第12話 黒い手帳
自身の存在が超常のものである沙耶子は、この世界には常人が触れられない領域があることを知っている。
500年以上も生きてきて、ただ食欲を満たすことだけは抑えられなくて、世俗の権威も権力も全く及ばない領域は、必ずあるのだ。
そしてその異常性は、沙耶子をも上回る。
教団会長の奈緒子は、今年でもう60歳になる。
弟の他に、夫と息子、娘がいたが、夫と息子は既に死亡しており、娘だけが別に暮らしている。
奈緒子自身、若い頃は普通の会社に勤める社会人で、家が宗教をやっていることは分かっていたが、その規模や内容までは詳しくなかった。
だからこそ、この教団を率いるのには適していたのかもしれない。
先代の母親に比べると、神秘性よりは互助関係を重視している。
世間からドロップアウトした人間を、物理的に俗世間から隔離している。
沙耶子にとってはほんのちょっと前の、ネットのない時代をこの集落の中で実現している。
別に日本に限った話ではない。アメリカにだって宗教的に独立したコミュニティというのは存在する。
世俗の権力との関わりも適度な距離を保ち、信者のお布施以外にも収入源を持っている。
この世界では基本的には、金がないと生きていけない。
奈緒子を操った沙耶子は、教団の重要資料などと、内部の裏帳簿までしっかりと確認した。
これだけの証拠があれば、教団を潰すことは可能であろう。だが可能だからといって行うとは限らない。
自分たちは正義の味方ではないし、この教団も完全な悪の巣窟とは言えない。
人殺しが多いのでそのあたりは潰してしまうが、後は残しておいてもいい。
もっとも汚れ仕事を引き受けていた部門が消えてしまえば、教団全体の存続も難しくなるのかもしれないが。
それこそ沙耶子の知ったことではない。
だが困った。
証拠となるデータはおおよそが、スタンドアローンのPCに入っているらしい。
ネットにつながっていないのでデータでの持ち出しが出来ないし、沙耶子は都合よく記録媒体も持っていない。
それに万一の可能性だが、こういった物に関して、何か安全対策をしている可能性もある。
沙耶子はネットやコンピューターには詳しくない。ただ監視カメラや盗聴器に関しては、かなりの知識を持っている。
姿をいくらでも変えられる沙耶子であるが、それにはやはり力がいる。
本来の姿であることは、ほとんどエネルギーを使わない。
仕方がない。
あまり良いとは思えない回り道になるが、澄花の力も利用しよう。
三日目が始まる。
目覚めてしばらくしてから、少し教団の人間が動き回っているのに気付いた澄花である。
「何かしたの?」
「食事をしただけよ」
澄花が見つけた殺人者の中から、一人ほど捕食しただけである。
四人も殺している、見るからに暴力に慣れた体格の男であったが、人間であれば沙耶子には逆らえない。
これでまた、殺人者が一人、この世から減った。
澄花はほっとしながらも、掃除を続けていく。
今日の清掃の中には、一般的に掃除と呼ばれるのとは別の、業者の行うような特別な清掃をする。
これは人との関係構築が苦手なタイプの人間に、将来的に教団の運営する会社への就職を促すためのものでもある。
宗教団体の信者獲得は、主に二つの手段に分かれているように見える。
選民思想のある優秀な人材を特別視することと、社会に溶け込めない人間に新たなコミュニティを用意することだ。
だがこの二つは、社会に不適応な人間を獲得するという点では、同じ意味である。
おおよそ人間というのは中学生ぐらいから、己の認識と社会のギャップを感じ始める。
そこへ社会でも通用する技能を与えておいて、価値観の基準は教団のものを教えるのだ。
日本人はお正月には初詣し、クリスマスにはパーティーをする国民であるが、宗教自体に対する嫌悪感は大きい。
特に仏教や神道などの、既に日常の習慣にされているもの以外は、反射的に警戒する。
だが大勢がそれでも別に構わないのだ。少数の、それでも数万や数十万はいる社会不適応者を、それなりに集めるだけで、その勢力は強大になる。
母数が多くなればなるほど、そのお布施も多くなる。
教団を維持するにはそれだけでは足らないと考えた、現会長の奈緒子は正しい。
「つまり人殺しにまで手を染めていたのは、かなり前のことなの?」
澄花の目の弱点だ。その罪がいつなされたのかは分からない。
沙耶子の殺した人物のように、明らかに時代が違えば別なのだが。
この集落にいる殺人者は、沙耶子が一人を捕食したので、残りは四人。
まだ顔を見せていない者もいるかもしれないが、もう一人か二人は食べておきたい。
それに本番は、このお泊りが終わった後になるだろう。
沙耶子はしっかりと、教団のデータを調べて、会長自らのメールアドレスから情報を送信した。
痕跡は消したとは思うが、自分にまで手が及ばないように、早めにこの教団は引っ掻き回しておきたい。
午後からの行動は、自然農法に関する講義であった。
またそこから発展して、環境問題にも話は飛んで行く。
だが優れた五感を有する沙耶子は、自分の食べた男の行方に、少し教団が動き回っているのが分かる。
常識的に考えれば、この本部からの脱走とでも思うだろう。
ましてあの男は、殺人を犯していた。
澄花の目では、それが教団の支配下でのものなのか、それとも単なる人殺しなのかは分からないが、教団がこれだけ動くほどの人間ではあったということだ。
沙耶子はあの男を食った後、身につけている物だけは、本部の中にある焼却炉の中に突っ込んだ。
燃えない物は仕方ないが、それ以外は燃やしてしまうのが一番安全であろう。
そしてプラスチックなどの樹脂製品も、広義では燃える物である。
集落の中のゴミも燃やしている焼却炉だけに、おそらくばれることはないだろう。
ばれたとしても、死体が完全に消えているのだ。警察の捜査などにおいても、犯人が例え自供したとしても、証拠品がなければ証拠不十分で起訴できない。
まあそんな日本の法律を別にしても、おそらくあの男は普通に逃げたと判断され、そちらの方に注意は引かれるだろう。
沙耶子はもう、この本部内では食事をするつもりはない。
ここの人間を捕食するとしても、外の一般世界で殺すだろう。
この教団の集落にいる限り、人殺しはもう、沙耶子に殺されることは恐れなくていい。
そして澄花も、もうこの集落の殺人者には怯えなくてもいい。
大切なのは、これからのことだ。
外の世界に戻ってから、夏休みはまだ20日ほど残っている。
その間に出来るだけ多く、非常食は見つけておきたい。
そして沙耶子以外の手によって殺されそうな人殺しは、さっさと沙耶子が栄養にしておきたい。
(そのためには澄花の力が効果的なんでしょうけど)
昼間から普通に道を歩いている者たちから、殺人者を探すのは効率が悪いと思っていた。
おおよそ後ろ暗い人間は、夜の闇か、昼間でも影の中を好む。
この間のように、全く気にせず公道を歩いている者も、いないではないが。
だがやはり殺人者というのは、夜に行動するものではないだろうか。
澄花はあの目を持っているため逆に気付かないだろうが、夜の闇の中で人に会えば、連続して人を殺しているような人間は、なんとなく沙耶子でも察せられるのだ。
あとはもっと簡単に、殺人の容疑者や、服役を終えた殺人犯の断定だ。
ただ本当に、こういうやり方が合っているのかは分からない。
澄花はおそらく、あの目のせいで、昼間に一人で出ることが難しい。
だが逆に、あの目で人の罪の確認が出来ない、夜の暗闇の中へ入っていくのも難しいとも思えるのだ。
だから澄花はあの日、自らを脅迫しようとした人殺しの同級生を、それほど怖がらなかった。
単に人を殺しただけというなら、澄花は耐えられたのだ。
沙耶子は後に調べたが、竹見誠は人殺しだが、正確に言えば苛めにより自殺に追い込んだだけだ。
その情操において、虐待があったことも人格形成を歪なものにした。
だから誠は澄花にとっては、気をつけてさえいればいい程度の脅威でしかなかったし、沙耶子にとっても満足出来る食事ではなかった。今までの捕食した人間に比べると、あまりに犯した罪は軽いとさえ言えた。
それでも澄花はある程度の脅威は感じていたが、彼がむしろ自分にとっては、社会とつながる一つの糸となっていた。
それに澄花は、苛めにはもちろん加担していないが、そういう噂は知っていたのだ。
澄花が誠の死を受け入れたのは、自分もまた見て見ぬふりをしたという点で、消極的ながら罪を見逃したと思っているからだ。
こんな目になってしばらく澄花が引き篭もったように、学校に行かずに逃げればいいのにと、客観的には思ったものだ。
沙耶子はそう聞いて、澄花がまともにこのまま人間として生きていくのは難しいと思った。
一般的な日本人女性の寿命を考えて、長めに見てもせいぜい70年。
それぐらいなら沙耶子は暇つぶしがてら、澄花の一生を見守るぐらいのことをしてもいい。
一週間の合宿が終わる。
信者の一人が消えたというのは、噂にすらなっていなかった。
途中でもう、この付近では食事はしないと言われた澄花は、少しだけ不満そうで、不安そうでもあった。
だが詳しいことは帰ってから話せばいい。
入信しないかという誘いには、大学前にはさすがに、という感じで拒んでおいた。
もっとも住所などは知られているため、今後しばらくは気をつけた方がいいかもしれない。
澄花は自分でも気付いていないようだが、それなりの遺産を持った少女であるのだ。
教団は確かに無理な布教や勧誘はしていない。
だが金は取れるところからは取りたいだろう。沙耶子が”魅了”して奈緒子から聞き出した限りでも、汚れ仕事を専門にしている実行部隊がいる。
万一の可能性を考えて、沙耶子は教団本部のデータからは、本当に重要なデータをいくつか確認しただけに留めていた。
メモリや教団の他のパソコンからのメールでファイルを送ることもなく、原始的にただ記憶しておいた。
そして澄花の家で、詳しい話をしているわけであるが。
「その警備会社が悪いわけ?」
「ここだけじゃないし、ここの全てというわけでもないけどね」
世の中は善悪が複雑に絡み合っているし、清濁併せ呑むという言葉もある。
その点、目に映るものを罪とだけ考える澄花は、判断基準が明確だ。
ある意味では傲慢とも言える、自分の目に映るものだけが、その基準となるのだ。
おそらく沙耶子の手によって、教団傘下のその会社は潰れるだろう。
警察OBの天下り先となっていた会社が潰れれば、普通に警察とのつながりも消え、潰しやすくはなる。
もっとも教団の資本がある限りは、そう簡単には教団本体までは潰せないだろうが。
「けれどまあ、教団を絶対的に弱めることは考えたわ」
沙耶子は楽しそうな顔をするが、澄花もいいかげんに慣れてきた。
彼女がこんな顔をするのは、決まっている。
調子に乗ったバカを相手に、痛恨の一撃を加える時だ。
愛善光明会は代議士と警察にパイプがある。
また弁護士も専用に用意してある。
これだけ用意周到であれば、普通の手段ではどうにもならないと、澄花の知識などでは思うのだ。
だが沙耶子の考えている手段は、きわめてまともなものである。
政治家だろうと警察だろうと、止められない手段が、この世には存在するのである。
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