幕間 私はどこで間違えたのだろう?
幕間 私はどこで間違えたのだろう?
昔から思ったことをそのまま口にしてしまう。
嫌なことがあれば嫌だ、と言うし正しいことにはちゃんと賛同する。
それが単純に考えて普通でごく一般的な人間の在り方だと思っていた。
幼稚園まではそれで何の不都合もなかった。けれど小学校に入って、色々な人たちと一緒の教室に詰め込まれた時、そこで初めて集団環境における人間関係の複雑さに直面した。
そうだ、これが社会性の不気味さに気付いた、初めての瞬間かもしれない。
最初の頃は良かった。
人と人との間に模糊として、けれど確かにそこに存在する『空気』なんてものを皆も理解できていなくて、だからこそ人間関係はシンプルでとても分かりやすいものだった。
けれど、そんな単純な関係性もいつしか変化して――。
小学五年生の頃、こんな事があった。
「ねえねえ、来週の月曜日、私の誕生日なんだけど。なんかママが張り切ってて、パーティーとかするらしいんだけどー」
自慢げにそう言うのは、クラスの女子の中でも中心的な存在で、授業の時もよく発言をする子だった。名前は憶えていないが、偉そうな人という印象だけは憶えている。
それにしても小学生だというのに、もうクラス内にはクラスを先導するメンバーと、そうじゃないメンバーが何となく区分されていた。そこに小学生の自尊心を加えれば案外、中学、高校よりも表面的に堂々と人を蔑んだり、貶したりする。面と向かって言われる分には陰口などより敵が具体的で逆に気持ち良いぐらいだったが、人間関係の険悪さは明確的でもあった。
だからこんなことも平気で言葉にしてきて。
「皆、私の誕生日に家に来てよー。あの調子じゃママ、ケーキ何個作るか分かんないし、ね?」
両手を合わせて首を傾げる女子。
「あ、でも河北さんは別ねぇ~~?」
見下した目つきで私を鼻で笑っている。
その態度に私は何故だろうと思った。
除け者にされた事への屈辱とか怒りとか、そういう感情は不思議と感じなかった。
ただ単純に何故私だけを除け者にするのか、その疑問が真っ先に頭に思い浮かび、
「なんで呼んでくれないの?」
と、思ったままを口にした。
その問い掛けを聞いて、女の子は見る見るうちに顔を強張らせて、歯をぎしぎし軋ませた。
「私があなたのこと嫌いだから! それ以外に理由ある? 忘れたとは言わせない。ケンジくんのこと、絶対に許さないから!」
ここまではっきり言われると、やはり逆に爽快だ。
でも、この子が私を嫌う理由には心当たりがない。
ケンジくんとは誰のことだろう……、と考えて思い出した。
私に告白してきた男子の名前が確かケンジという名前だった。ということは彼女はもしかしてそのケンジくんの事が好きで、なのにケンジくんは私に告白してしまって――。
なんだ、ただの嫉妬じゃないか。巻き込まれ事故も良いところだ。
まったく、たまったもんじゃない。
それにケンジくんとやらの告白は丁重にお断りしたはずなのに、この子は何故まだ怒っているのか、私には分からなかった。
結局、誕生日パーティーには私だけが誘われなかった。
小学生の頃からこんな性格で私は嫌われていた。
私も嫌われたくて嫌われた訳じゃない。仲良く出来るなら仲良くしたかった。
でも、みんな私を毛嫌いする。
私だって呑み込めない感情を抱いてるのに!
どうして私だけ攻撃するの? どうして私の意見に腹を立てるの?
でも私は、自分の言葉の飾らなさを直す気にはなれなかった。
このはっきりとした物言いも、率直すぎる口調も。
だって、何がいけないのだろうか?
私にはそれが分からなかった。
高校に入ってからも私の物言いは変わらなかった。そして同じく私の性格に大抵の人たちは良い顔をしなかった。
どうしてだろう? これが『普通』のはずなんだけどな……。
そこが分からない。
この『普通』を皆はどうして分かってくれないの?
宿題を締めきり日までに提出するのは『普通』だ。
授業中に質問があって手を挙げるのは『普通』だ。
廊下を走っている人がいて注意するのは『普通』だ。
その人が同意を示してきても、自分が違う意見だったら反論するのは『普通』だ。
他人の悪口を話していて、直接言えばいいじゃんと提案するのは『普通』だ。
全部、全部、全部、『普通』のはずなのに、どうして皆は嫌な顔をするの?
高校一年生の頃、咲野麗にこんな事を訊いた事がある。
「私の言い方って厳しいのかな?」
「藪から棒にどうしたの? もしかして京ちゃんに悪口言ってる人がいたの? このー、こんな可愛い子を虐める奴なんて、私が許さないぞー」
そう言って麗は私の脇をくすぐってくる。言葉と行動との因果関係が分からず、困惑する私に麗は構わずくすぐり続ける。
「も、もう! やめ、やめてぇぇぇーーー!」
身をひるがえして麗のこちょこちょから難を逃れた。
「真剣に質問したのに! 麗のいじわる!」
私は頬を膨らませて腕をぶんぶんと振った。
「ごめんごめん。ついつい手が脇に向かっちゃって。それに可愛い子にはこちょこちょをせよ、とも言うじゃん。そう言うことだよ?」
「どう言うこと! もう、真剣に答えて!」
「あははは、ごめんー!」
麗は笑いながら手を合わせて平謝りしてきた。その様子だと全然、反省してないようだけど。
「特別! 今回は特別に許すから!」
「何回目の特別だろ?」
ぺろっと舌を出す麗に「もー!」と声を張り上げる。
「ごめんごめん。今度こそごめんって。それで? 京ちゃんの言い方が厳しいって話だっけ?」
麗とはいつもこんな感じだった。
私をからかって、いじって。それに対して私は怒って、抵抗して。
そんな関係がとても心地よかった。私はすごく麗に救われた。
こうやって私と話してくれたり、気にかけてくれるのもちろん。それ以外にも私の言葉で教室の空気が変な感じになった時も、麗はすかさずフォローしてくれる。
麗は私にとってヒーローのようにキラキラで、私も麗みたいに上手く生きていければなぁ、とそんなことをいつも思っている。
だからこそ麗に聞きたかった。私の性格は直した方が良いのか。
その質問のジャブとして「言い方が厳しいのか」と訊いたのだけど、どうしてこちょこちょしてきたのかと先程のことを思い出し、脇に手を入れてガードの体勢をとった。その姿を見て、麗は声を出して笑う。
「ひひっ、あはははは、そんな警戒しなくてもいいのに。もうしないよ」
「信用できない!」
「えぇーー。信用してよー」
目の下に手をやって、泣いているポーズをする麗に訝しげな視線を送る。
「もう、茶化さないで!」
「えへへ、ごめんごめん。今度は本当に、ごめん!」
麗はそう言って私を抱きしめてきた。
良い匂いがする。爽やかで、でもとても甘い匂い。ああ、麗みたいな女の子に生まれたかったなぁ……。
「それで京ちゃんの質問だけど。私の答えは、――ソンナコトナイヨ!」
「え?」
麗に頭を撫でられながら、明るい声音で発せられた答えに驚く。
「そんなことないの?」
「ま、私はそう思うだけで、他の人は違うかも」
「あ、そうだよね……」
「うん」
麗の胸が当たる。すごい柔らかい。私の胸とは全然……、うーん。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「えっ」
それはただ不思議だったから。
どうして私を嫌いなのか。どうして『普通』のことを言って嫌われてしまうのか。
もしかして私に落ち度があるのではないか。
「私って嫌われてるよね……。それは昔から慣れてるけど、でもずっと思うんだ。私が悪いのかなって。私はただ『普通』にしてるだけなんだけど。私の『普通』はもしかしてすごい変な事なのかもしれないって思い始めて……」
「京ちゃん……」
優しく、優しく頭を撫でてくる麗の顔は、見上げれば儚げに微笑んでいる。
「京ちゃんはどうしたいの?」
「私? どういうこと?」
「そのままの意味だよ。他人の事なんて関係ない。京ちゃんがどうしたいかが重要」
「私がどうしたいか……」
そんなこと考えたこともなかった。
私はただそれが『普通』だと思って――。
そういえば、なんで『普通』なんて思うんだろうか?
私は何の理由をもって、それを『普通』と規定しているのだろう?
「分からない。私ってどうしたいんだろう。麗は自分のこと、どう思うの?」
「え、私? なんだか恥ずかしいなー」
と言いつつ、彼女は話してくれた。照れた表情で頬を掻きながら。
「私はさ、自分のこと好きだよ。色んな人に話を合わせたり、自分の意見を通す為には色んな手段を使ったり。ちょっとずるかったり、人に嘘だって言う。けどね、それが私だから。私が納得して、行動してるから。私は自分を信じてる」
恥ずかしげに頬を朱に染めているのに、その言葉はとても堂々としていた。
彼女は自分のことをちゃんと理解しているんだ。
その姿がとても輝いていて、だから憧れて。けれど同時に自分の曖昧さに劣等感を抱く。
自分らしさってなんだろう?
「私は自分のこと、あんまり分かんない。今まで自分のことなんて考えてこなかった」
「でも、悩んでるから私に訊いてきたんでしょ? じゃあ、きっと無意識にも自分のことは考えていたんだよ」
「無意識に考えている? なんかよく分からない!」
「京ちゃんは真っすぐだなぁ。分からないって、そんなはっきり言う? 私、結構良いこと言ったつもりなんだけどな。でも、そんな京ちゃんが私は好き。自分はそんなはっきり言えないから、憧れちゃう」
「けど、麗はそんな自分を好きなんでしょ?」
「そうだよ。京ちゃんみたくはっきりとした物言いは出来ないけど、私は私なりに自分の意見を通してる。そこは変わらないと思う。ただ手段が違うだけで」
けれど、それでは納得できない。手段が違うだけで同じなんて。結果は全然違っている。
「私も麗みたいに上手くやれればいいのに……。そうしたら空気だって壊さない」
それで嫌われないなら、自分を変えてもいいかもしれない。いや、きっと変えなくちゃいけないんだ。
私は俯いて足元を見つめた。
変われるかな……。私は私以外の何者かに。
「京ちゃん」
名前を呼ばれた。何事か顔を上げると、麗におでこを指で弾かれた。
「いたぁぁぁい! 痛いよ、いきなり!」
「私を理由に自分を責めてるからだぞ」
その言葉が胸にぎくりと差し込まれた。
「麗を理由に?」
「そう。本当は自分の性格が悪いなんて、これっぽちも考えてないでしょ?」
「え? そんなこと……」
「そんなことあるよ。京ちゃんは自分の性格には確かに思うところがあるのかもしれない。それは成長だと思うし、良い事だと思う。けど、その悩みを解決しようと結論を急ぐのは感心しないな。私は自分で言うのもなんだけど、すごいから。憧れるのはもっともだし、私みたいになりたい、なんて言ってもらえてすごく嬉しい。けどね、それは京ちゃんの本当の答えじゃないよね? 本当に私みたいになりたいの?」
「そ、そうだよ……」
違う。そうじゃない。
本当はなんで、みんな私を嫌うのかを知りたいだけ。
なんで私が駄目なのか。なんで私がウザいのか。皆から嫌われたくないって気持ちがある。
だからその理由が知りたい。
でも、皆は私に悪口や陰口を言うだけ。誰もその理由は教えてくれない。
しかしそんな悩んでいる私に麗は優しい微笑を浮かべて、口を開いた。
「――自分らしく生きなよ」
その言葉に胸が高鳴った。
何故だろう。なんですっきりしているのだろう。
自分らしく、が分からないのに何故だかその言葉がしっくりきた。
「付き物が落ちたみたい。でもこれが答えじゃないよ」
「え?」
「答えはまだまだ、ずっと悩み続けないと。京ちゃんはやっと自分を疑い始めた。これでいいのかなって自分の行動や発言に疑問を持った。その自覚が大事なんだよ」
「悩み続ける……」
「そうだよ。悩んで悩んで悩み続ける。とても苦しいけど、それが大事なことだから。自分を知ることが何よりも今大事なんだよ。なんて私が言えた義理じゃないけど。私だって悩み続けてる。でもその上で自分を好きでいようって思えてる。京ちゃんも自分を好きになろうよ」
「い、良いのかな」
不意に涙が落ちてきた。それを端に発し、涙が溢れてくる。止まらない。あれ、何で泣いてるんだろう。
そうだ、私は自分のことを認めたかったんだ。
この性格が自分らしさだって――。
「でも、京ちゃんは私なんかよりよっぽど自分を分かってるよ。だから大丈夫。悩んで悩んで悩み続けて、その上で自分を認めてあげて。自分を好きになろうよ。そしてみんなにも好きになってもらおう?」
「みんなに……」
嫌われない事ばかり考えていた。
好きになってもらうなんて考えた事なかった。
「京ちゃんのこと、私は好きだよ。何回でも好きって言えるよ。そのくらい好き」
「私の性格も? こんなはっきりな物言いも? すごくウザいよ?」
「ウザくていいじゃん! 私はそんな京ちゃんが好き!」
こんな堂々と好きって言われるなんて……。
「私を好きなんて言ってくれたの、麗が初めて」
「もしかして初恋! 私が京ちゃんの初めての相手なんだね!」
「その言い方だと変だから! でも、好きって言ってくれてありがとう」
麗は頬を緩ませて、私のことをまた抱きしめた。
やっぱり良い匂いがする。
私は彼女の胸の中で静かに涙を流した。
まだ自分らしさは分からない。
けど自分が自分でいられる、そんな生き方をしてみたいと思った。
麗とは二年生になってクラスが別れてしまったけど、もう大丈夫。
ありがとう、麗。
自分らしく頑張るよ!
――そう思っていた。
どこで間違えたのだろう。
やっぱり私の性格は嫌われるのかな?
やっぱりはっきりとした物言いはウザいのかな?
きっかけは何だったんだろう?
確か先生に言われてクラスの皆の宿題を回収していた時、一人だけ提出日になっても宿題をやっていない女子がいて、その子に「なんで、宿題をやって来なかったの?」って訊いたんだ。
私はただ不思議に思って訊いただけだった。
そこに皮肉や悪意は無かったのに、その女子は違うように捉えたようで、突然私に悪口を呟いた。
「河北さんって、前々から思ってたんだけど、ちょっとウザいよね」
何年ぶりだろう。こんなにも直接言葉にして怒りを向けられたのは。記憶を遡れば小学五年生の誕生日パーティーの件以来だ。そんな前なんだ。
突然の悪口に一瞬、呆気にとられながらもすぐに正気に戻って私も言い返そうと口を開けた。
言われたままではフェアじゃない。
そもそも、あなたが宿題をやってないのが悪いんでしょ、と言おうとして、
――声が出なかった。
片手で喉を抑えて、声を上げようと口を開けるが……、けれど口からは掠れた息しか出てこなかった。
喉がおかしい。
いや、身体全体が異常をきたしていた。
手が小刻みに震えている。
唇もプルプルと戦慄いていた。
呼吸も浅くなって、何かが胸を締め付ける。
なんだろう、これ。
ぜえぜえ、と肩で息をし始めて、額には玉のような汗が流れていく。
そんな何も言い返してこない私に怖気づいたと思ったのか、周りにいた他の女子三人も我先に続けと、私に今までの鬱憤を晴らすように罵倒し始めた。最後の方はあることないこと言い始めて、正直、聞くに堪えない愚かしい発言ばかりだった。
しかし、それでも私は彼女たちに言い返せなかった。
いつもならここで言い返すはずなのに。
それが私だったはずなのに……。
声は出てこなかった。
それから私は嫌がらせを受けるようになった。
筆箱の中のボールペンの一本が消えていた。どこかで落としたのかなと思って気にも留めなかったけど、次の日も、次の日も、そのまた次の日も筆箱の中身が消えていた。
ボールペンだけでなくマーカーや定規やハサミや……。
そこでようやく誰かに筆箱の中身を盗まれた可能性に気付いた。
ハッと思い至って周りに視線を向ければ、あの時の女子三人組が私の方を見てこそこそと笑っている。
あの人たちか。
私は椅子から腰を上げて、あの人たちの方へ足を向けようとした。しかし足が震えて最初の一歩が踏み出せなかった。
どうして! どうして動かないの?
中腰の体勢で動きが止まってしまい、傍から見れば間抜けな姿だろう。案の定、女子三人組は私の姿を見て大爆笑。
身体が動かないことに恐怖を覚えながらも、彼女たちの笑い声を聞いて恥ずかしさと情けなさも去来する。
私は俯きながら、静かに足を引っ込めた。
あれ以来、誰かに何かを言おうとすると、原因不明の震えが私の身体を襲う。
震えだけじゃない。声も出せなくて、頭も真っ白になってしまう。
最初はあの女子三人組たち以外のクラスメイトならいつも通りに話せていた。
自分が思った事をそのまま言葉にして、今まで通りに自分らしく頑張っていられた。
でも、いつからか私の言葉にクラスの人たちも笑うようになった。
その笑いが私の発言に興味深いとかではなくて、それが悪意から生じた嘲笑だとすぐに気づいた。
見世物のように、みんな指をさして笑っている。
私の発言に「馬鹿だ、馬鹿だ」と言って笑っている。
もちろん、あからさまに私を馬鹿にしてくる人たちだけではない。
何も言ってこない人もいた。けれどそんな人は大抵、我関せずの姿勢を崩さない。もしくは腫物を見るような目で私を見ている。
私に関わったら最後、自分はどうなるのか分からない。だからそれは当然の対応だと思う。けど、私なら声を上げている。前までの私なら絶対に何か言っている。
けれど今は――。
いつの間にか私は今まで通りの自分らしさを表に出すことが出来なくなっていた。
声を出そうとすると、やはり身体が震え始めて、喉の奥から声が出てこない。
こぶしを握り締めて、歯と歯を噛んで、力を込めて――けれど、いつまでたっても私の口からは声が出てこなかった。
それと同時に今まで積み上げてきた何かが瓦解していく。
麗が教えてくれた自分らしさが無くなっていく気がして怖くなった。
私が私じゃなくなっていく……。
――私が消えていく。
クラスで孤立してしまった私に唯一、清宮美海は献身的だった。
クラスでの彼女の立ち位置はとても不思議なもので、私と話しているにもかかわらず、誰もその彼女に突っかかってくる人はいない。あの女子三人組だけはぶつぶつと小声で悪態を吐いていたが、それ以外は何も起きなかった。
美海とは二年になってからの付き合いで、結構早い段階で仲良くなった。
私の物言いにもなんら嫌な顔もしないし、逆に私の意見に反論もしてくる。美海は私の意見を受け流したりせずにちゃんと話を聞いてくれる。そんな彼女に私も気兼ねない態度で接することが出来て、こんな風に話せることがとても嬉しかった。
それになんだか麗に雰囲気が似ている気もして、懐かしさにも似た安心感を感じていた。
だから彼女と仲を深めるのは必然だったのかもしれない。
いじめられるようになってからは美海と話している時だけが救いだった。
彼女と話している間は誰も手を出してこない。いや、手を出せないのかもしれない。
それほどに清宮美海の存在は大きく、――輝いていた。
特定の人と仲が良い訳じゃない。彼女はどんな人とも仲が良かった。
リア充グループとはもちろん、教室の端っこにいるような子とも楽しく話している光景をよく見かける。
彼女には境界線がない。どこまで行っても国境はなく、彼女はどこへでも行けるチケットを一人だけ手にしているような、――彼女だけが特別で、そして自由だった。
そんなに完璧だとやっかみも受けそうなものだが、不思議と彼女にそんな噂は一切立たない。
彼女といれば手を出される心配も杞憂だった。彼女といれば無条件で守られる。
その間は私はあの恐怖を忘れる事も出来るし、私が消えることも……。
違う。何も変わっていない。
私が私じゃなくなるのには変わらなかった。
事実、彼女と離れている時はいじめられた。
そして、私は変わらず声を出せなかった。
何も変わっていない。
どうして声が出ないの!
いじめは日が経つにつれて悪化していった。
ノートや教科書への落書き。私に聴こえるように陰口を言ったり、SNSや学校裏サイトには私だと思われる悪口が列挙されていた。普段はこんなの見ないのに、こういう時に限って気になって確認してしまう。今までは周りに何と言われようと大丈夫だったはずなのに、びくびく怯えている自分がいる。
そして授業以外は教室にいる事が怖くなってしまった。
昼休みになるとすぐにトイレにこもって、我慢していた涙を止めどなく流して泣いてしまう。
少しすると美海が私と自分のお弁当を持ってきてくれる。
「大丈夫、京子?」
「うん。大丈夫、大丈夫! ごめんね、いつも」
「そんな謝んなくていいよ。私がしたくてやってるの。それにこっちこそごめん。私がなんとか出来ればいいんだけど、今はまだ……。私が皆にこんなこと止めなよって言えればいいんだけどね。今私が言えば余計状況が拗れるっていうか――」
「ううん。美海が引け目を感じることないよ。これは私の問題だから。私が頑張らないと」
「あんまり思いつめちゃダメ。嫌がらせをする人たちは最低の人間で、そんな人たちのことなんて気に留めなくていいから」
「でも、私は間違ってる事は間違ってるって言いたい。それが私だから……」
「京子……」
西棟の一階、奥。寂しげに佇むトイレには私たちの声だけが響いていた。
「私も頑張るから、それまで京子も頑張って! ごめんね、こんな事しか言えない」
「美海が落ち込む事ないよ。美海も私の為に動いてくれてるんでしょ? 美海はすごいなあ」
「私なんかすごくないよ。現に今、救いたい人を救えていない。救わなきゃ意味がないんだよ」
「……美海は頑張ってるよ」
「ありがとう……。涙は引いた?」
「うん」
ハンカチを取り出して目の下をごしごしとふき取る。鏡を見れば涙の跡は綺麗に残っていて目の周りが赤く染まっていた。
「もう、すごい腫れてるじゃん!」
そう言って美海は手にしていたポーチから手のひらサイズのボトルを取り出した。
「この化粧水で少しはマシになるから、はい」
「あ、ありがと」
手渡されたボトルから化粧水を手にかけて顔にしみこませる。
「よし。まあまあ良くなったかな。それじゃあ、お弁当食べよう!」
美海は二つの弁当箱を持ち上げて笑いかける。
「うん」
そうして昼休みを過ごしていく。
放課後になれば昼とは逆に教室に居続ける。
これは美海からの助言で放課後、私の机をいじらせない為らしく、教室に誰もいなくなるまで私は美海と雑談を続けた。
クラスの皆が教室から消えて、漸く私は解放される。
「早く帰りたいよね。ごめんね?」
「ううん。美海こそ部活あるのに、私なんかの為にごめんね……」
美海は首を振って「そんなこと、京子の為なら大丈夫だから」と言ってくれるが、引け目を感じざるを得ない。そして気を使われている自分に情けなさが込み上げてくる。
こんなのがいつまで続くのだろう。
美海が唯一の拠り所だった。けれどそこに例外が現れた。
古井学だった。
彼とは同じ図書委員で、その接点でよく話すようになった。
私も本が好きで、彼も本が好きだったので話す話題は尽きない。決して、彼とは本の嗜好が一緒ではなかったが、私がお勧めする小説を彼は律儀に読んできて感想を言ってくれる。そこには遠慮も気遣いもなく、面白くなかったものは正直に面白くないと言い、面白かったものは面白いと言ってくれる。私はそんな率直な態度が嬉しかった。
いじめられてからも彼の態度は変わらなかった。クラスは同じだけど元々彼とは教室で話すことはほとんどない。彼とはもっぱら委員会の仕事で図書室で談笑する。だから私も周りの目を気にせずに話すことが出来たし、彼も私のいじめに関して追及することもなく、それが本当に楽な気持ちにさせてくれた。
いや、もしかしたら古井は私がいじめられている事実を知らないのかもしれない。彼と話していて、どうにも彼は天然だった。文学以外はこれっぽっちも興味がなく、だから教室での空気なんてものもどうでもいいのかもしれない。だとしたら私には願ったり叶ったりだ。私がいじめられているなんて知らなくていい。そんなこと本当にどうでもいい。
いつからか古井がデートのお誘いをするようになた。
もしかしたらこれは私の勘違いかもしれないが。いや、それは一般的に見てもデートではないだろうか。男女二人が公園を散策して、美術館を見て回り、カフェでランチをしたり。それは私がひそかに思い描いていたデートそのものだった。
古井とのデートは思いのほか楽しかった。それは学校の呪縛から解放された反動なのかもしれない。好きな本の話をして、二人取り繕うこともなく、言葉を飾らずに話し合う。なんて楽しいのだろう。こんな人は異性では初めてだった。
何回かデートを重ねていく内に、私は古井学という男性を好ましい存在に捉えていた。
彼といたら私は自分らしく生きていられる。そんな実感がわいてくる。そしてそれは私の存在を定めてくれる救いでもあった。
古井学は私を規定してくれる、自分らしさを忘却せずに済む、救世主だ。
もう古井しかいない。
もう彼が一緒にいないと駄目だ。
美海と一緒にいれば彼女に引け目を感じて、同時に自分の劣等感を自覚してしまう。
そして、彼は、いつぞやの彼――一ノ宮澄人は私を救えないと言った。
私にはもう、古井しかいないのだ。
いつの間にか私はそう思うようになった。
だからこそ、この鎌倉・江ノ島デートは絶好の機会だった。
今日、このデートで私は彼に告白する。
デートの最後、私たちは弁天橋から夕陽が沈む海を眺めていた。
おそらくここが最後のチャンスだろう。
夕陽に照らされた彼の横顔はどこまでも優しく、見ているだけでついつい微笑んでしまう。
浅く息を吐いて呼吸を整える。
心臓がバクバクと胸を打ち付けていた。
鳴り止まない心音に、静まれと胸を叩くがおさまらない。
頬に手をやればいつもよりも熱いような気がする。
身体は震えて、肩は強張っている。
今から告白するんだと意識すれば緊張は一気に押し寄せてきた。
声を出せ、声を出せ! 告白するんだ!
最後にもう一度息をゆっくり吐いて、そして覚悟が決まった。
海を眺めている彼に顔を向けて、意を決して口を開ける。
「ねえ、古井」
その呼びかけに古井がこちらに顔を向ける。
「私ね、古井のことが好き! 古井といると自分らしくいられるっていうか、古井と一緒にいるときが一番楽しいの。だから私と付き合ってください!」
人生初めての告白だった。
声は震えて、未だに心臓は激しく鼓動している。
けれど、私は告白した!
頑張って、勇気を出して、力を振り絞って、告白した!
あとは、彼が私の気持ちに答えてくれれば……。
彼は微笑んでいた。私と同じで安心したように、その表情は柔和に微笑んでいる。
その表情を見て私は笑顔を浮かべた。
彼も私と同じ気持ちなんだって、舞い上がって、とても嬉しくて――。
「ごめん。河北さんとは付き合えない」
海風が吹きつける弁天橋に、その声ははっきりと私の耳に届いた。
聞きたくない答えが耳に残響する。
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