第二章 知りたくもない世界
いつもの日常だったと思う。
朝から界人たちと他愛ない話で盛り上がり、その他のクラスメイト達とも話したり、昼休みには中庭のベンチに寝転がって読書をしたり、自由気ままに学校生活を謳歌していた。
しかし読書をしていた俺の頭上に影が差し込み、意外な人物から声をかけられたのを契機に、俺の日常は少しだけ狂いだした。
「だーれだ」
その声だけで誰なのか特定はできたが、なぜ彼女が独りで俺に声を掛けてきたのかは分からなかった。いつもは界人たち皆と一緒の時にしか話さないので、ある意味それは新鮮だった。
「珍しいな。咲野が俺に話があるなんて」
「よく分かったね。やっぱり愛が成せる技なのかな?」
「愛とか魔法とかファンタジーは信じない主義なんだ」
「愛はファンタジーじゃないと思うけど」
本から視線を上げて声の主を確認すると、やはり相手はクラスメイトの咲野麗だった。
「他の子にせっかく妃菜ちゃんを足止めしてもらってるのに、そんなこと言われると悲しいぞ、この」
眉毛を八の字にしてさも悲しそうな、しかしそれでもしっかり可愛さを保っているその表情に俺はやれやれと首を振った。
「道理で妃菜が来ない訳だ。あいつと待ち合わせしてたんだけどな」
昼休み図書室で、学と先日のデートの反省や今後の方針などを話し合うことになっていた。
他の女子に捕まった妃菜には「中庭で待ち合わせね」と言われたので、言われた通りここで妃菜を待っていたら、まさかそんな策略が交わされていたとは。これなら先に図書室に行ってしまえばよかった。
しかしそんなことを思っても後の祭り。
咲野は何の目的で俺と一対一で接触してきたのか見当はつかないが、今ここに現れてしまったのだから仕方ない。
「何の用だ?」
俺が寄り道を許さずに、単刀直入に問いを投げかけると咲野は困った表情で笑った。
「やっぱ澄人は私のペースにしてくれないね。まあ、そっちの方が話が速くて良いけど」
咲野は舌をペロッと出して悪戯がバレたあどけない少女のように純真無垢な顔を作った。そんな芸当が瞬時に出来るからこそ、咲野麗は咲野麗たり得るというか、単純にその技術に感心してしまう。
「お前はほんと、そんな技術どうやって身に着けたんだよ」
「そういうこと、普通分かってても言わないのが暗黙の了解じゃないの? ま、他の人はこれが努力して身に着けたものだってことにも気づかないけど……」
咲野は視線を下げて暗い顔を浮かべたが、それもほんの一瞬ですぐに、ぱあっと花咲いたように笑顔に戻った。
「でも、私だから許すけど他の人にはこんなこと言っちゃ駄目だからね」
小指を立てながら顔を近づけてくる咲野に「ああ、分かった」と頷いた。
「それで、結局何の用事なんだ?」
「ああ、そうだった」
俺が起き上がってベンチに余裕ができた。咲野は空いたスペースに座って足をふらふらと揺らしている。
「噂なんだけど、三組の清宮さんと澄人が話してた、なんてのを聞いてさ。どういうことなのかなって思って」
少し意外な内容だった。そうかあの場面を、と思ったが先日、河北を確認した時の事か、それとも前にも清宮と話した事はあったし、と考えていると咲野はずずいーと身体を近づけてきて俺の顔を覗いてくる。
「えっと、いつのことだ? 清宮とはけっこう話すことあったから……」
「全部」
「あ、全部」
そうか、全部か……。なんだよ全部って、清宮と話しただけで噂になっているのか?
「ま、噂っていうのは少し大袈裟かな。友達から又聞きして又聞きして、そうして辿り着いた情報って言うか――」
いや、こえーよ。
妃菜と言い、咲野と言い、女子は学校に独自の情報網を形成しているのか? プライベートとか駄々洩れじゃないか。
「でも金曜日の朝の時はさすがにちょっと噂になってたかな。妃菜ちゃん交えて清宮さんと言い合いになっているとかで、ドロドロの三角関係じゃないかって。ま、すぐに私がもみ消したけどね」
もみ消したって……。咲野さんはいったい何をしたのかしら、恐ろしい子! と思いつつ、そんな事態に発展していたのかと単純に驚いた。これからは少しだけ周りの目を気にしよう。
「で、それがどうした? 清宮の話は分かったが、それとお前と何の関係があんだ?」
俺の物言いに咲野はむむーっと頬を膨らませて俺にジト目を向けてくる。
「好きな男の子が別の女の子と一緒にいたら、悶々とするのは恋する乙女なら当然でしょ」
「いつも妃菜と一緒にいるけど、それは平気なのか?」
「妃菜ちゃんの事は、もう分かってるから。事前にライバル視している女子には気を窺って対策もしてるけど、突然、他の女の子が参戦するのは焦っちゃうよ」
彼女がいる男の目の前でそういう文言を事も無げに言ってしまえる器は、流石と評するべきなのか、もう少しオブラートに包めと注意するべきなのか。
「それ、妃菜に言うと絶対怒ると思うぞ」
想像しただけで……いや想像したくない。地獄絵図も生易しい光景がよぎった。
「あ、それは大丈夫」
咲野はVサインをかざして笑顔を見せた。
「妃菜ちゃんには、もう言ってるから」
「あ、言ってるんだ」
「すっごい怒ってたけど笑って聞き流した」
「んだよ、それ」
あの妃菜が怒って、あーだこーだと言っているのを聞き流したとか、なんつー神経してんだか。やっぱこいつ、すごいわ。
「俺は妃菜一筋だぞ」
「さあ? 今はそうかもだけど、これからはどうだか分からないよね?」
「確かに未来を確約する人間は嫌いだな」
可能性は無限大だと語る奴、絶対に大丈夫だからと声をかける奴、お前ら言ってること矛盾してるからな、と言いたくなる。
何が、絶対大丈夫なのか。その根拠はお前の想いか、願望なのか? 可能性は無限大なんだろ。だったら自分が思い描いていない未来だってあり得るということだ。だから未来を確約する人間は嫌いだ。
「じゃあ、やっぱり私と付き合う可能性もあるんだ」
「可能性はあるだろうな。けど高いとは思わない。それでも頑張るなら好きにしろ」
終始、俺は自分とは関係ないスタンスをとる。自分に好意を抱いている女子に対する態度としては素っ気ないかもしれないが、それでも妃菜と付き合っている状態で積極的なスタンスをとるのもおかしな話だ。咲野の恋には優しく出来ないが、しかしそれが妃菜と恋人であることへの筋みたいなものだから――。
「ふーん、妃菜ちゃんはやっぱり強敵だね。澄人って全然惑わされないからさ。私これでも女子の中では学校で一番とは言わないまでも、上位には食い込むと思うんだけどなぁ」
強かな物言いだが、それが事実だからこそ彼女には文句の一つも言えない。上位と言わず、一番と発言しても過言ではないのが咲野麗という女の子なのだから。
しかし、強かなようで一番と言わない謙虚さ、というよりも事実を客観的に観れる観察眼は流石だ。彼女は自分以外にも自分と並ぶ、いやそれ以上の女子の存在を認めているのだ。
咲野は自分を誰よりも理解しているからこそ、他人に自分を評価されることが大嫌いで、自分が認めた女子にしか自分を語らせない。その一人には、もちろん妃菜も入っている。先程ライバル視していると言っていたが、彼女がライバル視する時点でそれ相応の人物と認めている証左でもある。
唯一俺に好意を向けている事だけはどうしても解せないが。
ほんと、お前ならもっといい奴に巡り合えると思うよ。
「それで、結局清宮さんと何を話してたの?」
「やっぱそれが気になるのか?」
「そりゃあ、そうだよ。清宮美海と言ったら学年一位の美少女と言っても良いかもしれない。私も悔しいけど、事実、清宮さんは綺麗だから……。ま、それでも綺麗と可愛さを合わせ持つ私も全然負けてないと思うけど」
綺麗と可愛さのハイブリット、それが咲野麗。アイドルのキャッチコピーみたいだな。
「そんな美少女と好きな男の子が何を話していたのか、ひじょーに気になるところであります」
咲野は敬礼のポーズをして茶化しながらも実際、本当に知りたがっているようだった。
……咲野に話していいものか。学に許可は取っていないが、昨日、轟先生たちに知られてしまってから、どうにも俺の中でたかが外れたというか、敷居が低くなったというか。
咲野には話しても良いかもな、と考える自分がいた。それに彼女なら何か河北の事情を知っているかもしれない。
俺は思い悩んだ末にそんな期待も込めて、咲野に学と河北の件について話すことにした。
「へぇ、そんなこと頼まれてたんだ」
そして、話を聞き終えた咲野は神妙な顔で、そんな反応を見せた。
「まあな」
ベンチの背もたれに体重を乗せて、その勢いで顔を上に向ける。青空には千切れ千切れの雲たちが群れのように揺蕩っていた。あの雲の名前は何だろう。ひつじ雲は秋だから違うよな。
「咲野は河北のこと知ってるか? 俺はよく知らなくてさ。どういう奴なんだろうと思って」
この質問が狙いだった。
あわよくば河北について話を聞ければ咲野に相談内容を話したかいもあるというものだ。
咲野の方に目をやれば「うーん」と俯いている。
「何か知ってるのか?」
「まあ、京ちゃんとは一年のとき一緒だったんだけど……。そうだなあ、うーん。まあ、いい子だったよ。自分の意見を明確に持ってて、それをしっかりと言葉に出来るって凄いことだと思う。仲も良くて、学校でもちょくちょく話してたし。でも、澄人が欲しがってる情報はこういうのじゃないよね?」
そうだ。そんな表向きの彼女の素敵な一面は見れば分かる。俺が知りたいのは皆が河北のことをどう思っているのか。俺や妃菜や咲野じゃなくて、それ以外の皆だ。
咲野は躊躇いながらも話してくれた。
「京ちゃんはさ、はっきりとした物言いなんだけど、それが一部の人には嫌われていたっていうか、実際に陰口を言っている女子とかもいたんだよね。まあ、そこら辺は私がいたし、そんなに表立っていじめとかは無かったけど。やっぱり京ちゃんとは合わない人がいるのも事実で、そういうのが、ちょっと危ういっていうか、何というか……」
咲野の声は徐々に萎んでいった。
前のクラスでは仲が良かったと言っていた。そんな相手の嫌な噂を話すのは当然良い気分ではないだろう。咲野には悪いことをしたな、と思い「もういいよ」と話を中断させた。
それにしても予想通りもここまで来ると末恐ろしく、みんな考えることは同じというか、同じだからこそ、こんなことを馬鹿らしいと吐き捨ててしまう。
真っすぐな人間の嫌味なんて言って何が楽しいのか。
この世には本当にどうしようもない人間がいて、そんな奴に対しては嫌味の一つや二つ出るのは仕方ないと思っている。しかし河北のそれは誰よりも真っ白だからこそ生まれてしまった嫌味であり、河北には何の落ち度もないように思う。
今がどうなのかは分からない。同じクラスには咲野より上手くやりそうな清宮もいるのだから可能性は低そうだが、何か一つの小さな切っ掛けで火種はすぐに炎に激化する。「清宮だから大丈夫」は根拠のない言葉だ。
「ありがと。大体わかった」
当たって欲しくない予想はどうやら十中八九当たっているようだ。
それじゃあこれからどうするのか? まだ答えは出ない。手札が揃っていない。そもそも俺が首を突っ込む案件なのかも分からない。
決めるのはまだ早いだろう。
「京ちゃんに何かあったの?」
咲野が心配そうな顔でこちらを見上げてきた。その表情は作り物じゃないとすぐに分かる。
「何かあったら最前は尽くす」
何もないと無責任に言うことは出来ない。それでも咲野には無駄な心配はしてほしくなかった。
「澄人なら安心」
「お前も俺を買い被りすぎだよ」
皆、俺に対する評価が高いんだよ。この台詞を何人に言ったことか。
「大丈夫!」
咲野は俺の背中を叩いて笑っている。ほんと、お前は……。
俺も咲野の背中を軽く叩く。そうして二人で笑い合う。
俺たちしかいない中庭に春にしては冷たい風が吹きつけた。
桜は咲き、しかしそれも一瞬で、この季節はすぐに通り過ぎる。
ここで読書できる日もそう長くないだろう。
では、彼女とまたここで話す機会も減るという事で――。
夏には、秋には、冬には、そして来年には。
彼女との関係性に変化はあるだろうか?
遠いようで、すぐそこまで来ている未来を思い浮かべながら、俺は彼女の笑顔を見つめる。
それは作り物ではなく、いつも以上に魅力的な咲野麗の笑顔だった。
*
図書室に続く廊下には窓際に沿って幾つか机と椅子が並べられている。いつもはここで談笑したり、昼食をとる生徒がいるのだが、今日は俺と妃菜と学、この三人以外は誰もいなかった。
弁当を囲みながらまず先日のデートについて妃菜から話があったが、大まかにまとめて「良かったよ!」という事らしく、学は肩を撫で下ろして安心した様子だった。
「それで! 次はどうするかだけど、それは澄人からお願いします!」
いや、俺かよ、丸投げかよ、かよかよかよ。と言いつつ、前もって妃菜とは今後の方針を話し合っていたので、これは台本通りだ。
「ま、そうだな。徐々に学校から離れた場所でデートしていくのが順当かな。そうしてデートをする範囲を広げつつ、デートに行くっていう敷居というか、ハードルを下げていくのが当分の目標」
「ほう」
「そして来月中には遠出をして、そこで告白するのがベスト」
「ら、らいげつつつっっ!?」
学は動揺を隠せず素っ頓狂な声を出した。そんな学を、もう慣れた手つきで「座れ座れ」と落ち着かせて話を続ける。
「本当に恋人同士になりたいならスピードが大事なんだよ。逆に来月中に告白できないなら彼女とお近づきになる事は出来ないと思え。早すぎてもいけないが遅すぎてもこういうのは駄目なんだよ。信頼関係を築きつつ、勢いも残しつつの良い塩梅。その結果が来月中の告白だ」
「そ、そういうものなのかな?」
「そういうもんだ。『三四郎』だってそうだろ? うじうじしてたら誰かに掻っ攫われるぞ」
「ああ、それは確かに」
やはり文学を例えに出すと途端に説得力があるようで学は素直に頷いた。さすが夏目先生。
今後の方針も話し終えたところで、昼休みにはもう少し余裕があった。
俺は「そういえば」と、さも今思いついたように学に話を振る。
それはつまり、河北京子について――。
「クラスでの河北ってどういう奴なんだ? お前から河北のこと、あんま聞いてないと思ってさ。小説が好きで、お前と気が合いそうなのは分かったけど、性格とかはどうなんだよ?」
学は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑顔になって話し始めた。
「河北さんはちゃんと自分を持っている人なんだ。物言いは率直っていうか、はっきり口にして気持ちが良いんだよね。そういうの普通出来ないと思う。けど河北さんはそれを自然体で出来てしまえる。憧れちゃうんだよね、そういう人に。僕はさ、本ばっか読んでたからなのか、逆に言葉を飾らないといけない気がして、いつの間にか自分の本当に言いたい事が何なのか分からなくなるっていうか……。だからこそ同じ本好きなのに言葉を飾らない河北さんが不思議で興味深い」
「そうか」
相槌を打ちつつ、こいつはこいつで河北のことをしっかり見ているんだな、と感心した。
言葉を飾らない、か。
確かに俺なんか、装飾過多で元々言いたかったことなんか見えやしない。
言葉を飾って本心を隠して、たぶんそれが普通なのだろう。普通だからこそ、彼らは普通じゃないものを敵だと判断してしまう。そこに善悪なんか存在しないのに、さもこちらが正義だと声高々に糾弾する。
悲しいことにそんな奴らが馬鹿みたいに多く、馬鹿な奴らが多い。
「クラスの皆は河北のことをどう思ってるんだ?」
「えっと、それは……、そうだな。正直に言えば彼女の物言いにピリピリした空気になる事もあるけど、基本はみんな笑ってるかな」
「……笑ってるのか?」
「うん」
そうか、みんな笑うのか。
「それで――」
と続けて訊こうとして、図書室からぞろぞろと生徒たちが退出してきた。
腕時計を見やれば、昼休みが終わるまで五分前だった。
俺たちは話を中断して弁当箱を片付け、急いで教室に戻る準備をした。
「なあ、河北のこと好きなんだよな」
弁当を仕舞いながら、俺は学に何のことは無い風に装って、問いかけた。
「ああ、好きだよ」
学は笑顔で即答する。
「それなら良い」
窓からの陽光が眩しい。
テーブルには光が覆い被さり、それに反して椅子には真っ黒な影が落ちている。
なんとも面倒くさい雲行きになってきた。
さりとて、俺の予想通りとはまだ限らない。
俺は隣の妃菜に視線を向ける。彼女に訊くまではまだ分からない。
しかし俺はどこかで確信していた。
やはり、今回も非常に面倒な厄介ごとになるのだろう、と。
何故なら、彼女が持ち込んでくる相談事はどれもがいつも、一筋縄では行かないのだから。
*
自宅のソファでごろごろ寝転んでいると、当然のように俺の家にいる妃菜がその上から覆い被さってきた。
「澄人布団きもちいいぃぃ~~~」
妃菜は俺を下敷きにして、すやすやと寝息を立て始める。マジかこいつ。
「ええい、鬱陶しい!」
妃菜を抱きかかえながら起き上がる。すると妃菜は「ひゃいっ」と驚いた声を出して、俺の肩に捕まってきた。
「もー、せっかく気持ちよかったのにー」
俺は全然気持ちよくなかった。
頭をがしがし掻きながら台所に向かって、冷蔵庫から麦茶を取り出す。
二つのコップに麦茶をいれると背中からひょこっと現れた妃菜が「ありがとー」と片方のコップを手に取って口に運んだ。
「ん~、おいしい!」
目を瞑りながら、ぐびぐび飲んでいる彼女の頭をポンと叩いて、リビングへ戻っていく。
妃菜は麦茶をすぐに飲み切ったらしく、勝手に冷蔵庫を開けて、お代わりを淹れ始める。
「冷蔵庫に何もないねー。なんか作ってあげようと思ったのに」
「そういえば買い物に行ってなかったな」
学校の帰りにスーパーに寄ろうとしていたんだっけか。忘れていた。
「あとで一緒に買い物、行こうね」
妃菜は片目を瞑ってぱちぱちウィンクを飛ばしてきた。それを軽く手で払い除ける。
しかし、買い物を忘れるほど考え込んでいたのか。
考えていた事は言うまでもなく河北京子について。
昼休みでの咲野の話でようやく俺の予想に真実味が帯びてきたが……。
二杯目を飲み終えて三杯目の麦茶をまた飲もうとしている妃菜。
恐らく彼女は最初から全て承知の上だったのだろう。だからこそ俺に相談を持ち掛けた。
まったく、こいつは……。
「そろそろ話してくれないか」
「何のことかな?」
やはり素直には答えてくれないか。妃菜は全てを俺に任せようと、俺に解決してほしいと願っている。それは彼女の我が儘で、けれどその我が儘を俺は受け入れている。
しかし、このまま話してくれないと先に進めないのも事実。
そうだな、咲野の件を話せば少しは反応も変わってくれるかもしれない。
「昼休み、中庭でさ。咲野に好きだって言われたんだ」
ガタっとコップが倒れて、テーブルに麦茶が零れ、広がっていく。どうやら動揺した妃菜がコップに肘をぶつけてしまったらしい。予想以上の反応だ。
「へぇー、それで、どうしたの?」
妃菜は目を逸らしながらも、チラチラとこちらを窺っている。
「どうしたって?」
「いや、だから――」
唇を尖らせて俯く妃菜は悔しそうでいて、少し哀しそうだった。
やりすぎたかな。
「まあ、俺は妃菜一筋だって言ってやったから安心しろ」
その言葉を聞くや否や、顔を上げた妃菜の表情はすぐさま笑顔に変わっていた。
「そ、そうか~」
なんつー安心しきった顔してんだよ。
「けど、咲野にはそれ以外に河北についても話してもらったけどな。なんでも一年の頃、一緒のクラスとかで仲が良かったらしい」
「へぇ、そうだったんだぁ」
妃菜はテーブルに広がった麦茶を布巾で拭きながら相槌を打つ。
「それで聞いた。河北の性格。いや、それは見てれば大体分かる。俺が知りたかったのはその性格を皆がどう思っているのか。案の定、彼女の性格を快く思わない人間が多少なりともいるらしい。けど、実際のところは大多数が河北の性格に反感を覚えているんじゃないか? 皆、俺たちみたく心が広くないからな」
「辛辣だね」
「ただの事実だ。俺やお前や咲野は嫌味なんか言わない。嫌な感情を持つ前に、相性が悪い奴とは距離を置いて接触しないのが一番楽な方法だってことを知っている。けれど、不思議なことに、わざわざ徒労を好む人間がこの世には沢山いる。頭が悪いんだよ。ほんと、馬鹿な奴らが多い」
精神的な費用対効果を考えれば、悪口や陰口がどれほど無価値であるかは、少し考えれば理解できるはずなんだが、人はどうしても即物的な感情に左右されてしまう。
誰しも嫌な思いをするのは当然で、その感情を抱いてはいけないと、そうは思わない。それは自然で普通の摂理なのだから。
けれど、その悪感情を言葉に発露してしまえば――、誰かにぶつけてしまえば――、悪感情は具現化し、自分が想像した以上の力を発揮してしまう。取り返しのつかない事態にまで発展してしまう可能性だってある。
他人の心を慮る、それは子どもの頃に教えられる基本的な倫理観かもしれない。
それでも人は過ちを犯す。大罪と理解していながら、少しだけ楽になる選択をしてしまう。
「河北京子はいじめにあっているのか?」
麦茶を飲んで唇を湿らした。喉が渇くほど話した覚えもないが身体は水分を欲していた。
俺の当たってほしくない最悪の予想。
河北京子は――いじめられている。ないし、嫌がらせを受けている。
河北の物言いを聞いてから、予感はあった。
こういう子が学校の、それも教室という狭い価値観の中ではあまり好まれない性格なことを俺は知っていた。
けれど、それでも高校生だ。マージナルマンと言えど片足ぐらいは大人の仲間入れをしている。そんな奴らが、こんな幼稚なことをするはずがない、と希望を持っていたが――。
「そうだよ、うん。だから澄人に頼った。私はそういうこと許せないから」
妃菜の言葉が静かなリビングにこだました。
彼女は答えた。今回の相談の真意を、そして本当に解決すべき問題を。
学の恋愛が建前って訳ではないだろう。
しかし実際、学の恋を成就させるには、その前提でこの問題を解決しない訳にはいかない。
「まったく、最悪の依頼を持ってきたな」
思ったことをそのまま口にした。
最悪すぎて反吐が出る。こんなこと進んで知りたいとは思わない。
身近な世界にどす黒い事実が存在しているなんて、知りたい奴はいない。
事実を知る前だったら、その光景はただ単純に美しいものだと思えた。
しかし事実を知ってしまえば、その光景を美しいとは思えない。仮に思えても、事実に素知らぬ振りをした自分を受け入れる必要がある。自分はどこかであれを見なかったことにした、そんな後ろめたさを背負わなければいけない。
「話してくれるんだよな。もうここまで来たんだ」
「ごめんね、もう隠さない。そんな状況でもなくなってきたから……」
妃菜は小さな声で呟いた。
「私が二年三組の状況を知ろうとした切っ掛けは北村先輩に言われてからでさ。どうやら三組の空気がここ最近ピリピリしている、もしかしたら最悪の状態まで発展してしまうかもしれないって言われたんだよ」
「あの人が噛んでたのか」
「うん。北村先輩に三組の様子を調べてくれないかって。それで調べていくと、どうやら河北京子って子がクラスでは浮いている存在ってことが分かったんだ。でも、四月の最初の頃はまだ皆も様子見っていうか、彼女にとやかく言う人はいなかった。けど、ある時を境にして――、そのある時っていうのがまだ分からないんだけど、うん、何か切っ掛けがあって彼女はクラスの中心の女子グループからいじめ紛いのことをされるようになった。他の人たちに関しては、最初はただ傍観してただけだったけど、いつしか見て見ぬ振りも止めて、その光景を笑うようになって……。今現在の二年三組の空気は正直、気持ち悪いよ」
「そうか」
「でも、まだこれでもましな方でさ。清宮さんが緩衝材になって最悪の事態には発展してない。けど、それもどこまで続くか……」
そうか、だから清宮はあんな態度をとったのか。
確かに、河北は今とてもデリケートな状態にある。その状況下に彼女に好意を抱いた男子が現れるのは、更に問題を重ねるという事だ。下手したら状況の悪化に繋がりかねない。
また二つの問題が全く別種類の問題だからこそ、対処するのが困難になる。
同種類の問題だったならば、問題同士を繋げて考える事も出来たが、さすがの清宮もこの二つの問題を一緒に解決する事は難しいと結論したのだろう。
いや、そもそも河北の問題だけで手こずっているのに、他の問題など論外だ。
「分かった。話してくれてありがとう」
「ううん。こっちこそ話さなくてごめん」
「いい。お前はそういう奴だから。けど俺を買い被りすぎなのはどうにかしてほしいが……」
「澄人はすごいよ」
「それ、何回言うんだよ」
言われて悪い気はしないが。
「何回でも言う。澄人を信じてるから!」
満面の笑顔を浮かべて、そんなことをのたまう妃菜をついつい呆けて眺めてしまう。
俺は彼女の頭に手をのせて、小さく声を出した。
「あんがと」
「うん!」
頭を撫でてやると小動物のように可愛らしく反応する妃菜。それがとても愛らしかった。
それにしても、これからどうするか。
学には申し訳ないが、この恋から手を引かせるか?
問題を整理するなら、それが最善のようにも見えるが、しかしそれでは彼の恋はどうなるのか?
俺が手を引けと言って、学が手を引くとも思えないし……。
けれど彼ならばもしかしたら――。いや、その問題もあるのか。めんどくさい。
しかし、今は、静観が最善手だろう。
何も出来ないのは歯痒いが、無理に手を出して余計状況が悪化してしまえば元も子もない。
我慢だ。それに俺にはこの状況を一気に解決できる手立ても思い付かない。
彼女の期待や希望は本当に買い被りで、俺が出来る事はごくごく一般的な最善手をミスなく辿っていくことしかできない。
そうだ、俺に出来るのはこれぐらいなんだ。
そうして俺はこの問題を静観することに決めた。
*
それからはLINEで学から河北との進捗を聞きながら、同時に妃菜からクラスでの河北の様子を聞く毎日が続いた。
学と河北との進捗はとても良好だった。
駅前のカラオケや隣の橋本駅近くの映画館、それに町田駅周辺の買い物など順調にデートの範囲を広げていき、彼と彼女の関係性はより親密になっていった。
しかし対してクラスでの河北の立ち位置は非常に良くない方向へ進んでいる。
正直に言えばいじめは顕著になって悪化していた。
妃菜からの言葉だけでしか判断は出来ないが、情報が全て正しいのであれば、それは誰が何を言おうと〝いじめ〟だった。
クラスでは河北の陰口を彼女に聴こえる声量で交わされていた。それをもう陰口と言っていいのか分からないが、二年三組では彼女の悪口は「言っても大丈夫」という空気が形成されていた。
そこからは加速度的に彼女への嫌がらせが悪化していく。
ノートへの悪戯書き、筆記用具の紛失、それらを目の当たりにした河北の後ろでは毎回誰かしらの笑い声が聞こえるらしい。
よくもまあ、こんな詳細まで調べられたな、と妃菜に感心しながらも、河北の問題が悪化した事への失望も感じていた。
このまま河北への嫌がらせが風化することを期待していた自分がいた。
一過性のものだと信じたがっていた自分がいた。
しかし事実は小説よりも奇なり、ではなく事実は小説よりも愚かしいほどに滑稽だった。まったく笑えないが。
そんな二つの問題を注視しながらも、俺は俺でいつもの日常を過ごしていた。
しかしその日、俺は妃菜からの又聞きでもなく、俺の勝手な推測でもなく、河北京子の問題をこの瞳で直接、目にすることになった。
それはあまりにも決定的な現場で、言葉を失ってしまうほど馬鹿々々しく、そしてとても嫌な光景だった。
朝、いつものごとく俺は妃菜と一緒に登校していた。
昇降口まで来れば見慣れた光景で、多くの生徒たちが上履きに履き替えている。
しかしその流れの中で一人、立ちすくむ女生徒がいた。
「あれは――」
と口に出て、妃菜もその女子に気付いたらしい。
「河北さん?」
珍しかった。俺と妃菜が登校するのは家が近いこともあって、朝のホームルームが始まる五分前。けっこう遅い。
対して河北は学から聞いた話、早い時間に登校しているらしかった。
実際、初めて河北を確認しに教室に訪れた日も、いつもより早い時間に登校した覚えがある。
「なんか珍しいね」
妃菜も俺と同じ感想を抱いたようだ。
何とはなしに俺たちはそのまま河北の動向を眺めることにした。
俺と妃菜は直接河北に接点がある訳ではない。だからこのまま何食わぬ顔で上履きに履き替え、通り過ぎても良かったのだが、けれど何故か彼女が気になった。
気になった、というよりは胸騒ぎと言った方が近いかもしれないが……。
しばらく眺めていたが、彼女はずっと下駄箱の前で立ち竦んでいる、それだけだった。
「どうしたんだ? 全然動かないな」
「うん? そうだね」
俺と妃菜は首を傾げつつ、それでも河北の観察を続ける。
そして漸く動き出した、と思ったら今度は昇降口をうろうろ徘徊し始めた。
何をしているのか、とここまで来ればさすがに分からないはずがなかった。
河北は靴下のまま動き回っている。その姿だけで恐らく上履きを探していることは容易に想像がついた。
妃菜はそんな河北に声を掛けようと一歩足を踏み出そうとしたが、俺は彼女の手を取ってそれを制止する。
「なんで?」
彼女の疑問に静かに首を振った。
「昇降口にはまだ他にも生徒がいる。中には河北と同じクラスの奴もいるかもしれない。今、微妙な立場の河北に俺やお前が話しかけてみろ。三組の奴はどう思う? 俺たちは学校でもそれなりに有名だ。河北が俺たちに助けを求めたんじゃないかと考える奴だっている。そしたら最後、もしかしたら河北へのいじめは無くなるかもしれない、表向きは。裏では今までより、もっと酷い事をして、河北に他言させないようにするかもしれない。それはもう、悪手以上の何ものでもない。火に油を注ぐと同義だ」
「……そっか」
しゅん、と俯く妃菜に「けどお前の気持ちは正しいよ」と慰めた。
暫くして朝のホームルームを告げるチャイムが鳴った。それを合図に河北は肩を落として、靴下のまま階段に向かっていく。
俺たちは河北が階段へ消えていくのを確認して、漸く下駄箱に向かった。
「ん? どうしたの?」
妃菜の声も無視し、下駄箱近くのごみ箱に近づいてその中を確認した。
俺の見当は当たっていたらしく、埃や紙くずの奥から『河北』と書かれた上履きが発見できた。
「これって……」
妃菜は両手で口を覆って、言葉を失っていた。
「馬鹿な奴がいるな」
近くのごみ箱に捨てた、ということは計画的な犯行でもないのだろう。
ただの思いつきの、突発的な犯行。
ゴミの詰まった上履きは手ではたけば多少は綺麗になったが、こびり付いた汚れは取れなかった。
仕方なくその上履きを河北の下駄箱に戻して、今度は自分の上履きを確認する。
良かった、俺のは隠されていないようだ。もっとも、俺の上履きを隠した場合、犯人を締め上げるまで、絶対に許さない。
「ここまでするんだね」
妃菜の弱々しい声がこの出来事を一層、悲愴なものにさせる。
「そんな顔するな。悲しがったらそれこそ、やった奴の思うつぼだ」
と言いながら俺も人のことを言えない。思った以上に河北への嫌がらせが激化していることに驚いていた。
静観が最善手だと、あの選択は間違いだったのかもしれない。
次の一手を打つべきだろう。
けれど、次の一手か――。
このデリケートな問題に部外者の俺が出来ることは限られている。
「なんで、こんなことするんだろう?」
妃菜は首を傾げて、本当に意味が分からないと呟いた。
確かに、どうしてこんなことをするのか。いや、理由などないのかもしれない。
「気まぐれ、なんだろうな」
そんなものなのだろう。
悪戯といじめの境界も曖昧で、こんなことを平気で行えてしまう。
「誰が悪いのか」
その問いを呟いて、眉間に皺を寄せる。その問いほど無意味なものはない。
問題を解決するには悪者を探すより、アプローチをもっと別の角度から行うべきだろう。
では、その別の角度とは一体何だろうか。
*
放課後になって妃菜には先に帰るように伝えた。
妃菜は不満を口にしつつ素直に従ってくれたが、あとからLINEで「家で待ってるね!」と連絡があり、肩を竦めた。
そうして妃菜を先に帰し、俺はと言えば校門から少し離れた歩道の防護柵に腰をかけて読書をしていた。
ふむふむふむ。
初めて読む小説だが、俺の趣味ではなかった。
ジャンルはファンタジーで世界観はとても壮大。しかしキャラは一人一人丁寧に描かれた秀作だが、やはり俺の琴線には触れない。
欠伸をしながら読み進めていく。
どんなに好みでない内容も、それが活字で構成されているだけで暇潰しにはなる。
明日にはこの物語を忘れているのだろうと確信に近い想像をしながら、文字列を目で追っていく。
ちらっと本から目を離して、校門を見やる。
まだ来ないか。
帰りのホームルームが終わって二十分ほど。
部活のない生徒はさすがに残っていないだろう。今学校に残っているのは長話をしている暇な奴らと委員会の仕事をしている生徒ぐらい。
――目当ての生徒はまだ現れない。
それから十分、読んでいる小説の主人公がヒロインに殺されるという驚くべき展開を見せたところで、ようやく待っていた人物がやって来た。てか、主人公死んじゃったよ。
前からとぼとぼと俯きながら、校門を出てきたのは河北京子だった。
事前に妃菜から、河北が教室に人がいなくなるまで下校しないことを聞いていた。
誰もいなくなるまでは清宮が河北の話相手をすることで河北を守っているらしいが、清宮は確かバスケ部だ。部活の方は大丈夫なのかと心配になるが、河北を残して教室を離れるのは清宮の性格を考えれば出来るはずもない。あいつも難儀な性格をしている。
しかし清宮には悪いが、河北がこの時間まで残ってくれたのは俺にしても都合がよかった。
生徒の誰かに見られれば河北との関係を邪推される心配がある。
だから生徒の目が無くなった今、この時が好機なのだ。
この機会を逃せば河北京子と話せるタイミングはやって来ないかもしれない。
それに一度河北と会話をすることで彼女が実際どんな人間なのか見極めたい、という理由もあった。思い返せば、俺は河北を妃菜たちの話でしか知らない。あとは見た目の印象くらいか。
――彼女がどのような人間か、それを確かめる。
俯きながら歩く河北は見過ごしてしまう程に暗い雰囲気を纏っていた。
いつぞやのデートで学と話していた明るい印象は微塵もない。
そんな彼女に声をかけるか一瞬躊躇われたが、首を振って本から顔を上げた。
手を上げて彼女に声をかける。
「やあ、こんにちは」
河北の動きが止まった。
ゆっくりとこちらに顔を向けると「私?」と首を傾げる。
「河北さんだよね?」
自分の名前を呼ばれて彼女は瞳に訝しげな色を宿した。
見知らぬ人に名前を呼ばれたんだ、そんな態度にもなるだろう。
大抵の男子なら好きな女子にいきなり声をかけて「なんで話してくんの?」という問いかけに答えられずに撃沈する。理由なんて好きだから、と実際に口に出す奴はいない。
いきなり「好きだから話しかけた」なんて女子側からしたら気持ち悪いに決まっている。「つーか、あんた誰?」と返されたら明日から学校に来れない。
だから本当の理由を言わずに……。それでは、どうするか?
男子とは、ピュアな馬鹿野郎で、真実を口にはしないが嘘も吐かない。
だから黙ったまま「え、何こいつ……」って女子に引かれて、あえなく失恋する。
いや、お前らほんと馬鹿だろ。
ここで重要なのはしっかり嘘を吐くことだ。
嘘も方便と言うように、嘘も女の子を落とすためのスパイスみたいなものだ。
というか女子も皆、嘘をつきまくっているのだから、男子だって同じように嘘をつけばいい。
そして俺クラスになれば嘘をつかずに嘘をつく。
「一年の時、学と同じクラスだった一ノ宮澄人って言うんだけど……」
「古井の友達?」
「そうそう」
こういう時は第一印象が大切。笑顔を忘れない。
笑顔と言っても満面の笑顔とかではなく、自然な笑顔。微笑み程度が相手に変な印象を持たせない。
最初の印象で特別良い人だと思われなくても良い。害がない人間だとアピールできれば成功だ。あとは話せば慣れていき、別れる時にはいつの間にか友達になっている。
これが女子の攻略法。
告白したいなら、まず友達にならなければいけないのに、いきなりゴールを見据えている奴はそういう前段階で失敗する。
前提をどうにかしなければ本編は始まらない。
「そうなんだ」
どうやら河北は俺が学と友人であると知って幾分か安心したようだった。
よし、それならすぐ、これだ。
俺は持っていた文庫本を相手から表紙が見えるように調整しながら持ち上げる。
「ああ! それ!」
予想通りに河北が反応した。
「うん? これか?」
学がデートの口実に使った小説のシリーズ。俺が今手に持っているのは、それだ。
「そのシリーズ好きなんだ!」
その言葉に俺は微笑みを返す。
「いいよね、私もこのシリーズ好きなんだ!」
「そうなんだ、奇遇だね」
奇遇であるもんか。
俺はこの時、何も答えていない。このシリーズが好きだとは一切口にしていない。
けれど相手が勝手に誤解しているなら仕方がないよな。
我ながら完璧だ。
けどこの子、人をこんな簡単に信じて大丈夫かしら。新宿の歌舞伎町とか絶対歩かせられない。
「私この作者の作品全部読んだんだけど、一番そのシリーズが好きなの! あなたはどの作品が好き?」
「俺はこれしか読んだことないな」
「じゃあ、他のも読んだ方がいいよ! というか全部読みなさい! うんうん、絶対そっちの方が良い!」
お、おお……。いきなりパーソナルスペースに踏み込む勢い。
学とのデートを見ていたので小説の話に食いつくとは思っていたが、ここまでとは。
ちょろい。ちょろすぎる。
ちょろすぎて、チョロスとか作れそう。なにそれ、甘いの美味しいの?
「うん、読めたら読むよ」
うん、絶対に読まない。
そんな彼女の勢いは止むことなく、その後もいくつかの作品をおすすめされた。
俺はテキトーに「ああ」とか「いい」とか「うう」とか相槌を打って彼女の話を聞き流した。
そんな彼女の熱弁が十分ほど続くとさすがに飽きてくる。というか最初から飽きていた。
河北の話を遮って、俺は当初の目的を提案する。
「これから駅ビルの本屋に寄るんだけど、どうする?」
「私も行く!」
「そっか」
河北が電車通学という情報は事前に仕入れている。
駅ビルの本屋なら下校時に寄りやすいだろうと選んだが、この様子ならどこを提案しても付いてきたかもしれない。
「それじゃあ、行くか」
かれこれ三十分ほど座っていた防護柵から腰を浮かせて歩き出した。
信号を渡ってすぐそこにバス停がある。バスに乗れば十分ほどで駅まで行けるが徒歩だと三十分もかかってしまう。
電車で通う学生は相模原駅からバスで高校に向かうのが一般的で、徒歩でやって来る猛者はそうそういない。
バス停で河北の熱弁を再度聞き流しながら、間もなくしてやって来たバスに乗り込んだ。
時刻は十五時を少し過ぎたくらい。この時間帯のバスにはほぼ乗客がいない。
俺たちは一番後ろの席に座った。
ピーという音が鳴って扉が閉まる。同時にアイドリングで止まっていたエンジンが動き出し、バスが発車した。
ここから駅までは四つのバス停を経由する。
駅までの道のりは思いのほかスムーズに進んでいた。
経由するバス停に待っている人がいない場合、バスはそのままバス停を通り過ぎる。それがいくつも続いたので、思いのほか早く駅に到着した。時計を見ればバスに乗ってから五分も経っていない。高校から駅までは一回交差点を曲がれば、後はただ真っすぐに進むだけ。なので、早い時は本当に早く着くことがある。
ICカードをかざしてバスから降りた。
ここからエスカレータで上がれば駅ビルの入口に辿り着ける。
相模原駅には駅ビルが二つ存在し、改札への通路を挟む形で東と西に隣接している。
本屋があるのは西側の駅ビルの三階で中に入って、もう一度エスカレーターに乗る必要がある。自動ドアを抜け、アパレルショップ、靴屋などを通り過ぎ、エスカレーターで上の階に上がれば、目的の本屋に辿り着く。
駅ビル内にある本屋なのでそこまで面積は広くはないが、欲しい本をすぐに見つける事が出来るので、電車で遠出した帰りにはよく寄っている。
しかし今回ここに来た目的はもちろん本を探しに来た訳ではなく、彼女と腰を据えてゆっくりと話をする為だ。本屋はその目的の布石に過ぎない。
良きタイミングで下の階のコーヒーショップに誘い彼女から話を聞く。直接、彼女からあの問題の根幹を聞き出す。暴挙と言われるかもしれないが、回りくどいのは面倒くさいのだ。
河北からいくつもの小説をお勧めされながら、俺はコーヒーショップに誘うタイミングを窺っていた。
「これとかもおすすめ! ミステリーだけどギャグも面白くて――って聞いてる?」
どのように誘うか考えて、河北の会話をおざなりにしていたようだった。
俺は訝しげに見つめてくる彼女に肩を竦めて首を振った。
「いや、聞いてなかった。別のことに気を取られてた」
こういう時は変に嘘をつかない。おどけながらも真実を口にする。嘘と真実、これを状況によって使い分けるのが肝要。
「人の話はちゃんと聞く! 一所懸命話してるのに聞いてくれなかったら話してる人も悲しむでしょ!」
河北はビシッとこちらに人差し指を向けて唇を尖らせる。
「河北さんも悲しいのか?」
小さく頷き、俺の問いに河北が返答する。
「私も悲しい。自分の言葉が届いてないときは、とても悲しい……」
言葉尻が萎んで最後の方はよく聞き取れなかった。
「何か、あったか?」
と、彼女の事情を知りつつも、そんなことを問いかける。
我ながらとんだペテン師だと嘆息を吐きたくなった。
河北は俺の問いかけに首を振って顔を上げる。
「何もない。それで、一ノ宮は私の話そっちのけで何考えてたの?」
「ああ、それか」
「うん」
河北は頷いて、俺を見つめる。
「そうだな……、どうやって河北さんを下のカフェに誘うか悩んでた」
俺はここでも、そのまま真実を告げる。
女子との会話で気を付けるべき点は嘘と真実の塩梅。
嘘ばかりでは会話の重量が軽すぎて、内容がふわふわとどこかへ飛んで行ってしまう。結局、嘘は嘘でしかなく、自分の経験外からの話はどこか説得力に欠けてしまう。
たまに真実を織り交ぜることによって会話の重量を安定させる。
それに嘘を重ねれば、女子にはすぐに見抜かれる。嘘に関して女子の方が百戦錬磨、嘘の技術は何枚も上手だ。
ならば俺たち男子に出来る事は真実の強みを生かすこと。
男子ほど純粋な生き物もいない。
その純粋さを上手く使えれば、女子との会話も切り抜けられる。技術を研鑽すれば会話の主導権すら勝ち取る事が出来る。
だてに毎日リア充グループの女子たちと話していない。
ほんと、あいつらの会話は難しい。話題がすぱすぱ切り替わって、全然違う話をし始めたりする。会話に論理も必然も存在しない。
そんなカオスのような会話で毎日鍛えられた俺に怖いものは無いのだ。
「あ、そ、そうなんだ」
身動ぎしながらも若干距離を開けてこちらを見つめる河北。
え、引かれた? もしかして引かれた? という反応も予想通り。
「ここじゃ、あんま声大きくして話せないだろ。気兼ねなく河北さんの本の話を聞きたくてさ」
本屋に来たのは布石と言った。それはコーヒーショップとの距離的な理由もあるが、本命はこちら。
本屋で大きな声を出さないのは暗黙の了解。本好きなら尚更そこには敏感だ。これはそんな習性を利用した誘い術。
周りに人がいるからとか、もっと静かなところでとか、誘う理由を環境によって作り上げる。
人間はどうしたって個人的な理由を毛嫌いする。
相手が損することならまだしも、得することには無意識に嫌う傾向にある。なら環境のせいにして「仕方ない」という言い訳を作ってもらう。
人の動く理由の大半は「言い訳」に帰結する。これは俺の個人的意見だが、しかし大体そんな妥協的な理由で人は動く。
どうやって「仕方ない」という考えを植え付けるか。ここが重要。
それにメリットの提示よりも「仕方ない」と思ってくれた方が提案する側にとってもコスパが良い。メリットなんて考えると余計な出費に繋がる恐れもある。
河北は「そっか!」と笑顔を見せて、どうやら俺の意見に納得してくれたようだ。
「それじゃあ、行こっか」
彼女を先導してエスカレーターで下の階に向かう。
カフェもといコーヒーショップはエスカレーターを降りて、すぐのところにある。全国チェーンの誰でも知っているコーヒーショップ。
「いらっしゃいませー」
店内に入ると男性店員の妙な抑揚の挨拶に出迎えられる。こういう店の店員って何故か変な抑揚で話すが、そう話すように接客マニュアルとかに書かれてるのか?
「ブレンドコーヒーと、河北さんはどうする?」
「私はカプチーノ」
「分かった」
先程の店員がまたも独特の抑揚で注文を復唱する。最後に合計金額を告げられ、財布から千円札を取り出そうと手を差し込むと、横からそれを制する手が翳された。
「自分の分は自分で払う」
そう言うとトレーにカプチーノの代金を置いた。
「ちょうど、だな」
「たまたま小銭があったから」
俺は彼女が置いた小銭を財布にしまって代わりに千円札をトレーに置いた。
「これくらいなら俺が払っても良かったんだが」
「こういうのはちゃんとしたいの。自分の分は自分のお金で。というか、なんで払おうとするの?」
「いや、え? こういう時って男が払うのが普通だろ」
「そんな普通知らない! 男だから女だからって別けるのは嫌い! もっと普通で良いのに」
「普通か」
普通ってなんだろね? 真理、悟り、禅問答? やはりニーチェを読んでおくべきだったか。
「ああ、そうだな、普通にな」
俺は彼女の勢いに圧倒されつつ返答した。
会計を終えると横にずれて受け渡しカウンターでコーヒーが来るのを待つ。
「河北さんはここ、よく来たりするの?」
「うーん、あんまり寄らないかな。さっきの書店もほとんど行かないし」
「へぇー、学校の帰りにちょっくら本屋に寄るかー、とかならないの?」
俺の質問に河北は小首を傾げて「えっと……」と言葉を続ける。
「橋本の方の書店に行くんだよ。電車とか早めに乗っちゃいたいって思うから」
「ああ、そっか」
最寄が橋本駅なのか。ならば相模原より大都会の橋本で買い物をした方が百倍いいに決まっている。
橋本駅は相模原駅から八王子方面に一駅すぐのところにある大都会。映画館にショッピングモールに駅ビルの数々。まじ相模原の名を橋本に返上しろ、と思える程に発展した街並み。いや、逆に相模原市じゃなくて橋本市に名前を変えた方が良いまである。
「橋本ならそっちのが良いな」
「そう? まあ、相模原駅より橋本駅の方が色々あるしね」
本当に同じ相模原市とは思えない格差にため息を吐きつつ、そうこうしていると注文したコーヒーが出来上がったようだ。
俺たちはコーヒーを受け取って窓際の席に着いた。
店内は植物が生えた植木鉢を等間隔に置いて、緑を基調にしつつ、壁はガラス張りで開放感のある内装になっている。
「外が丸見えだな」
「そうだね」
頼んだコーヒーをそれぞれ飲んで、腰を落ち着かせる。
「ねぇねぇ、それでさ、一ノ宮はどんな作品が好きなの?」
今まで我慢していたのか、啖呵を切ったように本の話を始めた。
「俺はいつも純文学を読むな」
「ふーん、村上春樹とか?」
「春樹も読むが、あれを純文学と言って良いのか。もっと別のジャンルのようにも思えるな」
「へぇ、私はあんまり読まないから分かんないなぁ。そういえば古井も純文学好きだったかな」
「ああ、あいつは漱石大好きッ子だから」
「うんうん、夏目漱石の話をしてる時の古井はすっごい熱い、暑苦しい! もうやめてって言ってるのに全然話やめないの!」
笑いながら学の話をする河北。言葉こそ辛辣だがその言い方はとても親しみのあるものだ。
「そうだな。あいつ、漱石のことになると周りが見えなくなるからな」
「そうそう! あんま漱石って読まないから古井の言ってること分かんないんだよね。読めば分かるのかな」
「まあ、多少は。けど俺でも何言ってんのか分かんない時もあるし、一概に漱石読んでるから学の言ってることを理解出来るって訳でもないな」
あいつはどこで仕入れてくるのか、最近の論文や研究情報を何故だか知っている。大学生でも知らない情報を本当にどこから仕入れてくるのだろうか。
「そうなんだ。古井とは結構長い付き合いなの?」
「あいつとは高校から知り合ったから、そんなに」
「一年くらい?」
「ああ」
そうして、しばらく学についての話で盛り上がった。
と言っても、ほとんどは河北が俺に学についてのあれこれを尋ねてきた。
それにしてもなんだ、この子も学に気があるのか。両想いじゃん! もう付き合っちゃえよ、お前ら――、なんて、ダル絡みしてくるクラスメイトは本当にだるい。というか、だるい。お前のことだぞ、田中。
それから話は彼女の好きな小説に戻って、俺は当然、聞き流した。
さて、どのタイミングであの話題を振るか。
河北から直接話を聞ければ手っ取り早いと思ったのだが、いざ話すとなるとどのように切り込むべきか……。
そうして頭を巡らせていると、河北からの声が突然途絶えた事に気付いた。
不思議に思って河北の顔を窺うと、彼女は俯きながら肩を震わせている。
「どうした?」
「………………」
声をかけても返答はない。
「大丈夫か? 顔、白いぞ?」
河北の顔は青白く、気分が悪そうだった。
未だに肩は震えている。身体を縮こませて、ずっと俯いている状態だ。
それが、なんだか誰かから身を隠しているようにも映って――。
まさかと思い、俺は後ろを振り返った。
窓を挟んで奥、三人組の女子高生がこちらに向かって歩いて来ていた。制服は俺たちと同じ高校。河北の様子から察するに、同じクラスの奴なのではないだろうか。
そんな彼女らはガラスを通しても聞こえる騒がしい声で話している。
「マジウケるんだけど! あいつ今日ずっと靴下のまま授業受けてたよ! 足臭くなんじゃないの?」
「それ、ほんと笑えたよねー。スリッパを借りるとか考えないのかなー」
「少し考えれば思い付くのに。ああいう奴ってやっぱ言う事だけいっちょ前で、実際は馬鹿なんでしょ」
「口しか動かさない奴とかマジムカつくぅー。ま、ミオを怒らせたんだし、こんなの当然の報いっしょ」
「そうだよね!」
「ねー」
あー、なんだ、うっさいな。何がウケんの? 受けなの、攻めなの?
彼女たちはこちらに気付くこともなく、馬鹿でかい声で騒ぎながら改札口の方に消えていった。
「行ったみたいだぞ」
俯く河北に声をかけても、彼女は依然、俯いたままぷるぷる肩を震わせている。
「大丈夫か?」
と訊くもやはり返答はない。
どうしたものか、としばらく河北を眺めていたが彼女は顔を上げてくれない。
そんな彼女の姿にため息をついて、このまま河北が落ち着くのを待とうとも思ったが、やめた。俺はもう言ってしまおうと決心した。
河北には悪いが話を切り出すにはこのタイミングしかないだろう。
俺は決心してすぐ、俯く彼女を見つめて口を開く。
「今日の朝、昇降口で河北さんを見た」
「え?」
俺の告白に漸く河北が顔を上げた。その表情には驚きとともに恥ずかしさを滲ませていた。いや、気まずさ、申し訳なさと言ったほうが適当かもしれない。
彼女は目を逸らしつつ口を動かした。
「見てたんだ」
「ああ」
素っ気なく答える。こんなことは些末なことだと暗に示した態度をとる。
彼女も慰めてほしい訳じゃないだろう。安っぽい同情ほどいらないものもない。
「河北さんはいじめられてんの?」
率直に聞いた。取り繕うことはしない。
そして彼女は――。
「――どこで間違えちゃったのかな」
彼女の呟きはかき消えてしまうほどに小さく、か細いものだった。
「ううん、最初から間違えてたのかも……」
すぐに霧散してしまう程に声は小さく、不安に駆られる言葉たち。
「どうしてそうなったのか分かるか?」
「分からない。なんでこうなったのか全然――。私ってそんなにムカつく性格なの?」
その真っすぐな物言いは俺からすればとても綺麗に映る。
しかし自分の事しか考えない大多数はそれを疎み、嫌うだろう。
先程の女子高生たちの会話を聞く限り、ミオという人物が云々、とあったがそれだって実際は表向きの理由付けに過ぎない。
偶然その出来事が起きたから、それが大義名分に仕立て上げられ、嫌がらせが始まっただけ。
他人の事情に限って正義を振り撒く輩はいる。
そんな奴は実際その人の事を思いやっている訳じゃない。ただ自身の鬱憤を吐き出す口実を見つけただけで、そこには正義という名前しか存在しない。
正義を理由付けの道具としてしか使っていないのだ。
誰かの為と言って、そこに本当の正義なんか介在しない。。
人は他人のためになんか動かない。
人は自分のためにしか動きやしない。
河北への嫌がらせもお題目は正義かもしれないが、根底ではただの暇潰しだ。
退屈な日常に飽きた時の、ちょっとした最低のお遊び。
「今日はこの辺で解散にするか」
遂に、彼女のいじめが明確化されてしまった。
今までは全て妃菜からの又聞きで、今朝の出来事だって勘違いだと思えたかもしれない。
けれど、目の前に俯く彼女を見てしまえば、それはもう肯定せざるを得ない。
「ねぇ、一ノ宮」
立ち上がりかけた俺の手首を握って、震えた声で俺を呼び止める。
「一ノ宮はさ。私のこと助けてくれるの?」
俯いた彼女の表情を窺うことは出来ない。
どんな顔をしているのか。悲しそうに苦しそうに、おそらく全部だ。
俺は彼女の問いかけにゆっくりと首を振った。
それは非情かもしれない。けれど現時点で俺は河北を助けられない。
「俺は君を救えない。今はその手立てが思いつかないんだ」
だらんと俺の手首から河北の手が離された。
「ごめん、こんなこと言われて困るよね。いつもの私だったら他人に頼らないのに。全然普通じゃないや」
彼女も追い込まれている。そして限界はもう近い。
「普通じゃないよね……」
萎んでいく声音は着地点も見つからずに迷っているようだ。
俺はそんな弱々しい彼女を見つめる事しか出来なかった。
*
放課後の匂いは消えて、空は暗く建物から漏れる灯りが目立ってきていた。
駅を出て、俺はただ何となく自宅に向けて歩いている。
バスの方が断然速く、楽なのだが、今はどうしようもなく歩きたい気分だった。
ふと、家にいる妃菜のことを思い出し、夕食はどうするのだろうかと疑問に思う。あいつのことだから一緒に食べようと言ってくるに違いない。しかし今から帰って夕食を作る気力は残っていないし、妃菜に作ってもらうのも気が引ける。
俺はスマフォを取り出して妃菜に電話を掛けた。
「ああ、妃菜か?」
『うん、どしたの?』
「あのさ、今日ファミレスで食べないか?」
『ファミレス? ああ、近くにあったね。先に行ってればいい?』
「そうしてくれ」
『分かった、待ってるねー』
妃菜の声が消えるのを確認してスマフォをしまう。
駅周辺にも飲食店はあるが、さすがにここまで来てもらうほど俺も薄情じゃない。
それにまだ先程の空気にあてられている。この状態で妃菜に会ってもどういう顔をすればいいのか分からなかった。
ファミレスに着くまでおおよそ三十分。この時間で少しでも頭を冷やせればいいが……。
しかし俺は理解している。
この胸のつかえを解消させるには、河北の問題を解決する他にない。
解決策が思いつかないから、悶々として、ずっと考え続ける。
歩道橋を渡って、少しでも長く歩く時間を稼いだ。
ずっとずっと歩き続けて、いつか答えが出れば――。
ファミレスに入ってすぐに奥から妃菜がこちらに手を振って、手招きしてきた。俺はそれに頷いて、奥の席に向かう。
「待たせた」
「ううん。ぜんぜん、だいじょーぶだよ」
妃菜は笑顔で首を振った。
「何か頼んだ?」
「うん。卵がゆ頼んだ」
「そうか」
妃菜の前には食べ終わった皿が並んでいる。
俺はメニューを取り出して手早く注文を決めた。
「甘いもんでも食べるか?」
待たせたお礼に彼女に訊くと「うん!」と笑って頷きを返される。
「じゃあ、このパフェにする」
「分かった」
ボタンを押すとピンポーンという音が店内に鳴り響き、間もなくしてやって来た店員に先程決めたメニューと彼女のパフェを頼んだ。
「承りました。少々お待ちください」
店員が去っていくのを確認して、俺はだらんと肩の力を抜く。
「お疲れだね」
妃菜はそう言って俺の前にお冷を差し出してくれた。俺は有り難くそれを受け取ってぐびぐびと喉を潤した。
「それで、さっきまで河北さんと会ってたの?」
「ああ、そんな感じだ」
「ふーん、浮気とかしてないよねー」
「浮気か――、してたかもなぁ」
「むむー」
頬を膨らませて、妃菜はテーブルの下から俺の足を蹴ってきた。
「痛って! 何すんだよ」
「そんなこと言うからだよー、もう。そんな気が無いって分かってても、他の女の子と会ってるだけで乙女はそわそわしちゃう生き物なの!」
「そりゃあ、ごめんなさい」
「うん、よろしい!」
妃菜は腕を組んで大きく頷いた。どうやらお許しを頂けたようだ。
「で、まあ、そんなのは正直どうでもいいんだけど」
いいのかよ。
「河北さんとはどこまで話せたの?」
「あ、ああ、そうだな――」
俺は河北と話した内容を妃菜に伝えた。と言っても特に目ぼしい情報があった訳ではない。
聞き終えた妃菜は眉根を抑えて、難しい顔をしていた。
「どうした?」
「いや、うーん。その三人組の女子って誰だか分かる?」
三人組の女子とは河北の悪口を言っていた奴らのことだろう。
「いや、分からなかったな」
見覚えはなかった。おそらく一年の頃も一緒のクラスではなかったはずだ。もしかしたら廊下ですれ違ったりなどしたかもしれないが、そこまで生徒を把握はしていない。
同じ女子ならば何か分かるかもと、その女子三人組の特徴を言ってみたが、妃菜も「分からないや」と申し訳なさそうに首を振った。
しかしそう言いながら、いずれ妃菜がその女子たちの詳細を調べてくれるだろう。お得意の諜報活動によって。
俺は「そうか」と端的に返事をして、欠伸を噛み殺した。夕食前なのに眠くなってきた。歩いた疲労感が眠気に変わってきたのだろうか。
「他にさ、なかった?」
「何が?」
妃菜は口を尖らせて「その女子たちは何か言ってなかった?」と問いを投げかける。
そんな問いかけに、女子三人組の会話を思い出す。
「そういえば、ミオとか言う人物が怒ったから自業自得、なんて言っていたような……」
ああ、そうだ。その時は河北に気を配っていたので特に疑問に思わなかったが、そういえばミオって誰だ?
「――ミオ。うーん、ちょっと選択肢が多いなぁ」
そうだよな。俺の知り合いにもミオという名前の人物は多い。
二年三組の生徒にミオという人物がどの程度いるのか知らないが、彼女の口振りからそれなりにいるのだろう。
「三組にミオっていう名前の生徒は何人いるんだ?」
「えっとね……。容疑者は五人いるかな」
容疑者って。
まあ、いじめも犯罪と同義みたいなものだ。言い得て妙なのかもしれないが。
「五人か。どいつが有力候補だ?」
「そこまでは見当つかないなー。どの子も怪しいし、怪しくないように見えるんだよね」
「そうか」
妃菜の話を聞く限り、三組はクラス全員が河北の嫌がらせに加担しているような口振りだったが、実際は違うのだろうか。
見て見ぬ振りをしている奴もいるとは思うが、そういう生徒って事か?
「ま、解決の糸口に違いはないだろ。俺の方も調べてみるよ」
「うん、よろしく」
その返事とともに妃菜はお手洗いに立った。話に区切りがつくまで我慢していたのか。
そんな彼女と入れ違う形で店員が料理を運びに来た。
ヒレカツ定食。ここに来るとついついこれを頼んでしまう。安い上に主食、副食、全てがバランス良く揃っているので、特に食べたいものがない限りはこれを頼む。
間もなくして妃菜のパフェもやって来た。
妃菜は手洗いから帰ってきて、すぐさまスプーンを取り出しパフェに取り掛かる。
バニラアイスにコーンフレーク、その上にはチョコレートアイスにチョコクリーム、またその上に生クレームといちご。おお、見ただけで甘くなる。
妃菜がパフェを食べているのを目の前に、俺もヒレカツ定食に取り掛かった。
ヒレカツにお吸い物、ご飯に漬物も添えられている。
ヒレカツを頬張りながらご飯も一緒に口に運ぶ。安心の美味しさだ。
先程の眠気も消え去って、箸が進む。
そしてものの十分ほどで完食する。前を見やれば妃菜もパフェを食べ終えたらしい。
箸をおいて空になった皿を見つめる。
途端にテーブルに静けさが生まれた。特に話すこともない。
二人でいるときはこの沈黙も慣れたもので、それぞれにスマフォを弄ったり、本を読んだり時間を潰す。
食べ終えたのなら帰ればいいものだが、何故か俺たちはこの沈黙さえ心地よく思う。
彼女と居れば何をやっても、どこに行っても、息苦しくない。
そんな居心地の良さを感じながら、ふいに窓の外を眺めた。真っ暗な景色に車のヘッドライトが妙に際立つ。こんな景色を眺めていると、どうにも感慨に耽ってしまう。
同時に、否が応でも河北京子の事を思い出してしまう。
河北はあそこまで追い詰められていた。
誰かが傷つき、誰かが傷つけている。
いじめなんてフィクションではよくあることで、けれど現実では絶対に起きてはいけない出来事で。なのにこうして今いじめは日常として巻き起こっていた。
事件ではなく日常として、彼ら彼女らは河北を傷つけている。
ため息を吐いた。ここ最近ずっとため息を吐いているかもしれない。
――この問題の終息。
と言っても河北に告げた通り、俺は彼女を救えない。
けれど、目の前の彼女、――妃菜はそれを否定する。
いつだってお前は俺をすごい奴だと声高々に宣言する。
「大丈夫。できるよ、澄人なら」
この依頼に拘束力もなければ、強制もされていない。全ては俺が自分で背負い込んだもの。
俺はどうしてここまで頑張ってしまうのか。自分でも、どうかしていると笑ってしまう。
けれど彼女に――君に頼まれたら、俺は引き受けてしまうんだ。
「やってみるよ。俺に出来ることなら、最後まで」
なんて言って、自分の言葉に苦笑する。
俺は女子にだって嘘をつける。君にだって嘘をつくよ、妃菜。
*
ファミレスで妃菜と別れた後、自宅に向かうと玄関に誰か人影が立っていた。
不安に思いつつ近づいてみると、人影の正体は久我界人だった。
「おう、遅かったな」
「いや、待たせてないんだけど……何? ストーカー?」
「玄関の前で堂々と待ってるストーカーもいないだろ。……ちょっと話したくてさ。いいか?」
悪くはないが。
界人ルートとか心の準備が、なんて冗談は置いといて。しかし界人の話には心当たりがない。
「いいけど……。とりあえず、入るか?」
疑問に思いつつ、界人を家に招き入れた。
「なんか用か?」
コップに麦茶を注ぎながら、疑問を呈する。
界人は「まあな」と言ったきり、黙ってしまった。
そんな彼を不思議に思いながらも、俺もそれ以上の追求をしない。
何か事情があるのだろう。しかし、やはり彼の様子は変だった。
それからずっと二人並んで麦茶を飲み続けた。
界人のただならぬ雰囲気に俺も何を話しかけていいものやら、と黙っているのだが、界人も界人で何か話せよ、とそろそろこの沈黙に耐えられなくなってきたのも事実。
そんな俺の心情を察したのか、トンっと音を立ててコップを置くと、漸く界人が口を開いた。
「なんか動いてるらしいな」
彼の第一声はどうにもよく分からなかった。
「どういうことだ?」
正直に疑問を口にする。
界人は両手を組んでシリアス顔を保っている。えっ、俺なんかしたか?
「また花川に何か頼まれたんだろ?」
界人は重々しく口を開いた。
「ああ、それか。気づいてたんだな」
瞬間、胸を撫で下ろした。人一人殺したと平気で言いそうな空気だったので焦ってしまった。
なんだ、妃菜の事か。
「誰かから聞いたのか?」
「咲野から聞いたんだ」
「あいつ、話したのかよ」
界人は首を振った。
「いいや、俺から訊いたんだ。何か知ってそうだったからな」
「お前、そういうのよく気付くよな」
「ありがと」
褒めてない。逆にこういうところが油断できなくて怖いんだよ。
「それで、話してくれるのか」
「知ってどうする。アドバイスでもしてくれるか?」
「お前に出来ないことが俺に出来るはずないだろ」
「お前も俺を買い被りすぎだよ」
その期待が少し苦しい。
「分かった、話すよ。お前なりに助言をくれ」
俺は古井学と河北京子についてのあれこれを話した。
界人なら他言することも無いだろうし安心だと思いたいが、咲野は話したんだよなぁ。咲野も相手が界人だから話して良いと判断したのだろうし、悪気が無いからこそ、怒るに怒れない。
まあ、後日これをネタにからかってやるか。
「それで、どうだった?」
界人の反応を見れば、彼はただじっとコップを見続けている。
ゆっくり考えて、ゆっくりと言葉を選んでいるのだろう。久我界人とはそういう人間で、言葉一つ一つを大切にしている。
一つの言葉が人を救う天啓になる事も、人を傷つける刃物になる事も、彼は十分すぎるほどに理解している。
界人は熟考して、その末に漸く口を開いた。
「どうしてお前はそんなに大変なんだ?」
界人の返答に俺は一瞬だけ呆然としてしまう。学と河北の問題についての事を期待していたのだが、その言葉は不意打ちだった。
「大変って、そう思うか?」
「ああ、俺だったらまず関わらない。他クラスのことなんて関係ないだろ」
「関係ないって事もない。同じ学校での出来事だ」
「けど、それをお前がする理由もないはずだ」
「それは……その通りだ」
そうだ。まったくその通りだ。この問題に俺が関わろうとする確固たる理由なんてない。
俺はただ妃菜に頼まれたから動いている。
「澄人、俺は怖いんだ。お前が傷つかなくてもいい事に傷ついて、苦しまなくていい事に苦しんで。そうして最後にお前はどうなるんだ?」
「それは――」
こいつは俺のことを心配しているのだ。
いじめという問題の中身よりも、それを解決しようとしている俺自身に焦点を当てている。
親友としてはこいつほど最高の奴もいない。
「俺のことは心配すんな。深くは関わらない。俺に出来る範囲でやるから」
「澄人の言葉は信用できないからなぁ」
「ああ? 俺ほど信じられる人間もいないだろ。人畜無害の清廉潔白、まじ最高物件」
轟先生も同じような事を言いていたはずだ。
「ほんと、真剣に話してんのに茶化すなよ」
界人は微笑みながら俺の肩に拳を当てる。
「いつだって澄人はそうだ」
界人は天井を見上げて話し始めた。その視線は天井よりも先、もっと別の場所を眺めているように見える。
「中学の時だってお前は凄かった。人間関係を上手に整えて調節して、だからこれといった問題も起きない。いや起きる訳がない人間関係を構築したんだ。澄人はどんな奴とも仲良くなる。ほんとそれ、凄いと思うよ」
妃菜にも似たような事を言われた気がする。
「そうか?」
「ああ」
界人は上を見ながら頷く。そして一呼吸置いて俺に問いかけた。。
「もう、サッカーはしないのか?」
俺も界人と同じように天井を眺めた。小さな黒いシミが天井の端っこに確認できる。
「サッカーはやめた。中学卒業の時に言ったろ? 俺はプロになれないって自覚したんだ。だったら早めに諦めたかった」
「本当に?」
「本当に」
界人とは中学時代同じサッカー部だった。界人がエースで俺が司令塔。キャプテンでもあったかな。昔のこと過ぎて忘れた。
「もう一度さ、澄人とサッカーしたいな……」
その言葉に俺は何も言えない。
それは叶わない夢物語だと俺は誰よりも知っているから――。
そのあとは無駄話をして夜を過ごした。
なんでもない話だ。
昨日のニュースでやってた事件が今日解決したらしいとか、芸能人のあの人が結婚しただとか。俺たちからすれば別世界のような出来事を、絶対に俺たちとは関わる事のない出来事を、俺と界人は夜が更けるまで話し合った。
*
あれから二週間が経った。
LINEで学からの進捗を聞きつつ、妃菜から河北の様子を窺う。
そんな何も変わらない毎日を送っていた。
静観をやめると言いながらその実、俺は何も行動に起こせていなかった。
河北への嫌がらせは日に日にエスカレートしていき、対して学の恋愛は順調に進んでいるようだった。
河北はクラスでの嫌がらせを受けながら、それとは別に学からのアプローチをどう思っているのか?
そして学は――。
彼と彼女にも様々な感情が芽生え、成長し、そしてぐちゃぐちゃになっている。
そうして、遂に最終目標でもあった告白デートの前日を迎えた。
デートの行き先は鎌倉・江ノ島を勧めた。
これまでの学たちのデートは遠くても八王子、町田と県を跨いではいるものの距離的にはまだまだ近い。しかし電車での移動を許容したことで、遠出への可能性を与えた。これなら鎌倉・江ノ島も大丈夫だろうと判断したのだ。
近すぎず遠すぎない距離に位置する鎌倉と江ノ島。
海もあり山もある。神社もあり寺もある。水族館もあり動物園は――さすがにないが、ここまでデートスポットが揃った場所を利用しないのは同じ神奈川県民として非常に勿体ない。
翌日のデートプランはすべて学に一任している。
ここまで来れば、もう俺たちが助言出来る事もない。何故なら、河北とデートした実体験は俺たちのありふれたアドバイスよりも貴重な情報源なのだから。
学はとてもやる気になっていた。
ここ一ヶ月の集大成。そして彼の大一番。
この一ヶ月で学の恋心も成長した。
最初の頃は恋心も芽生えたばかりで、彼自身も自分の気持ちに戸惑っていた。しかし徐々に河北とデートを重ねることで、彼の恋心も本物へと変わっていったはずだ。
そんな成長した彼だからこそ、俺は彼に問わなければいけない。
――古井学の真意。
俺はこの問題にも立ち向かわなければいけない。
屋上に吹きつける風は強い。
緩やかに日が高くなっていくこの時期。放課後のこの時間でも屋上はまだ明るく、授業が終わったのかと少し疑わしくなってしまうほどだ。
手摺りに両肘をついて、下校していく生徒の頭を見下ろした。
めいめいに校門を抜けていく生徒たち。
あれが境界線だ。
あそこを抜ければ名目上は学校から解放される。
しかし学生にとって学校の出来事は校門を抜けても地続きなわけで、やっぱりあれは名目上の境界線に過ぎない。
俺たちはいつだってこの学校で完結している。良い意味でも悪い意味でも。
「よ、やっと来たか」
扉の開く音がして振り返れば、そこには古井学がいた。
「わざわざ屋上に呼び出すなんて、何の用かな? 明日のことなら僕なりに計画したけど、それの最終チェックとか?」
「いや、それはお前に任せるって言ったろ? 今日は俺がお前にどうしても聞きたかった事があって呼んだんだ」
「聞きたい事?」
「ああ、ずっと聞きたかった事だ」
自然と顔が強張るのを自覚した。茶化した感じに笑ったつもりだったが、俺も感情を抑えるのがまだまだ下手らしい。
そんな俺の表情に学はべつだん驚くともなく微笑みを向けてきた。
「――知っていたんだな」
微笑を浮かべる学に俺はそれだけを言って、背中を向けた。
「やっぱり澄人は気付いてたんだね。いつ頃からかな?」
存外、否定する素振りも見せずに、学は俺の言葉に肯定した。
「最初から疑問はあった。確信したのは今かな。そんな風に笑ったら、もう言ってるのも同じだ」
「そうか。僕は今笑っているんだね。ポーカーフェイスを心掛けたつもりなんだけど」
俺は背中を向けたまま会話を続ける。
「疑問には思っていた。けど、最初はお前が天然だからだろうって信じてたんだ」
「僕はそこまで馬鹿じゃないよ」
「そうだ、お前はそこまで馬鹿じゃない。それに、そこまで純粋でもなかった」
背中越しでも学が苦笑しているのだと手に取るように分かった。あいつはそういう奴だ。
「知っていたんだろう?」
俺と学の間でそれが何を指しているのかはもう分り切っている。しかしそれを言葉にしてしまえば本当に決定的なものに変わってしまう。
けれど、それでも俺は言う。言わなければ、いや言ってやらねばいけないから。
それが本当の意味での古井学の恋愛相談になるのだから……。
「お前は河北京子がクラスでいじめられている事実を知っていたんだな」
その問いは風すさぶ屋上に、嫌なほど響き渡った。
今までは敢えて、その問いを避けていた。
一度それとなく訊いた事もあったが、そこで学が答えなかった時点で事実を隠したがっているのは明白だった。
「なんで隠してたんだ?」
俺は疑問に思っていた事を包み隠さず訊いた。ここまで来ればもう遠慮も何もない。聞きたい事を訊くだけだ。
「好意を持っている相手がいじめられているのに何も出来ない自分がとても惨めで――」
「それこそ相談すれば良かったろ」
学は大袈裟にため息をついた。
「ほんと、そうすればよかった。けど僕はそう考えなかった」
「どう考えたんだ?」
学は一瞬だけ口ごもったが、すぐに観念したらしく話し始めた。
「僕は河北さんのことが好きだ。この恋心に嘘偽りはないし、その点に関しては澄人や花川さんに言った事は全部本物だ。だけど真意は隠していた」
「その真意ってのは?」
俺はやはり振り向かずに、そのまま会話を続ける。学もそんな俺の態度を受け入れて、そして自分の真意を話し始めた。
「僕は君たちを利用していたんだ。実際問題、女子にどんな風にアプローチすればいいのかは分からなかった。だから澄人たちに頼った。まあ、それだけだったら正攻法にも聞こえるけど。本当は河北さんがいじめられている時にアプローチすれば、彼女の唯一の拠り所になれるんじゃないかと思ったんだ。こう聞けばとても卑しいだろ。そうだ、僕は卑しい人間なんだ。河北さんがいじめられているのを好運だと捉えて、そんな心の隙を突いた歪んだ恋心。僕は最低だよ! 僕は自分が嫌いで嫌いで仕方ない! こんな事を思いついて君たちを利用して、ここまで実行したのに。毎日毎日、一日過ぎるごとに自己嫌悪が膨らんでくるんだ。自分の利己的な欲情の為だったのに、いつの間にか自分が嫌いで嫌いで可笑しくなりそうだった」
学の告白に俺は苦笑を漏らす。
「そこまで馬鹿じゃないって言ったけど、やっぱお前は馬鹿だな」
学の顔は見えない。けれど彼は哀しそうに苦笑しているだろう。
「澄人たちに頼ったのは利用する為でもあったけど、本当は僕の醜い姿を暴いて欲しかったんだと思う」
自分の醜い姿を暴いて欲しかった、なんて文学の読み過ぎじゃないのか? 文学作品に登場する人物は大概がマゾヒストだと思っているが、それがここまで影響を与えてしまうと、さすが文学だと感心すればいいのかどうか……。
しかし文学の影響関係を抜きにしても、こいつは自分を責め過ぎなのだ。
「……これを思いついた時からずっと自己嫌悪に苛まれていたのか」
学は小さな声で「ああ」と返事をした。
「彼女のいじめを見て見ぬ振りをしている時点で、自分が彼女と結ばれるべきじゃないと思ってた。だけど、諦めきれなかったんだ。やっぱ馬鹿だ。自己嫌悪と欲情、その二つが矛盾しながら僕の中で暴れまわっているんだ」
「人間なんかそんなもんだ」
と俺は言った。
相反する感情を抱いてしまう。自分では釣り合わないと思いながら、しかし彼女を好きな心が消える訳じゃない。簡単に諦められるなら、最初から好きになっていない。
告白して、振られて、それで次の恋に向かうのはフィクションの見すぎだ。現実にそんな奴がいるなら、そいつは最初から恋なんかしていない。
学はその矛盾した感情に苦しんだ結果、今に至った。
「ごめん、本当にごめん」
学は小さな声で謝辞を述べた。
「いや、俺に謝られてもな。てか、怒ってないし」
俺たちを利用したか知らないが、こちらに実損はない。怒りの感情なんか微塵もなかった。
「明日、デートはするのか?」
学がどんな選択をするかは知らない。
このまま河北の問題を素知らぬ振りして彼女と付き合うのか、それとも――。
それが決まるのが明日。
聞きたい、という興味よりも心配なのかもな、俺は。
どうしたって学は友人だ。
お前を利用してた、と言われたというのに心配してるとは、俺も大概お人好しだ。
「行くよ。まだ答えは出てないけど、明日には必ず出す。そしてこれを最後に、悩むのはもうやめたい」
「そっか」
素っ気なく答えた。
背中越しの会話。
学がどんな顔をしているのかは分からない。けどやはり大体どんな顔かは見当がつく。
「まあ、頑張れよ」
日が高くなっているとはいえ五月になっても屋上はまだまだ寒かった。
風が吹くたびに身震いをして腕をさする。
年々季節の移り変わりが遅くなっているような気がする。
このまま少しずつ季節の折り目がずれていって、夏には春が来て、秋には夏が来て、そうしたら季語の意味合いも変わってくるのではないだろうか。
実際、昔の季語のままでは通じないものも増えてきている。
今と昔とではやはり違うことも多く、時間は確実に何かを変化させている。
しかし、では人間は何が変わったのだろう。
いつだって醜くて、いつだって愚かしくて。人の歴史はいつだって間違い続けている。
彼も、俺も間違えた結果が、今この状況なのだろうか――。
問いかけても誰も答えてはくれない。
――正解を教えてくれる人物はいつだって存在しない。
*
翌日、やはりと言うべきか、妃菜から学たちのデートを尾行しようと提案された。
しかし昨日の学との会話を思い出せば、さすがにそれは憚れた。
「今日は俺たちもデートしないか?」
「え?」
妃菜は驚いたように目を見開いている。
「そ、そんなこと突然言われると困る! だったら違う服着てきたのに!」
「今日の服も可愛いぞ」
妃菜の服装はジーパンに白のTシャツにサンダル、と着る者によってはラフすぎてしまう服装だが、彼女にかかればそれもファッションになってしまうから不思議。
しかし妃菜は納得がいかないようで、
「ち・が・う! 全然違う! デートならもっと違うの選んだのにー!」
どうやら外出用の服装と言っても色々あるらしい。
俺もそれなりに服には気を使っているが、妃菜の服好きは俺程度ではついていけない。
「今から着替えてくるか?」
俺の家から妃菜の家はそこまで距離はない。
妃菜は頷くと、猛ダッシュで家に帰って着替えてきた。その時間、おおよそ十分ほど。
着替えてきた妃菜は先程とは打って変わって清楚な雰囲気をまとわせていた。
全体は白に近いグレーを基調としたドットのワンピース。ワンピースの丈は膝よりも下だが足首は見える、少しの開放感。
足にはヒールの高いサンダル。手には小さめの麦わらのバッグ。耳には先程はつけていなかった控えめに輝く金色のイヤリング。
おお、なんか戦闘態勢ばっちりだ。
たしかに先程とはファッションの意味合いが全然違った。
ジーパンに白のTシャツも似合っていたのだが、着替えた後の服装は気合の入りようが違った。それは男の俺からも分かる変化で、正直こんな格好でデートに来て嬉しくない奴はいない。
「綺麗だな」
ふと漏れ出た感想に妃菜は嬉しそうに顔を歪めた。
「ありがとー」
その満足そうな顔についつい頬を緩ませてしまう。
女子が末恐ろしい存在だと再認識しました。
そうして準備も整ったので俺たちは相模原駅へと向かってバスに乗った。
バスに乗って十分ほどで駅に到着。慣れた動きで駅から改札を抜けて東神奈川方面の電車に乗った。
目的地は鎌倉と江ノ島。
学たちのデート先にと調べていくうちに自分も行きたくなってしまったクチなのだが、同じ神奈川県民でありながら、あまり行ったことないんだよな。
前行ったときは鶴岡八幡宮に行って、その近くで蕎麦を食って、帰りに鳩型のサブローさんみたいな名前の菓子を買って、それだけだった。
鎌倉行くってなると、あの商店街だけ周っていつの間にか一日が終わっているから商店街以外の鎌倉を俺は知らない。
あとは江ノ島なのだが、鎌倉に行く途中の江ノ電からの景色しか記憶にない……。
探せば野生のバニーガールがいるって聞いたんだけど、ほんと?
タリタリ、てな感じで合唱時々バドミントン部があるって聞いたんだけど、ほんと?
という風に、俺の知っている江ノ島知識はとても偏りがある。
だからこそ、こんな機会にでも鎌倉と江ノ島をこの目で知るのも良いかもな、という事で妃菜にデートを提案した次第だ。
妃菜は妃菜で久しぶりの遠出のデートにウキウキらしく、いつも以上に俺に引っ付いてくる。
「今日は積極的ですね、妃菜さん」
「えーそうかなー? いつもと同じだよ。澄人にくっつくの、だーいすき!」
妃菜は身長の割りに胸がある。だからですね……。けっこう当たりますね、これが。
ゲフンゲフン、と気持ち悪い咳は頭の中で、実際はさもありなん、とすかした顔で電車からの景色を眺めていた。いや、めっちゃ胸あたる!
「最初は鎌倉? 江ノ島?」
「あー、そうだな」
と言いつつ鎌倉と江ノ島の違いを俺はよく知らない。何となく近いんだろうな、ぐらいで。
鎌倉は鎌倉市とあるから、そこが鎌倉なのだろう。
江ノ島はたしか島のことだ。
おおよそ江ノ電を走る一帯を江ノ島と認識する人が多いが、それは勘違いらしい。同じ神奈川県民でさえこのような認識なので、他県ならばその勘違いの方がベターだろう。
というか同じ神奈川県民でも相模原は周りに川と山しかなく、海のある鎌倉とかめっちゃ遠い幻想郷という認識だ。
鎌倉、江ノ島、湘南とか何がどう違うのかもよく分からない。湘南ナンバーとか、湘南市というところがあるのかと小さい頃は疑問に思ったほどだ。
てか、湘南はなんでそんなに付加価値ついてんの?
元々ここ一帯は相模の国とか言われて北条氏が統治していたの知らないのか?
つまり神奈川で一番の重要都市は相模原。相模原に県庁を建てるまである。
みんな相模原の重要さに気付かねぇかなぁとか思いつつ、車窓の外を眺めていると、妃菜が「どこ行こっか?」と訊いてきた。
「そうだな。俺はどこでもいいけど、お前は行きたいところとかあるのか?」
「うーん、私は水族館は行きたいかなぁー。あと江ノ島の神社! なんか縁結びがあるらしいよ。あとは、うーん、澄人に任せる!」
と言われても、妃菜が言ったところだけで一日を潰せそうだった。
「それじゃあ、いったん江ノ島に行くか」
「うん! そうしよう!」
妃菜は元気よく頷き、とりあえずの目的地が決まった。
相模原から江ノ島に行くには一度、町田で小田急線に乗り換える必要がある。
そうして乗り換えた後は小田急線で町田から藤沢まで電車に揺られる。
町田の隣の相模大野は中学の同級生が通っている高校もあってまだまだ見慣れた景色だったが、その先に進むと途端に見知らぬ土地が広がっていく。
最初の方、大和駅ぐらいまではビルなどの高い建物も目立っていたが、徐々に車窓からの景色には田畑が広がっていき、乗り換えた町田が遠い記憶のように開放感のある緑と空が見渡せた。
そして電車に揺られること三十分ほどで藤沢駅に到着する。
ここから遂に江ノ電への乗り換えとなる。
改札を抜けて一度、屋外に出て、そこから少し移動すると小さな江ノ電藤沢駅の改札を見つけた。
改札を抜ければすぐにプラットホーム。そこには多くの人が次の電車を待っている。江ノ電に乗り慣れてそうな老夫婦、俺らと同じく江ノ島まで行くらしいカップル、鎌倉周辺の観光ブックを見て楽しそうに話し合う家族連れなど、休日の江ノ電は賑やかだった。
「んー、座れるかな?」
「どうだろうな」
「平日なら人が少ないのかな?」
「いや、平日も結構人いるんだよ」
学校をさぼって平日に江ノ島に行った時も賑わいはあまり変わらなかった。いや、修学旅行なのか学生が多い分、休日の方がマシかもしれない。それでも休日も人は多いが。
そして案の定、電車の中はぎゅうぎゅう詰め。何とか一つ席が空いていたので、そこを妃菜に座らせて、俺はその前で手すりを掴み、人混みの熱を背中で受けた。
「比較的休日の方がマシと言っただけで休日も変わらず混むんだよなぁ」
と独り言ち。妃菜はそんな俺をくすくす笑って「代ろうか?」と言ってくれた。
さすがにこの人混みのなか恋人を立たせるほど紳士の心を失ってはいない。俺は首を振って彼女の提案を断った。
そんな人混みと格闘すること十分。ようやっと俺たちは目的地の江ノ島駅に辿り着いた。
江ノ島や水族館には距離的に片瀬江ノ島駅の方が近いようだったが、やはり江ノ島と言えば江ノ島駅だろ、という安直な思いから俺たちは江ノ島駅を目的の駅に決めた。それに片瀬江ノ島駅だと江ノ電には乗れないので江ノ島来たぞ、という感覚が味わえない。先程の人混みを思い返せば間違えたかなとも思うが。
こじんまりとした三角屋根の駅舎を眺めつつ、電車から降りた開放感に気持ちが清々しかった。江ノ電は浜辺の近くも通るが、大抵は住宅街を縫うようにして走るので、ただでさえ電車の中も暑苦しいのに、さらに景色の窮屈感が身体的にも精神的にも辛かった。
なのでそれを味わったからこそ、電車から解放された清々しさは格別だった。
「それで、まずどこに行きましょうか、姫」
「ヒ・メじゃなくてヒ・ナ! それって小学生の頃のあだ名! 男子に散々からかわれたんだから!」
「それはなんつーか、男子って好きな女の子には素直になれないからなぁ」
「ふーん、でもそういうのって女子には好かれないよね? 逆に結構な確率で嫌われる」
だからこそ、男子は馬鹿なんだ。
女子に嫌われるって知ってながらもついついちょっかいをかけてしまう生き物。
何回でも言う。
男子って、本当にバカ。そしてついでに田中もバカ。
「それでどっちにする? ここからだと水族館が近いか。その奥に江ノ島があるって感じだけど」
「それじゃあ、水族館から行こうよ」
「分かった、水族館ね」
水族館までは結構距離もあるが、タクシーを乗るほどの距離でもない。
「歩くか」
「うん」
そう言って妃菜は俺の左手を握って隣を歩き始める。
海の方向、南に向かって俺たちは歩を進めた。
そしてすぐさま両脇に商店が立ち並ぶストリートに差し掛かる。
どうやらこの通りは『すばな通り』と呼ばれているらしく、先程までコンクリートだった道はレンガ造りに変わっていて、その他にもカフェや菓子屋などおしゃれな雰囲気のある店が軒を連ねていた。
「なんかカップルとか夫婦の人ばっかだね」
「だな」
「私たちもカップルだねぇ」
「ああ」
周りを見れば俺たち同様、手を繋いで歩く男女ばかりで皆幸せそうな顔で歩いている。
「甘ったるい空気だ」
おしゃれな店が連なるのもあって、ここの空気は辟易するぐらいに甘かった。
「なんか甘いもの食べたくなってきた!」
「甘ったるい空気って言ったばかりなのにそんな意見を言えるお前を天然というべきか、それともワザと?」
「ワザと!」
「はいはい」
視線を斜め向かいに移せば、折よくソフトクリームの看板が見えた。
「ちょっと昼食前の腹ごしらえ」
店に入って、ソフトクリームを二つ買う。
「はいよ、なんかプリン味らしい」
ソフトクリームの店かと思い入ったら、どうやらプリンの専門店だったらしく、そこにあるソフトクリームはプリン味だけだった。
と言ってもプリン味のソフトクリームというのも気になる。
一口食べてみると、確かにプリンの濃厚な甘みと、しかし後からやって来るバニラ味の爽快な甘みが口の中で重なってとても美味しい。
「うわ! おいしー!」
妃菜も満足したらしく目を閉じて美味しさを噛みしめていた。
「なんかこのソフトクリーム自体も当然美味しいんだけど、こういうのってデートしてる時に食べるともっと美味しく感じるよね」
妃菜は同意を求めて首を傾げてきた。
デートをして云々はあんまり感じないが、確かに外出と家とでは食事の印象はまったく違うし、江ノ島で食べるとなるとその土地の雰囲気も相まって美味しさが倍増するのは分からなくもない。
「そうかもなぁ」
一応、同意を示して頷いておく。けれど妃菜はそんな俺に目を細めて、
「なんか、他人事みたい。澄人、絶対思ってないよね?」
「えっ」
と肩を鳴らして図星を突かれる。
「うっ、そ、そんなことないぞ」
「ほんとー?」
じろりと覗き込まれて、俺は顔を背ける。
「いや、ね? お前といると楽しいし幸せだよ、マイハニー」
妃菜にウィンクをしてその場を凌ごうとする。妃菜はため息をついて肩を竦めた。
「もう、テキトーだなぁ。まあ、そういうところが好きだけど」
と言って俺の肩を殴る妃菜さん。けっこう痛い。
「今日も愛されて嬉しいよ、マイハニー」
「私にも愛を向けて良いんだよ、マイダーリン?」
妃菜は俺の腕を抱いて身体を引き寄せてきた。
「澄人からはちっともそういうの見せてくれないし。私ばっかり好きって言ってる気がする」
「そう言うのは言葉にしないから美しんだよ」
「なにそれ、きも」
「お前な……」
うえー、と舌を出す妃菜。そこまで変なこと言ったか?
「澄人って、そういうところが、きもいんだよー」
「彼氏に向かってそれはひどくないですか?」
「彼女だからこういうことを言うの」
「俺の理想の女性像は優しいがまず第一」
「これも優しさだよ」
「……さいで」
コーンをかりかりと食べ終えて、粉のついた手をはたく。
「もう食べ終わっちゃった……」
「美味しかったか?」
「うん。美味しかった!」
「ふーん」
俺はもう少し甘くない方が良かったかな。
ソフトクリームも食べ終わり、『すばな通り』を抜けて俺たちは水族館を目指して歩いていく。そして歩いて十分ほど、漸く目の前に海が見えてきた。その手前には四角い建物も確認できる。
「海だぁー」
「いや、海もそうだけど」
俺たちの目的地である四角い建物、――水族館を指さす。
海に沿って建てられたブラウン色の四角く大きな建物。多くの人が吸い込まれるように水族館に向かって歩いていた。
「でけぇ」
近づけばその大きさがひと際実感できた。
「でかい!」
妃菜も水族館の大きさに驚きの一声を上げた。
水族館に吸い込まれていく人の流れに乗って館内に入場する。
入ってすぐの券売機で二人分のチケットを購入して、ようやっと館内を巡り始めた。
館内は薄暗く、ネオンの怪しい青色が俺たちを包んでいる。
まず、俺たちを出迎えたのは相模湾に生息する生き物たち。相模原市民にとっては『相模』と聞いただけで親近感を覚えるが、相模原市は相模湾には面してはいない。相模ってなんだよ、おい。
二階から一階にかけて伸びる巨大な水槽の中には多種多様、大小様々の生き物たちが泳いでいる。大きく白いお腹が特徴的なエイに、ゴツゴツした頭のサメ。大量のイワシが群れを成して綺麗な銀色を輝かしている。
「すごい! ゴワ―ってなって、ビューンって移動して、すごいすごい!」
言わんとすることは分かるが、もっと表現ってものがあるだろ。近くで見ていた小学生と同じような感想を言っている妃菜に呆れながらも、正直俺も同様の感想を抱いていたりする。
この感動を言葉で表現とか、それこそこの眺望への冒涜だろ。すげぇ、すげぇ!
「思った以上に迫力があんだな。魚が泳いでるだけなのに、なんつーか見せ方? が計算されてんだろうなぁ」
「うんうん、そうそう! このネオンの灯りとか、水槽の開放感とか、すごい考えつくされてんだよ、たぶん」
うん、たぶん。俺も確信はないが、おそらく水族館職員の方々の日々のたゆまぬ努力などがこの絶景を生み出しているはずだ。
ありがとうございます。
心の中で水族館職員の方々へ感謝を述べながら、ゆっくり歩いて水槽を眺める。
相模湾のエリアを抜ければ次はクラゲのエリア。
球体型の水槽を中心に四方の壁に埋め込まれた水槽それぞれにクラゲがぷかぷかと浮いている。その空間は一言で言って幻想的という言葉がぴったりの場所だった。
そんな幻想世界に心を奪われてボーっと眺めていると隣の妃菜が少し疲れたのか、息を吐いて手近のソファに座った。
「さっきの巨大水槽ではしゃぎすぎたか?」
「うん、ちょっと疲れちゃった」
「まだまだ入ったばっかなんだけどな」
苦笑しながら俺も妃菜の隣に座った。
「さすがにここでは、はしゃがないのな」
「こんな幻想的な場所で騒ぐなんて、そこまで淑女の心を忘れてないよ。……それにしても綺麗だね。さっきのイワシも綺麗だったけど、こっちのクラゲはもっと静かに綺麗な感じ」
「静かに綺麗か……」
言い得て妙というか、まさしくその通りだ。
先程のイワシの大群は迫力から来る動的な美しさとも称そうか。比べて目の前のクラゲたちのそれはゆっくりな動きが魅惑的に映る、静的な美しさ。
「こういうのって心癒される」
妃菜の顔を横目で見れば、目を細めて優しそうな微笑みを浮かべていた。
そんな微笑みはネオンのぼんやりとした灯りとクラゲの怪しげな舞踏を背景に、とても妖艶で美しく映る。これもまた静的な美しさなのだろうか。
「やっとゆっくり話せるね」
彼女の微笑に見惚れていて、その突然の言葉に目を瞬かせてしまった。
「話?」
「そうだよ、話そうよ。もう終わってしまったのかもしれないけど、もしかしたらそれは澄人の早とちりかもしれないし」
「終わった? 何が?」
内心ではぎくりと心音が跳ね上がった。
それはもう終わった話だ。
学は今日この日にアイツなりの答えを出す。もう俺に出来ることはない。
「古井くんと話したんでしょ? 何を話したの?」
「言わないといけないのか?」
「言いたくないならいいよ。けど隠す必要ある?」
声音はとても優しい響きなのに、言葉には鋭い棘が含まれていた。
「いいよ、話す」
妃菜の顔を見れば、一見して先程と変わらない微笑を浮かべている。けれど、それはやはり先程の微笑とは似ても似つかない、別物の笑顔だった。
友人の醜い部分を嬉々として話そうとは思わない。
けれどこんな顔をしている妃菜には話さざるを得なかった。
俺は学が河北への嫌がらせを知っていた事と彼の姑息な恋愛感情、そして反対にそんな自分を許せない自己嫌悪から生じた自傷意識などを余すところなく話した。
「そっか、古井くんは知ってたんだ」
「お前は元から知ってたんじゃないのか? 学の内に秘めていた思惑や感情を」
妃菜を首を振った。
「ううん、知らなかったよ。古井くんがクラスの空気を察していないなんてあり得るのかなとは思ったけど。河北さんへの想いを聞けば、案外ただの天然さんというか、どこまでも恋に生きる純粋な人なのかなと思った訳ですよ。だから古井くんは河北さんがいじめられているなんて微塵も知らなかった、そう思っていたけど、……違ったね」
「そんな盲目的だったら俺たちに頼る事もなさそうだけどな」
「そうかもね。もしそうだったら河北さんも救われてたかな?」
「河北が救われていたか? さあな。でも学は違った」
俺は彼に理想を押し付けて、勝手にその理想と現実との違いに肩を落とした。
古井学は誰よりも純粋で感受性に富んでいて嘘なんか付けない、と。
そんな学は、すべて幻だったのか。
だから屋上で彼の顔を見れなかった。見てしまったら、それが現実になってしまうから。
見なければ、シュレーディンガーの猫よろしく、可能性は二つのまま。ずっとその状態であればと願っている。思い通りの結果にならないなら、いっそ可能性の段階に留めてしまえ、と。
「ここら辺で妥協しないとな」
「妥協って何?」
水槽に漂うクラゲを眺めながら、ぽつぽつと言葉を落としていく。浅く息を漏らして。
「俺たちに出来る事はもうない。彼女と付き合えるように舞台は用意した。あとは役者がどう演じるか。そこで学が告白するも良し、しないも良し」
「河北さんの問題はどうなるの?」
「あの問題は元々相談されてないだろ。学の相談と一緒に解決出来たら万々歳。出来なくてもそれは仕方ない。それを悲観的に言い換えて、妥協なんだ」
「妥協って……」
妃菜は眉間に皺を作って、俯いている。
「悲観的に言い換えればって言ったろ。これは俺も多少なりとも引け目を感じたからこそ言っただけで――」
「悲観的じゃなければ妥協でもない?」
「そう。妥協でもなく、これは普通なんだ」
「…………」
「普通なんだよ、これが」
「違うよ」
「違くない」
「違うよ」
「そうか……?」
両手を挙げて、おとぼける。
「なんで、澄人はそうなのかな?」
「俺の何を知ってる?」
「全部を知ってるよ。澄人の全部」
「そうかもな。お前なら俺よりも俺を知ってるかもな」
苦笑しながら視線を落とした。視線の先には妃菜がこぶしを握り締めているのが見えた。
「でも、それが澄人の選択なら仕方ないのかな」
まだこぶしは握り締められたまま、それとは対照的に言葉は諦念を帯びている。
「怒ってるか?」
「怒ってない。けど、澄人なら解決してくれるかなって思った。勝手な理想の押し付けだけど」
そうだ。勝手に理想を押し付けて勝手に幻滅して、たまったもんじゃない。
「そろそろ出よ」
ぽつりと、彼女が呟いた。
「もう出るのか? ショーとか見なくていいのか?」
「いいよ。早く江ノ島、行こ」
そう言って妃菜は出口に向かった。
クラゲたちも意に返さず巨大水槽の魚たちも無視して、先を進んでいく。俺の存在も気にも留めず。
腰を上げて妃菜を追いかける。彼女の背中はどんどん遠くに離れていく。
そんな、小さくなっていく彼女の背中を眺めながら俺は、
「やっぱ怒ってんじゃん」
と、声を零した。
*
水族館を後にすると弁天橋を渡って江ノ島の八坂神社に来た。
八坂神社に来るまでも江ノ島神社の辺津宮や奉安殿などを巡ってきたが、この八坂神社もスマフォで調べると、江ノ島神社の一部らしい。何故それぞれ名前が違うのかよく分からないが神社って派生したがるから、そういうもんなのかと勝手に解釈した。伏見稲荷とか全国津々浦々に展開しているし、そういうことだろ?
この八坂神社では厄除けや縁結びのご利益があるらしい。
そしてここの目玉のスポットが『むすびの樹』。
そもそも何故に縁結びの神社に来てるんだと疑問に思った。
もしかして浮気か? 恋人と一緒に縁結びとか、新手の別れの告げ方なのだろうかと疑わし気な眼差しを向けると、妃菜は首を傾げてこちらを見つめていた。
「どうしたの?」
「いや縁結びとか、縁結びたい人でもいるのかと思ってさ」
そこでようやく得心したのか妃菜は「ああ~」と声を出した。
「澄人との縁をもっと強固にしようと思ったんだ」
「縁を強固に?」
そういう事って出来るのか? いや知らんけど。しかし絶対そんなシステムじゃない気がする。
「そ、そうか……」
「うん!」
先ほどの怒れる妃菜さんはどこへやら、たったったっと走っていき絵馬を買いに行った。
さすがに俺は絵馬に願う祈りもないので仕方ない、一足先に『むすびの樹』に向かう。
むすび絵馬が掛けられている奥に二つの銀杏の木が生えていた。ゴツゴツとした樹皮に二つの木を結ぶように太い綱が掛けられている。この二つの銀杏は根っこでは繋がっているらしく、この銀杏の木のように一つに結ばれるというのが売り文句、というと俗物的だがそれが縁結びのご利益の理由付けなのだろう。
「おまたせー」
後ろから声がして振り向くと、妃菜が絵馬を持って駆け寄って来ていた。
「なんか書いたのか?」
「うん! だけど内容は秘密だよ?」
「見ねぇよ」
「そこは気になるって言わないと!」
ぶつぶつと文句を言いながら妃菜は絵馬を結んだ。そして手を合わせて瞑目する。
「そういうのって本殿でやんじゃないの?」
賽銭箱と鈴が吊るされている本殿を指差し、妃菜に問いかける。
妃菜は瞑目したまま首を振った。
「こういうのは気持ち。したいと思ったときにするべきなんだよ」
「はあ、そうですか」
表面では呆れた表情を作りながら、心中では妃菜の考えに案外共感していた。そもそも願いを叶えてもらうというよりも願いを心の中で宣言するという意味合いの方が適切なのではないかと解釈している。だから妃菜の言い分も、もっともと言えばもっともだ。
と、そんな妃菜のお祈りも終わったのか、目を開けてこちらに顔を向けている。
俺は彼女に頷いて、出口に向かって歩き出した。
「次どこ行くか」
八坂神社を後にして次の目的地を決める。
「うーん、どうしようかなぁ」
妃菜は先程江ノ島神社で手に入れたパンフレットを睨みながら、悩ましげな表情を浮かべる。
「そーだなぁ。――あっ、ここにしようよ!」
妃菜が指さしたのは龍宮というところだった。
「ここに何があんの?」
「この近くに『龍恋の鐘』ってのがあるんだって。その鐘を鳴らして男女二人の名前を書いた南京錠を近くの金網に付けると永遠の愛が叶うんだよ!」
「永遠の愛ね」
何それ、重い。永遠とか冷静に考えると怖いだろ。来世の愛も誓い合うの?
というかまた縁結びってことか? どんだけ恋やら愛を願うんだよ。
女子は本当にこういうの好きだよなと偏見も甚だしい知見だが、実際恋愛スポットに集まるのは女子ばかりだ。カップルで来る奴もいるが男の方は大抵恥ずかしげにキョロキョロ周りを見ている。男子が来ると途端に場違い感が否めないのだ。
そうしてやって来た『恋人の丘』。
奥津宮の隣、龍宮という神社の奥にある階段を上った先が『恋人の丘』なのだが、その直截的過ぎる名前に辟易する。
女子は何故かこういう空気に免疫があるが、男子が過敏なだけなのだろうか。
俺もそんな男子の例に漏れず、しかしてそんな焦燥を表に出すほど取り乱したりしない。俺クラスになれば幾らでも嘘を顔に張り付かせることができる。界人にはこういうところを詐欺師だと評されるが、詐欺師だってコンフィデンスマンだと捉えれば悪い気はしない。
「カップルばっかだねー」
逆にカップル以外が来て、ここの空気に耐えられる輩がいるのかと疑問に思う。
「南京錠に名前を書けばいいんだよな?」
早くこの場から立ち去りたい一心で本題に話をシフトした。
「ん? あーなになに? もしかしてこういうところに来るの恥ずかしいの?」
こいつ、何故にそういうのはすぐに勘づくのだろうか。気付いても男子の羞恥心を突っつくのは止めてくれませんか。もしかして先ほどの水族館のお返しだろうか。
「あ、ああ、そうだよ。恥ずいんだよ。さっさと書いて帰ろう」
周りの人たちが皆、俺を見て嘲笑っているような錯覚に陥る。実際そんなことはあり得ないが、自意識過剰が学生の専売特許だからな。
「ふひひっ、分かったよ。澄人の赤くなったほっぺに免じてこのくらいにしてあげましょう」
その言葉を聞いて自分の頬に手を当てる。たしかに平時より微かに熱い。
「――それに、もうそろそろなんじゃないかな」
妃菜は小さくそう呟くと、南京錠を買いに離れてしまった。
「そろそろ、か」
妃菜の呟きに思い出して、スマフォで現在時刻を確認した。
十五時、赤く染まった海に太陽が入水しそうに沈み、もう夕方頃かと思い至る。
妃菜が南京錠を手に戻って、俺たちは二人の名前を書いた。そして龍恋の鐘を鳴らす為に列に並ぶ。五分ほどで順番がやって来た。
からーんからーん、鐘の音は思った以上に響かず空気に溶けていく。
鐘を鳴らしたら、その奥の金網に南京錠を繋げる。
そして繋ぎ終えて金網から顔を上げれば、地平線にまで広がる広大な海が眺望できた。
赤く染まった海は今日の終わりを告げるように、それはタイムリミットの宣告なのかもしれない。
――もう時間がやって来る。
*
江ノ島から戻ってきた俺たちはそのまま江ノ電に乗って、今は由比ガ浜に来ていた。
階段に腰を下ろして、浜辺を濡らすさざ波を何とはなしに見つめている。
「綺麗な海だねぇー」
「お前の方が綺麗だよ」
「ああ、うん、きもい」
「きもいって……」
そんな直接的に言わなくてもいいだろ。
こんなものは冗談の常套句。ジョークにおける基本のキ。
「お前が言ったんだろ。俺も好きを示すとか何とか」
「ああー。けど、それはさすがに、きもい」
「きもいを二回も言うなよ。傷ついちゃうだろ。ほんと傷ついた」
大仰に肩を竦めて首を振る。しかしそんな俺の大袈裟なジェスチャーに対して妃菜の反応は芳しくない。
「傷つく、かぁ。難しいよね。どこまでが言って良いラインなのかって誰が分かるのかな」
「そういう話か」
河北の問題をまだ続ける。あれはもうどうにもならない。
いや、ならない訳じゃない。やろうと思えば手荒で乱暴なやり方で表面的に解決できる。
簡単な話、正義と悪の明文化をすればいい。誰が正義で誰が悪で敵なのか。
この問題の契機はミオという人物が何やら関わり、それを大義名分で発生したものなのだから、その大義名分で定められた善悪の定義をひっくり返せばいい。
印象操作は俺の十八番。
しかしそんなことをして何が解決なのか? それが正しくない事ぐらい俺でも分かる。
だからこそ手詰まりで、だからこそ妥協をしなければいけない。
「もうその話も終わりだ」
スマフォで時刻を確認する。――十六時三十分。
光は海に沈み始めている。太陽の上半分が海面に鏡写しになって揺らめく偽物の太陽が海を赤くきらめかしていた。
「終わりなのかな?」
「粘るなぁ、お前」
妃菜は夕陽を眩しそうに目を細めながら、話を続ける。
「無理矢理巻き込んだのは私だから澄人に責任とかないけど」
「ああ、俺に責任はない」
「そんなはっきり言う?」
「いいだろ、事実なんだから」
そもそも関わる筈のなかった問題だ。俺がでしゃばるのはお門違いで、俺が悩む必要もない。
「ま、これは私の我が儘だからね……」
視線を俯かせて儚い雰囲気を醸し出す。こいつ……。
「その手には乗らないぞ。俺に同情を誘う気か?」
「ちっ」
「おい、舌打ちが聴こえましたが幻聴ですか?」
「え? 何のこと?」
「お前って奴は……」
こいつといると何回ため息を吐かなくてはいけないのか。やれやれ、なんて一昔前のラノベ主人公でもないが、こいつと一緒にいるとそんな風にやれやれと肩を竦めたくなる。
――何故もこう花川妃菜は一ノ宮澄人に期待するのだろうか。
「もう、いいか?」
俺のその問い掛けに妃菜は哀しそうに眉を下げて、顔を海の方に向けた。
「綺麗だね」
さっきと同じ言葉。けれど茶化した先程とは雰囲気が違う。
妃菜の横顔は物寂しそうに影を強めていた。
似たような顔を水族館でも見た。あの時は怒っていたが、その根底で根を生やしている感情は同じだ。
――俺への失望。
こいつも俺に理想を押し付けるのか。
「失望したか?」
妃菜はこちらに顔を向けずに海を眺めながら、訥々と話しだす。
「失望か……。してないとは言い切れないかな。勝手に失望してるかも。だから、そんな事を思っちゃう自分に怒って、悲しくなって、自分が嫌いになる」
「お前も学も似たようなもんか」
「そうだね。私も古井くんとおんなじかも。でもさ――」
そこで言葉を区切って俺に顔を向けた。
「これは理想じゃないよ。澄人は本当に解決できるから、――これは事実で真実」
その言葉に一瞬返答に躊躇って、けれど俺は苦笑して、そんな彼女の純粋さに目を背け言葉を嘯く。
「それを理想と呼ぶんじゃないのか?」
いつまでその期待を背負わなくてはいけないのだろうか。
そんな悪感情が渦を巻き始めたところで思考を止めた。その思考に意味はない。
そう思うのは妃菜の勝手で、それを断り切れずに引き受けてしまうのは俺の勝手なんだ。
失敗すれば自業自得。
結局、妥協だなんだは自己愛から生まれる保守的な言い訳。悪くないと駄々をこねるガキと一緒。
俺は何も出来なかった。それが今回の結果なのだろう。
「解決できなかったから事実でもないし真実でもなかったな」
努めて笑顔を浮かべながら言葉を放つ。
自己嫌悪はない。これが結果だ。俺の限界だ。そんなもんだ。
不意にスマフォが振動した。画面を見れば表示された名前は古井学だった。
通話ボタンをタップして電話に出る。
「もしもし」
『すぐに出た』
「学か」
『ああ』
学の声は波紋など起きようがない程に静かで冷静だった。それは目の前でさざ波を作る海とは対照的で、それがどうにも不気味さを感じさせる。
「デートはどうだった?」
『それ。その話をする為に電話したんだ』
「そっか」
『ああ。それじゃあ、結果を話すよ』
機械的だった。彼の口調はどこか作業的で、次々と会話が進んでいく。
もう少し何か話を挟めばいいのにと思いつつ、しかし学の声はそれを許さない厳しさが含まれていた。
さざ波の音が妙に耳にこびりつく。けれど学の声ははっきりと聞こえた。
『――――』
学が出した答えを聞いて俺は「そうか」と相槌を打った。しかし電話の奥から反応はない。
やはりさざ波の音が耳にこびりつく。どうしてか、この音が耳から離れない。ざざあ、ざざあ、と浜辺を行ったり来たり。
間もなくして電話は切られた。
「どうだったの?」
妃菜が俺の顔を窺い訊いてきて、その問いに俺は苦笑しながら海を見つめた。
「本当に馬鹿だよ、あいつは」
俺の返答に妃菜は俯き気味に顎を引いた。
さざ波の音が耳から離れない。
それからは暗くなるまでただじっと変色していく海を眺めていた。
茜色から薄い赤色へ、そして最後には夜空と同じ真っ黒な海が姿を現す。
ぽつぽつと点灯しだした頼りない街灯の灯りを背に、そろそろ帰るかと腰を上げた。
時折車が通るくらいで、夜の由比ガ浜はとても寂しかった。
俺と妃菜は階段を上がった。
「そう言えば結局、鎌倉には行けなかったな」
「うん、そうだね……」
「鎌倉は次の機会だな」
「………………」
俺の言葉に返答は無かった。妃菜は階段の先を見つめて黙っている。
ふと、暗闇に飲まれた由比ガ浜を振り返った。
夕陽に照らされた海は見る影もなく、けれど、さざ波だけは変わらずに音を立てている。
暗闇によって視界が隠される分、先程よりもさざ波の音は明瞭に聞こえているように思えた。
このさざ波がずっと聞こえる。
行ったり来たり。
耳に反響するさざ波の音を振り切って、俺は駅へと歩を進めた。
何故か後ろ髪を引かれる感覚でさざ波が「待って」と言っているような気がする。
俺はそれでも前へ進んだ。
そうだ、俺は前へ進んでいるはずだ。
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