第一章 恋とは何ぞや?

 家のベルが鳴った。

 十中八九、ベルを鳴らしたのは迎えに来た妃菜だろう。毎朝俺の家まで迎えに来て一緒に登校することが日課になっている。

 俺は急いで朝食のトーストを口に突っ込んだ。もぐもぐしながら身支度をして、ベルの音から一分ほど経過したのちに、ようやく玄関の扉を開けた。

「おっそーい!」

 妃菜は言葉とは裏腹に朝から満面の笑顔で俺を出迎えた。

「ごめんごめん」

 妃菜に平謝りしながら扉の鍵を閉めた。

「ま、いいけどー。私が好きで迎えに来てるだけだからね、てへっ」

 ああ、あざとかわゆいマック〇バリュ!

 世界一可愛いよ妃菜ちゃん! てへっ。と自分も頭の中で同じような事をやってみるが、思いのほか気持ち悪い。やっぱかわいいって得だな、こんちくしょう。

 ちなみにここ神奈川県相模原市にはマッ〇スバリュは存在しない。というか未だにイオ〇とジャ〇コの違いも分からないのにもう何がマックスなの? ユーチューバーの仲間? とか思ってる。たぶんゲーム実況はしない。

 そんなくだらないことを考えながら、俺は朝からテンションの高い妃菜の話に軽く相槌を打ち、だらだらと学校に向かった。

 学校までの通学路には所々に植えられている満開の桜の木が目立った。

 すぐそこのさくら通りでは毎年『さくらまつり』と称して、車道を何キロにもわたって歩行者天国にした結構な賑わいを博すお祭りをやっている。夏にも同じような祭りをやっているが景色でいったら断然『さくらまつり』の方が絶景だろう。

 さくら通りには両側に真っすぐソメイヨシノの木が植えられており、満開に咲いた桜がずっと奥まで続くその光景は絶景のほか言葉を尽くせない。

 祭りの賑わい目当ての奴らもいるが、その絶景を見たくてやって来る観光客もいるらしい。相模原唯一の強みである。いや他にもJAXAとかあるけどね。小惑星探査機はやぶさ最高!

 そんな桜の木を流し見ながら学校には思った以上に早く着いた。と言うのも自宅から高校までは徒歩五分という最高の立地条件を有している。皆からは羨まれるが休みの日とか家で読書をしていると遠くから聞こえる野球部顧問の怒声や吹奏楽部の不協和音はホントどうにかしてほしい。吹奏楽部に至ってはちゃんと練習しろ。

 まあ、近くて悪い事はそのくらいで、基本良い事尽くしなので皆の羨みの声も納得か。

 昇降口まで行くと同じ制服の男女が朝から何が楽しいのか、わっきゃうふふと元気に朋友と話している姿が散見された。

 俺たちも下駄箱に向かおうとしていると、ふと頭上から声をかけられる。

「ヒューヒュー、今日も朝からお熱いねぇ旦那!」

 声の主は同じクラスの三バカの一人田中だった。ちなみに他の二人は田中と田中。つまり田中だけだ。田中はバカ。

「よお、待ってろ。今から殴りに行ってやる」

「ひぇー、お助けぇー」

 そう言って田中は教室に引っ込んだ。代わりに爽やか美男子が窓辺に現れて、こちらに手を振ってくる。俺はそれに頷きで返して、教室に向かった。

 爽やか美男子の正体は中学からの腐れ縁、久我界人(くが かいと)。サッカー部のエースであり、あの甘いマスクに幾人の女子が心を射止められ、そして幾人の女子が告白を断られ撃沈した事だろう。

 難攻不落のイケメンとして界人は学校の女子界隈で有名だった。

 教室の扉を開くとまず近くの席で駄弁っていた女子二人が「おはよー」と挨拶してきた。俺たちはそれに挨拶し返すと、続いて色々なところから「おっは~」「はよー」「おはぴ」「ごきげんよう」「おはようございます!」「おはおはー」など様々な声が届けられる。俺は手を振りながら「おはよー」とそれぞれに返していった。

 そして窓際まで移動するといつものメンバー、先程のバカ田中とその隣の眼鏡イケメン斎藤、そしてみんな大好き久我界人が机に頬杖をついてイケメン空気を醸し出して待っていた。

「おい、イケメン、なにカッコつけてんだよ」

「ん? おはよ、澄人。相変わらず朝はクマがひどいな。ランランだっけ、トントンだっけ、パンダと見間違えた」

「いや、トントンはもう豚さんだろ」

 ちなみにランランはカンカンと一緒に初めて日本に来たパンダのことだ。

 まあ、俺ほどの上野動物園マスターになるとパンダよりもカピバラに注目しているが。

 家には小さい方のカピバラのぬいぐるみはあるが、大きい方のぬいぐるみは無いので早く揃えてやりたい今日この頃。

「おはよー、すーみーとっ」

 そう言って、後ろから覆い被さるように抱きついてきたのは、女子のリア充グループ筆頭、咲野麗(さきの れい)だった。

 茶色がかった長髪は良く梳かれているのだろう、さらさらと綺麗に透き通る。くりくりとした瞳は純真無垢のようでいて、普段は相手を試すような口調で蠱惑的な印象を与える。

 そして胸! これに関しては中々ですね。うん、今背中が柔らかい何かと接触していますが、うーん、なるほど、なるほど。と、その柔らかい何かをこっそり堪能していると横から妃菜がどばーっと咲野を押しのけた。

「もう、麗ちゃんくっつきすぎ! 私の澄人なんだから!」

「いやお前のものでもないわ」

 ぺしっと妃菜の頭を軽く叩いた。妃菜は大袈裟に痛いアピールをする。

「あははは、女子に手出しちゃダメでしょー。ホントすぐ暴力振るから男子って嫌いなのよー」

 バカ田中が頬に手をやって俺に非難の声を上げるが、お前何キャラだよ、それ。

 そんな田中を無視しつつ、俺は斎藤に話しかけた。

「そういえば動画見たよ。今回も良かった。ためになるし面白かった」

「おお! それは良かった。今回は会心の出来でね。編集も苦労したんだよ」

 眼鏡をくいっと上げて微笑む斎藤。彼は成績優秀でテストも総合学年一位。

 斎藤はそんな博識さを活かして面白いと思ったことを授業形式で動画にとって、それをユーチューブに投稿している。ここ最近は毎日の頻度で投稿していて、そのどれもが面白く、興味深いものばかり。

「コメントでも色々感想もらえるけど、やっぱこうやって直に感想をもらえると実感がわくっていうか、ちゃんと誰か見てんだなって思う。ありがとう」

 斎藤は真面目な奴で、こういった感謝の言葉を恥ずかしげもなく言ってくる。だから逆に言われた方が照れてしまって顔を赤くしてしまうんだが、今まさに俺がその状態だった。

「あ、ああ、次も楽しみにしてる」

 少し照れながら声を出すと、斎藤はキラキラした笑顔を向けて、本当に嬉しそうに「ありがとう、頑張るよ」とガッツポーズをした。

「おう、頑張れよ」

 こういう純粋な目が一番苦手だ。斎藤は友人として好きだけれど。

 そうして、こいつらとかれこれ十分ほど駄弁っているとチャイムが鳴り響き、そのチャイムから二分ほど経って、担任の轟飛鳥(とどろき あすか)教諭が教室にやって来た。

「席につきなさーい。ホームルームを始めるわよー」

 少し胸元がはだけたスーツ姿。タイトスカートから覗くストッキングに包まれた長い脚は魅惑的でそれだけで色気が立ち込めてくる。

 スーツの上から袖を通すのは真っ白な白衣。

 ラノベの先生キャラと言えば白衣って印象だが、実際に理科の先生以外にも白衣を愛用している教師は多いらしい。中学の頃は国語や数学の先生など絶対実験とかしないだろって言う教師も着用していた。かく言う轟先生も日本史が担当教科で、ほぼ座学の授業をしている。

「ん? なに、一ノ宮?」

「いえ、なんでも」

 クラスの皆は先生の言葉に従ってそれぞれの席に着席した。

 轟先生は長い黒髪を耳にかけて出席簿に視線を移す。

「それじゃあ、出席をとるわよ」

 轟先生の良く通る声が教室に響き渡った。

 まず初めに呼ばれる生徒は一ノ宮澄人(いちのみや すみと)、――俺である。



 放課後になって俺と妃菜以外は部活に向かっていった。

 俺は他にまだ残っていたクラスメイトからゲームやら今期のアニメやらの話を聞いていたが、その話も一段落すると「それじゃあ」と言って席を外した。

 そろそろ妃菜と一緒に帰るか、と妃菜の姿を探して教室を見回すが見当たらない。そうしてしばらく彼女の姿を探していると突然、後ろからトントンと肩を叩かれ、振り返ると妃菜が「図書室行こー」と言ってきた。

 どうにも嫌な気がする。

「いや今日はまっすぐ帰るわ」

 すぐさま身支度をして教室を出ようとすると妃菜が扉の前に立ち塞がった。

「おい」

「行こうよ、予定ないでしょ」

「めっちゃあるわ。散歩とか読書とか昼寝とか」

 もう放課後だから昼寝ではないが。

「いつでもできそうな事ばっかじゃん」

「今日という日はもう明日にはやって来ないんだよ。一分一秒を大切にしなくちゃならないんだ」

「なにそれ、自己啓発本に載ってそうな文言」

 いや、それは自己啓発本を偏見で見すぎじゃないか? って言いながら大体の自己啓発にはやっぱりそんな風の意識高い系の文言が書かれていたりする。

 俺はため息を吐いて肩をすくめた。

「んだよ、図書室に何か用か?」

「それは行ってからのお楽しみ!」

「そんなサプライズいいです」

「えー、いいじゃんいいじゃん」

 妃菜は半ば無理矢理、腕を引いて俺を連れ出した。

 廊下は放課後特有の静けさに包まれている。キュッキュッキュ、と上履きが擦れる音だけが廊下に響いた。

「澄人ってゲームとかアニメとか、ああいうオタクの人とも話すよね」

 妃菜の突然の問いかけに少しだけ驚きながらも答える。

「オタクって、それ偏見てか蔑称か?」

「んー、何となくああいう人たちってオタクって感じだから? 理由はそれだけかな」

「そういうのに敏感な奴もいるから、他には軽はずみに言うんじゃねぇぞ」

「うん」

 妃菜は素直に頷いた。

「まあ、オタクにも色々あるっていうか、そもそもオタクの定義もよく分からないしな。興味ある事にすごく詳しい人のことを言うんだろうけど、それじゃあ、どんな奴にだって言えることだろ? けど一般的に使われる用途としてはあんまり良い意味合いを持たない」

「そういう言葉って多いよね。澄人がよく読んでる純文学も何をもって純文学なのかよく分かんない。あとラノベも絵があったらラノベなの?」

 妃菜の言い分にふむと考えこむ。たしかにそこら辺の定義って曖昧なんだよな。

「よく言われるのが純文学雑誌に掲載されていたら純文学とか元も子もない定義だったり、ラノベに関してはもう境界線が本当に曖昧なんだよなぁ」

「へぇー、なんだか難しいね」

「まあな。こんなに言葉の定義が曖昧なんだから、それを使ったコミュニケーションとか意味不明もいいところだろ」

「って言いながら澄人っていろんな人と話してるよね」

「そんな事ない。話したい奴と話してるだけだ」

 嫌いな奴とは関わらない。それだけで周りの人たちは自然と気の合う奴らになっていく。

 ただそれだけだ。

「もう、澄人って自分の力を知らなすぎなんだよなー」

「ん?」

 妃菜の言っている事がよく分からず、聞き返すが返事は帰ってこない。

 そうこうしているうちに俺たちは図書室に辿り着いた。

 まあ、大体の察しは着く。

 いつものごとく誰かしらの相談事だろう。

 俺は気が重くなりながらも、図書室の扉を抜けた。

 そして入ってすぐ図書室のカウンターに見知った人物がいるのを発見した。

「よっ、学」

 読んでいた本から顔を上げてこちらに気付いたのか、そいつはこちらに笑顔を向けてきた。

 その人物は俺の友人、古井学(ふるい まなぶ)だった。

 学とは一年の頃同じクラスで友好があり、よく文学の話で花を咲かせていた。クラスが別になってからも、ちょくちょく図書室に遊びに来ては同じく文学の話で盛り上がったりしている。

 彼の好きな作家は夏目漱石とミーハーだが漱石に対する愛は本物だ。

 大抵の高校生なら漱石と聞いて「ああ、『こころ』読んだなぁ」と一辺倒だが、学なら「『こころ』には不可解な点があってね。これは有名な話なんだけど主人公は最後の先生の遺書を懐に入れたと表記されている。けど、それにしては分かるよね? そうだよ! 文量が多すぎるんだ。あんな長い遺書だから紙束にしたらとてもかさ張ると思うんだけど、実際に主人公はそれを懐に入れている……。うーん、これは中々のミステリーだよ」と長々文学談義を語らされる。

 そんな漱石好きの学がカウンターに座りながら読んでいた本はまさしくその夏目漱石の『三四郎』と言う作品だった。

「『三四郎』か」

 学は文庫本の表紙を見せながら頷いた。

「迷える羊だっけか?」

「やっぱり読んでたんだね。美禰子の台詞で有名だよね」

「漱石で一番好きな作品だからな。その次が『それから』」

「それじゃあ次は『門』だ」

 ははは、と学が笑った。漱石好きには結構笑えるポイントなんだが、妃菜は何が面白いのか皆目分からないようで困惑した面持ちだった。

「前期三部作だよ。三四郎、それから、門」

「ああ、なんか習ったような」

 妃菜は若干引き気味な表情で頷いている。

 お前、オタクの偏見は止めようねってさっき話したばっかだろ。

 というか、妃菜を見てここに来た理由を思い出した。

「そういえば相談相手はどこだ?」

 図書室を見渡しても俺たち三人しか見当たらない。

「え、いるじゃん、目の前に」

「は?」

 俺は妃菜が指さした先に視線を動かした。そこには照れた表情でもじもじとしている学がいるだけ。

「え? 学なの?」

 そんな俺の困惑も気にせずに妃菜はあっけらかんと「そだよー」と頷いた。

「あ、そうなの? お前に悩みなんてあるんだ」

「それはなんだか失礼だな! 僕にだって悩みの一つや二つ……」

 俺は学の反論に「はいはい」と聞き流す体をとって、受付のカウンターに肘をついた。

「それで、漱石のどの作品についてなんだ? って言ってもお前より詳しくないぞ俺は」

 返却ボックスに返されていた本をペラペラめくりながら尋ねると学はどもりながら存外緊張した面持ちで声を出した。

「それが、僕、その……恋をしたんだ。好きな人がいて、その人に告白したくて……」

「…………ん?」

 聞き間違いだろうか? ロマンティックあげ~るよ~って聴こえてきそうな程にすげぇ恥ずかしい事を聞いたような……。ロマンティックもらっても身もだえて使えそうにないんだけど。

「つまり、え? 好きな人がいるの? それで付き合いたい?」

 学は顔を真っ赤にしながら、うんうん、と大きく頷いて見せた。

「あ、そっか」

 いや、思った以上に手に負えそうにない相談なんだけど。

 おい、どうすんだよ、と妃菜に視線を向けると「てへっ☆」なんてピースと一緒にウインクしてきた。いや全然可愛くねぇから。ほんとどうすんだよ。人の恋愛とか軽はずみに関わっていい案件じゃねぇぞ。

 俺は妃菜へのウインクに目を細めて首を振る。

 これは流石に無理だ。もし失敗したときの責任が取れない。

 責任なんて考えない奴がいるが、そういう奴は他人の恋愛に土足で片足突っ込むわりに、決まって面白半分の傍観者でしかない。絶対に当事者にはなり得ないし、なろうとも思っていない。

 恋愛なんて振り返れば些末な歴史の一ページに過ぎないかもしれないが、この学生の一時期に限ってはそれが全てで、世界そのものだと疑わない奴だっている。

 そんなものに責任が取れる奴がいるなら名乗りを上げてほしい。褒めてやるというか、何も考えていない馬鹿だと説教してやる。おそらく田中でもそんな馬鹿はしない。

 俺はもう一度首を振った。しかし妃菜はそれでも譲らなかった。

「話だけでも聞いてあげなよ、ね?」

 その話を聞いたら、もう関わらざるを得ないと思うんだが……。

「やっぱダメかな?」

 当の本人である学は苦笑しながら俺たちを眺めていた。

 その苦笑を見て俺は嘆息を吐く。

 そんな困ったような顔で笑うなよ。そんな顔をされては断れるものも断れない。

「話を聞くぐらいなら聞いてやるよ」

 そう言うと学はぱあっと明るい表情を浮かべて、俺たちに感謝の言葉を言った。

「ありがとう!」

「はいはい」

 おざなりに返事をしながら、手にしていた文庫本を返却ボックスに返す。

「それで、さっそく話そうと思うんだけど……」

 窺うような目で見つめてくる学に手をひらひらして話を促してやる。

「それじゃあ、話そうかな。えっとまずは――」

 そして古井学は話し始めた。

 と言うか、改めて考えると男友達の恋バナを聞くとか、どんな責め苦だよ。


 学が恋した相手は同じクラスで同じく図書委員の河北京子(かわきた きようこ)という女子らしい。

 恋をしたきっかけはこれといって特別な出来事はなく、図書委員で一緒に仕事をしているうちに、ただ何となく、いつの間にか彼女から目が離せなくなっていたらしい。

 なんとも等身大の恋愛じゃないか、と思った。

 変に理由をつけずにここまで率直にそのまま説明するのは実に学らしい。

 他の奴なら恋愛ってものを必要以上に特別な存在に仕立て上げる。だからこそありもしない妄想を膨らませて実際には相手は何とも思っていないのに自分のことが好きなんじゃないかと錯覚に陥ってしまう。

 気があるのは自分だけで判断材料は自分の気持ちしかない。こんな条件で相手の気持ちを知るのは至難の技だから、人はこれを妄想で補い、自分勝手な解釈に至ってしまう。

 恋愛は自分勝手でその成就には相互理解が肝要なのだ。

 それで結局、学からのピュアッピュアな恋愛話を聞いて分かったことは学はこの恋に対して真剣だということだった。

 恋に落ちた理由の胡乱さや蒙昧とした河北京子への想いはどうにも測れないものだったが、それが逆に真剣味を帯びさせていた。

 そんな彼の真っすぐな眼差しを見てしまったら、俺はもう折れるしかない。

「仕方ない。やれるだけやってみるか」

 そこからは、もうあれよあれよと話が進んだ。

 妃菜の提案でこれからは俺たちが河北京子へのアプローチの仕方を学に指南していくという方向に固まり、デートやら告白の仕方などを教えていくらしい。「つまりは恋の指南だよ」なんて妃菜は言っているが、大丈夫か?

 そうして俺を置き去りにして話は勝手に進んでいき、最終的に明日の朝、その河北京子を俺たちが確認しに行くという事で話が決着し、今日はこの辺で解散と相成った。



 翌朝、俺と妃菜はいつもより早めに登校して学の意中の相手、河北京子を見に行った。

 学や河北たちのクラスは俺たちの隣の隣のクラス、二年三組だ。ちなみに俺たちのクラスは二年五組。

 たかだか何十メートルの距離しか離れていないのに他クラスというものは、なんだか別世界のように感じてしまう。

 本当に不思議なもので学生にとっては学校での出来事が世界の大事件に匹敵する感覚で、すべてはこの小さな箱庭で物事が完結している。

 そんな学校のなかで俺たちは教室という、より閉じた世界を形成している。それは縄張り意識なのか、いや、ただ群れているだけだ。

 それに同い年でも別の学校ってだけで同じ形をかたどっている全く別の存在のように見えてしまうこともある。これはちょっとしたコロンブス状態でアメリカ大陸の原住民を見たときもこんな感覚だったのでは、と思ってしまう。

 そんなこんな考えながら三組教室の扉のガラス窓から中を覗くと、ちょうど手前の席に座っていた学がこちらに気付いて駆け寄って来た。

「お前の意中の河北さんを確認しに来た」

「うん、待ってたよ」

 照れながら頬を掻く学。

 後ろから様子を窺っていた妃菜がそんな学にがばっと肩を掴んで揺さぶった。

「可愛い反応だよー!」

 お前、もうちょっと配慮とか気遣いとかないのかよ。廊下を歩いてる人たちが何事かと、こっちを見てるだろ。

 俺はごほんと大仰に咳払いをして「それで河北さんって誰?」と話を促した。

 学は窓際の席で談笑している女子二人を指差して「あの子だよ」と言った。

 どっちの女子? とは訊かなかった。片方は良く知っている人物だった。

 清宮美海。そうか、あいつも三組だったのか。ならば、河北という奴は消去法でもう片方の女子ということになる。

 その女子は長くきれいな黒髪を垂らして一瞬、轟先生を想起させながらも、学生特有のあどけなさとコロコロと表情を変える豊かな感情表現に可愛らしい印象を受ける。

「あの子か?」

 学はしずしずと頷いて恥ずかしそうに俯いた。

 確かに、学が好きになるのも無理がないように思えた。少し見ただけでも彼女の可愛らしさと裏表のない性格が如実に窺える。

 しかし女子を見た目で判断するのは禁物だ。女子に消しゴムを拾ってもらっただけでこいつ俺に好意あんじゃねぇの? とか思ってしまうのが男の子の呪いみたいなものだ。

 けれど、おそらく河北という子は他の女子とは純粋さの質が違う気がする。他の女子がみんな腹黒いと思っている訳ではないが、――いや実際はそうなのかもしれないが、一見してあそこまで表情豊かな子もいないだろう。

 同性の妃菜はどう感じるのか尋ねてみれば、妃菜も同様の感想を口にした。

「うん。あの子は、ほんとーにそのまんまの女の子なんだと思うよ……。でも――」

「ん? でも?」

「いや、うーん」

 困ったように笑いながらも、結局その続きは口にしなかった。

 俺はそんな彼女に首を傾げるが、彼女に答える気配はなさそうなので仕方なく河北に視線を移して、観察を続けた。

 それにしても色々な表情をする女の子だ。笑ったり、怒ったり、悲しんだり。清宮との会話の内容が逆に気になる程に彼女の表情はコロコロ変わり、確かに妃菜の感想も尤もだと思う。

 そうして楽しそうに話している河北に視線を注いでいたら、ふいに彼女と話していた清宮がこちらに気付いて、怪訝な表情で俺たちに視線を向けてきた。

 清宮は河北に両手を合わせて頭を下げた後、こちらにつかつか靴音を鳴らして近づいてくる。

 扉が勢いよく開けられた。

 清宮は俺たちに睨みをきかせながら「で?」とどすの利いた声を出して俺たちに詰め寄る。さっき河北と話していた時の笑顔はどこ行ったんだよ。

「何か用なの?」

 俺の背中に隠れるようにしていた妃菜がぷーくすくすと笑っている。

 清宮は「ああ?」とどこのク〇ーズですか、と言わんばかりの圧力をかけつつ俺の言葉を待っていた。ちなみに学はガクガク震えている。学に気付いた清宮は彼にだけ笑顔を向けて、逆にそれがより一層恐怖に拍車をかけていた。

 俺はガクガク震えている学をよしよしと宥めながら、清宮の問いかけに口を開く。

「いや、特にお前には用はないけど」

 実際そうなので、そのままを言葉にする。

「嘘、ずっとこっち見てたじゃん」

 確かにお前の隣の河北を眺めてはいたが――。そうか、そういう勘違いをするのか。

 俺は勘違いを正すべく、すぐに首を振って否定した。

「違う、違う。お前と話していた河北京子を見てたんだよ」

 そんな俺の返答に清宮は自分の腕を抱いて、俺と距離を離した。

「おい、清宮。お前また変な勘違いしてるぞ!」

 新たに生まれた勘違いをすぐさま訂正する為に、それっぽい説明をしようとしたところで、後ろの妃菜が「そうだよ。勘違いだよ」と俺に助け舟を出してくれた――。

「学くんが河北さんのこと好きだからどんな人なんだろーって見に来たんだよー」

 俺の期待を綺麗に裏切って、妃菜は包み隠さず、学の事情を話してしまった。

 お前なに言ってんだ、と妃菜の頭を強めに小突く。

 妃菜は呑気に「ごめんねー」と頭を下げるが、学は複雑そうな表情だ。

 そんな予期せぬ学の事情を知ってしまった清宮の反応はというと、――どうにも芳しいものではなかった。

 清宮のその反応に首を傾げて見つめていると、彼女は静かに首を振って、俺たちに厳しい視線を向けてくる。

「今はそういう時期じゃない」

 彼女の言葉は端的でそれ以上の追及を許さない、ピンっと張り詰めた冷たさがあった。

 けれど学がいる手前その言葉の意味を追及しない訳にはいかない。

「それはどういうことだ?」

 しかし言葉は返ってこなかった。

 そのまま清宮は教室に戻るらしく、扉に手をかけると小さな声で「ごめんね」と呟いた。

 おそらく学への言葉なのだろう。その呟きは廊下で立ちすくむ三人の間をリフレインするように残り続ける。

 扉は閉じられて廊下と教室が隔絶した空間へと戻った。

 突然の出来事だった。

 いきなり現れたかと思えば勝手な物言いで、最後に「ごめんね」という言葉を遺して消えてしまう。訳が分からない。

 先程の清宮の表情は悲しそうに歪まれていた。俺の見間違いかもしれないが、あんな顔をする彼女をあまり見た記憶がない。

 河北京子に何か問題でもあるのだろうか?

「どういうことだ?」

 妃菜に視線をやって訊いてみるものの、妃菜も首を傾げて「んー、どういうことかな?」という状態だ。

 振り返って学を見れば、難しそうに眉間に皺を浮かべている。

「心当たりでもあるか?」

 と訊くが学も首を振った。

 なんだか嫌な予感はするものの、その実態は判然としない。清宮の突然のあの態度は何だったんだろうか。

「まあ、これはお前の問題だし、他の奴がとやかく言うのも違うと思うけどな」

 率直に自分の考えを言った。

 河北京子の背景に何があるのか知らないが、恋した感情は学のものだ。

 告白するもしないも古井学と言う人間の決めることで、それに反論出来る者は告白される相手だけだ。清宮が否定するのも友達としての主張かもしれないが、他人の恋愛まで制限させる権限は当然清宮にだってない。

「本気なんだろ?」

 学に向き合って目を合わせる。彼は真摯な目つきでゆっくりと頷いた。

「ならいいじゃないか。もし問題が起きたら俺たちもいるし、どうにかなるだろ」

 学に笑いかけて、隣の妃菜も一緒に笑った。

「澄人がいるから、だいじょーぶ!」

 いや俺がいるからって大丈夫なんてのは、買い被りすぎなんだが。

「とりま、今日の放課後は澄人の家で作戦会議ねー」

「お前、勝手に決めんなよ」

 バシッと妃菜の頭をはたきながら、しかし結局俺の家に集まることは決まってしまった。



 1DKの自宅のアパートは独り暮らしには十分すぎる広さで三人入っても余裕があるくらいだった。

「へぇー、ここが澄人の家か。独り暮らしなんだろ? 羨ましいなぁ」

 学は初めてのご訪問なのでキョロキョロ物珍し気に家の中を見回していた。

「見てもそんな面白いもんは無いぞ?」

 実際に生活に必要な最低限の家具しか置いていない。唯一趣味である読書として八段の本棚があるくらいで、それ以外は別段珍しいものはないはずだ。

「あ、これ! 澄人、ミステリーも読むんだね!」

 学が本棚から手に取ったのは横溝正史の『八つ墓村』だった。本棚にはそれ以外にも『本陣殺人事件』や『獄門島』と横溝正史の作品が続いている。

「中学の頃は雑多に読んでたから、色んなジャンルの本があんだよ」

「あっ、ほんとだ! SFにファンタジーにニーチェの『ツァラトゥストラ』もある」

 あの頃は何でも読んで、自分の糧にしようとしていた節があった。けれどいつの頃からか、そんな読書にも疲れて、今では読みたい小説しか読まない。と言うか当時の俺はニーチェを読んで何を学ぼうとしてたんだよ。深淵でも覗こうとしてたのか?

「欲しい本があったら持ち帰っていいぞ」

 学が興味深そうに本棚を眺めていたので、そう提案してやると「ええ? いいの!」と嬉しそうにこちらに振り向き、さっそく本棚を物色し始めた。

「よかったのー?」

 妃菜がテーブルにだらーんと身をのせながら訊いてきた。俺は手をひらひらと振って、それに答える。

「いいのいいの。大抵は繰り返して読まないし、もう一度読みたくなったら買えばいいし」

「そうなんだー」

 妃菜は尚もだらーんとしながら質問を続ける。

「コレクションとかそういう感覚は無いんだ?」

「ああ、昔はそんな感覚もあったが、今は本が増えても邪魔に感じるだけだな。読めればそれでいいっていうか」

 目的として読むために本を買っているのであって、集めるために本を買っている訳じゃない。

「それで? 今日の集まりは好きな本の発表会じゃないだろ?」

「むっふっふー!」

 だらーんとスライム化していた妃菜が起き上がって、胸を張り始めた。

「そうです! 今日は作戦会議! みんなで学くんの恋愛大作戦を成功させるぞー、おー!」

 独りでこぶしを突き挙げ、声を張り上げる妃菜。学は本棚に夢中で、俺は元よりそんな雰囲気に乗る気はなかった。

 妃菜は尚も「おー!」と掛け声を促す。さすがに引け目を感じたのか、学が振り返って小さくこぶしを挙げた。それに妃菜はうんうんと頷いて今度は俺に視線を向ける。

「んだよ」

「えい、えい、おー!」

 まだ続けんの? と目を瞬かせると、妃菜はもう一度こぶしを挙げて掛け声を促す。学もそれに続いた。

「はあ、仕方ないな」

 その何度でも続きそうな掛け声エンドレスに辟易しながらも、俺もこぶしを突き挙げた。

 だって掛け声エンドレスとか八話ぐらい続きそうだし。夏休みの宿題は一日目で一気に終わらせるタイプだから止められる手段がないんだよ。

「それじゃあ、作戦会議を始めーる!」

 妃菜の開始の宣言とともに作戦会議なるものが始まった。と言っても何を話し合うのか。

 恋愛とか妃菜以外に経験はない。その妃菜との経験も学の参考になるとは思えないし。

 さて、どうしたものかと妃菜の顔を窺うと、妃菜もこちらを見て「どうしよっか?」と首を傾けてきた。俺は額に手をやって「見切り発車かよ」と呟き、首を振る。

 それではこのまま解散か、というのも締まりがない。それにここまでやって来た学にも申し訳が立たない。

 俺はテーブルに広げられた旅行雑誌をパラパラ流し見て、何とはなしに考えてみた。ちなみにこの旅行雑誌は妃菜が「どっかデート行きたいなー」と言いながらさりげなく家に置いていくものだ。なので旅行雑誌の内容も比較的、電車で三十分ほどの場所が多く、鎌倉、江ノ島、箱根など。どこも良さげな雰囲気の観光スポットが雑誌に所狭しと掲載されている。

 しかし学の話によれば河北とはまだプライベートで一緒に出掛けたことは無いらしく、初めてのデートに鎌倉、箱根はさすがに重すぎる。

 理想は学校の近くで気軽に行ける場所。

 ここで重要なのは学校に近いことだ。そのことによって自然と敷居が低くなり、デートの誘い出しも簡単になる。だから、現段階ではこの雑誌の内容は必要ないのだが――。

 そこで目に留まったページがあった。カフェ特集と題されたページで何ページかに渡って海沿いのカフェや森の中のカフェなどを紹介しているらしい。

「カフェか……」

 その呟きに反応して妃菜は俺の脇から顔を出して、雑誌を覗き込んできた。

「いいじゃん、カフェ。女子はみんな好きだよ」

「ふーん、そっか」

 ここら辺で近場のカフェと言えば――。

 駅ビルにある全国チェーンのコーヒーショップしか思いつかねぇ。あとは知り合いがバイトしている喫茶店だが、夜はバーに様変わりするなど学生が行くには敷居が高いかもしれない。

 となると、……そういえば行ったことはないが、あそこにカフェがなかったか?

「妃菜、横山公園の近くに美術館あったろ? その美術館に隣接しているのが、確かカフェだった気がすんだけど」

 妃菜は暫し中空を見つめてから「ああ!」と得心の言った顔を浮かべた。

「うん、あったね。あそこカフェだったよ」

 おお、良かった。俺の記憶は確かなようだった。一応スマフォで確認してみると確かに美術館の隣におしゃれなカフェが営業していた。調べてみるとコーヒーだけではなくランチなどもやっていて、写真を見ただけでも美味しそうなメニューが並んでいる。

「ここでいいかもな」

「うん、そだね!」

 妃菜の同意も確認して、学に顔を向けると彼は呆けた顔で「え?」と事態を把握していない様子だった。

「ま、待って! 河北さんと出掛けるの? と言うかデートすんの?」

 慌てた様子でぶんぶんと手を振る学は、なんとも弱腰で「そんなのいきなり出来ないよ」と言い始める始末。

「そんなデートごときで慌てんなよ」

 デートで世界を救うわけでもあるまいし。それとも逆にデートでライブした方がいいか? それともバレット?

 妃菜も頬を膨らませて、学の態度に苦言を呈す。

「そんなんじゃ、いつまでたっても河北さんとの関係は進展しないよ! デートすることは決定事項! それじゃあさっそく河北さんに電話して!」

「え?」

 学はより一層困惑した顔で目を白黒させる。

「こういうのは早い方がいいの! 明日やるとか絶対にやらないから! ほら、すぐ電話!」

 たしかに明日やると言って、本当に明日実行した奴を見たことがない。そう言っている奴の明日は永遠にやって来ない明日だ。

 学は助けを求めるようにこちらに視線を向けてくる。

 俺は首を振って、学の躊躇いを否定した。

「諦めて、電話しちまえ」

「けど、どうやって誘えば……」

 学と河北の関係性は図書室で本の話をする程度。教室でもたまに話すが委員会の事務連絡が大半らしい。確かにその程度の関係性で突然デートに誘うのは不自然かもしれない。

「そうだな。共通の話題……。本の話を口実にすれば良いんじゃないか。例えば河北の好きなシリーズの本とか知らないか? その新刊の話がしたいとか言って誘えれば……」

「そういえば河北さんの好きなシリーズの新刊が最近、出てたような」

「じゃあ、それでいい。その話題を口実にカフェで話したいとか言って、誘え」

 学はうーんと唸りながら考えこんで「悪くないかも……?」と視線をこちらに向けた。

「ああ、そう思ったなら電話しろ。決心したらすぐに。こういうのはいくら考え続けても答えは出ないからな」

「う、ううー、分かった」

 スマフォを操作して耳にあてた。しばらくして相手に繋がったようで学はしどろもどろになりながらも先程の誘いの口実を話し始める。そうして、どうにか誘い終わると学はその場でだらーんとへたり込んだ。

「よくやった」

「うん、頑張った、頑張った!」

 二人して褒めてやると学は頬を赤く染めてもじもじと体を捩った。

 まあ、大変なのはこれからなのだが――。

 しかし釘を刺すのは止めておく。今はちゃんと誘えたことを褒めるだけにとどめた。

 だが果たして学のデートは上手くいくのだろうか。

 懸案事項はまだまだある。それを丁寧に躱して行って、時にはぶつかりに行って、最後にはどうにか彼の恋愛が上手くいけば、と一人の友人として願っている。

 けれど、やはり今朝の清宮の態度がチラチラと瞼の裏にちらついた。

 何もなければいいが、しかし大抵こう思っている時は何かあるのだ。



 日曜日の十一時頃。俺と妃菜は横山公園の真っ白い謎のモニュメントを眺めながらブランコに揺られていた。

 あのモニュメントがデートの待ち合わせ場所。

 モニュメントが視認でき、且つあちらからは見つからないように俺たちは少し離れたブランコから二人の待ち合わせを盗み見ていた。ちなみに学はもう来ている。

 関係ないがモニュメントの隣には日時計が設置されている。しかしモニュメントと日時計のセットがどのようなコンセプトなのかはさっぱり分からない。地元民のちょっとしたミステリーだ。

 妃菜は隣でブランコに揺られながら双眼鏡で河北が来るのを見張っている。子供連れの親御さんが遠巻きにこちらを見てるのだが、双眼鏡はさすがに怪しいよな。

 そもそもデートを尾行しよう、と言い出したのが言わずもがな、妃菜だ。他人のデートの尾行なんて罪悪感も甚だしく、もちろん俺は反対したのだが、結局彼女の押しに負けてしまってここにいる……。

 せっかくの休日に付き合わされてうんざりしつつ、俺もモニュメントの方を眺めてみる。双眼鏡がないのでぼんやりと人影しか視認できないが、誰かがいることは確認できた。

 そうしてぼんやり眺め続けていると隣の妃菜が双眼鏡を目に当てながら俺を手招いた。

「どした?」

「来た来た。河北さんが来たよ」

 妃菜は声を潜めて囁きかけてくる。いや、普通にしゃべれよ。

「そうなのか? あれか。あー、そうなんだ」

 特に感想はなかった。隣で興奮している妃菜の気持ちがよく分からない。

「あ、動き始めたよ。おー、そっちに行くんだ」

 どうやら二人はこちらから見て左の方向へ移動するらしい。

 学から聞いたデートプランはまず横山公園を散策して、次にカフェのついでということで美術館を見てまわって、その後メインのカフェということになっている。

 まずは横山公園の散策ということだが……。これがけっこう広大な公園だったりする。プールやジムが内設された施設にサッカーコート、野球場、テニスコート、そして今俺たちがいる広場。それに横山公園全域にはジョギングコースが張り廻らされており、日中はサングラスをかけて走っている人をよく見かける。

 公園散策だけでデートが終わるんじゃないかと思える程の充実ぶりで相模原にもまだこんな場所があるのかと安心できる。

 二人が左に消えていく。たしか二人が向かった先にはプールやジムの施設が右手に、左手側にはサッカーコートが見えるはずだ。

 俺たちはブランコから飛び降りて、二人を追いかけた。

 少し走って二人の姿を捉える。見る限り二人は楽しそうな雰囲気で話し歩いていた。

 耳をすませば、どうやら二人は最近読んだ小説の話で盛り上がっているらしい。今、本の話をしてカフェで何話すんだよ、と心配になりつつ二人の動向を見守った。

 横山公園は公園の外から見れば木々に覆われたちょっとした森のような印象だが、中に入れば案外広々とした造りになっていて、散歩コースとしては最高だ。

「気持ちいいなあ」

 そんな独り言ちに隣の彼女は反応しない。どうやら前の二人にご執心らしい。

 腕を伸ばして爽やかな空気を感じる。

 この時期は公園全体を桜の木が埋め尽くしており、景色としても素晴らしい眺めが望める。桜色に染まった横山公園に風情や温かな気持ちを味わえるのは、この時期の特権かもしれない。

 それに春だけでなく、その他の季節によっても横山公園は姿を変える。

 夏には照りつける太陽に緑色の木々が涼しげな木陰を作ったり、秋には紅葉によって公園を茜色に染めて、冬には木々からは葉が落ちてとても寂しげに、けれどたまに降る雪が真っ白な美しさを見せたり。

 このように四季折々、一年中横山公園は退屈を教えてくれない。

 地元民ながら最高の公園だと誇示してしまうほどに素敵な公園だ。代々木公園とか目じゃない。やっぱ相模原は最高だ! 勝ったなガハハ。

 そんな相模原愛に燃える俺に、妃菜が肩をつんつんと突っついてきた。

「どうした?」

「行っちゃうよ?」

 前を見れば、学たちが消えていた。どうやら左に曲がって遊歩道に行ってしまったらしい。

「そうか」

「うん」

 妃菜は俺の手を掴んで先を促した。俺は頷いて遊歩道へ急ぐ。

 曲がってすぐに二人は見つかった。

 遊歩道には樹の幹を囲むように設置されたベンチに、将棋を指しているおっさん達がたむろしている。このおっさんたちは四六時中、そして一年中、将棋を指している。どんだけ将棋が好きなのか、それとも将棋以外やることが無いのか。

 そんなおっさんたちの横を通り過ぎれば、横山球場が見えてくる。今の時期はそろそろ中学野球の春の大会が行われ、歓声や応援の声がここら一体に響き渡っているのだが、今はしんと静まり返っていた。

 横山球場に差し掛かると道が三つに分かれている。どの道を行っても奥のテニスコートに辿り着くのだが、どうやら学たちは真ん中の道を選んだようだ。

 真ん中の道は木々が生い茂り、陽光が届かないほどに緑に支配された散歩道で、通称は雑木林。何故か入り口近くに小屋が建てられていて、そこには『やまんば』が住んでいるなどと子どもの頃は聞かされていた。高校生の今、さすがにそんな話は信じていないが、未だにこの小屋の用途は知らない。この小屋は一体何なのだろうか。

 雑木林を進んでいくと少し開けたところに到着する。『あずまや』という場所らしく屋根がついた吹き抜けの休憩所があり、木々に囲まれながら静かに佇む『あずまや』は清涼な雰囲気を漂わせていた。個人的に横山公園でここが一番好きな場所だったりする。

 しかしこの場所には死角がない。仕方なく、俺たちは引き返して別のルートからテニスコートに抜けた。

 妃菜を見ると顔を蕩けさせて恍惚としている。女子ってみんな恋バナとか好きだよな。

 そんな妃菜を見やりため息を吐きつつ、俺たちは先に美術館の方に向かうことにした。

「ああ~、キュンキュンする。初々しくて可愛いなぁ~」

 そんな妃菜の声を背中で聞きつつ、横山公園の出口に差し掛かると前方に美術館が見えてきた。

 美術館は車道を挟んですぐ向かい側にある。住宅街の中にポツンと建っているので存在感は薄く、大きさもそこまで大きくはないが、それはそれで雰囲気があると言えなくもない。

 このまま美術館に入ってしまえば後から来るだろう学たちと鉢合わせになってしまう。

 ここは先にカフェに入っていた方がよさそうだ。それに腕時計を見ればそろそろ昼食にも良い時間だ。

「一足先にカフェで二人を待ち伏せするか」

「うん! そうしよう。それにお腹ぺこぺこー」

 妃菜はお腹を抱えて空腹をアピールする。俺はそれに頷いて、美術館に隣接するカフェに入ることにした。

 店内は最低限の照明に頼って、窓からの陽光を存分に利用した造りになっている。当然窓際は陽の光でぽかぽかと温かそうだが、奥の壁際も陽は当たらないものの、それはそれで隠れ家的な情緒を醸し出している。

 俺たちは後から来る二人から隠れるためにも、窓際の席から本棚を挟んで奥のソファ席に座った。ここなら見つかる心配もないだろう。

「ふー」

 妃菜は息を漏らしつつ、どさっとソファに座り込んだ。なんだかんだ言って横山公園をぐるっと一周したんだ。そこそこ疲れるのも当然だ。

 メニューを眺めていると、妃菜はランチメニューのヘルシープレートなるものを指差した。よく見てみればプレートの上にサラダ、五穀米、豆カレーなどなど、女子ウケしそうな料理が詰まった一皿のようだ。俺は特にどれでもよかったので、さしたる理由もなく妃菜と同じものを頼もうとしたら、妃菜はもう片方の手で今度は別のメニューを指差した。どうやら先程のカレーとは違い、ライスの上に目玉焼きをのせたものらしいのだが……。俺はこれにしろということですか? メニューから顔を上げて妃菜を見れば、笑顔でゆっくりと頷かれた。

「半分こしよ」

「はいはい」

 女子って色々なものを少しだけ食べたい欲求があるよな。

 俺なんて実家暮らしの時は母親から「今夜何食べたい?」と訊かれても、昨日と同じものでいい、とか言ってたくらいに食というものに欲求がなかった。と言いつつ、できるなら美味いものが食べたいとか言ってしまう面倒くさい奴なのだが……。

 手を挙げて店員さんを呼ぶと、大学生くらいのお姉さんがやって来て、先程のメニューとオレンジジュースを二つ頼んだ。

 注文をし終えて店員さんの背中を見送っていると、正面に座る妃菜が俯きながら何かぶつぶつと呟いている。

「どした?」

「んーとね、ソワソワするっていうか……」

 どうやら学たちのデートが気掛かりらしくずっと気もそぞろらしい。といってもこのデートに関して俺たちに出来ることはもうない。前日までデートプランを考えたりはしたが、あとは学がいかにうまく立ち回れるかだ。それに特に心配は必要ないようにも感じている。横山公園での二人の雰囲気は終始楽しそうで笑顔を浮かべ合っていた。案外河北の方も学に気があるのでは、と思ったりするが、さすがにそれは早計か。しかし失敗という失敗をしていないのも事実で、どうにか最後まで行くんじゃないか、と妃菜の不安を和らげる。

「けど、でも、うーん」

 それでも妃菜は心配らしく受験日当日の母親よろしく答えの出ない心配事を考えこんでいた。

 そんなこんな心配性な妃菜の様子を眺めていると先程注文したランチがやって来る。

 彼女が注文したカレーからは微かに湯気が立ちこめてスパイシーな匂いが漂ってくる。対して俺には目玉焼きの乗ったプレートがやって来た。

 妃菜は早速カレーを一口、ライスも一緒にスプーンに掬って口に運ぶ。もぐもぐとその表情だけで美味しいことが伝わってくる。俺も目玉焼きの白身を一口。その後に黄身の部分を割ってとろとろの卵黄をライスに染み渡らせた。

「おいしー!」

 妃菜が左右に身体を揺らして美味しさを表現している。

「こっちも美味しいぞ」

 熱々の目玉焼きとライスの相性は誰もが認める美味しさで、それ以外にもしゃきしゃきのレタスやカリカリに焼かれた野菜の春巻きなどランチにしては豪華な、しかしどれもがヘルシーで食べやすい料理でいっぱいだった。

「ねー、そっちも食べさせてー」

 妃菜がフォークを口に挟みながら、俺が食べていたプレートを見つめる。

「あー、ほいほい」

 俺はプレートを交換して先程、妃菜が舌鼓を打っていた豆カレーを口に運んだ。ほのかなスパイスの刺激と豆のまろやかさが口で融合して、バランスよく美味しさが口に伝わってくる。

「カレー、美味いな」

「うん、そうだよね!」

 妃菜も目玉焼きを食べながら、うんうん頷いている。

 そんなランチも一通り食べ終わると、入り口から楽しげに話している男女の声が聞こえてきた。その男女はこちらに近づいて本棚を挟んで向こう側、窓際の席に座ったようだ。

 本棚の隙間からこっそりと覗いてみると、学たちが美術館の感想を言い合っている様子が確認できた。案の定、美術館を周り終えた二人が予定通りカフェにやって来たらしい。

「いやー、学校の近くに美術館なんてあったんだね。想像してたよりも小さな美術館だったけど面白い絵がいっぱいあった」

「うん、あの卵をスプーンで掬った絵とか、写真よりもリアルだった」

「あの絵、中学の美術の教科書に載ってたよ。実際に見ると、本当に精巧な絵画で驚いた」

「古井は美術にも詳しいの? 私は美術はあんまよく分かんなくて。特にピカソとかダリとか」

「うーん、僕もそんなに詳しい訳じゃないんだけど、前に読んだ小説が画家が主人公の作品でね。その影響で美術の知識を齧った程度なんだけど、確かピカソやダリはシュルレアリスムっていう芸術の種類に分類されてて――」

 学はそれから美術史の知識を話して河北の質問に答えていた。

 なんつーか、何を言っているんだ。シュル、レア、リスム? 三兄弟か?

 河北もダリとかいう単語が出てくる時点で絶対に美術に疎くないだろ。

 そういえば、と俺は河北の方に視線を向ける。彼女の声を初めて聞いた。横山公園では遠くから耳を傾けていたので、その時は楽しそうな学の声しか聞こえなかったのだ。

 そうか、河北はこんな声でこんな風に話すのか。

 そんな感想を抱いてそのまましばし、二人の様子を観察していると、どうやら美術談義が終わったらしく、メニューを開き始めた二人。間もなくして学が手を挙げたので、どうやら注文が決まったようだ。

 注文をし終えると、そこからは当初の目的でもあった新刊の小説の話が始まった。

「それは違う! もう少しちゃんと考えてよ! この新刊で分かった事は主人公のラピスが初めて世界の真実に気づいたことで、表向きは皆と一緒に世界への反旗を続けながらも胸の内では世界への同情を抱いてしまう。この相反する感情の中でラピスは苦しみながらも皆との友情をとるのか、それとも……。このアンバランスの板挟み! ここが重要なの!」

 アンバランスの板挟み。なんだその聞き覚えの無い単語は。想像つかねぇぞ、と内心でツッコミをいれつつ話を聞いていると、――河北の印象は率直というか、物怖じしない、そんな風に感じた。

 自分の思ったことをそのまま口にする、はっきりとした物言い。先日、妃菜が河北を見て「そのまんまの女の子」と称したが、確かに言い得て妙だ。

 あどけなく、幼い感じの印象だが、ビシバシっと話す河北はかっこいい。こんなにも自分の言いたいことを何も飾らずに言葉にするのはなかなか難しいことだ。

 学が好きになったのもこういった部分かもしれない。

 その後は河北のはっきりとした物言いに対してさすがは学というべきか、文学ないしフィクションのことに関しては、こと古井学に並ぶ学生はそういない。学も負けじと反論すると、河北も反論に反論を重ねる。そうして熱中した議論は運ばれた料理を食べている最中も続いた。料理の感想などどこ吹く風で、今彼ら彼女らの話題の中心は新刊の小説らしい。そこまで話がヒートアップすると俺もその小説を読んでみたくなるが、それにしても二人の話は終わりが見えなかった。

 結果として、二人は窓から差し込む陽の光が夕陽に変わるまで話を続けた。まじかよ。



 二人のデートが終わったのは日も暮れかけた十七時頃だった。

 彼女を駅前まで送ったらしい学からは「どうにか終わったよ」という文言と、よく知らない文豪のスタンプがスマフォに届けられた。

「終わったらしいぞ、妃菜」

 そう言って、妃菜に目配せした。

 妃菜は「やっとだよー」と後ろから俺にへたり込んでくる。暑苦しい。けど良い匂いがする。

 二人のデートをカフェまで尾行していた俺たちは先程のカフェとは別の喫茶店に来ていた。この喫茶店には知り合いがバイトしている。

「なんだかなー、澄人くんだけでよかったんだけど、お邪魔虫がいるなー」

 頼んだホットコーヒーを俺の手前に置きながら、妃菜に向かってそんなことを言っているのは俺の知り合いであり、高校の生徒会長でもある北村千里(きたむら せんり)先輩。百六十センチほどの身長にミディアムほどの髪の長さは妃菜の姿を重ねてしまう。すべてを見透かすような瞳と不敵に微笑む唇。白シャツと黒のパンツの上から掛けられた緑色のエプロン姿は妙にさまになっていて、このまま都内の星がバックスしている店で働けるほどにイケてる女子感があった。そんなオーラからも北村先輩は見ただけで最強キャラだ。

「なんですか! あなたこそお邪魔虫のお邪魔猫ですよ! いー!」

 虫なのか猫なのか、どっちかには絞ってほしいと妃菜の発言に額を抑える。

 見ただけで犬猿の仲で今はいがみ合っている二人も、実際は仲が良かったりするらしい。俺の知らぬところで二人で待ち合わせ、遊びに行くこともしばしばで、こうやって言い合いになる二人しか知らない俺には仲良く買い物をしている二人の姿が想像できない。

 しかし案外、自分が思っている事実というのは紙切れのようにペラペラだということなのかもしれない。すぐに表裏が裏返しになって、認識していた姿とは全く別の一面が現れる。

「あんたたち、そこらで言い争うのはやめなさいよ。せっかくのコーヒーも不味くなるじゃない」

 二人を諫める声が左隣のカウンター席から放たれる。横に顔を向ければ、そこにはコーヒーを飲んでいる轟先生がいた。いつもの白衣姿ではなく今日は白いカットソーに黒のパンツ、上からはグレーのロングカーディガンを羽織っている。スタイル抜群の先生だからこそ着こなせる服装というか、ちょーカッコいいんですけど。

「なんですか、先生はどっちの味方ですか?」

 妃菜がぜいぜい、肩で息をしながら轟先生に訊いた。

「どちらの味方でもないわ。しいて言えば一ノ宮の味方かしら。人畜無害、飼いならすには優良物件じゃないかしら」

 飼うって、俺はペットか何かかよ。一部の人は喜んで志願してくれそうだが。

「まあ、いがみ合うのもそこら辺にして、ゆっくりコーヒーを飲もう。それに妃菜、ここのショートケーキ好きだったよな。奢ってやるから、落ち着け」

 妃菜は渋々といった体で俺の右隣に腰を落ち着かせた。そんな妃菜を確認して、やれやれと肩を竦める。

「それにしても、せっかくの休日なのに全然ゆっくりできなかった」

 俺はため息を吐きつつ、自然と独り言ちてしまった。

「へぇ、その様子だと花川に連れまわされたの?」

 轟先生が頬杖を突きながら、俺の方に顔を向けた。

「そんなところです。出掛けるなら近場で、とか言いますが近くても遠くても疲れるものは疲れるんですね」

「そういうのって、身体的疲労よりも精神的疲労の方が顕著に表れるらしいわよ。あんたも苦労するわねぇ」

 目を細めてニヤニヤと表情を歪める轟先生。隣の妃菜は「疲れたなんて、そんなことないよねー?」と笑顔を向けてくる。こいつは本当に疲れていないんだろうなぁ。

「ま、今回は妃菜に疲れたというよりも、学のせいというか」

「学?」

「覚えていませんか? 古井学です。一年の頃同じクラスだった」

 昨年度も俺と妃菜は轟先生の担当クラスに属していた。今年も一緒とかなんだか運命感じちゃう! なんてのは流石にうそぴょんで、又聞きの話だが、クラス替えでは水面下で教師間による取引があるらしく、俺はどうやら轟先生に気に入られているようだった。

「ああ、前のクラスの古井のことね。あいつがどうしたの?」

「それは――」

 と勢いそのままに説明しそうになって、とどまった。学の恋愛話を当人の許可もなく話してしまうのは憚れる。

 しかし妃菜はそんな躊躇も見せず、いつもの奔放さで学の件を全て説明してしまう。こいつはいつか誰かに刺されるぞ。

「ふーん。古井と河北、か。まあ、私には関係ない話ね」

 轟先生の反応は存外、薄かった。

 だが、学生の恋愛ごとに教師が首を突っ込みのもおかしな話だ。プライベートに踏み込んでくる暑苦しい教師も中にはいるが、轟先生はそれらにはしっかり一線を引いている。

「また相談事されたんだ」

 北村先輩はカウンターの奥から話を聞いていたらしく、ニヤニヤと俺の顔を見てきた。

「そうですね。また妃菜が面倒ごとを持ってきました」

 隣の妃菜をちらっと見つつ、ため息を吐く。

「澄人には自分の力を発揮してもらいたいんだよ! 澄人にしか解決できない問題が学校だけでもいっぱいあるんだから!」

 キラキラした瞳で話す妃菜は本当にそう思っているらしいから、たちが悪い。

「買い被りだ」

「そんなことないっていつも言ってるじゃん!」

「私も澄人くんには一目置いてるよ。だからこそ次期生徒会長になってほしいんだけどなぁ」

 次期生徒会長って、この人いつも俺のことを後任に仕立て上げようとしてくるけど、やめてくれませんかね。生徒会とか想像しただけで面倒ごとばかりじゃないか。かく言う北村先輩がそんな旨のことを自ら俺に愚痴っていたから、どうしようもない。

「生徒会って大変なんでしょう?」

「だからこそ君に入って欲しんだ、次期生徒会長」

「その呼び方やめてください。同級生の奴にまで浸透しつつあるんですから」

「でも実際、一ノ宮が生徒会長になったら私の仕事も減りそうで嬉しんだけど」

 轟先生も話に乗ってきた。この人は生徒会の担当教師で、だからこそ部活の顧問など他の仕事を免除されているらしい。

 俺は二人して生徒会を勧めてくるのをどうにかこうにか回避して、他の話題に話を変えた。

「先生は今日、何をしていたんですか? まさかずっとここに居た訳じゃないでしょう?」

「私? 私は他の先生から相談事をされてたのよ。さっきまでここでその先生と話していたの。休日にわざわざ学校の話とか勘弁してほしいんだけど、いつもお世話になってる先生だったし、断り切れなかったのよねぇ。これが学年主任のハゲ野郎とかだったら速攻断ったのに……」

 最後の方は聞かなかったことにしよう。なんだよ、ハゲ野郎って。小学生の陰口じゃないんだから。正直、俺もそう思うけど。あのバレバレのかつらを誰か指摘してあげてほしい。

「それにしても、あんたもよくまあ、毎回面倒ごとを引き受けるわね。そんなの適当に笑って断っちゃえばいいのに。英雄願望とかあんの?」

「いや、ないですって」

 笑って否定しながらも、俺は自分の信条と行動が矛盾していることを自覚する。

 面倒ごとは嫌いだと言いながら、結局は妃菜が持ち込んでくる相談事を受け入れている。俺に出来る事だったから、という言い訳でいつも俺は他人の厄介ごとに首を突っ込んでいる。しかし絶対にそれを嬉々とした態度では受け入れない。その態度を変えれば本当に英雄に憧れる少年になってしまうから。俺が一番嫌いでキラキラしている存在に。俺はそれを否定する。

 こんな汚れちまった世界に、どうしようもなく理想とはかけ離れた世界で、それでも空気を壊さず、上手く立ち回るのが自分の為になると信じて――。

 今日のデートは上手くいっていたと思う。

 古井学も河北京子も両者とも変に自分を飾らずに、それでいて楽しい雰囲気になったのはひとえに元々二人の相性が良いからだろう。

 表向きは上手くいった今日のデートに、俺は少しだけ胸騒ぎを覚えていた。

 ふと、今日の河北を思い出す。そして先日の清宮の態度――。

 彼女に対して少しだけ感じてしまう〝危惧〟がどうしても頭から離れない。

 こんな予想は当たって欲しくないが、得てしてこんな予想に限って当たってしまう。

 当たるのは天気予報ぐらいにしてくれ、と思いながら俺は残りのコーヒーを一気に煽った。

 冷めてしまったコーヒーはとても苦く、後味は最悪だった。

   

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