憂は心配ない。

 あいつなら、一歩を踏み出してくれる。俺は信じている。

「大丈夫。鈴木なら勇気を出してくれるはずだ」

「美緒ちゃん頼り?」

「ああ、そうだ」

「むっ」

 俺の即答に妃菜は唇を尖らせた。

「なんだか吹っ切れた?」

「いいや」

 俺は何も変わっていない。自分のしたいこと、なんてものもただの理由付け。

 結局俺はこいつが頼ってくるから、それに応えたいだけなんだ。

 男の意地というか、カッコつけたいだけというか……。

 俺の真意なんてカッコ悪いプライドでしかない。

 それでも、そんな俺でもお前は俺を好いてくれるだろうか?

 その問いを声には出せない。

 そんなのは、一ノ宮澄人ではないから。

「それで、明日はどうなの?」

 妃菜はニヤニヤ笑いながら訊いてきた。

「さあな。それは明日になるまでのお楽しみだ」

 と言いつつ、俺は明日の、彼との対話に少しだけ不安を抱いていた。

 果たして彼を納得させる理屈があるだろうか。

 いや、それとも、そんな理屈なんかハナからないのかもしれない。



 彼と会うのには二度目の屋上になるのだろうか。

 鈴木と会った夜から次の日の放課後。

 俺は古井学を屋上に呼び出して今、彼と対面している。

「また屋上に呼び出して、今度はどんな用かな、澄人?」

 学は微笑んでいた。何もなかったように。俺はその振る舞いがどうにも気に食わない。

「ああ、単刀直入に言わせてもらう。――どうして河北を振った?」

 少しの間の後に、学はケラケラと笑って頷いた。

「本当に単刀直入だね。……その話はもう終わった事だよ」

「それでも、訊いてるんだ」

「………………」

 学は微笑を引っ込め、じっとこちらを見つめる。

「どうした? 答えてくれ」

 学の表情は険しくなって、しかし少し哀しそうでもあった。

「分かったよ。澄人には迷惑をかけたし、もともと相談を持ち掛けたのはこっちなんだ。言わないのは筋が通らないよね」

 俺は頷いて先を促した。

「と言っても、澄人なら分かるだろう? 河北さんがいじめられている状況を利用して、彼女の拠り所になろうとした。けど、最後の最後で自己嫌悪に耐えられなかった。それに、いじめの状況下で精神が摩耗した彼女の僕に向けた感情を恋と呼べるはずもない。それが偽物の恋愛感情なんてこと誰よりも僕が理解している。だから彼女の告白を断ったんだ。まあ、河北さんから告白してくるとは思わなかったけどね。そこは驚いたよ」

「そうか? 河北はお前の事を本当に好きになって、告白したんじゃないのか?」

「それはあり得ない。あり得ないよ、澄人」

「あり得ないか……」

 こいつも俺と一緒で考え過ぎなんだ。思考を深めすぎて泥沼にはまる。

 そして間違った答えだと自覚しながらも、それが正しいと決めつけてしまう。

「お前はさ、河北の事が好きなんだろ?」

「……ああ、そうだよ」

「なら、嘘でもなんでも、告白を受ければ良かったじゃないか」

「だから! ……それじゃあ、駄目なんだよ。彼女を騙して始める恋なんて、恋じゃない」

 学は一瞬、声を荒げるが、すぐに平静さを取り戻して声を静める。

「それじゃあ、彼女を騙さずに告白すればいい。今からでも」

「それは……暴論だ。そう言うことじゃない。もう僕は河北さんにアプローチしない。こんな卑しい自分は彼女を好きになる権利なんてないんだ」

「それこそお前の決めつけじゃないか。河北は本当にお前の事が好きかもしれない。それが事実だった場合、お前はとても酷い事をやっている」

「だから、それはあり得ないって。あり得ないんだよ」

「面倒くさいな」

「ああ、面倒くさい。そして僕はその面倒な選択肢を望んで選んだんだ」

「お前はそれでいいのか?」

「いいとも。それでいいんだ。いいはずなんだ……」

 学は自分に言い聞かせるように、一言一言ゆっくりと口にする。

 その姿はとても辛く、無理をしているように見えるのは俺だけだろうか。

 いいや、これは間違っている。間違っているから言わなくてはいけないんだ。

 理屈なんて関係ない。言いたい事を言ってやる。

「好きなら好きと言えばいい。河北に告白されるなんてお前は男のプライドが無いのか? それで告白されて断る? お前は何様だ。嘘だ偽物だ、と勝手に自己完結して殻に閉じこもって。いじめられている状況を利用して? それで拠り所? 利用するなら、そのいじめ自体を解決しろよ。それならお前は河北にとって正真正銘のヒーローだ。好きなら助けろ! 好きなら救え! 好きなら、好きと声に出せよ! お前は何もしていない。何もしていないのに諦めただの、自分のことが嫌いだの。お前はどうしたいんだ。お前はどうしたかったんだよ!」

 やはりここでも自分のしたいこと。だからどの口が言ってるんだよ、俺は。

 けれど俺はここでも自分を棚上げして言葉にする。

 そうしなければいけないんだ。そうしなければ、お前はそのままだ。

 俺の友人がそんなところで立ち止まっているはずがない。立ち止まって良いはずがない。

 お前は文学の話をしている時みたいに、好きな事へは全力で、それしか目に入らないくらいに真っすぐで、そんな愛すべき馬鹿がお前なんだ。

「出来る訳ない。……出来るはずがない。……僕に何が出来るって言うんだ!」

 学の静かだった声はだんだんと声を大きくして、最後には乱暴に声を荒げる。

「僕の何が分かる? 僕は何も出来ない。君とは――お前とは違うんだ! 僕は澄人みたいに誰かに信頼される事も好意を抱かれる事も、澄人みたいに勉強も運動も出来やしない。僕にあるのは何の役に立つかも分からない文学の知識ぐらいで、僕には何もない。陰に潜んだ、存在感の薄い、誰にも興味を持たれない凡人だ! 澄人みたいになれれば……。僕が澄人なら……。僕はもっと上手く出来たはずだ! けど僕は澄人じゃない。お前みたいなリア充じゃないんだよ!」

「リア充って……。お前の口からそんなアホみたいな単語が出るとはな」

 学は敵愾心丸出しの眼差しを俺に向けている。そんな睨むなよ。

 俺はそんな学を鼻で笑い挑発する。

「ああ、リア充で何が悪い。今の時代、ラノベの主人公だってリア充だ。逆にボッチ主人公なんて旧時代と言っても過言じゃない。これからの時代、リア充主人公がテンプレなんだよ」

 なんて、ほとんどのラブコメラノベを敵に回しかねない発言だが、その時はかのヤリチン糞野郎、またの名を神に相談しよう、そうしよう。

「お前がリア充じゃないのが悪いんだ。お前が皆から信頼されないのが悪いんだ。自分の劣る部分をさらけ出して、開き直って……。河北のいじめを解決できないお前が悪いんだ。河北を救えないお前が悪いんだよ!」

 どれもこれも、自分のことじゃないか、と笑いたくなる。

 問題を解決できない自分。河北を救えない自分。全部、全部、俺が出来なかったこと。

 けれど、それでも俺はお前に訴えかけないといけない。

「本当に好きなら、河北のことを助けろよ! 本当に好きなら、河北のことを救えよ! 言い訳なんかどうでもいい。出来ないじゃねぇ。やるんだよ! やり遂げるんだよ!」

「勝手だ。勝手だ。勝手だ! そんなのは勝手だよ。澄人に何が分かるんだよ……」

「ああ、勝手だよ。お前の気持ちなんか分からねぇし、分かろうとも思わない。けどな、お前は助けろ、救え!」

「暴論だ。支離滅裂だ。滅茶苦茶だ!」

「そうだ! 受け入れろ。俺はもう理屈をこねくり回すのはやめた。ただ俺のしてほしいことを無理強いする。女子には優しい俺でも、男には容赦しない」

 俺は真の男女不平等主義者だ。

 男には徹底的に、完膚なきまでに、が俺のモットーでポリシーだ。って今決めた。鈴木には全く逆の発言をした気もするが、昨日の事なんか覚えていない。昨日とは、つまり遥か昔の事なんだ。過去は振り返らない主義。

「俺はお前に言い続けるぞ。頷くまで言い続けてやる。だから、諦めろ」

「そんな力技、ずるいよ」

「ずるくて結構。それでお前が考えを変えるなら、俺は何者にだってなってやるよ」

 その言葉に学は顔を俯かせて、力なく笑った。

「何者にだってなってやる、か……。君は自由だ。本当に自由で羨ましい」

 肩を落として苦笑する彼は「無理だよ」とやはり俺の言葉に首を振る。

「けれど、やってもらう。お前に動いてもらわないと困る。お前がその一歩を踏み出さないと、何もかも始まらない。だから、助けるんだ。お前が河北を救うんだ」

 学は俺の言葉を拒み続ける。

 けれど彼には受け入れてもらわなくてはいけない。

 お前から始まって、そしてお前で終わらせるんだ。

 古井学は首を振る。

 しかし、それでも、俺は彼に言い続ける。

「河北を助けろ」と言い続ける。

 だが、もし学が頷かなかったら……。

 いや、それでも俺はお前を信じる。

 お前なら勇気を持ってその一歩を踏み出せる、と。

 ――俺は信じている。

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